横濱怪獣哀歌




有余ナキ給与



 翌週の休日。
 狭間は前回と同じく暇を持て余していたが、昼過ぎまで寝るのはよくないと思い直し、やれることはやってしまおう と動き回った。クリーニングに出していた愛歌のスーツを受け取り、愛歌のブラウスと狭間の仕事着であるカッター シャツにアイロンを掛け、いつもよりは丁寧に掃除し、日に日に溜まる新聞や雑誌を束ねて紐で縛った。

「で、これからどうしよう」

 料理の練習代わりに作った肉抜きのチキンライス、要するにただのケチャップライスを食べつつ、狭間は時間の 潰し方を思案した。暇だったらやっておいてよ、と愛歌に言われた用事は済ませてしまったし、狭間もこれといって 用事があるわけでもない。そして金もない。

「ドウスル?」

 テーブルの向かい側で、ツブラは重ねた座布団の上にちょこんと座っていた。座高を合わせるためだ。

〈ノースウェスト・スミスに会えって言っただろうが! 俺が!〉

 壊れたマフラーから強引に吐き出された排気と共に喚いたのは、狭間の壊れたバイクだった。

「会えって言われても、そんな奴知らないんだよ。聞いたことがあるようでない名前だし。外人だし」

 今一つ締まりのない味のケチャップライスを咀嚼してから、狭間がやる気なく返すと、バイクは更に喚く。

〈俺だってよく知らん! 知るわけがない! 伝言の伝言だからな!〉

「当てにならねぇなぁ」

〈人の子、お前には言われたくない〉

「それは俺が誰よりも自覚している」

 生温くなった味噌汁を飲み干し、狭間は椀と皿を重ね、流し台に運んだ。

「ツブラに聞いたってどうせ知らないだろうしな、ノースウェスト・スミスのことなんて」

「シミス」

「ほら、やっぱり知らねぇ」

「シッテル」

 狭間の視界の隅で、ツブラが得意げに口角を上げた。狭間は食器を洗う手を止め、振り返る。

「だったら、最初からそう言ってくれよ」

「シッテル、デモ、スコシダケ」

「少しでもなんでも、取っ掛かりになることであればいい。話してくれよ」

 洗い終わった食器を水切りカゴに並べ、狭間がツブラに向き直ると、ツブラは触手をうねらせる。

「ノースウェスト・スミス。カセイ、キタ、ニンゲン」

「宇宙飛行士ってことか?」

「チガウ。ケド、キタ」

 ツブラは赤い目を瞬かせて、狭間を見つめてくる。人間が火星に渡った、というのは大昔からあるおとぎ話だが、 マルス計画以前は神話や寓話の域を出なかった。火星怪獣襲来事件とマルス計画で、火星怪獣の危険性が露呈 した今となっては、火星への渡航が全面的に禁止されている。もっとも、火星に到達出来るほどの機動力を備えた 宇宙怪獣戦艦が建造出来るのは、大国ぐらいなものだが。

「とりあえず、その辺調べてみるかな」

 どうせ、他にやることもないのだから。狭間は横浜市街の地図を広げ、最寄りの図書館を探すと、野毛坂にある 横浜市中央図書館が見つかった。野毛坂まで歩くと距離があるが、散歩だと思えば良い暇潰しになる。寿町に隣り 合う道を通っていけば最短ルートで辿り着けるが、狭間は少し遠回りの道順を歩いていこうと決めた。あの一件で 寿町の人々に顔が割れてしまっているし、九頭竜会の関係者だと思われて絡まれでもしたら面倒だからだ。
 道中、何事もなければいいのだが。




 横浜市中央図書館へは、すんなりと到着した。
 狭間のバイクが行き先を言い触らしたのだろう、狭間の目的地を知っている怪獣達が道案内してくれたからだ。 それがありがたいと思う一方で、どこで何をしても怪獣に筒抜けなのだと思うと寒気がする。狭間の人権はあって ないようなものだ。怪獣は狭間のことを名前では呼ばず、人の子と呼ぶのは、狭間が人格を持った個人であると認識 していないからなのかもしれない。怪獣と人間では倫理観が根本的に違う、というのは以前から感じていたことでは あるが、ここ最近で両者の溝が想像以上に深いと知った。互いに近過ぎて、解ったつもりになっているだけだ。
 貸出カードを作るか否かは後で考えることにして、狭間は歴史に関する本が分類された本棚を探した。出入り口 にある案内板によれば、歴史に関する本は五階の人文科学部門にあるとのことで、狭間はツブラを伴って五階まで エレベーターで昇った。図書館特有の静かな空気と蔵書の匂いに、狭間は若干気後れした。
 ノースウェスト・スミスに関する本はどこだろう、と狭間は本がみっちりと詰まっている本棚の群れを一望したが、 見つけられる気がしなかった。そもそも、ノースウェスト・スミスは何人なのか。それが解らなければ、どのジャンル に分類されているのかすらも解らないではないか。その時点で心が折れそうになったが、何も見ずにとんぼ返りする のはあまりにも情けないので、狭間は腹を括った。
 本棚を埋め尽くす背表紙を眺めながら、ひたすら歩き回るが、それらしいものは見当たらない。どこを見ても景色 は変わらず、活字の迷宮に迷い込んだかのような錯覚に陥る。自分の足音以外の物音は、閲覧者が本のページを めくる音とエレベーターの駆動音と、ツブラに被せたカツラの下で蠢く触手の音ぐらいなものだ。ツブラは大人しく してくれていて、物珍しそうに辺りを見回していたが黙り込んでいた。とてもありがたかった。

「何かお探しですか」

 押さえた足音が背後に近寄ってきて、呼び止められた。

「あ、いや、その」

 そんなに挙動不審だったのだろうか。狭間がしどろもどろに答えながら振り返ると、禍々しくも美しい少女、九頭竜麻里子 が本を抱えて立っていた。品の良いグレーのセーラー服姿だった。

「ごきげんよう、狭間さん」

「どうも、こんにちは」

 一番会いたくない相手が現れたので、狭間は内心で身構える。麻里子は長い黒髪を耳に掛け、微笑む。

「私の申し出について、考えて頂けましたでしょうか?」

「ええ、まあ。それで、その、麻里子さんは、この図書館によく来るんですか?」

「ええ。学校の図書室の蔵書も悪くないのですが、専門書を探すには図書館が打って付けなので。それに、ここは 静かで落ち着くんです。ヲルドビスも落ち着きますけれど、意味合いが違います。狭間さんは御用事ですか?」

「あの」

 狭間は少し迷ったが、尋ねることにした。このままでは、いつまでたっても目当ての本を見つけられない。

「ノースウェスト・スミスに関する本がどこにあるか、御存知ですか?」

「海外文学に興味がおありなのですね。それでしたら、私も以前読んだことがあります」

 こちらの棚にあります、と麻里子は快く案内してくれた。しっとりと艶を帯びた長い黒髪が翻ると、かすかに甘い 整髪料の香りに混じり、思春期の少女にしか醸し出せない淡い匂いが広がった。プリーツスカートの裾から覗く脹脛 の白さと背丈の小ささ、セーラーの襟に覆われている肩の細さ。それらは狭間の男の本能を乱暴に掻き立てたが、 劣情を煽る熱が体に行き渡る前に怪獣の声が聞こえてきた。麻里子の後ろ髪と一体化している怪獣の声だ。

〈間抜けな野郎だ。俺が警告してやったってのに、わざわざ御嬢様に近付いてくるとはな〉

 麻里子から誘われたのも、図書館で出会ったのも、狭間の意思によるものではないと反論したかったが、麻里子の 背後で独り言を呟くわけにはいかないので黙った。

〈怪獣連中から聞いたが、ノースウェスト・スミスについて調べようとしているんだってな? ろくなことにならないとは 思うがやりたきゃやりやがれ、人の子。お前の末路がどうなろうが、どこに行こうが、何をやらかそうが、それはお前 の責任であって怪獣の責任じゃない。俺達はお前に色々と言っているが、その声を聞いて行動に移しているのは他でも ないお前なんだからな。天の子を拾って育てていることもだ〉

 そんなのは自覚している、と反論したかったがやはり言えず、狭間は唇を結んだ。

〈俺は他の連中とは違う。人の子をこき使おうとは思わん。俺は御嬢様の一部であり、御嬢様は俺の一部なんだ。 だから、お前みたいなろくでなしとは関わりたくもないんだよ。だが、御嬢様がお前に近付く限り、俺もお前に近付く 羽目になっちまう。ああ苛々するね〉

「ここです、狭間さん」

 立ち止まった麻里子が示したのはアメリカ文学の棚だったので、狭間は訝った。しかも、著者名がC・L・ムーア とある。ノースウェスト・スミスは実在の人物ではないのだろうか。

「歴史じゃないんですか?」

「歴史だと思っておられたのですか?」

 噛み合わない会話の後、麻里子は少し考えた後に言った。

「ノースウェスト・スミスは実在の人物であるとされてはおりますが、彼とその相棒が晩年に書き記した文章はあまり にも突飛な内容であったために、実録ではなく文学という扱いで出版されたのですが、御存知ありませんでしたか。 彼とその相棒の共著名であるC・L・ムーアは、それ以外の筆名でも多数の作品を発表しておりますが、そのいずれも 実録であるという設定のハイセンスな古典SFとして認識されております。私もですけれど」

「なんか、ややこしいですね」

「そうでもありませんよ。作者本人が作中に現れるメタフィクションとしても楽しめますよ」

「そうですか。で、その、どれから読めばいいんですか?」

 C・L・ムーア作の本は何冊もある上、タイトルだけでは内容の見当が付かず、狭間は逡巡する。ついでに言えば、 麻里子が発した言葉の意味の半分も解らなかった。

「やはり、古典中の古典が一番ですね。となると、やはり」

 麻里子の細い指で本棚の背表紙をなぞっていったが、本と本の間にある隙間に至ると止まった。

「あら、貸し出し中ですね」

「そりゃ残念だ。ちなみに、そこにあったのはどんな本ですか?」

「シャンブロウ、という本です。ノースウェスト・スミスと彼の親友であり共著者である金星人のヤロールが、太陽系の あちこちで人知を越えた存在と遭遇する、退廃的で官能的な冒険譚です」

「金星人?」

 そんなもの、いるわけがない。怪獣ならともかく。狭間が半笑いになると、麻里子は口角を少し上げた。

「狭間さんもそうお思いなのですね。マルス計画によって火星に何らかの文明がある可能性があると示唆される 前に、ノースウェスト・スミスシリーズは出版されたのですから。火星怪獣襲来事件の際は、火星怪獣に知性や文化 があるとは誰一人として考えなかったのですからね。彼らが記したのはただの空想なのか、それとも、地球外には 人類が与り知らない文明と知的生命体が数多く存在しているのか。私は後者であってほしいと思っております。 だって、素敵じゃありませんか」

 狭間に向き直った麻里子は、少し幼い仕草で首を傾げた。すると、細い首の喉元に薄い線が走り――――

「あら、はしたない。私としたことが」

 続きは喫茶室でお話しいたしましょう、と麻里子は頬を押さえてはにかんだ。この本を借りてまいります、と 麻里子は一礼してから、足早に受付に向かっていった。狭間はその手続きが終わるのを待ちつつ、何の気なしに窓の 外を見下ろした。ツブラが背伸びをして外を見たがったので、狭間は少女怪獣を持ち上げてやると、急に身を乗り出した。 その勢いが良すぎたので強かに額をぶつけてしまい、ツブラは痛みと反動で仰け反る。

「キュッ!」

「どうした、おい」

「ム」

 ツブラはずれたサングラスを直し、目尻に涙を溜めながら、窓の外を指した。だが、唇をぐっと閉ざしているので、 何を言おうとしているのかが解らない。何も言うな、と命じたのは狭間だが、これではどうにもならない。言いたい ことがあるなら言ってくれ、と狭間は小声で言ったが、ツブラは口を開けようともしなかった。意外と強情だ。

「どうかなさいまして?」

 本を借り終えた麻里子がやってきたので、狭間はツブラを抱きかかえる。

「ツブラがやけに外を気にしていまして」

「野毛坂の上には、野毛山動物園がありますものね。ツブラさんの御年頃でしたら、図書館よりもそちらが 気になって当たり前ですよ。今からでも参られたらいかがですか、動物園に」

「でも、俺、金がないんですよ」

「御安心下さい。入場料は掛からないのですよ、市立ですので。参りましょう、ツブラさん」

 麻里子は腰を屈め、ツブラと目線を合わせた。

「マー、ドウブツ」

 哀切に懇願してきたツブラに、狭間は折れた。

「解った解った。動物園にも行こう」

「マ!」

 にんまりしたツブラは狭間の手も取り、引っ張って急かしてきた。麻里子はツブラと手を繋ぐのが少し照れ臭そう ではあったが、振り払おうとはしなかった。図らずもツブラを間に挟んで歩くこととなり、狭間は居たたまれなさと それ以上の感情の乱れにも襲われたが、やり過ごした。そして、改めて麻里子への返事の文面を思案した。
 いい機会だ、きっぱりと誘いを断らなくては。





 


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