横濱怪獣哀歌




時給四五〇円



 須藤の拳が狭間の脳天にめり込むかと思われた、その時。
 骨身を震わす太い汽笛が鳴り響き、須藤の拳が止まった。その汽笛に混じる音は氷川丸の声だったが、やたらと 焦っていた。須藤はたたらを踏んで後退ると、だらりと左腕を下げる。左手の甲に現れていた怪獣の目がぎょろつき、 こちらも慌てている。怯えている。何かに。

「なんだ、急に……」

 怪力を発揮する義肢ではなく石の固まりに成り果てた左腕の重量に負け、須藤はその場に座り込んだ。狭間は危機 を脱した安堵に浸り、喉に粘ついた唾液を嚥下する。汽笛が収まると氷川丸の声も収まったが、何を伝えようと していたのかまでは解らなかった。汽笛の音色は怪獣言語に似た音階なので、双方が相殺し合っていたからだ。 だが、ろくなことではないだろう。ろくなことであった試しがないからだ。
 作業着の袖で顔に付いた靴跡と砂利を拭っていると、どたばたと荒い足音が駆けてきて倉庫の裏口が全開になり、 現場監督と労働者達が逃げ出してきた。皆が皆、恐怖で顔をひきつらせている。須藤は部下達を現場に戻す べく立ち上がろうとするが、左腕が重たすぎてよろめいてしまった。

「この前みたいに未洗礼の怪獣が混じっていたのか? だとしたら、さっさと冷却装置に突っ込んで黙らせておけ。 発送元に送り返す手間が増えたな」

 言うことを聞かなくなった左腕に辟易しながらも須藤が指示するが、現場監督は首を横に振る。

「そんなんじゃありませんってぇ! あ、あんなの相手に出来るわけないじゃないですかぁ!」

「それじゃ何か、毒虫か何か」

「もっと悪いものです!」

 厳つい顔をぐしゃぐしゃにした現場監督は、今にも泣き出しそうではあったが、須藤を立ち上がらせようと肩を貸す。 だが、それでも左腕が上がらない。この野郎、と悪態を吐いた須藤が革靴で左腕を蹴り付けるが、ヤクザな義肢怪獣は 黙り込んだままだった。目を覚ませば何者かに感付かれる、とでもいうのだろうか。
 再度、汽笛が響き渡った。氷川丸の悲鳴だ。その警告を受けた怪獣達が一斉に騒ぎ出し、倉庫に荷物を搬入するトラック が独りでに走り出し、フォークリフトが壁に突っ込み、クレーンが踊り狂う。彼らの暴走の巻き添えを喰いかけた人間達 もまた逃げ惑い、わらわらと倉庫の外に出てきた。
 倉庫の格子窓から、淡い光が漏れる。清浄な白い輝きが影を消し、窓も消し去った。その光が今し方まで格子窓 が存在していた空間に近付くと、壁が音もなく掻き消される。真冬の息吹にも似た凍えた空気が足元を舐めると、 人々が一際激しく絶叫した。それを目にした狭間は、倉庫の壁に背を当てたまま、動けなくなった。

「……光の巨人?」

 あの時、横浜港に現れたものよりもスケールは小さいが、人間より大きいことには変わりはない。倉庫の窓と壁と 出荷前の荷物を消失させた光の巨人は、四メートル近い身の丈があり、背中からは一対の翼が生えていた。翼に 似ているというだけなのかもしれないが、少なくとも狭間の目にはそう見えた。
 地面から数センチ程度浮いている光の巨人は、厳かに両腕を胸の前で組み、顔の部品が一切ない顔を憂い気に 伏せていた。光の粒子が凝固している肢体は骨張っているが、腰回りから尻にかけての曲線が柔らかく、性別は 判別出来なかった。そもそも性別という概念がないのかもしれない。

〈逃げて! 逃げて! 逃げて!〉

 氷川丸が解り切ったことを伝えてくるが、狭間は答えられなかった。がちがちと鳴る歯がやかましく、疲労とは 別の重みで動かせなくなった手足が煩わしく、粘膜がひび割れそうなほど乾涸びた喉が痛い。これなら、須藤に一発 殴られて倉庫から追い出された方がまだマシだった。

「おい、お前! 早く逃げろ、そいつが出てきたら最後、俺達にはどうにも出来ないんだから!」

 労働者の一人が急かしてくるが、狭間は首を振ることも出来なかった。

〈そうだ、俺達にもどうにも出来ない! 出来ないんだよ!〉

〈でも、あの子には出来るわ!〉

〈出来ると言ったって、一度に一体しか消せないんじゃどうにも出来ないとの同じだろうが!〉

〈それでも、出来ることに代わりはないわ! 出来ることをしなければ、本当に何も出来なくなってしまうじゃない!〉

 氷川丸と須藤の左腕が口論している間にも、光の巨人はゆったりと近付いてくる。光の巨人が翼をはためかせる と空気の冷え込みが更に増し、体に籠っていた熱さえも奪い去られた。翼から零れた綿毛のような羽根が地面に 落下し、接すると、綿毛を中心にして数十センチの空洞が生まれる。機関銃を乱射されたかのように、次々に穴が 開いていく。光の巨人は辺りをぐるりと見回してから、労働者達が身を寄せている一角に視線を据えた。

「やめろ」

 狭間は震える声で制するが、光の巨人は穴だらけの地面の上を緩やかに滑っていき、死の恐怖で泣き喚く男達の 元へと迫っていく。労働者達の醜悪な悲鳴と泣き顔に白い光が及び、翳りが拭い去られていく。光の巨人は胸の前 で組んでいた手を解くと、その右手を須藤に差し伸べ、身を屈めて――――
 と、その時。須藤の顔に触れようとした光の手が赤い糸に戒められて、動きを止めた。眩しさに負けて目をきつく 閉じていた須藤は目を開け、途端に絶叫して後退る。ごりごりと左腕が地面を削る。狭間が赤い糸の出所を辿って いくと、労働者達の人垣が割れていて、その中心に黄色いレインコートと赤い靴を履いた子供が立っていた。

「こいつ、どこから入り込んだんだ?」

「浮浪児にしちゃ身綺麗だが、変な色の髪の毛だな。しかもアホみたいに長ぇ」

「なんだっていい、そいつも逃がせ、でないと死人が増えるだけだ!」

「おい、誰か止めろ!」

 幼子は恐ろしく長い髪を振り乱しながら駆け出し、狭間と光の巨人の間に割り込んできた。ざわりと波打った赤い 髪、否、触手が狭間を繭のように包み込み、数本の触手が狭間の指に巻き付いた。

「ツブラ!?」

 アパートに置いてきたはずなのに、ちゃんと鍵も掛けてきたはずなのに。困惑した狭間を横目に、ツブラは白目 のない赤い目で光の巨人を睨む。すると、今まで人間の存在は感知していなかった光の巨人はツブラの視線を認知 し、顔を向けた。凹凸のない顔の中央に縦線が走って割れ、頭部の中から無数の光の羽根を噴出させた。
 絨毯爆撃。いや、もっと悪い。雨粒のように細かな光の羽根は軽やかに舞い上がり、倉庫街の上空を埋め尽くし、 影を奪った。それが降り注いできたら、倉庫街どころか埠頭全体が消失させられてしまう。死者の数は造船所の非 ではなくなる。惨劇を止めるにはこれしかない。狭間は余力を振り絞り、叫んだ。

「ツブラ! お前の触手で網を作って全部拾え! 出来るか、出来ると言え!」

「デキル!」

 力強く即答したツブラは長い触手を限界まで広げて編み、編み、編み、赤い糸の網を作ると、それを出来る限り 広げて光の巨人の頭上に展開する。そして、重力に伴って落ちてきた光の羽根を一つ残らず受け止めて包むが、 ツブラの本体が無防備になった。その隙を狙い、頭部を欠損した光の巨人はツブラに襲い掛かってくる。光の拳が 幼い肢体に振り下ろされた瞬間、狭間は悲鳴を上げかけた。しかし、ダメージを受けたのは光の巨人だった。幼女 の如き怪獣の顔に叩き付けたはずの拳が消え失せ、冷気が弱まった。

「デキル」

 同じ言葉を繰り返したツブラは小さな口を大きく開けて舌を伸ばし、数百本に分かれさせた。毎食後、狭間の喉に 突っ込んでは体力を吸い上げている触手だった。その禍々しい口付けを喰らった光の巨人は、首の根元から光量が 弱まっていき、無傷だった左腕と胴体と下半身と翼が弛緩し、ぼろりと崩れた。硬くもなければ柔らかくもない光の 肉片が地面に散らばったが、一秒と立たずに消え失せる。
 潮風を孕んだ赤い網がふんわりと膨らみながら降下すると、ツブラは網目を解き、触手を縮めた。狭間は思うよう に力が入らない膝を強引に伸ばして立ち上がると、ツブラは狭間目掛けて飛び出し、抱き付いてきた。

「マー!」

「おいちょっと聞きたいことが山ほどうぉおえおうっ」

 ツブラを受け止めた狭間は問い詰めようとしたが、即座に口に触手をねじ込まれ、塞がれた。視界の隅で、須藤 を始めとした人々が呆然としているのが見えた。無理もない。狭間とて、まだ慣れていないのだから。細く滑らかな 触手が狭間の喉と食道に張り付き、血管の如く躍動する。その度に体力が奪われていき、手足が冷えていき、昼食で 補った分だけが抜き取られた。唾液と粘液と少しの胃液が絡んだ触手の束が引き抜かれると、狭間は吐き気 を覚えたが、ぐっと堪えた。近頃は吐き戻さずに済むようになったが、最初の頃はその都度戻して大変だった。

「マーアー」

 触手を収めたツブラは狭間の胸に頭を摺り寄せ、甘えてくる。狭間は口元を拭い、ぞんざいに構う。

「あーはいはい、偉かった偉かった」

「マー、サガシタ。イナイ、イヤ。ダカラ」

「仕事に行くから留守番しておけって言っただろうが。悪い子め」

「ムゥ」

「けど、丁度いい時に来てくれて助かったよ。ありがとな、ツブラ」

「ウン!」

 目を細めて頷いたツブラを、狭間は荒っぽく撫でた。だが、ツブラが鍵を開けて脱走してきたとなれば、アパートの 鍵は開けっ放しになっているということでもある。窓やドアの隙間から触手を滑り込せ、サムターンを回せるような 知恵があるとは思えないからだ。万が一、部屋が荒らされでもしたら愛歌に合わせる顔がない。

「社長さん。すみませんけど、仕事上がらせてもらいます」

 狭間はツブラを抱え、須藤に向き直る。呆気に取られていた須藤は我に返り、ツブラを指す。

「そいつは一体何なんだ? 怪獣なのか、人間なのか?」

「クソッ垂れのド底辺でヒモの成り損ないのクソガキに、そんなの解るわけないじゃないですか。んじゃ、そういう ことなんで失礼します。お世話になりました」

 狭間が一礼すると、ツブラも真似をして頭を下げた。労働者達に囲まれては寿町の二の舞なので、ツブラの触手 で荷物置き場から私物を回収してもらい、倉庫街から逃げ出した。息を切らして走りながら、ツブラの触手を借りて 塀や民家を乗り越えながら、狭間は光の巨人への恐怖と裏社会の人間にツブラの力を図らずも見せてしまったことの 懸念ときつい仕事をバックれた爽快感とその他諸々の感情で高揚していた。
 いや、そうではない。高揚だと思い込まなければ、後悔で押し潰されそうだったからだ。狭間に言われるがまま に触手を操って横浜市街を駆け抜けるツブラはけたけたと笑っていて、狭間の苦悩など知る由もない。愛歌さんには なんて説明しよう、そもそも説明できるのかこれ、いやしなきゃダメだ、だけどああ絶対怒られる、と狭間は泣きたく なってきたが、男の意地でなんとか堪えた。
 もう、どうにでもなってしまえ。



 後日。
 まだ着慣れていないギャルソンの制服を気にしつつ、狭間は銀色の丸盆と伝票を持ち、窓際のボックス席に座る 客の元へと向かった。紺色のスーツ姿の光永愛歌はメニュー表を狭間に渡してから、しんねりむっつりとした眼差し で見上げてきた。あの日の狭間の蛮行と失態を、まだ許していないからだ。

「御客様、御注文はお決まりでしょうか」

 それでも客は客なので、狭間が注文を請うと、愛歌はきっぱりと言った。

「ナポリタン。その後にコーヒーフロート、氷抜きでお願いね」

「かしこまりました。では、少々お待ち下さい」

 伝票に注文を書き、一礼した後に狭間が厨房に向かおうとすると、愛歌は狭間のベルトを掴んだ。

「ちょっと待ちなさい、狭間君」

「なんですか急に。お叱りなら帰ってからいくらでも受けますから、今は勘弁してくれませんか」

「裾が出ているのよ、みっともない」

 愛歌は狭間のワイシャツの裾をぐいぐいと押し込んでから、ベルトを離した。

「これでよし」

「どうもありがとうございます」

 子供扱い、いや、弟扱いされている。狭間はむっとしつつも、裾を整えた。

「大桟橋埠頭の一件の目撃者の事情聴取は一通り終わったけど、事後処理がまだだから、しばらく帰りが遅くなる のよ。その間、変なことしないでね? 女の子を連れ込んでもいいけど、ちゃんと片付けてよね?」

「しませんよそんなこと。出来るわけないじゃないですか」

 狭間は愛歌に言い返してから、厨房に向かい、伝票ホルダーに伝票を差し込んでから注文を伝えた。店主である 海老塚甲治は快諾し、先程注文を受けて作り終えた料理をカウンターに並べた。狭間は暖かなパンケーキと紅茶の セットを盆に載せ、裏庭に面した丸テーブルの席に運んでいった。

「こちら、御注文のパンケーキとセイロンティーでございます」

 狭間が客の前に皿とティーカップを並べると、それを注文した一条御名斗は可愛らしくはしゃいだ。

「わあい、ありがとー」

「それではごゆっくりどうぞ」

 と、狭間が一礼して立ち去ろうとすると、御名斗の向かい側に座っている須藤邦彦が狭間のベルトを掴んできた。 またかよ、と思いつつも振り返ると、須藤は猛獣をも殺せそうな眼力で狭間を睨み付けてくる。すると、口角を 歪める彼に代わり、彼の左腕が騒ぎ出した。

〈御名斗と会話したお前をこの場でぶっ殺してやりたいけど、命の恩人に滅多なことをするもんじゃないって上司 から言われているから何も出来ない、ってさ。俺も氷川丸にぎっちり絞られたから、まあ、大人しくしておいて やるよ。今のところはだけどな!〉

「ごゆっくりどうぞぉっ!」

 狭間は力任せに須藤の手を振り解いてから、厨房に向かった。他の客が注文した料理が出来上がってカウンター に出ているので、それを早く運ばなければならないからだ。どうしてこの店にしたんだろうか、いや他の選択肢は なかったんだ、と狭間は自問自答しながら、愛歌が注文したナポリタンとコーヒーフロートを盆に載せた。
 その際に洗い場を窺うと、黄色のレインコートを着た小さな人影が踏み台に座ってかぐや姫の絵本を読んでいた。 長い黒髪にサングラスを掛けた少女は、狭間の視線に気づいて身を乗り出したが、その際に黒髪がずれて赤い触手 がはみ出した。少女は慌ててレインコートのフードを押さえ、ずれた黒髪を直してから、サングラスの奥で白目の ない目をにんまりと細めた。サングラスと同様、黒髪のカツラは愛歌から借りたものだ。ツブラの最大の特徴である 赤い触手と目を隠してしまえば、ぱっと見では人間に見えるからだ。
 あの騒動の翌日、狭間は労働意欲を失わないうちにと古代喫茶・ヲルドビスでアルバイトの面接を受けた。その際 にツブラも同行させ、訳あって預かっている子供で、大人しくさせておくから店に連れてきてもいいだろうか、と店主 の海老塚にダメで元々で頼んでみた。すると、海老塚はツブラをいたく気に入ってくれたばかりか、退屈凌ぎにと絵本 を与えてくれた。おかげでツブラは大人しくしていてくれるし、店の中からでも様子が確かめられるので、言うこと なしだ。問題があるとすれば、常連客が見知った顔ばかりだということだが。
 時給四五〇円、賄い付き。今はそれで充分だ。





 


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