横濱怪獣哀歌




怪獣警報発令中



 怪獣監督省、横浜分署。
 光永愛歌は捜査資料の束を自分のデスクに放り投げたが、その拍子に既に出来上がっていた資料のタワーに激突 して崩壊させてしまった。次々に滑り落ちていくファイルと紙束に舌打ちしても、止まりもしなければ元の場所に 戻るはずもないので、愛歌は渋々足を止めて捜査資料の山を築き上げ直した。
 怪獣警報が発令されてからというもの、忙しさに拍車が掛かって腰を落ち着ける暇すらなかった。それでなくとも、 横浜は怪獣の出入りが激しい。未洗礼の怪獣の密輸入や密売は日常茶飯事、密輸出の数もかなり多い。船便の 積み荷に紛れている場合が大半だが、それを囮にして別のルートで運び込む場合もある。寿町や中華街では怪獣 ブローカーが跋扈していて、大口の顧客を持つブローカーを逮捕しても、その背後にある怪獣を売り捌く犯罪組織を 潰さなければ何の意味もない。事が上手く運んで、その犯罪組織を解体させたとしても、怪獣の密売のノウハウと 人脈を持つ人間を押さえければ元の木阿弥だ。だが、怪獣の悪用を一つ一つ摘発していなければ、怪獣の密売市場 が今まで以上に拡大してしまいかねない。万が一そうなってしまったら、経済はおろかインフラまでもが犯罪組織に よって牛耳られるからだ。
 怪獣はあくまでも国からの借り物であり、個人資産として認められないのには、それ相応の理由がある。怪獣一体 が発するエネルギー量が大きいことと、火山とそれに連なる水脈から採掘される怪獣の卵の数が限られていること もそうだが、最も重大な理由は怪獣が戦争の即戦力と成り得る代物だからだ。怪獣使いによる洗礼済みの怪獣は、 攻撃手段や能力を徹底的に封じられているので、大人しく働いてくれるが、それ以外の怪獣は野生動物よりも 恐ろしい存在だ。過去の戦争でも、広島と長崎に投下された未洗礼の超大型怪獣が暴走し、あっという間に都市 を破壊し尽してしまった。超大型怪獣ではなくとも、際立った能力を持った未洗礼の怪獣を解き放たれたら、街一つ 平らげられてしまう。だから、怪獣は真っ当な処理を行った後に扱うべき危険物なのだ。

「何やってんだ、光永」

 愛歌の醜態を見るに見かねて、同僚であり仕事の上の相棒である赤木進太郎が手を貸してくれた。

「超大型怪獣が現れた時こそ捜査に出るべきなのに、どうして待機命令が下ってんのよ」

 十数冊のファイルを一度に抱えてデスクに置き、愛歌はぼやいた。

「そりゃまあ、そうだがな。あれだけ大きな怪獣が現れたとなると、家庭用の小型怪獣は縄張り意識が高ぶるから、 おのずと出力が落ちる、イコールで犯罪組織の動きも鈍くなるから、畳みかけるチャンスではあるんだが、上が 許さないんじゃ仕方ない。公僕の辛いところだ」

「それをみすみす見逃せってこと? 労働意欲下がるわねぇ。で、この暴風雨の中、綾繁一族の誰かがあの超大型の 視察に来るのね? でないと、あの鈍重な課長がすっ飛んでいくはずがないもの」

「いかに怪獣使いとはいえ、出現して間もない超大型は操れないだろうが。イナヅマやデンエイは孵化してからかなり 年月が経っているから操りやすかったのであって、あいつはまだ無理だろ」

「さっき、本省があいつの個体識別名称を発表したぞ。魚人怪獣タテエボシ。ウミボウズ型だが、ウロコとヒレとエラ が特徴的だからそう名付けられたんだそうだ」

 二人の会話に別の捜査員が割って入り、報告してくれた。

「体表面温度は海水と同じかそれ以下、発電能力は確認されず、電波による通信にも応答なし。都市型発電怪獣 には出来そうにもない。観測隊によれば、この嵐の発生源はタテエボシで、奴の周囲では気圧が著しく低下して いるとのことだ。だから、奴が立ち去れば嵐も過ぎ去るが、長々と居座られたら都市機能が停滞しちまうのさ。全く、 傍迷惑な怪獣だよ」

「そんな怪獣、使役しても無駄になるだけだわ。管理維持費が増えるだけよ」

「やんごとない方々の考えることは、公僕には解らんのさ」

 愛歌を宥めてから、赤木は自分のデスクに腰を落ち着けた。だが、すぐに職員から呼び出され、出ていった。愛歌 もまた別の仕事を言いつけられ、捜査資料の山を片付けきれないうちに移動する羽目になった。要件はどうせ解って いるし、やりたくもないのだが、これもまた仕事の一環なのだと腹を括る。
 玄関ロビーに来ると、両開きのドアが開け放たれていて雨が吹き込んでいた。真正面に見える大通りには人影は 一切なく、車も一台も通っていない。黒く濡れたアスファルトは薄い水の膜に覆われ、色味が変わっている。そこに 車からは懸け離れた影が差し掛かり、雨を遮った。古代の翼竜を思わせる四枚の翼が局地的に嵐を強め、長い尻尾が アスファルトを叩き、恐ろしく太い爪が生えた前後の足が地面を噛む。ぎしゃあ、と吼えた怪獣の口の両端から は、発達しすぎた犬歯のような牙が備わっている。コウモリじみた大きな耳と太い鼻面の中間には、白目のない 真っ赤な目が一つだけ埋まっていた。その胴体に、煌びやかな箱が括り付けられていた。
 有翼の中型怪獣に続き、手足は短いが翼が大きい小型怪獣が次々に飛来しては翼を広げ、煌びやかな箱と怪獣 監督省の入り口を繋ぐアーチを作る。最後に人間大の人型怪獣が飛来し、煌びやかな箱を開き、水溜りに跪いた。 箱の中から現れたのは、白と赤の着物を着た少女だった。長い振袖を引き摺り、裾を持ち上げると、雪駄を 履いた足で人型怪獣の肩と背中と翼を踏み、そして地面に降り立った。

「御出迎え、ありがとうございます」

 長い黒髪を風に弄ばれながら、少女は一礼する。細い鎖が付いた金の簪が、しゃらりと涼やかに鳴る。

「お忙しい中、わたくしの御願いを聞いて下さり、なんと御礼申し上げれば」

「悪天候の中、御足労頂きまして誠に」

 横浜分署の署長が少女を出迎えると、少女はぞっとするほど整った面差しを僅かに歪める。

「そんなことはどうでもよろしいのです。タテエボシにまとわりついている観測隊を即刻引き揚げさせて下さいまし。 そうでないと、観測隊の方々は無事では済みませんわ」

「ですが、充分なデータを収集しなければ、タテエボシへの対策が」

「そんなものこそ、どうでもよろしいのです。タテエボシはわたくしのものとなるのですから」

 着物の袖口で顔の下半分を隠し、少女は目元を顰める。

「お国の許可は既に頂いていると、御父様から御連絡を頂きました。なので、横浜分署を尋ねる必要はどこにもない のですが、連絡が行き違うと後で面倒ですので、こうして訪れただけなのです」

「僭越ながら申し上げさせて頂きますが、綾繁様」

 愛歌が挙手すると、少女は愛歌に目を止め、雨粒で濡れた長い睫毛を伏せる。

「なにか」

「タテエボシは低気圧の発生源となる能力を持つ怪獣であると、これまでの調査で判明しております」

「それが、どうかいたしましたか」

「気候に変動を及ぼす怪獣は、迂闊に刺激を与えれば大規模災害を引き起こしかねません。増して、タテエボシ が上陸する兆しはありません。むやみに接触して暴走させたら、取り返しのつかない事態に」

「わたくしの力を疑うのですか。この、怪獣使いたるわたくしを」

 ぎゃあぎゃあぎゃあああああああ、ぎょおおぎょおおぎょうおおおおおお。少女の目が見開かれると、それに呼応 して怪獣達が湧き立った。赤い目が愛歌を射竦め、威嚇と威圧が押し寄せてくる。分署全体のガラスがびりびりと 震え、局地的な揺れが建物を襲う。しかし、愛歌は動じずに少女を見返す。

「どうか、迂闊なことはなさらぬように御留意願います」

「御安心なされませ。この嵐、すぐに止めてみせましょう」

 少女は身を翻し、中型怪獣の胸に付いている煌びやかな箱、輿に乗り込んで蓋を閉めさせた。それから間もなく 怪獣達の群れが飛び立っていき、次々に鉛色の空に吸い込まれていった。ぎしゃあぎしゃあと喚く怪獣達の声を耳に しながら、愛歌はふと思った。狭間君には彼らの声はどう聞こえているのだろうか、と。

「おい、光永、聞いているのか!」

 怒鳴り付けられ、愛歌は我に返る。実動課課長、高盛信克が愛歌に詰め寄ってきた。寸詰まりの中年男だ。

「我々はあくまでも現場の人間だ、怪獣使いの御意向に意見出来る立場ではないことを忘れたのか! 綾繁様の御姿 を拝見出来たのは思いがけない僥倖だが、不躾な質問で御気分を害されては困るのだ! 発電怪獣の送電出力が少し でも変動してみろ、億単位の大損害が発生するんだぞ!」

「申し訳ありません」

 愛歌は平謝りしてから、所要を思い出しましたので失礼します、と言って分署を飛び出した。透き通ったビニール 傘を頭上に差し掛けてから雨空を仰ぐが、怪獣使いと使われている怪獣の群れは横浜湾へと向かっていた。愛歌は 駆け出そうとしたが、止め、雨の中では歩きづらいパンプスではあったが大股に歩いた。
 ――――綾繁あやしげくるる。それがあの着物姿の少女の名であり、十歳でありながらも怪獣使いの資格と権力を国家 から与えられている。怪獣使いとしての能力は抜群で、去年からは大型怪獣に洗礼を与えるようになった。だが、幼く して大人も世間も掌握出来る立場に据えられているため、他人だけでなく怪獣も舐めている節がある。怪獣を使役する には確かな自信と精神力が必要ではあるが、慢心と自信は別物だ。
 枢が横浜湾に至る前に、嵐が去ってくれればいいのだが。やりきれなさを振り払えず、愛歌が歯噛みしていると、 黒い傘を差した人影が路地から出てきた。思わず身構えると、傘が上がり、見知った顔が現れた。羽生鏡護だ。

「丁度良かった。外回りばかりで所在の解りづらい君を尋ねるには今日が絶好だと判断したから、この素晴らしき 才能の結晶体である僕がわざわざ出向いたわけだが……。あれは綾繁一族の怪獣行列だね」

 まともに見たのは初めてだよ、と羽生は怪獣の群れを眺めつつ、雨音に紛れる声量で述べた。

「国立怪獣生態研究所の資料室に保管されていた、シャンブロウに関する文献や資料がごっそり消えていたんだ。 どれもこれも持ち出し厳禁だから、誰かが破棄したとなれば大騒ぎになるはずなんだが、何もない。君と彼とあの子 に接触してから半月も経っていないんだ、あまりにもタイミングが良すぎる。資料の行方を探ろうかとも思ったが、 今はこの僕もそれどころじゃないんでね。君にも君の仕事があるんだ、捜査してくれとは言わない。あくまでも報告 をしに来たまでだ」

 羽生は愛歌と擦れ違い様、釘を刺してきた。

「仕事熱心なのは解るが、程々にしておくべきだ。この僕にも言えることだがね」

 それではまた、と羽生は人通りのない大通り沿いに進んでいった。愛歌は一礼した後、羽生の背を見送っていた が、踵を返した。怪獣使いの行動やその結果に関与出来るはまた別の部署の人間であり、愛歌が担う職務からは 大きく逸脱している。そう思い直し、愛歌は足早に分署に戻った。
 処理すべき雑務は山ほどあるのだから。




 怪獣達の声が変わった。
 県庁舎や市庁舎のある関内地区の辺りから、放射状に怪獣達の動揺が広がっている。何事かと思ったが、下手に 首を突っ込むとまたろくでもない目に遭う、と判断して狭間は浮かせかけた腰を戻した。雨宿りしようと屋根付きの バス停に入ったまではよかったが、その直後から雨脚が更に激しくなってしまい、出るに出られなくなった。屋根の 端からはどぼどぼと大量の雨水が流れ落ち、路面は海と化していて、水煙で見通しが効かない。

「氷川丸に話を聞いてもらおうと思うんじゃなかった」

「ナカッタ」

 狭間の隣にちょこんと座るツブラは、もっともらしく同意した。

「これだけ雨脚が強ければすぐに止む、とは思うんだが、そうじゃない時もあるからなぁ」

「アル?」

「あるんだよ」

 狭間は足をぶらぶらさせているツブラを一瞥してから、万遍なく雨水を被ったリュックサックを見やる。

「中身、無事だよな?」

「ブジ」

「でないと、今日の夕飯がなくなっちまうもんな。夕飯が食えないと、ツブラは俺の体力を喰えなくなっちまうしな」

「ソレ、イヤ。コマル」

 むくれたツブラに、狭間は苦笑する。

「俺の方が困るよ。またぶっ倒れるのは勘弁だ」

 荒々しい雨音と氷川丸を容赦なく揺さぶる激しい波音は、怪獣達の無秩序な声を少しだけ紛らわしてくれた。その中で、 あの超大型怪獣の個体識別名称がタテエボシに決まったと教えてもらった。ラジオもなければテレビもない場所でそんな 情報を得られるのだから、この能力も捨てたものではない。こういう時だけではあるが。

「ツブラはどう思う?」

「ドウ?」

「いや……なんでもねぇよ」

 麻里子との一件をツブラに相談したところで、何になる。狭間は自嘲し、雨で冷え切った体を暖めようと二の腕を さすった。風呂にでも入って温まりたいが、怪獣警報が発令されているのでは銭湯が開いているかどうかは怪しい。 風邪を引くとアルバイトにも支障が出るので、帰ったらすぐ着替えて体を乾かさなければ。ツブラも乾かしてやろう。 黒髪のカツラの下では、触手が爆発寸前に膨張しているからだ。
 昼飯はどうしよう、なんかあったっけ、インスタントラーメンはこの前喰いきっちまったなぁ、と狭間がぼんやり と考えていると、怪獣達のざわめきが前触れもなく激しくなった。さざ波が大波となり、その波に乗った恐怖が怪獣 達に伝播していく。その恐怖が最大限に高まった瞬間、タテエボシが吼えた。

「実地検証に勝るものはないね、うん」

 誰でもない声が足元から聞こえ、狭間は心底驚いて飛び退いた。ツブラを抱えて後退り、ベンチの下を恐る恐る 覗くと、作業着姿の大柄な男が狭い空間に閉じこもっていた。顔が煤で薄汚れていたが、鮫淵仁平に違いなかった。 国立怪獣生態研究所の研究者がなぜこんなところに。狭間がその問いを口にするべきか否かを迷っていると、鮫淵は のっそりとベンチの下から這い出し、伸びをした。背骨を盛大に鳴らした後、鮫淵は髪を乱す。

「あ、うん、その、その子に関する資料がなくなってしまったから、観察する他なくなったんですよ」

 君達も、あの怪獣も、光の巨人も。寝起きの掠れた声色で弱く呟いた鮫淵は、横浜湾内を悠々と闊歩する怪獣を 仰ぎ見た。全てを達観しているようでいて、昆虫を見つけて目を輝かせる子供のようでもある眼差しで、鮫淵は 怪獣を見続けていた。不意に真冬のように冷え込んだ風が吹き抜け、雲が割れ、一条の光が差し込んだ。
 否。それは、タテエボシの倍はあろうかという巨躯の光の巨人だった。





 


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