横濱怪獣哀歌




時給四五〇円



 このままでは、ダメになる。
 窓辺にもたれかかってタバコを吸っているうちに、狭間の胸中に焦燥感が膨らんできた。愛歌と同じ部屋に住む ようになってから、早いもので半月が過ぎていた。最初に明言していた通りに、生活費はきっちり割り勘で、愛歌が 奢ってくれたのは退院当日だけだった。だから、食費も銭湯の代金もそれぞれの財布から出していて、いずれは家賃 や光熱費も請求されることだろう。それは至極尤もであり、異論はないのだが。

「なーんにもしたくねぇ……」

 一度、体を落ち着けてしまうとやる気が衰えてしまう。入院生活から合わせて丸々一ヶ月間、狭間はまともな労働 から遠ざかっていた。怪獣Gメンとして日々忙しくしている愛歌に代わって、最低限の家事はしているし、最近では 狭間が食事の支度をするようにはなったのだが、それはそれである。

「ヒモになれるほど意地汚くはない、というか、そんな才能があったらとっくの昔にヒモになってらぁな」

 二本目のタバコを吸おうとしたが、ゴールデンバットの紙箱は空になっていたので握り潰した。

「ナ?」

 狭間の背中をよじ登ってきたツブラが、狭間の目の前に顔を出した。上下逆さまになって。

「お前が養ってくれるわけでもないしなぁ」

「ナイ」

 満面の笑みで即答したツブラに、狭間は苦笑する。

「誰も期待しちゃいねぇよ」

 ツブラの顔を強引に押しやるが、それでも背中から降りようとはしなかったので、そのままにしておいた。無理やり 引き剥がそうとすると、髪の毛に似た触手でしがみついてくるので逆効果になる、と学んだからだ。以前、ツブラの 拘束から逃れようとしてもがきにもがいた挙げ句、首を締められてしまい危うく失神しかけたからだ。ツブラの触手 は、一本だけでも脅威となる。見た目は幼い子供のようでも、そこはやはり怪獣なのだ。

「俺はずうっとこうなのかもなぁ」

 狭間は灰皿にタバコの灰を落としてから、肩を落とす。温泉街の大衆食堂でアルバイトをしていたのも、高校卒業 後にまともな就職先が見つからなかったからだ。否、高校を卒業する際に一度就職はしているのだ。一ヶ谷市内に 新しく出来た機械製品の工場で工員として働いていたのだが、仕事を始めてから数日後に、機械製品に加工される 怪獣の声を聞いてしまった。中学時代に気味悪がられたことがあり、それ以来、怪獣の声が聞こえても一切合財 無視していたのだが――――
 ドリルで穴を開けられ、ビスを打ち込まれ、電極を付けられ、電子集積回路をはんだ付けされる、小型の怪獣達 の悲鳴と絶叫に耐えかねて逃げ出した。怪獣に感覚はあれども感情はなく、演算能力はあれども知性はない、という のが世間一般の認識ではあるが、彼らの声を物心つく前から耳にしている狭間にとっては、怪獣達は人間と同等か それ以上の知性を持つ者達であるとしか思えなかった。だから、そんな怪獣達を単なる熱源として扱って加工して いる人間が恐ろしくなり、一時は人間不信にすら陥った。
 温泉街で働いていられたのは、温泉街を潤す温泉の源でもある水脈怪獣ムラクモの存在があったからだ。彼は とても古い土着の怪獣で、狭間も馴染み深い怪獣だ。穏やかな物腰と優しい語り口で話しかけてきたムラクモ は、少しずつ狭間の警戒心と人間への恐れを解していってくれた。おかげで、今はこうして人間とまともに接する ことが出来るようになった。
 それらの経験が定職に就くことを躊躇ってしまう理由ではあるのだが、いつまでもそんなものに縛られていてはダメ だと常々思っている。ぼんやりしている間にも金を消費するからだ。タバコ代はもちろん、何もしていなくても腹は 減るから食糧を買うし、喉が渇くから水を飲むし、風呂に入らなければならないし、テレビやラジオを付ければ電気代 がかさむ。こうしてこの部屋にいるだけで、アパートの家賃も発生する。

「とりあえず、外に出るか。これだけでかい街だ、探せば働き口はあるだろうさ」

 狭間はツブラを頭から降ろすと、着崩れているレインコートを着せ直し、赤いエナメルシューズも履かせ直した。 白目のない赤い目が剥き出しになっていると拙いので、愛歌から借りたサングラスを掛けてやった。子供用ではない ので顔の幅が合わないのだが、ツブラは触手を使って上手い具合に耳に引っ掛けていた。

「デル」

 ツブラはにこにこしながら、狭間に触手を巻きつけようとしてきたので、それを制する。

「それはやめろって何度言えば解るんだ。外に出る時は大人しくしていろ、でないと連れて行ってやらないぞ」

「ヤダー」

「だったら、その触手を引っ込めろ」

「ハーイ」

 渋々、ツブラは触手を下げ、自分の頭と首筋に巻きつけた。触手をまとめたせいで一回り大きくなった頭をレイン コートのフードの中に押し込めてやるが、数本の触手がはみ出したので力任せに入れた。

「鍵と財布と、あと」

 狭間は上着を羽織ろうとしたが、躊躇った。鴨居に吊るしたハンガーに掛かっているのは、スカジャンだった。

「愛歌さんの趣味が解らねぇ……」

 退院祝いにと愛歌が古着屋で買ってくれたものだったが、紫色のサテン地の背中には満月とかぐや姫の刺繍が 施されていた。堅気の着る服じゃねぇよなぁこれ、とは思いつつも、新しく上着を買う余裕もないので、狭間はその スカジャンに袖を通した。洗面所の鏡にスカジャン姿の自分を映してみるが、すこぶる似合わなかった。

「ン」

 すると、ツブラが光沢のあるサテン地に顔を摺り寄せてきたので、狭間はぞんざいに撫でた。

「お前のご機嫌取りには使えるかもな、ツブラ」

 履き古して靴底が平べったくなったスニーカーを履き、近所の商店街のタバコ屋でゴールデンバットを調達した後、 狭間はツブラが逃げ出さないようにと手を繋いで歩いた。ツブラとの関係を勘繰られても深読みされずに済むようにと 愛歌が渡してくれた、怪獣使い見習いの身分であることを示すマガタマは財布の中に入っている。だが、常人はそんな ものを手にいられるわけがないので、どうせ模造品だろう。偽証罪で訴えられたら確実に極刑だよな、とは思ったが、 それ以上は考えないことにした。考えてはいけない気がしたからだ。
 土を均しただけの道路から雑な舗装が敷かれたアスファルトの道路になると、街並みも趣が変わり、路地で遊ぶ 子供達の身なりも変わってくる。空き地では紙芝居屋が拍子木をかちんかちんと力強く打ち鳴らし、子供達がわっと 集まっていった。ツブラも興味を惹かれたのか体を傾けたが、狭間はツブラの手を引き戻した。
 何はともあれ、職業安定所に行ってみよう。




 元町から首都高狩場線の下を潜る橋を渡り、寿町の職業安定センターに至った。
 一番近い場所にある職安だから、と安易に来たことを狭間は多少なりとも後悔した。寿町に一歩足を踏み入れた 途端、日雇い労働者と思しき身なりの人々が行き交っていたからだ。高宮重工業造船所が壊れた影響で、大勢の 労働者が職にあぶれたのだろう、職業安定センターの受付には行列が出来ていた。機械油と泥汚れの黒い染みが 付いた作業着を着た男達は、自分の番が回ってくるのを待つ間にタバコを吸っているようで、彼らの足元には吸殻 が大量に落ちていた。そのシケモクを拾ってはうやうやしく吸っているのはホームレスなのだろう。移民も大勢いる らしく、日本語ではない言葉が飛び交っていた。至る所で人が寝転がっていて、中には熟睡している人もいた。
 別の場所に行った方がよさそうだ。でないと、この場の秩序を乱してしまう。狭間は本能で直感し、ツブラの手を 引っ張って回れ右をした。が、狭間の前に恰幅のいい作業着姿の男が立ちはだかった。

「すいません、道を間違えました」

 狭間が脇を通り過ぎようとすると、男はツブラに無遠慮に顔を寄せてきた。

「兄ちゃん、こいつはまさか怪獣じゃねぇのか?」

「いえ、違います。人間の子供ですよ」

「馬鹿言え、こんなに肌が青白い人間がいるか」

 酒に酔っているのだろう、男が喋るたびに濃い酒気が漂う。目はどろんと濁っていて、肌も赤黒い。

「人型怪獣なんてそう滅多にお目に掛かれるもんじゃねぇ、ちょっと見させてくれや」

「ヤ」

 見知らぬ人間に怯え、ツブラは狭間の背後に回り込んで顔を伏せる。

「こいつはどこもかしこもちっこいが、あの時のあの巨大女怪獣に少ぅし似ているな」

「どら見せてみろ」

「ほれ見ろ、この赤い髪の毛だ、こいつで光の巨人を喰ってたんだ!」

「だがよ、あの怪獣は消えたって話だったぜ?」

「そうだそうだ、光の巨人に消されちまったって造船所の奴が言っていたぞ」

「もう一匹いたのかもな」

「死ぬ直前に子供を産んだのかもな」

「兄ちゃん売ってくれよ、こいつの髪の毛一本でもいいからさ」

「金ならないが、代わりになるモノならちったぁあるぞ」

「怪獣は金になる」

「怪獣は売れる」

「怪獣の欠片はモノによっちゃあヤクより高く捌ける」

「売れ!」

「寄越せ!」

「奪え!」

 さざ波が徐々に荒立っていくように、ツブラの存在が労働者達の金気に火を着けた。もちろん、狭間はその場 から逃げ出そうとするが、人の輪が厚すぎた。あれよあれよと言う間に壁際まで追い詰められ、狭間はツブラを 背に隠すだけで精一杯だった。横浜怖い治安悪い最悪俺死ぬ絶対死ぬここで死ぬ、と、狭間は泣きそうになり、 労働者達の欲望の漲ったぎらついた眼差しと気迫に押し潰されそうになった。

「あ、そいつ、俺んちの新入り君じゃーん」

 不意に、気の抜けた声が上がった。毒気を抜かれた労働者達が一斉に振り返り、人垣が割れる。

「そうだよね、ね、ねー?」

 酒気とタバコと汗臭さが混じり合い、殺気が張り詰めた空気をものともせずにやってきたのは、若い女性だった。 真っ赤なスカジャンに膝丈のデニムのタイトスカートを着ていて、髪型は男っぽい刈り上げだった。前髪にはパーマを 当てているのか、カールしている。スカジャンの柄は、憂い気な微笑みを湛えた人魚姫だった。

「でしょお?」

 スカジャンのポケットに手を突っ込んで前傾姿勢になり、女性は狭間を覗き込んでくる。見るからに蓮っ葉な不良 女だが、年齢は狭間よりも少し年上といったところか。

「――――ええ、まあ、そうですね」

 見覚えがあったっけなかったっけなかったとしても肯定しておけ、と狭間が動揺しながら応じると、女性はにいっと 笑って八重歯を見せた。それを見た途端、狭間の記憶と目の前の女性の顔が一致した。早朝、ゴミ出しに行く時に 一階の角部屋の前を横切るのだが、カーテンが開いていたから目が合ったのだ。この女性と。

「んじゃ、仲良くしよーか。んでもって、親交を深めるために一杯ひっかけに行こーか」

 女性は狭間の手を掴んで歩き出したので、狭間はすかさずツブラを脇に抱えた。彼女の正体がどうあれ、窮地を 免れたのは確かである。職業安定センターから離れて寿町からも出て扇町に行き着くまで、女性に手首を握られた ままだったが、細身の割にやたらと力が強かった。
 やたらと上機嫌な女性に連れられるまま、立ち飲み屋に連れ込まれそうになったが、朝っぱらからそれはまずいと 狭間は断固として断った。が、女性は狭間とツブラをどうしても構いたいらしく、こちらも必死に食い下がってきた。 なので、喫茶店に入ることで手を打つことにした。

「俺ね、イチジョウミナト。一〇一号室にいるの」

 クリームソーダに添えられた真っ赤なチェリーを頬張り、彼女は名乗った。

「こういう字を書く」

 一条御名斗、と紙ナプキンに書いてくれたが、字が恐ろしく下手だったので読みづらかった。

「俺は狭間真人といいます」

 狭間も紙ナプキンに名前を書き、見せたが、御名斗は噴き出した。

「昼間っからドヤ街にいるような奴が真人間なわけないじゃーん! 名前負けしてるぅー!」

 初対面にも等しいのに、不躾にも程がある。だが、反論しづらいので、狭間はぐっと堪えた。

「んで、その子は本当に怪獣なの? それとも、赤毛の外人の子? 君とあのケバい女の子供? 違うの?」

「全部違いますよ」

「マスヨ」

 狭間の語尾を繰り返したツブラを、御名斗はテーブルを乗り越えかねないほど身を乗り出して凝視する。

「んー……。確かに、怪獣は人の言葉を喋らないもんなぁ。ぐぎゃあ、ぐげぇ、ごがぁ、とかだし」

 常人の耳には、怪獣言語はそう聞こえているのか。狭間はひどく驚いたが、そりゃそうだよなとも納得した。大抵の 怪獣は言葉を発せるほど、声帯と舌が発達していないから呻き声しか出せないのだ。

「んじゃ、あのケバい女の連れ子かな。うん、そうだね。君はそんなに訛ってないけど、喋り方が関東のじゃないから 上京したばっかりってところか。あの女に引っ掛けられて? 銜え込まれたの? そうでしょ?」

 否定すると面倒臭いことになりそうなので、狭間は肯定しておいた。

「そんなところですかね」

「でも、ヒモにしてもらえなかったのかー。仕事探しに来たってことはそういうことだよねぇ。うん」

「自分の食い扶持は自分で稼がなきゃならないんで」

「だからって、寿町に行くこたぁないよー。あそこ、俺でもちょっと怖いもん」

「俺が軽率でした、身に染みて解りました」

「日雇いなら、紹介してあげられるかもしれなーい。すーちゃんに聞いてみるぅ」

 御名斗は数枚の小銭を握り締め、喫茶店の出入り口に設置されたピンクの公衆電話に向かった。じゃこじゃこと ダイヤルを回して電話を掛け、話し始めた。電話の相手はそのすーちゃんで彼女の恋人なのだろう、妙に甘えた声 で喋り、受話器のケーブルに指を絡ませながら身をくねらせている。百円玉が切れかけるたびに一〇円玉を入れて 通話時間を延長するので、電話はなかなか終わらなかった。御名斗が受話器を置いたのは、三〇分後だった。

「明日、埠頭で倉庫作業の仕事があるから来いってさぁ。んふふふふふふ」

 これがすーちゃんの名前ね、と御名斗が差し出してきたのは、赤電話の傍にあったメモ用紙だった。須藤邦彦  マリアンヌ貿易会社の社長さん と、やはり下手な字で書かれている。

「どうもありがとうございます」

 そのメモ用紙を受け取り、狭間は一礼した。

「マス」

 ツブラも、狭間に釣られて頭を下げた。御名斗は満足げに頷いてから、座り直し、アイスクリームが溶けつつある クリームソーダを啜り上げた。そのメモ用紙と御名斗が名前を書いた紙ナプキンを折り畳み、ポケットに入れている と、狭間が注文したミックスサンドがやってきた。物欲しそうにしていたので、御名斗に半分分けてやると、彼女は 子供のように大はしゃぎして一瞬で平らげてしまった。
 ツブラに襲い掛かられる現場を見られては大変なので、食後すぐに店を出て御名斗と別れたが、それから五分も しないうちにツブラは狭間を路地裏に引きずり込み、触手をねじ込んできた。食べた分だけ体力を奪われながら、 口と喉を蹂躙する触手の感触に苦しみながら、狭間は頭の片隅で考えていた。
 食後半時間は襲うな、と後で言い聞かせなければ。





 


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