給与の総額、一三五〇〇〇円。 茶封筒に入っていた札を二度三度と数えた後、狭間はそれを取り出してテーブルに広げた。ツブラはテーブルの 縁に手を掛けて、物珍しそうに札を眺めている。赤い触手が数本伸びてきたが、すかさず弾いた。一万円札が十三 枚に千円札が五枚が、古代喫茶・ヲルドビスで一ヶ月間働いた対価だった。サラリーマンの月収の半分以下だが、 アルバイトならそんなものだ。 「えー、っと」 愛歌から渡されたメモを見ながら、狭間は給料を分けていった。家賃の半額、水道光熱費の半額、食費の半額、 銭湯の代金、バイクの修理代の積み立て、その他雑費。そして、愛歌の財布から借りた金の返金分。 「残らん……」 生活費を差っ引いた後に狭間の手元に残ったのは、三枚の千円札だけだった。バイクの修理代は次からにして、 いやそんなことをすると決心が鈍る、と狭間は甘えた気持ちを振り払い、別の茶封筒に生活費を入れた。愛歌の ドレッサーの引き出しに生活費の入った茶封筒を入れると、狭間は腹の底からため息を吐いた。 「世知辛いったらねぇなぁ、もう」 「セチガラ?」 「貧乏はやるせないってことだ」 狭間は渋い顔をしつつ、引き出しを閉めて愛歌の部屋を後にした。 「オカネ」 ツブラは触手と短い指で三枚しかない千円札を掴み、じっくりと眺めた。 「俺の金だ。返してくれ」 「ダ」 ツブラはちょっと名残惜しそうだったが、狭間に千円札を返してきた。薄っぺらい紙幣を受け取り、財布に入れた が、重みの欠片もない。財布を厚くしているのはレシートと、ついつい貯め込んでしまった小銭だけだった。しかも、 白銅貨はほとんどない。十円玉と五円玉と一円玉ばかりだ。 「ツブラ、俺の体力を吸い過ぎるなよ。腹が減るのは解るが、俺の体力を根こそぎ奪っちまったら、またぶっ倒れて 働けなくなっちまう。そうなったら、働いて金を稼げなくなり、金を稼げなくなれば俺は喰い詰めちまって路頭に迷う。 解ったか、ツブラ。解ってくれなきゃ困るんだ」 「ワカッタ!」 ツブラは両手を上げるが、狭間は不安に駆られた。先日、嵐を伴って横浜に接近した超大型怪獣、タテエボシ を狙って現れた光の巨人を巨大化したツブラに撃退してもらったのだが、その際にツブラに吸い取られた体力の量 が予想以上に多かった。帰宅した愛歌と夕食を食べたまでは良かったのだが、その後、銭湯に行こうと立ち上がった 時に倒れ込んでしまい、そのまま朝まで動けなくなった。そんな状態ではあったものの、ヲルドビスの開店時間が 迫ると、気力だけで起き上がって仕事に出掛けた。だが、それは若いから出来ることであって、同じことが何度 も続けば狭間の身が今度こそ持たなくなってしまう。 絶対解ってくれてねぇよなぁ、とは思ったが、頭ごなしにツブラを否定するのは気が引けるので、何も言わないこと にした。気晴らしに散歩にでも行こうと狭間がスカジャンをハンガーから外すと、隣のハンガーに掛かっている黄色 のレインコートに触手が伸びてきた。戸棚の上に置いてある黒髪のカツラとサングラスも触手に絡め取られ、するり とツブラの元に運ばれた。狭間が上着を着る時は外に出る時だ、とツブラは学習したからだ。 「でも、それだけなんだよなぁ」 着替えを持っていくことが出来ても、それを身に着けるのはまだまだ下手だ。赤い触手を体に巻き付けたツブラは レインコートに袖を通してボタンを留めるまでは順調なのだが、カツラを被るのは下手で触手のまとめ方もいい加減 だ。なので、狭間はツブラの赤い触手を頭に巻き付け、その上に黒髪のカツラを被せたが、触手が落ち着かないので ふわふわと浮いてしまう。なので、狭間は触手を引っ張って調節してやると、やっと様になった。 「オデカケ!」 最後にサングラスを掛けてやると、ツブラは意気揚々と玄関に向かった。 「ドコイク?」 ツブラはレインコートの裾から出した触手で自分の赤い靴と狭間のスニーカーを並べるが、靴を履くのもまだ 下手なので、狭間はツブラに靴を履かせてやってから、自分のスニーカーを履いた。 「どこにも行きようがねぇよ」 三〇〇〇円なんて吹けば飛ぶような金額だ。だから、今日は出来る限り金を使わずに休日を潰すしかない。近所 をうろつきまわるので精一杯だ。桜木町の中でも一際賑やかな中華街はとても気になるが、九頭竜会のこともある ので、愛歌が危険だという場所に迂闊に近付けばろくな目に遭わないのは目に見えている。だから、狭間は好奇心 をぐっと押し殺し、浮足立っているツブラと手を繋いでアパートを後にした。休日であるのをいいことに、昼過ぎ まで布団に入っていたので、すっかり日が高くなっていた。 スクラップ同然のバイクは、敷地の片隅で大人しくしていた。 夕方になると、近所の空き地に紙芝居屋がやってきた。 拍子木を打ち鳴らしながら口上を述べ、安価な駄菓子を売っている。色の付いた水飴にソースせんべい、型抜き 菓子などを小銭で買った子供達が、舞台を荷台に乗せた自転車の前に一塊になっている。結局、どこに行くことも なくぶらぶらしていた狭間は、空き地の手前で足を止めた。ツブラは子供達の輪に入りたがったが、狭間はツブラ の襟首を掴んで押し留めた。子供達の型抜きが終わり、水あめが白く練り上がった頃、紙芝居が始まった。 演目は鳳凰仮面。サングラスを付けた金色の覆面と衣装に七色に輝くマフラー、と、どこかで見たような見た目 のヒーローが悪の科学者に誘拐された少女を助けに行くのだが、鳳凰仮面の行く手を阻む化け物達の死に様は壮絶 で、戦いの場面では血飛沫で紙面が真っ赤に染まっていた。場合によっては臓物やら目玉やらが飛び散り、狭間は げんなりした。だが、残酷であればあるほど子供達の食い付きはよくなり、紙芝居屋が声色を変え、早急を付け、 情感たっぷりに場面を描写する。危機に次ぐ危機を乗り越えて、鳳凰仮面は少女が捕らわれている絶海の孤島に 辿り着き、檻に閉じ込められている少女を助けようとするが、背後には謎の影が迫る――――と、盛り上がった ところで紙芝居は終わった。 次の演目は少女向けの人情劇で、両親が早くに亡くなって里子に出された少女と幼い弟は、遠縁の養父母の元で 育てられることになるのだが、姉弟はこれでもかといびられた。実子の少女には服を破られ、養父にはぶたれ、 養母にはこき使われて家事をさせられるがダメ出しされ、と散々だった。だが、主人公達がひどい目に遭えば遭う ほど、やはり子供達の食い付きは良くなる。少女は転校先の小学校で品の良い少年と仲良くなり、幼い弟も少年を 兄のように慕い、少年の両親は姉弟の身の上に同情してくれた。辛い日々ではあるけど仲良しの御友達が出来た、 それを心の支えにして頑張ろう、と少女は弟を抱き締めて決心する。が、翌日、いつものように少年に挨拶した 少女は、怪しい男達に攫われて見知らぬ小屋に弟共々閉じ込められた。すると少年が現れ、君達の御両親は僕の お父さんからお金を借りたままなんだよ、と言い出した。少女は少年の豹変を信じられず――――と急展開を迎えた ところで終わった。演目が終わったと知ると、子供達は残念がりながら空き地を去っていった。 「面白かったか?」 狭間がツブラに感想を求めると、ツブラはいやに難しい顔をした。 「ツヅキハ?」 「次に紙芝居屋が来たら見せてもらえるが、その時は俺は仕事中だから空き地には来られないな」 「ツブラダケ、クル、ダメ?」 「ダメだ」 「ムゥ」 「聞き分けてくれ、いい子だから」 狭間も紙芝居の続きが気になるところではあるが、次回を見られそうにないので我慢した。 「そこにいたって、続きは始めないよ。俺は次の場所に行くんだからな」 鳥打帽を被っている紙芝居屋は、いつまでも空き地に残っている狭間とツブラを追い払う仕草をした。その対応が 少し癪に障ったこともあり、狭間は紙芝居を見ている最中に浮かんだ疑念を口にした。 「鳳凰仮面って初めて見たんですけど、あれ、もしかして黄金バットと月光仮面の合いの子……」 「いやあ違う!」 突如声を荒げた紙芝居屋、鳥打帽を外して思い切り握り締めた。 「鳳凰仮面はその両者に勝るとも劣らぬ、無敵の正義の味方になるのだよ! これからの展開で!」 「でも、あれって」 「違うったら違うんだよ、鳳凰仮面は! いいか、見ていろ!」 ちょっとそこにいてくれ、ほんのちょっとだから、と紙芝居屋は狭間に言い聞かせてから、荷台に積んであった荷物 を抱えて物陰に身を潜めた。布を広げる音、ベルトを外し、靴を脱ぎ、きらきらした布地の端が垣間見えた。それ からたっぷり五分以上経ってから、金色の覆面と衣装を着た紙芝居屋が現れた。首に七色のスカーフを巻いていて、 ベルトからもひらひらした尾羽のようなものが出ている。 「ふはははははははははは、我こそが正義の味方、鳳凰仮面!」 「サングラス忘れていますよ」 「ああっしまった」 元紙芝居屋は再び物陰に入り、サングラスを掛けてから、改めて狭間の前に現れた。 「我こそが正義の味方、鳳凰仮面!」 この人は何がしたいんだろう。狭間はそう言いかけたが、紙芝居屋があまりにも真剣に変なポーズを決めているので、 言うに言えなかった。 「黄金バットと月光仮面はテレビと紙芝居の中から出てこないが、この私、鳳凰仮面は現実に現れるのだ!」 「それだったら、遊園地でヒーローショーをやっていますけど。あと、デパートの屋上で」 「いちいち茶々を入れないでくれないか、君。だが、もう少し付き合ってくれ!」 紙芝居屋はむっとしつつも、またポーズを決める。両手を大きく広げて足を曲げていて、鳳凰仮面という名に 相応しく鳥がはばたく様を表しているつもりなのだろうが、足の開き方が変なのですこぶる格好悪かった。 「ど、どうだ、格好いいだろ? 格好いいって言ってくれ、言ってくれよ、嫁さんにはボロクソに言われたんだが 息子には大好評だったんだ!」 「奥さんが正しいです」 「ぬおうっ!?」 紙芝居屋は大げさな身振りでよろめくと、サングラスを押さえて俯く。 「そうか……。だが、いずれ俺の美学を理解してくれる人間と出会えるに違いない、現に息子は俺を、じゃなくて、 私を認めてくれているのだから! ふうはははははは、また会おう、青年とその娘さん!」 紙芝居屋は商売道具を乗せた自転車に跨ったが、慌てて自転車を降り、また物陰に入って騒々しく着替えた後、 きらきらした衣装の固まりを荷台に積んだ箱に押し込めた。紙芝居と駄菓子を積んだ箱をがたがたと揺らしながら、 紙芝居屋は空き地を去っていった。狭間は呆気に取られ、呟いた。 「あの人、一体何がしたかったんだ?」 「ダ?」 ツブラもきょとんとしていて、首を捻っている。紙芝居の内容は頭から綺麗さっぱり吹っ飛んでしまい、鳳凰仮面に 成り切ろうとするが締まりのない紙芝居屋の印象しか残らなかった。本人は真剣なのだろうし、扮装の出来栄えは かなり良かったので、笑い飛ばすのは酷だと思った。しかし、立派なヒーローだと褒められるわけではない。第一、 鳳凰仮面は何と戦っているのだろうか。紙芝居の中では悪の科学者と戦っていたが、現実にそんなに都合のいい悪 が存在しているわけがない。九頭竜会と戦うつもりじゃないだろうな、いやいやまさか、と不安に駆られながら、 狭間はツブラの手を引いて商店街に向かった。 夕食の買い出しをしなくては。 14 5/28 |