横濱怪獣哀歌




時給四五〇円



 夕食の最中に事の次第を話すと、愛歌は苦笑いした。
 狭間が作ったいい加減な味付けの焼き飯を食べ終えて、小松菜の味噌汁を啜ったが、愛歌は眉根を顰めて複雑 な顔をした。狭間も似たようなもので、不味くはないが旨くもない、締まりのなさすぎる味付けだと自戒していた。 大衆食堂で働いていたといっても、狭間に任されていた仕事は皿洗いと注文取りと給仕であって調理ではない。料理人 の見よう見まねで作ってみただけである。見た目は悪くなかったが、それだけだった。

「せめて煮干しの頭は取ろうか」

 出汁がらの煮干しを甘辛く煮つけたものをつまみながら、愛歌に指摘され、狭間は肩を縮める。

「面目ないです」

「でも、センスは悪くなかったからいずれは上達するって。その時が来るのを待とうじゃないの」

「次からは、もっとフライパンを熱してから油と卵を入れようと思います。べったべたでしたからね、油で」

「その油の量が根本的に多すぎたんだよ。加減を知らなきゃね」

「すみません」

 狭間は平謝りしながら煮干しの煮つけをつまんだが、こちらは味を濃くしたのでまだマシだった。

「一〇一号室の一条御名斗さんねぇ」

 焼酎の水割りで仕事の疲れを癒しつつ、愛歌は斜め下を見やった。その方向に一〇一号室がある。

「あの人、ヤクザのイロだよ」

「色?」

情婦イロ。つまり、愛人ってやつ。私の仕事は裏の世界に直結しているから、そういう情報も一杯入ってくるの。んで、 その一条さんが紹介してくれた仕事先なんだけど、あれもヤクザの企業舎弟なの。活動資金を稼ぐための会社」

「じゃ、じゃあ、俺はあの人達に関わらない方がいいんですか?」

「その逆。仕事を紹介してもらったんなら、明日、ちゃんと仕事をしないとダメ。あの手の人種が重んじるのは メンツとプライドだから、それを無下にしちゃったらひどい目に遭うわよ」

「具体的には……?」

「それを話しちゃうと狭間君の労働意欲が失せちゃいそうだから、言わなーい」

「ですよねぇ」

 狭間はへなへなと座り込み、乾いた笑いを零した。ゴロツキのような労働者達が一条御名斗に道を譲ったのは、 理由があってのことだったのだ。ヤクザの情婦の機嫌を損ねてしまえば、ヤクザの親分が出てきて締められてしまう からだ。恐怖を紛らわそうとして薄い水割りを飲んだが、何の役にも立たなかった。

「横浜怖いです」

「それが解っただけでもよかったじゃないの。だから、中華街には余程のことがなければ近付かないことね。特に、 ツブラちゃんとは一緒に行かないことね。あの辺一帯を仕切っている中国系暴力団に、珍しい怪獣の子がいることを 感付かれてごらんなさい。バラされちゃうわよ、ツブラちゃんも狭間君も」

「冗談じゃ、ないですよね?」

 狭間がやや青ざめると、愛歌は狭間の鼻先に水割りを入れたコップを突き付ける。

「太平洋に沈められたくなかったら、大人しくしていることね」

「ネ」

 狭間の膝に潜り込んできたツブラは、狭間を見上げてくる。その無垢な視線を受け、狭間は今更ながら恐怖心が 込み上がった。寿町の住民達に対するものと一条御名斗の裏にある組織に対するものと、ツブラの信頼を裏切ること になるかもしれなかったのだというものが絡み合い、狭間の良心を締め付けた。

「マー」

 居たたまれなくなった狭間がツブラの頭を撫でてやると、ツブラは目を細めて触手をざわめかせた。

「で、その、一条さんの御相手ってこの人ですか?」

 狭間からメモ用紙を受け取った愛歌は、そこに書かれた名前に目を通した。

「ええ、そうよ。須藤さん。この人もガチガチのヤクザだけど、昔は警官だったらしいわ」

「それ、ミイラ取りがミイラになっちまったってわけですか」

「そんなところ。別に珍しくもなんともないわよ。ヤクザと警察がズブズブなのは今に始まったことじゃないし、 私の怪獣監督省だって割とそんなもんよ。清廉潔白な正義なんて、この世に存在しないの。私も若い頃は理想と 現実の差に苦しんだこともあったけど、今となっちゃ良い思い出よ。でも、私は今も理想を追いかけているから、 賄賂を受け取って怪獣の密輸と密売を見逃したりはしないわ。でないと、職務怠慢で干されちゃう」

「公務員も大変ですね」

「でも、やりがいはあるわよ。やりがいだけはね」

「この須藤って人、もしかして、ヲルドビスでオジョウサマと一緒にいたスーツの人ですか?」

「そうよ。あの時は事細かに説明しなくてもいいかなーって思ったから、ぼかしたんだけど」

「はあ……そうだったんですか……」

「そう悲観することもないわよ、狭間君。慣れちゃうから!」

 にんまりした愛歌に、そういう問題じゃないだろう、と狭間は反論したくなったが、出来なかった。ツブラが しきりに甘えてきて、狭間の体に触手を巻き付けてきたからだ。安普請の壁一枚隔てた先では何が起きているのか 解らないものだと痛感したが、自分もそんなもんだよな、とも思い直す。
 他者はツブラが人間ではなく怪獣だと見抜けたとしても、希少種であるシャンブロウだと解るかどうかは怪しいし、 火星にしか生息していないはずのシャンブロウが地球の日本の横浜にいる理由が察せるわけがない。目の前にいる 愛歌にしても、怪獣Gメンであり、狭間とツブラに気を配ってくれるが、それ以外のことは全く知らないのだ。
 解っているのは、ツブラは光の巨人に唯一対抗出来る力の持ち主で、怪獣達の希望を一心に受け止めているの だが、当人にその自覚が全くないということだ。巨大化したのはただの一度だけであり、それ以降は小さいままで 長い言葉を喋ることもない。耳にした相手の語尾を繰り返すだけで、空腹と睡眠の欲求を示し、退屈すぎるとぐずる ことがあるが、それだけだ。本当にただの子供なのだ。
 だから、怪獣というよりも言葉の足りない妹のように思えてしまう。見た目がどれほど人間に近くても、体の中身 は全然違うのだが。けれど、そう感じるようになったおかげで、ツブラを守ろうと思えてきた。怪獣達の無茶な注文 を引き受けた当初にはなかった感情であり、立場を自覚した瞬間でもあった。
 ツブラに食い尽くされないためにも、働かなければ。




 翌日、狭間はツブラを留守番させておき、横浜埠頭の倉庫での荷物運びに勤しんだ。
 日給五五〇〇円。時給に換算して六八七円。他のアルバイトに比べれば遥かに賃金は高いが、その分仕事内容 はきつかった。タンカーから荷揚げされたコンテナから荷物を運び出し、仕分けしていくのだが、どの荷物もやたら と重たかった。業務前に支給された作業着は汗でべたべたになり、軍手を填めた手にはマメが出来てしまい、背中と 腰に負担が掛かり、酷使された足腰もひどく痛んだ。この分では、明日は筋肉痛で苦しむこと間違いなしだ。
 半死半生で仕事をする狭間とは違って、年季の入った日雇い労働者達はきびきびと動いて荷物を捌いていった。 同じ現場で何度も働いているらしく、強面の現場監督とも気さくに言葉を交わしていた。
 地獄のような午前中の仕事を終え、休憩時間に入ると、狭間は心底疲れ果ててしまった。休憩所のベンチの隅 にぐったりと座り込み、口を半開きにして呆けた。昼食に持参した弁当も半分も食べられず、他の労働者達のように 眠ろうにも、疲れすぎていて眠気が起きなかった。

「お、社長! おはようございます、現場視察ですか!」

 現場監督の大きすぎる声が倉庫全体に響き、狭間が粘り気さえある瞼を上げると、あのスーツ姿の男が倉庫の 入り口に立っていた。埃と汗で体中が汚れている狭間とは対照的に、高級なダークブルーのスーツに身を固めて いたが、両手に填めている白手袋が目を惹いた。運転手でもあるまいに。
 ということは、この男が須藤邦彦か。狭間は徐々に眠気が遠のいていき、背筋を正した。相手が堅気ではないと 思うと、ただでさえ強張った体が更に固まってしまう。船島集落の温泉街にもその筋の輩は出入りしていたが、須藤 は見るからに格が違う。猛禽類を思わせる視線が、まごついている狭間を捉えた。

「御名斗から話は聞いている。君が狭間君だな?」

〈この野郎、俺の大事なイロに近付きやがって! 縊り殺してやろうか! って言いたいけど我慢している〉

「……ぁ、あ、はい!」

 二重音声のように聞こえてきた怪獣の声に戸惑い、一瞬反応が遅れたが、狭間は答えた。

「横浜に来たばかりだそうだが、慣れてしまえば住み心地の良い街だ」

〈一刻も早く出ていきやがれ、クソッ垂れのクソガキが、ヒモの成りそこないのド底辺! って言いたがっている〉

 社長然とした態度を取る須藤は柔和に話しかけてくるが、怪獣がその本音をだだ漏れにしている。だが、 須藤は怪獣を用いた機械を身に着けているわけではないようだ。となれば、彼の体と怪獣が一体化しているという ことになる。怪獣達の噂話を又聞きしただけではあるが、怪獣を加工して造る義肢が存在しているのだそうだ。 しかし、怪獣を義肢に加工するのは違法行為である。増して、装着者の意思が読み取れるような神経結合を行う のは違法中の違法だ。なぜなら、怪獣義肢はちゃちな武器よりも遥かに頑丈で強力だからだ。狭間は緊張と疲労 で無意識に目線を動かし、怪獣言語の主を捉え、呟いた。

「左腕だ」

 それが須藤の怪獣義肢だ。途端に須藤の目が見開かれ、口角が不愉快そうに引きつる。狭間は慌てて口を塞ぐが、 出てしまった言葉は取り消せない。須藤は大股に歩いてくると狭間の腕を左腕で掴み、有無を言わさずに倉庫の外 に引きずり出した。細身に似合わぬ怪力で、あまりの痛みに狭間の眠気は今度こそ吹き飛んだ。他の作業員達は見て 見ぬふりをしていて、現場監督に至っては須藤をにこやかに見送っていた。ひどい仕事場だ。
 倉庫裏の物陰に放り込まれ、狭間は空き箱の山に思い切り突っ込んだ。段ボール箱が潰れたおかげでダメージ は少しは軽減されたが、気休め程度でしかなく、コンクリート製の壁に背中から激突したためにひどく咳き込んだ。 逆光を背にして狭間を見下ろす須藤は、社長としての外面で押さえていた感情を露わにしていた。整った面差しが 怒りで歪み、引きつった口元からは歯が覗いている。御名斗のそれに似た八重歯が。

「お前、それをどこで聞いた?」

〈御名斗とヤりましたごめんなさい、って言わせたいんだよ。あいつ、すーちゃんに嫉妬させるために行きずりの男を 引っ掛けるのが趣味でさ、すーちゃんはその引っ掛かった男を嬲り者にするのが趣味なんだよ。だから、兄ちゃん をいたぶる口実が欲しいってわけさ。すーちゃんは〉

「答えろ!」

 須藤の左手が狭間の襟首を握り、ぐいっと持ち上げる。その左手から、またも声がする。

〈ここで素直に認めておいた方がまだ楽……でもねぇなあ。兄ちゃんからは御名斗の体液の匂いはしねぇし、例の シャンブロウの匂いまみれだ。やってもいないことを認めるのは嫌だよなぁ、理不尽だよなぁ、ボコられ損だよなぁ。 だが、こうなっちまうと、すーちゃんはどうしようもねぇから、一発二発殴られて大人しくしておいた方が身のため かもしれねぇな。俺がすーちゃんの神経に干渉して打撃力を軽減させてやるからさ。その代わりといってはなんだが、 あのシャンブロウの娘を俺に預けてくれよ。そうすりゃ、俺が世界を守っちゃるからさ〉

 ヤクザの左腕の怪獣は、すっかりヤクザの気質に染まっているようだ。怪獣も俗な生き物だ。そんな調子のいい ことを安易に信じるほど、狭間も愚かではない。しかし、須藤の左腕をどうにかしなければ、須藤の誤解を少しでも 解かなければ、殴られることは確実である。かといって、狭間に何が出来る。何も出来るわけがない。
 
「何もありません。寿町で助けてもらっただけです」

 だから、事実だけを述べることにした。が、須藤は信じてくれるはずもなく、舌打ちする。

「なんであいつが寿町にいたんだ、行くなと命じていたはずなんだがな」

〈御名斗の性癖を知っているくせに? すーちゃんも自分の性癖を自覚しているくせに? 白々しいねぇ〉

「嘘なんか吐きませんよ! 喫茶店に入ってちょっと話をしただけです!」

「そうかい」

 冷酷に言い捨てた須藤は膝を曲げ、狭間の腹に叩き込んだ。内臓を抉られるかのような衝撃に、狭間は一瞬 呼吸が止まる。足元が崩れてよろけると、須藤は狭間の髪を乱暴に掴んで顔を上げさせる。

「世間一般じゃ、それをナンパと呼ぶんだ。解ったか、クソガキが」

 御名斗に填められたのだとようやく気付いたが、この場で言い返せば確実に殴られる。ともすれば歯を折られる。 嫌な汗が全身に噴き出し、作業着の下に着たTシャツがべっとりと濡れていく。ケンカ慣れしていれば対処出来た のかもしれないが、生憎、狭間は殴り合いのケンカを経験したことがない。学生時代には不良から目を付けられない ように逃げ回っていたし、温泉街で働いていた時も荒事を見かけたらすぐに逃げていた。だから、何の躊躇いも なく暴力を振りかざす須藤に怯え、体が竦んでいた。これでは、逃げることすらも敵わない。

「ぎゃあぎゃあ喚くなよ、みっともないからな」

 にたりと口角を上げた須藤の顔付きは禍々しく、ツブラを寄越せと迫ってきた労働者達と同じかそれ以上の欲望 でぎらついていた。須藤は狭間の口を塞いでおくために、艶のある上等な革靴の底で狭間の顔を押さえつけると、 左手の手袋を外して素手を曝した。手袋を汚すと面倒だからだよ、と聞いてもいないのに理由を説明してくれた。 骨張った手を覆う灰色のひび割れた肌は岩石に酷似している。その手の甲に一筋の裂け目が走り、ぬるりと開き、 赤い眼球が現れた。ツブラのそれと同じく、白目のない怪獣の目だ。
 拳を固めた須藤は大きく振りかぶり、そして――――





 


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