山下公園は居心地がいい。 特に、狭間のようなろくでなしにとっては。横浜湾に面したベンチに腰掛けて大桟橋と山下埠頭を一望しながら、 ゴールデンバットを吸っていると、昼間から酒を呷っては騒いでいる中高年の男達や、ビニールシートと段ボールを 被っている浮浪者などが目につく。そして、狭間と同じように、定職に就いているわけでもなければ学業に勤しんで いるわけではないという半端者もそこかしこにいる。彼らを見ていると、俺一人がダメ人間というわけではないのだ、 と物凄くダメな方向に安心してしまう。 山下公園に程近い場所に係留されている古い貨客船、氷川丸は、ユースホステルであり見学施設でもあるので、 氷川丸の周囲では人々が行き交っている。狭間がぼんやりと氷川丸を眺めていると、汽笛と共に声が聞こえた。 〈今日もお客様が大勢いらっしゃるから、私、寂しくないわ〉 「ああ、そりゃいいね」 〈私と同型の怪獣汽船の多くは海に沈んでしまったけど、皆、海の底から話し掛けてくれるのよ〉 「そいつらは元気なのか?」 〈ええ。私達のように汽船に艤装される怪獣は、元々は海の中にいたのだもの。海底から曳航して、気球怪獣が孕んだ メタンガスの力を借りて海面に浮き上がったところで、シャフトや歯車を体のあちこちに付けられるのよ。そして 汽船の機関部へと収められ、怪獣汽船の出来上がり。その時は少し痛いけど、でも、誰かの役に立つのはとても 喜ばしいことだから、苦にはならないわ〉 「怪獣ってのは、どいつもこいつもそう言うよ」 どの怪獣も、人間に従うことを嫌がらない。むしろ、率先して人間の道具となっている。狭間はベンチの傍にある スタンド灰皿に灰を落としてから、煙と共にため息を吐き出す。 「お前らを痛め付けて機械に閉じ込めてエネルギーを搾り取って、そのエネルギーが尽きたら火山に叩き込んじまうの になぁ、人間ってのは。ギブアンドテイクじゃないよ、お前らと俺達の関係は」 〈いいえ。私達が与えた分、あなた達も与えてくれているわ。人の子〉 「嘘吐け」 〈嘘ではないわ。私達は地の子、星の礫。星が栄え、育ち、進みゆく様に寄り添うのは私達の無上の喜びなのよ。 あなた達がより高度な技術を手に入れ、科学を発展させ、文明を煌めかせることが、私達へ与えられる幸福であり 利益なのよ。人の営みもまた、星の命なのだから〉 「話がでかくなりすぎて訳が解らん」 〈ふふ。いずれ解るわ、いずれ……〉 氷川丸は徐々に声色を緩め、遠のいていった。そんな大それたことを聞かされても、狭間という人間のスケール は恐ろしく小さいので、実感出来るわけがない。その上、氷川丸の表現が抽象的すぎたので、ぴんと来なかった。 怪獣の価値観は人間の価値観とは根本的に違うが、怪獣が人間に逆らう気はなく、むしろ率先して人間に尽くそう と願っていることは理解出来た。貪欲な人類に尽くし過ぎて滅んでしまわなければいいのだが。 「マ!」 狭間の隣に腰掛けていたツブラは、短い手足を伸ばして声を上げた。 「お前にはその気はなさそうだけどな」 黒髪のカツラとサングラスを着けさせて人間に似せた格好にしてある少女怪獣を撫で、狭間は苦笑する。 「ナ?」 ツブラは首を傾げて狭間を覗き込んできたので、レインコートのフードが外れそうになる。 「なきゃないでそれでいいんだ」 フードを直してやると、ツブラが膝の上に乗ってきたので、狭間はツブラを抱えて背を丸める。小さくて体重が軽い ので抱き心地がいいから、というのもあるが、体に巻き付けさせている赤い触手が外に出さないようにするため、と いう理由もないわけではない。倉庫街で光の巨人が出現した事件以来、光の巨人を倒した赤毛の少女怪獣の存在が 労働者達に知られてしまった。それだけでも充分危ういのだが、彼らのいい加減な噂は口から口へと伝わるにつれて 変化していき、噴飯ものの噂も多い。ツブラの印象があまりにも強すぎたからだろう、幸か不幸か狭間に関する噂は ほとんど出回っていない。 「これからどうするかなぁ」 手足をばたつかせるツブラを押さえながら、狭間はぼんやりと考えた。昼間から山下公園にいるのは、古代喫茶・ ヲルドビスが定休日だからということが第一の理由だが、第二の理由は夜勤を終えて半死半生で帰ってきた愛歌に アパートから追い出されたからでもある。服務規程やら何やらで愛歌は仕事の内情を説明してくれないが、察するに 事件捜査を行う刑事と差して変わらないようで、張り込みだの聞き込みだの尋問だのなんだのと時折ぼやいている。 今頃、愛歌は熟睡している頃だろうから、夕方までは帰るに帰れない。 映画に行こうにも金はないし、同じ理由で遠出は出来ないし、気の合う友人もいないのでぐだぐだと下らない話を するわけにもいかないし、横浜の繁華街を歩き回ろうにもヤクザに顔が売れてしまったし、中華街は危険だから行くな と愛歌からは釘を刺されている。だが、退屈だ。 ベンチの反対側に誰かが腰掛けたのか、板が軋んだ。狭間は吸いかけのタバコを口元から外して横目に窺うと、 紺色の作業着姿の大柄な男が座っていた。やけに分厚いレンズのメガネを掛けていて、その奥ではしきりに視線が 動いている。顔付きは渋い男前で、作業着の上腕は筋肉で張り詰めているのだが、背中を丸めているので迫力が ないどころか挙動不審だった。男は恐る恐る狭間を見、落ち着きのない口調で言った。 「あ、えっと、その、宇宙戦争って知っています?」 「H・G・ウェルズの? 火星から来た怪獣がイギリスに襲来した際の出来事を記した実録本ですよね?」 狭間が振り向くと、ツブラも向いた。 「ヨネ?」 「あ、うん、そう。そう、それ。それです」 男は頬をちょっと引きつらせて、ただでさえ丸まった背中を更に丸めた。 「イングランドのウィンチェスターに火星怪獣の乗ってきた怪獣戦闘艇が落下して、その中に搭乗していた火星怪獣が 人間を襲撃する……っていうのはまあ、今更説明するまでもないんだけど。教科書にも載っているし、記録映画を授業で 何度も見せられるし、火星怪獣が兵器として運用していた多肢型外骨格怪獣トライポッドが解剖されて、その構造が 怪獣機関の改良と発展に大いに役立った、っていうのも、まあ、うん、説明しなくても解りますよね」 「そりゃあまあ、中学まで出ていれば誰でも知っていますよ」 「で、その、火星怪獣が襲来してきたのは一八九八年。明慈 「ですねぇ」 この男は何を言いたいのだ、と狭間は疑問に思いながらも生返事をする。 「で、その、宇宙怪獣戦艦で火星開拓に向かった移民船団が火星に到着したのが、照和三十五年。一九六〇年」 男は狭間ではなく、その膝に座っているツブラに目線を定めた。 「たったの六十二年。その間に火星怪獣は変貌を遂げた。地球に降下して前線基地を建設する予定だったであろう 火星怪獣の先発部隊がたったの十五日で全滅させられたため、火星怪獣本隊が引き揚げたのは考えるまでもない ことだけど、火星怪獣はその際に地球人類の情報を収集し尽くしていた。死に間際の兵士が伝えたのか、或いは 機械化されていたトライポッドが自動的に地球人類の情報を本隊に伝えたのかは解らないけど、火星怪獣が人間 の情報を得たのは確実だよ。そして、地球人類もまた火星怪獣と同じく怪獣を使役している知的生命体だと知った から、地球人類を今度こそ掃討するべく計画を立てた。その果てに産まれたのが、美貌の魔獣、シャンブロウだ」 男の口調は重く、強くなる。狭間はぎくりとして肩を竦めたが、当のツブラはきょとんとしている。 「火星の地表に降りた開拓者達は、蠱惑的な香りを纏った赤毛でグラマラスな美女達に出迎えられ、魅了され、 女日照りの男達は誘われるがままに美女達と抱き合った。するとどうだろう、美女達の赤毛が男達を縛り付け、それ ばかりか男達の体液を吸い上げて殺してしまった。赤毛のように見えるものは捕食器官であり、武器だったから だ。神話の時代にメドゥサと呼ばれた生物は、地球上に不時着した火星怪獣が進化を遂げた末に人間に近い外見を 得た、アーキタイプのシャンブロウではないかという説もあるね。シャンブロウという呼び名がどこから来たのか、 それについても様々な仮説がある。シャンブロウに襲われた人々の断末魔、その光景を見ていた人々の嘆きの言葉、 シャンブロウが囁いていた歌の文句、などなど。でも、僕はこの仮説が気に入っている」 急に饒舌になった男は、狭間を見据えて言い切る。 「Shine of Glow。火星開拓移民団の一人が、シャンブロウを目にした際に叫んだ言葉だと言われている。要するに 光っているってことだ。シャンブロウが実際に発光する性質を持っているのかどうかは、生体組織を解剖してみない ことには解らないけどね。光量に乏しい火星で出会った美女は光り輝かんばかりの美貌を備えていたから、そういう 表現をしたのかもしれない。赤い触手と赤茶けた地表の間では、シャンブロウ特有の純白の肌が光っているように 見えたのかもしれない。もしくは――――」 男は目を上げ、光の巨人に穿たれた高宮重工業造船所を見上げた。 「光の巨人と似たような性質を持った、生体兵器だったのかもしれない」 「なんで、そう思うんです?」 狭間は少し身をずらし、ツブラを隠す。男は気恥ずかしげに顔を伏せる。 「そう思うというか、まあ、仮説の仮説というか、僕の頭の中だけで構築された妄想というか。いずれも情報の断片 だけで形成したものであって、筋道立てて確証を得た理論じゃないから、鵜呑みにしないでほしいっていうかでさ。 僕はそういうのがなければ確証には至れないと思っているのだけど、同僚はそういうのが嫌いみたいでさ、その、 うん、居心地が悪くなって抜け出したっていうかで。で、その、せっかくだから実地検証しようって思って」 「実地検証、ってことは」 狭間が身構えると、男はごそごそとポケットを探り、名刺を出した。 「あ、うん。その、一応、僕は」 怪獣監督省 国立怪獣生態研究所 研究員 鮫淵仁平 と、名刺には記されていた。 「じゃ、じゃあ」 ツブラのことも知っているのか。狭間が戸惑うと、鮫淵は狭間が抱えている少女怪獣を見やる。 「あ、うん、そうです。光永さんから報告書をもらっていたんだけど、その、彼女の書く報告書は生物学的には 大して役に立たないものだったんで、実際に見た方がいいかなぁって思って。で、その、その子の捕食対象は君 だけってことでいいんですかね、狭間君」 「えっ、あ、まあ、そうなりますかね」 「で、その子は見たところ、狭間君に随分と懐いているようですけど」 「はい。なんか、やたらとべたべたしてくるんで構っちゃうんですよ」 「あ、それ、僕の考えたところによると捕食行動の一環ですよ。そうやって狭間君の警戒心を緩めるんです」 しれっと言い放った鮫淵は、狭間の胸に顔を埋めている少女怪獣を指し示す。 「光永さんの報告通りなら、毎食後に一回触手を口に挿入されて粘膜から体力を吸い上げられているようですが、 もちろんその行為には抵抗がありますよね? 性癖が特殊でなければ。で、その、狭間君の体が慣れてくるのと その子が捕食行動に慣れてくるのも同時期だと考えていいので、過剰に体力を吸収されたくなければ、喉の力を 緩めないべきですね。あと、嘔吐反射も堪えない方が。でないと、その子の触手が粘膜に張り付く面積が増えて、 面積に応じて吸収される体力も多くなってしまうので。まあ、僕の推論でしかないっていうかだけど」 「はあ、どうも」 「まあ、その、推論ですから。じゃあ、僕はこれで。用事があるので」 あ、これ、どうぞ、と鮫淵は狭間に名刺を渡してから、造船所へ向かっていった。狭間はその名刺と鮫淵の大きな 背を見比べていたが、脱力した。鮫淵の言っていたことを全て理解出来たわけではなかったが、膝の上に載って いる小さな怪獣には謎がたっぷりと詰まっているようだ。だが、狭間にはその謎を突き止められる知識も根性もない ので、現状維持に努めようと胸に誓った。忠告は素直に受け入れよう、とも。 「火星かぁ……」 「セイ」 「お前は随分遠くから来たんだなぁ」 「キタ」 「でも、それがなんで一ヶ谷の地下にいたんだ?」 「ダ?」 「聞いても無駄か。そりゃそうだよな、あの日までは卵だったんだから」 この小さく幼い怪獣は、地球に何を与えるために来て、人類と地球怪獣から何を与えられに来たのだろう。遠い 昔に地球人類を蹂躙しにやってきた火星怪獣達とは根本的に目的は違うようだし、むしろ、地球と人類にとっての 利益となる行動を取っている。狭間がツブラと出会い、横浜に至ったのは、火星怪獣の大それた目論見の一環なの だろうか。火星怪獣の目論見に地球怪獣が乗っかっただけであり、狭間は両者の間に挟まっただけの歯車の一つに 過ぎないのだろうか。それとも、狭間はツブラに食い尽くされて終わるのだろうか。 「あー、めんどっくせぇえええええええ」 考えれば考えるほどうんざりするだけだった。狭間が嘆くと、ツブラは不思議そうに見上げてくる。山下公園で 自由を謳歌している人々も狭間をちらりと窺ったが、それだけだった。気を紛らわそうとタバコを吸おうとしたが、空に なっていた。このままでは火星と火星怪獣のことで頭が一杯になってしまいそうなので、狭間はツブラと手を繋いで 山下公園を後にした。ツブラはなんだか名残惜しそうだったが、手を強めに引っ張ると足並みを揃えてくれた。 行く当てもなく歩き回っているうちに、無益な休日は終わった。 14 5/13 |