横濱怪獣哀歌




アマゾニアン時代



 翌日。
 古代喫茶・ヲルドビスの開店時間は午前七時だ。なので、狭間はその一時間前に出勤し、店内の掃除とテーブルの セッティングと料理の仕込みの手伝いをしていた。といっても、仕込みは狭間が来た時点でほとんど終わっている ので、狭間がやることは少ないのだが。店主である海老塚甲治は夜が明ける前から仕込みをしていて、閉店後 にも翌日のために仕込みをするのだから、丸一日働き詰めだと言っても過言ではない。海老塚に大変ではない のかと聞いてみたが、ドイツ人の邸宅で奉公していた時に比べれば楽な方ですよ、と笑うだけだった。
 モーニングセットに欠かせないパンもパン屋から配達され、ブレンドコーヒーに用いるコーヒー豆のブレンドと焙煎 も済み、そのコーヒー豆を海老塚がコーヒーミルで挽いていた。その時点でコーヒーの奥深い香りが立ち上り、狭間は 心地良さを覚えた。以前、賄いで一杯飲ませてもらったが、絶品だった。

「マ」

 営業時間前なので、ツブラは店内をうろついて化石を眺めている。もちろん変装済みだ。

「ツブラさんは、どなたがお気に入りですか?」

 海老塚は老眼鏡の奥で目を細め、レインコート姿の少女を見守っている。白髪というよりも銀髪に近い髪は丁寧 に撫で付けられていて、西洋風の彫りの深い面差しはすらりとした長身に調和している。ギャルソン服も体の一部の ように馴染んでいて、ワイシャツにはアイロンが効いている。渋みがあるが柔らかな声色と物腰は、どんな職種の客 に接している時も変わらず、ツブラに対しても同様だった。

「ナ」

 ツブラが指したのは、板状の化石だった。岩石の中では、花のような生物が太古の姿を止めている。

「古代シルル紀のウミユリですね。花のように見えますが、れっきとした棘皮動物です。しなやかで美しいでしょう」

 ちょっと自慢げに語る海老塚に、ツブラはにんまりする。

「キレイ」

「ざっと四億四千万年前ですか。そんな生き物がこうしてここにいると考えると、妙な気分になりますね」

 テーブルクロスに皺が寄っていないか確かめてから、狭間が言うと、海老塚は笑む。

「私は、その妙な気持ちを感じるのが好きなのですよ。激動する地球環境に適応せんがために進化を繰り返し、自然 淘汰の嵐を乗り切ったものもいれば、乗り切れなかったものも数多く存在します。その一端を垣間見ることで、私は 生命の多様性と力強さと共に儚さも感じ、浸るのです。己の人生の尊さに。そして、それを味わいたいがために彼ら を集めた結果、今に至ります。こうして店を開いたのは、彼らを狭い箱の中に閉じ込めておくのが忍びなかったから です。私が奉公していた御屋敷――ヴォルケンシュタイン家の若旦那様が、私の料理の腕前を錆び付かせるのは惜しい と仰ったからでもありますが」

「なんか、名前からして凄そうな家ですね」

「ええ、それはもう。歴史のある貴族の御家柄です」

 道理でドイツ料理が上手いわけである。狭間はこの上なく納得し、テーブルメイキングを終えたが、開店時間までは もうしばらく時間がある。御冷を入れるコップの汚れの有無を確かめてから、狭間は海老塚に問うた。

「マスターは火星怪獣って御存知ですか」

「ええ、それなりに。明慈三十一年にイギリスに襲来した異星体のことですよね」

「で、その、火星怪獣を探しに行った宇宙怪獣戦艦のことは?」

「アメリカのマルス計画ですね。ソ連のルナホート計画も凄まじかったですが、マルス計画はそれは壮絶でしたね。 東西冷戦下の最中、軍事目的で採掘された超大型怪獣を動力源として据えた宇宙怪獣戦艦を建造し、中には大戦中 の空母を回収して宇宙怪獣戦艦に仕立て上げ、次から次へと宇宙へ旅立たせておりましたからね。マルス計画以前 のマーキュリー計画、ジェミニ計画では、宇宙怪獣戦艦に乗せた動物を生還させるだけで精一杯でしたから、それを 一足飛びどころか高跳びしてしまう計画ばかりでしたので、よく覚えておりますよ。その結果、爆砕してしまった 宇宙怪獣戦艦も多数存在しますが、人間の無謀で稚拙な計画に快く応じてくれた怪獣達と動物達には最大限の敬意 を払わねばなりません。彼らの足跡がなければ、私達は月世界旅行に旅立てなかったでしょう」

「東京月面間の鉄道に乗れる人間なんて、まだまだ少ないですけどね。あれの片道切符だけでも、サラリーマンの 年収五十年分だって話ですから。それで、火星に到達した宇宙怪獣戦艦は五艦でしたっけ」

「そうです。アメリカのサターンV型のアポロ7号、アポロ11号、サターンIB型のスカイラブ4号、そしてソ連の ソユーズ一号です。気の遠くなるような旅路を経て帰還した際、地球への再突入の際に宇宙怪獣戦艦の艤装が破損した ために宇宙飛行士の生存率は低かったですが……。その後、両国の資金難もあり、宇宙探査計画は大きく見直されて、 近年では月の植民地化が進められておりますね。東西冷戦は、月面上でも続行されておりますが」

「何も宇宙に出てまでいがみ合わなくてもいいんじゃないか、って思わずにはいられませんけど、大国同士となると そうもいかないんでしょうね」

「難しいものですよ、人間は」

 挽き終わったコーヒー豆を缶に入れてから蓋をし、海老塚は狭間に問い返す。

「それで、狭間君はなぜそのような話題を?」

「えっと……その、光の巨人を倒した女怪獣はシャンブロウじゃないかっていう噂を聞いたもんで。シャンブロウは 火星生まれの怪獣で、本来地球に存在しないはずのものであって、それがなんで横浜にいたのかって考えたらきりが なくなっちゃったんです。はい」

「シャンブロウですか。それは確かに興味深いお話ではありますね。狭間君は光の巨人に二度遭遇して生存した稀有 な例なのだと、愛歌さんから窺っておりますが、その際にお目に掛かったのですね。シャンブロウと」

「はい、まあ一応」

「ともすれば、狭間君と彼女は赤い糸で繋がっているのかもしれませんね。シャンブロウさんの髪も赤いですので」

「さりげなくとんでもない冗談言わないで下さい!」

「可能性はありますとも。もうすぐ開店時間ですね。狭間君、ご用意を」

 海老塚に促され、狭間は言い返したい気持ちを堪えつつ仕事を始めた。そのシャンブロウ当獣であるツブラは、 朝早く起きたので寝足りなかったらしく、バックヤードの隅にある椅子に座ってうたた寝をしていた。その短い腕 に抱かれているのは、愛歌が仕事帰りに買ってきてくれたダッコちゃん人形だった。本来はぬいぐるみのように 抱き締めるオモチャではないのだが、すべすべとした感触が好きなツブラには打って付けだった。
 モーニングサービスが終わるまでは大人しくしていてくれよ、と内心で祈りつつ、狭間は店のドアに掛かった看板 をひっくり返して【open】にした。それから間もなく客が入り、モーニングサービスが終わる午前九時までは懸命に 動き回った。途中、洗い物をするためにバックヤードに入り、ついでにツブラの様子を確かめたが、大人しくしていて くれた。それを褒めてやりつつ、狭間は厨房と店内を行き来しては料理を運んだ。店内を埋め尽くすほどの客足では ないとはいえ、客は途切れないので忙しいことに変わりない。
 狭間がアルバイトとして採用されるまでは、この仕事量を海老塚が一人だけでこなしていたのだと思うと、尊敬を 通り越して畏怖する。注文を取って料理を作って給仕して皿を洗って会計して客が出た後にテーブルをセッティング し直して合間に掃除して、と、行き着く暇もない。もしかするとマスターって人間ではないのでは、と、狭間は厨房 でフライパンを振るう海老塚を見て思った。が、昼食時になるとまた客足が増え、狭間は店内に戻った。
 忙しさのあまり、火星のことは頭から吹っ飛んでしまった。




 古代喫茶・ヲルドビスには、アルバイトをもう一人入れた方がいい。
 ツブラと手を繋いで帰路を辿りながら、芯まで疲れ切った狭間はそんなことを考えていた。体が仕事に慣れ切るまで は、もう少し時間が掛かりそうだ。ここまで疲れてしまうと怪獣の声なんか聞こえない、というか、聞こえたとしても 内容が頭に入ってこないのだ。ある意味ではありがたいが、嬉しくもなんともない。
 愛歌が帰ってきているのであれば夕食を見繕う必要があるが、そうではなかったら、仕事着を置いてから近所の食堂 で適当に済ませてしまおう。どういうわけだか、愛歌は外食を好まないのだ。ヲルドビスだけは例外だ、と以前 言っていた。狭間の下手な料理なんかよりも余程いいじゃないか、とは思うのだが、愛歌はその方が経済的なのだ と言い張って譲らない。彼女なりにこだわりがあるのだろうが、正直面倒だ。

「ん」

 オレンジ色の街灯が点いた路地を曲がり、フォートレス大神の二階を見ると、窓明かりが灯っていた。愛歌が狭間 よりも先に帰ってくるのは、近頃では珍しかったので、ちょっと驚いた。が、すぐに頭を切り替えて、冷蔵庫の中身は なんだったのかと思い返した。今朝方炊いた白飯の余りと卵が数個、あとは野菜の使いかけがあったような気がする。 となれば、焼き飯以外に作れそうなものがない。というより、現時点で狭間が作れる料理がそれしかない。
 一〇一号室の一条御名斗はいないらしく、部屋は暗かった。鉢合わせずに済むとほっとしつつ、狭間は鉄階段を 昇って二階に上がり、鍵を開けた。狭い玄関には、愛歌の使い込んだパンプスと、狭間の履き潰したスニーカーと、 ツブラの上履き用の赤い靴が並んでいるが、そこに見慣れない靴があった。男物の革靴だ。

「愛歌さん、お客さん」

 ですか、と狭間が言いかけたところで、青白い肌の男がぬるりと現れた。

「この僕を待たせるとはいい度胸をしているじゃないか、この優秀という文字を体現している僕をだ」

「はい?」

 出合い頭に何を言うんだ。狭間が唖然としていると、男は狭間の足元に隠れた少女怪獣を見下ろした。

「これがシャンブロウの幼生体か。へえ、こんなもんか。こいつはこの僕の専門分野じゃないし、あの根暗鮫肌男に 任せておけばどうにでもなる。この僕が知りたいのはね、そんなことじゃない」

 細面の顔立ちに吊り上がり気味の目元、肩幅が狭い華奢な体型にひょろりと長い手足、毒気に満ち充ちた語気。この 男はヘビだ、と狭間は強く確信した。むしろ、ヘビ以外の何物でもない。仕立てのいいスーツを着ているヘビ男は、 原色の紫に赤と黄色のまだらという正気の沙汰とは思えない色合いのネクタイを締めていた。悪趣味だ。

「この僕が特別に尋問してあげるよ。狭間真人君だったね」

 ヘビ男は眉を顰め、狭間を睨み付ける。不機嫌を通り越して敵意すらある表情に臆し、狭間はたじろぐ。

「ええ、まあ、はい」

「なんだよ、その煮崩れた豆腐を掻き混ぜたのを咀嚼したかのような歯ごたえのない答えは」

「ムー」

 狭間の足にしがみついているツブラは、サングラスの下からヘビ男を睨み返す。

「あの、その、とりあえず、どちら様ですか?」

 ざわざわと触手を蠢かせるツブラを押さえつつ、狭間がぎこちなく問うと、奥の間から愛歌が出てきた。スーツから 部屋着に着替えていて、髪を解いてゆったりとしたワンピースを着ている。

「国立怪獣生態研究所のハブさん」

「ハブ?」

 ますますヘビだ。狭間が半笑いになると、ヘビ男は名刺を突きつけてきた。

「ハブキョウゴだ。ハニュウじゃない」

 怪獣監督省 国立怪獣生態研究所 研究員 羽生鏡護 とある。先日会った鮫淵の同僚だ。

「どうも」

 名刺を受け取った狭間は、愛歌に促されて部屋に上がった。まだ靴も脱いでいなかったのだ。

「この誉れ高い僕がわざわざ出向いてやったんだ、七代先まで感謝してもらわないと割に合わないね」

 いちいち高圧的な言い回しをするが、羽生はきちんと手土産を持って愛歌の部屋を訪ねてきたようで、寿司屋の 折詰がテーブルに二つ置かれていた。愛歌はツブラのカツラとサングラスを外してやり、小さくまとまっていた 触手をほぐしてやると、ツブラは心地よさそうに目を細めた。怪獣といえども、窮屈なものは窮屈なのだ。

「で、あの根暗鮫肌男は君に尋問する時間は取れなかったから、会っただけで終わったそうだけど、アレに会うと 時間を無益に浪費するだけだからお勧めしないね。あいつは頭は悪くないんだが、物事をまとめて話すのが不得手 で、思い付いたことを垂れ流すんだよ。延々とね。そのまとまりのなさといい加減さと語気の弱さは、この僕の繊細 かつ敏感な思考回路にノイズを走らせ、この僕の感情を掻き乱すんだよ。二度と会うべきじゃない。アレと接する だけ、君の人生を無駄にするだけだ。実際、この僕はかなり無駄にされた。ああ苛々する」

 羽生は愛歌が淹れたであろう冷めた緑茶を啜ってから、上から下まで狭間を眺めた。爬虫類の目だ。

「そして、君のような無益で無気力で無軌道な堕落した若造に会うのに、この僕がわざわざ出向かなければならない だなんて、単細胞生物に土下座を強要されたようなものだよ。プラナリアでもいいね。それもこれも、綾繁あやしげ家が怪獣 監督省の仕事に口を挟んできたからだ。そうでもなければ、今頃、君は塀の中の住人だ」

「は……?」

 綾繁家とは、怪獣使いの一族ではないか。狭間が目を丸めると、羽生は頬を歪める。

「君の語彙にはそれしかないのか、これだから無教養な人間は嫌なんだ。綾繁家が君みたいな凡人の標本みたいな 人間に関わろうとするだなんて、現人神が屋台でラーメンを掻き込むようなものだよ。まあいい、説明することと 問うことが山ほどあるから、その辺は置いておこう。時間の無駄だ」

 羽生は愛歌を一瞥してから、狭間の目を真正面から睨み付けた。

「そこにいるシャンブロウを小笠原諸島にある生態研究用怪獣隔離特区・印部島いんべとうに移送しようとした時、移送するため に配備されていた輸送機が動かなくなった。シャンブロウを入れた檻を輸送機に搬入しようとしたが、檻を入れる ためのフォークリフトが動かなくなった。暗証番号も押していないのに電子ロックが解除され、檻が開いた。考える までもなくシャンブロウは逃げ出し、その後、行方不明になったんだが、光永さんの愛車に潜り込んでいたことが後 に判明する。それと同様の現象が、一ヶ谷市の怪獣監督省一ヶ谷市分署でも発生し、シャンブロウが宿っていた卵が 盗み出された。目撃証言から判断するに、その場に居合わせていたのは君だ、狭間君。そして、光永さんだ」

 羽生の語気は一際鋭くなり、口角は曲がる。

「偶然にしては出来過ぎているし、怪獣がことごとく不調を起こす原因は未だに不明なんだ。この僕が警察とか探偵 みたいな真似をするのは不本意が極まりすぎて四の字固めだけど、何かあるとしか思えないんだ。そこに綾繁家まで が噛んできたとなると、尚更だ。光の巨人に関する尋問を行おうと思っていたんだけど、目先の疑問を解決して からじゃないと、その疑問がこの演算能力が留まることを知らない僕の頭脳が上手く働いてくれないんだよ。故に 狭間君、何か隠していることはないかい?」

「うぉえっ?」

 そんなもの、ある。狭間は声を裏返して身を引くが、羽生は勢いを緩めない。

「ないとは言わせないぞ」

 愛歌さん助けて下さい、と狭間は愛歌を見つめるが、愛歌は冷ややかに述べた。

「そういえば狭間君、最初に会った時、私が落とした御財布を持っていたわよね。で、そのお金で横浜に」

「すいませんあのお金は返します給料は言ったら返しますすぐに!」

「それはもちろんなんだけど、私と同じ外見の女性に会ったとも言っていたわよね。その人に横浜に来るように 言われて、ここにいるわけだけど。その辺に付いても詳しく聞かせてもらえないかしら?」

 愛歌は態度こそ柔らかかったが、目は笑っていなかった。財布の一件は未だに根に持っていたようだ。狭間は ツブラと二人を見比べたが、下手に誤魔化したところでいいことはないな、と腹を括った。ついでに言えば、ひどく 空腹だったからでもある。力んでいた肩から力を抜き、ツブラをどかして胡坐を掻き、狭間は顔を上げた。
 こうなったら、暴露するしかない。





 


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