横濱怪獣哀歌




怪獣警報発令中



 五月の雨は生温い。
 昨夜から降り出した雨は止む気配はなく、街を陰らせている。遠くから聞こえるサイレンと市職員による注意喚起の 放送も、心なしか音がぼやけている。古代喫茶・ヲルドビスの店内では、ジュークボックスを止め、その代わりに AMラジオを付けていた。モノラルスピーカーから流れてくるのは演歌でもムード歌謡でもなく、東京湾内に出現 した超大型怪獣に関する情報だった。東京湾沿岸の地域住民は外出せず、海には絶対近付かないで下さい、としきり に繰り返している。未洗礼の怪獣、それも超大型なのだから、当然の措置だ。

「アメ」

 一人も客がいないのをいいことに店内に出てきたツブラは、窓に貼り付いて外を見つめていた。

「この分だと、明日まで降るかもしれねぇなぁ」

 狭間もツブラの隣に座り、人通りのない街並みを眺めた。

「フッタラ、ドウナル?」

「長靴を履いて傘を差すことになる」

「ヤーン。ナガグツ、キライ」

「レインコートは好きなのに?」

「チガウ。ナガグツ、アカイクツ、チガウ」

「はいはい」

 ツブラの微妙なこだわりをあしらい、狭間はその頭を軽く押さえた。レインコートのフードの下にある黒髪のカツラが 外れてしまわないように、位置を直してやった。ツブラの髪の毛に似た触手も水分を吸ってしまうらしく、昨夜から やたらと広がってしまい、今朝はやっとのことでカツラの中に収めてやったのだ。愛歌も髪のセットに四苦八苦して いて、ヘアスプレーをたっぷり使って髪をまとめていた。狭間は何事もないのだが。

「狭間君」

 カウンターでケーキナイフを磨いていた海老塚は、雨粒に叩かれる窓を見やる。

「今日は午前中で店を閉めてしまいましょう。御客様はいらっしゃらないようですし」

「怪獣警報が出ているんじゃ、仕方ないですよね。電車もバスも動いていないってラジオで言っていましたし」

「ウゴカナーイ」

「ですので、狭間君。仕込んだ食材を使って御料理を拵えて、賄いとして持ち帰って下さい」

「え、いいんですか、そんなの」

「無駄にするよりはいいですとも。そうですね、せっかくですから、狭間君御自身が作ってみませんか?」

「マセンカ?」

「えっ、でも、そんな」

 狭間が腰を浮かせると、海老塚は厨房を示した。

「基礎の基礎から教授いたしますので、そう怯えることはありませんよ」

「マセンヨ」

 と、ツブラも海老塚の真似をして厨房を指した。これでは断りづらいので、狭間は厨房に入った。独りで調理する ためだけに造られているので、食材や食器が入った棚とコンロの間の幅が狭く、一歩歩けば必要なものに手が届く ようになっている。複数の料理を並行して調理出来る三口のガスコンロにガスオーブン、業務用の大きな冷蔵庫に 十二個のコーヒードリッパー、銀色に輝くコーヒーポット。どれもこれも長年使いこまれていて、おいそれと手を 触れてはいけない領域だ。料理人が自分の道具に愛着を持っているということは、温泉街の大衆食堂で働いていた際 に思い知っている。どの料理人も自前の包丁を持っていて、毎日砥石で丁寧に磨き上げていた。迂闊に触ろうもの なら、烈火の如く怒鳴られたものである。手の早い料理人となれば、殴り掛かってきたものだ。

「でも、ここにある道具は俺が触っちゃ拙いんじゃないですか?」

 そんな経験を踏まえて狭間が訊ねると、海老塚は戸棚を開けて古いフライパンを出した。

「そうですね、私とて料理人の端くれですので。こちらをどうぞ。包丁も別のものを使って下さいませ」

「ですよねえ」

 安堵する狭間に、海老塚はかなり使い込まれたフライパンと包丁を渡してきた。下拵えされた食材は一日置くと 風味が落ちてしまう、とのことで、微塵切りにされたタマネギや小さく切った鶏肉や千切ったレタスや千切りキャベツ などを使うことになった。七合炊きのガス釜炊飯器で炊いた白飯も使ってしまいましょう、と海老塚が提案したので、 狭間が作る料理の全貌が見えてきた。

「もしかして、チキンライスですか?」

 タマネギの微塵切りを炒める手を休めずに狭間が言うと、海老塚は頷く。

「そうです。それにチキンサラダを添えましょう」

「つまり、火を通した鶏肉と仕込み済みの野菜を一緒くたにしちゃうんですね」

「ええ、そうです。材料はたっぷりありますので、愛歌さんとツブラさんと御一緒に召し上がって下さい」

「んじゃ、遠慮なく使わせてもらいますよ」

 海老塚の適切な指導の元、狭間はフライパンを振るった。その過程の中で、今までいかにいい加減な料理をして いたのかと痛感した。むやみやたらに火力を強めても火が通るのが早くなるわけではないし、弱火にしただけでは じっくりと火を通したことにもならないし、調味料を入れる順番とタイミングにもきちんとした理由がある。それを一つ 一つ教えてもらい、その通りに作業してみると、海老塚が作るものには遠く及ばずとも、狭間がこれまで作ってきた 焼き飯とは比べ物にならないほど完成度の高いチキンライスが出来上がった。
 鮮やかなオレンジ色に輝くチキンライスには、透き通ったタマネギの微塵切りと程良い焼き加減の鶏肉とグリーン ピースが適度に混ぜ込まれ、暖かく湯気を昇らせていた。チキンサラダに加える鶏肉は並行作業で炒め、甘辛い 味付けにした後、レタス、キャベツ、トマト、薄切りのタマネギといった生野菜の山に混ぜ込んだ。どちらの料理 も粗熱を取った後にタッパーに入れられ、雨水が染み込まないようにとビニール袋に包まれた。

「狭間君。このようなことを訊ねるのは大変失礼ではありますが、あなたはツブラさんとどういった御関係で?」

 使い終えたフライパンを洗い流してから再度加熱し、水分を飛ばしている時に、海老塚が問うてきた。

「どうって……遠い親戚ですよ」

 間違ってはいないよな、うん間違っていない、人間と怪獣は同じ惑星から生まれてきたものであって、その地球は 元を正せば太陽系の一部なのであって、火星生まれのツブラも元を正せばそういうことになるのであって、と狭間は 内心で自問自答する。店内で大人しくしているツブラは窓を叩く雨粒からは興味を失っていて、例によってかぐや姫 の絵本を熱心に読んでいた。体に巻き付けている触手も、レインコートの下で大人しくしている。

「ツブラさんがいつもサングラスを掛けておられるのは、日差しに弱いからですか?」

「まあ、そうですね。目もそんなに良くないんですけど」

 実際、ツブラの視力は弱そうだ。触手を使って周囲のものに触れて距離を測っているらしく、狭間が目の前に いても気付かずにぶつかってしまったことは一度や二度ではない。

「いつも同じレインコートをお召しになっているのは、ツブラさんがそれ以外の服を好まないからですか?」

「そうなんですよ。別のを着せようとするんですけど、どうしてもあれがいいって嫌がって」

 狭間は肩を竦める。いつまでも同じものを着せていると不衛生なので、着替えさせようと色違いのレインコートを 買ってやったのだが、他の色ではなく黄色がいいとツブラは言い張った。そのため、着替えの黄色いレインコート を何着も買い込んである。赤いエナメルシューズも今でこそ一足だが、いずれ増えていくのだろう。

「彼女の肌の色は、親御さん譲りなのですか?」

 黒髪のカツラでもサングラスでも、あの肌の色だけは隠し切れない。狭間は答えに詰まり、ツブラを窺った。少女 怪獣はほのかに薄紫色の混じった青白い肌に包まれた指で、読み込みすぎてよれたページをめくっている。人間のそれ とは違って冷たく、ぐにゃぐにゃしているが、小さな子供の手であることに変わりはない。

「仰りたくないのであれば、それでよろしいのです。狭間君」

 海老塚は語気を緩め、絵本に没頭しているツブラを見守る。

「この世の中、理解の範疇を超えた出来事がいくらでもありますとも。ツブラさんはそういう御体に生まれ付いている というだけなのですね?」

「え、ええ、そうです。たぶん、そういうことなんです」

 詳しい理由を求められても説明出来るわけがないので、狭間がはぐらかすと、海老塚は声色を下げた。

「それはそれとして、愛歌さんとはどういう御関係なのですか?」

「うぇっ」

 それこそ答えようがない。狭間が面食らうと、異変を感じ取ったのか、絵本を抱えたツブラがやってきた。

「マー?」

「どうって聞かれても……。どういう関係なんでしょう……?」

 狭間は海老塚の視線とツブラの視線の間に挟まれ、苦悶する。愛歌が狭間とツブラを同居させているのは、仕事 の上の都合であってそれ以上のことは何もない。ないったらない。ツブラに日々生命力を吸われているからだろう、 愛歌に対して性的な欲求を感じたこともないし、愛歌も狭間をそういう相手として扱っていない。養われているわけ でもないし、ヒモとして愛歌に尽くされているわけでもないし、むしろ尽くしているのは狭間だと言える。愛歌の仕事が 忙しいから、家事をする頻度は狭間の方が多い。最近では、狭間の服と愛歌の服を一緒に洗濯するようになった。 当初は別々に洗濯していたのだが、水道代が勿体ない、と愛歌が言ったからである。

「では、愛歌さんとはまだ御友人であると」

「そういうことになりますかね、今は」

「ゴユージン?」

「御友達ということですよ、ツブラさん」

 海老塚はツブラに説明してやってから、狭間に向き直る。

「でしたら、麻里子さんの御誘いをお受けしてもなんら問題はないということですね?」

「マスター、あれ、聞いていたんですか!?」

「店内で起こることの全てを把握しておくのが、私の仕事ですのでね」

 それでどうなさるおつもりで、と興味深げな海老塚に迫られ、狭間はやや身を引く。

「どうって……」

 九頭竜麻里子。女優顔負けの美少女であるが、堅気ではない。ヤクザの組長代理であり、狭間を弄んできた男達 を屈服させる権力を持つが、セーラー服の似合う現役の女学生だ。週に二三度古代喫茶・ヲルドビスを訪れては 紅茶とケーキをお供に読書に耽ったり、勉強している。時には九頭竜会の構成員である寺崎や須藤と物騒な話題を 語り合っている。美貌、金、権力と誰もが欲するが容易に手に入らないものを備えている麻里子が、狭間になど 興味を持つわけがない。態度は大人ぶっていても中身は十七歳の子供なのだから、麻里子は狭間をからかいたい だけなのだろう。付き合ってくれと言われた瞬間は舞い上がったが、その一瞬だけだった。

「どうもこうもしません。断るだけです。付き合えるわけがありませんよ、ヤクザの組長代理とは。それ以前に、 俺はその九頭竜会の人達にひどい目に遭わされたんですから、その気になれもしませんよ。にしても、マスター はいやにあの子に肩入れしますね」

「シマスネ」

「老婆心というやつです。麻里子さんが産まれて間もない頃から存じているからでしょう、麻里子さんの動向が 気がかりなのです。このまま九頭竜会の正式な跡取りになるか、女学生としての本分を全うして堅気となる道を選ぶか、 或いは女性の幸せを望むのか……。いずれにしても、麻里子さんは不憫な方なのです」

「そうですかね。俺にはそんなに苦労しているようには見えないんですけど」

「苦労を見せないのが、麻里子さんの美徳なのです。ですが、それが狭間君の御決断であるのであれば、私はそれを 尊重いたしましょう。――――おや、雨脚が強くなってまいりましたね」

 屋根に打ち付ける雨粒が重く、強くなった。ラジオの音が聞こえづらくなるほどだった。そろそろ店を閉めます、 と海老塚に急かされ、狭間は帰り支度をした。料理を入れたタッパーをリュックサックに詰め込み、念のためにその リュックサックも大判のゴミ袋で覆った。ツブラは嫌そうだったが、長靴を履かせ直してやった。雨脚と共に風も強く なってきたので、傘を差しても骨が折れてしまうだけなので、レインコートを着た。
 緩やかな坂の先、家並みの向こう側に広がる横浜湾を望む。鉛色の雨雲と無数の滴が海面を濁らせ、修復途中の 造船所も静まり返っている。荒く立つ大波は氷川丸を無遠慮に揺さぶるが、氷川丸は波に抗わずに黙していた。長年 使われていた船だからこそだ。横浜湾の遥か彼方、東京湾内を黒い人影が闊歩していた。それが、突如出現した超巨大 怪獣だ。全長五〇メートルとラジオでは発表していたが、肉眼で見るともう少し大きいように思える。
 くぉおん、こぉおおおおおお――――
 声にならない声、怪獣言語にすら至っていない、原初の感情がさざ波のように打ち寄せてくる。と、同時に怪獣の 感覚までも伝わってきた。全身を潤す冷たい海水、海水に混じる有機物、廃棄物、汚物、石油、生物の死骸、ありと あらゆる不純物のざらついた感触。狭間は身震いしたが振り払いきれず、寒気に負けて背を丸めた。
 ツブラと手を繋ぐと、寒気が少し和らいだ。





 


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