横濱怪獣哀歌




有余ナキ給与



 檻の中で大人しくしている動物達の声は聞こえなかった。
 それが当たり前なんだ、と狭間は思いつつ、のんびりと歩いているアジアゾウを眺めた。平日の昼間なので来客 は少なく、近隣住民と思しき人々が散歩している程度だった。幼い子供連れの親子の姿もある。入園無料では動物 の数が少ないのではと考えていたが、そんなことはなく、大小様々な世界各地の多種多様な動物達がいた。ツブラ が特に気に入ったのは爬虫類館で、ヘビやトカゲやワニを見てははしゃいでいた。
 檻の傍に行くと、むわっとした獣臭さが押し寄せる。血の通った生き物らしい、厚みのある匂いだ。対する怪獣 はといえば、硫黄と土の匂いがする。その怪獣の卵が眠っていた火山から湧き出す温泉の匂いに似ている、という のが常ではあるが、海底火山から採掘された卵から生まれた怪獣は潮と石油の匂いがする。イナヅマもそうだった。 接したのはほんの短時間であり、イナヅマが狭間に何を伝えたかったのかは未だに解らず終いだ。爬虫類館の中で 感じた匂いは、イナヅマを思い起こさせるものだった。俺のせいじゃない、あの時はどうにもできなかったんだ、と 言い訳を繰り返しながら、狭間は罪悪感から目を背けた。
 園内を一通り見て回ると歩き疲れたのか、ツブラは足取りが遅くなった。麻里子は狭間とツブラの少し後ろを 歩いていて、動物達を愛おしげに見つめていた。時折、彼女の後ろ髪である怪獣が文句を付けてきたが、狭間は 反論出来ないので無視した。だが、無視すれば無視したでまた文句を言われるので、理不尽極まりなかった。
 昼食時になったので、売店で買った軽食を持って芝生の広場に移動した。テーブル付きベンチに座ったが、狭間 はツブラを隣に座らせ、麻里子とは向かい合う形にした。ツブラに近付けるわけにはいかないからだ。

「ツブラさんと仰るんですね、その子」

 おにぎりと卵焼きと唐揚げが入ったパックの弁当を開き、麻里子は手を合わせてから割り箸を割った。

「色々あって、俺が預かっているんですよ。誤解がないように言っておきますけど、俺の子でも愛歌さんの子でもない ですからね? 本当なんですからね?」

 狭間は焼きそばとフライドポテトと缶入りの烏龍茶をテーブルに並べ、最初に烏龍茶に口を付けた。

「承知いたしました」

 麻里子はにこやかに返してから、おにぎりを包んでいるラップを剥がし、口にした。

「狭間さんはお優しいのですね。私が昼間から学校にも行かずにぶらぶらしているのに、咎めもしないのですから。 しかも、学校の制服を着たままで」

「創立記念日ってやつじゃないんですか?」

「ナイ?」

 テーブルの端に両手を掛けて顔を出したツブラは、麻里子を見上げる。

「残念ながら。今日は平日なので授業はきちんとありますし、定期テストも近いのですが、行く気になれないだけなの です。ですので、私はただの不良娘なのですよ。ヲルドビスで時間を潰しているのも、父の部下の方々とお話しして いるのも、家にも学校にも居づらいからなのです。私は、とても俗な人間ですから」

 麻里子は割り箸を正しい持ち方で使い、弁当の中身を綺麗に食べていく。

「でも、麻里子さんは……」

 狭間が言葉を濁すと、麻里子は缶入りの緑茶を湯呑みのように扱って緑茶を傾ける。

「父は父です。そして、私は私です。私はあくまでも父の代理であって、傀儡です。寺崎さんと須藤さんと、須藤さんの イロである御名斗さんは私に親しくして下さいますが、それも父の存在があってのこと」

「だったら、どうして引き受けたんですか。ヤクザの組長代理なんて」

「他にすることもなければ、出来ることもなかったからです」

 缶をテーブルに置いてから、麻里子ははにかんだ。

「考えてもみて下さい。物心つく前から、私の日常は暴力と悪意と狂気で出来上がっておりました。幸い、私は父が 溺愛していた母に容姿が似ていたので、寵愛され、名のある家に預けられてみっちりと躾けられたのでこのように 振舞うことが出来ていますが、そうでなかったらどうなっていたことでしょうか。容姿が少しでも崩れていたら、母の 面影を追う父に蔑まれて殴り殺されていたでしょう。そうでなかったら、孤児として養子に出されていたでしょうね。 父は父なりに私を愛してくれていますが、優しくしてくれた試しがありません。ですが、私の生まれは覆せるものでは なく、今日この日まで私を生かしてきたモノを手に入れるための金は暴力で得られたものであり、私は父とその部下達 によって守られていたからこそ生き延びられているのであり、父が母を囲わなければ私は産まれることすらありません でした。ですので、私は報いなければならないのです。父と、その力に」

 麻里子の笑みは朗らかだったが、その奥には並々ならぬ覚悟が据えられている。これは本当に十七歳なのか。 いや、十七歳なんだ。自分が生きられる世界は半径十五メートル以内にしかないのだと思っていることが、彼女が 思春期である証だ。狭間も身に覚えがないわけではない。

「狭間さんは、なぜ愛歌さんと同居しておられるのですか? お二人は恋人同士ではないのですよね?」

 ごちそうさまでした、と両手を合わせてから、麻里子は食べ終えた弁当を片付けた。

「そうです違います、違うんです、愛歌さんとはなんでもないんです」

 その辺はどういう設定になっていたっけ、と狭間は思い出しながら、冷めているせいで麺が固まっている焼きそば を解した。だが、思うように解れなかったので、固まりのまま頬張ったが、食べづらかった。それを咀嚼している間 に思い出せたので、狭間は焼きそばを飲み下してから、もっともらしい態度で言った。

「親族です」

「何親等に当たる御関係ですか?」

「六親等です」

「又従兄弟ですか。愛歌さんと御知り合いになったのは、いつ頃からですか?」

「横浜に来てからですよ。それまでは会ったこともなかったし、名前も顔も知りませんでしたよ」

「では、なぜ愛歌さんと狭間さんは同じ部屋にお住まいなのですか?」

「俺がどうしようもないろくでなしだからですよ。田舎を飛び出したはいいけど住む当ても金もなかったんで、路頭に 迷いかけていたところを愛歌さんが拾ってくれたわけです。ヒモにはしてくれませんでしたけど」

「では、ツブラさんは愛歌さんと狭間さんのどちら側の御親戚なのですか?」

「俺と愛歌さんを引き合わせてくれた人が預かっていた子なんで、どちらかっていうと俺側ですね。血縁はほとんど 無きに等しいですけど、まあ、親戚は親戚なので」

「そうですか……」

「そうなんですよ」

 なんとか誤魔化せたようだ、と安堵した狭間は烏龍茶の残りを呷った。そして、ようやく本題に入った。

「それで、その、麻里子さん。せっかくの御誘いなんですけど、お断りします」

「それはなぜですか、狭間さん」

「麻里子さんの御気持ちはありがたいですけど、麻里子さんの周りにいる方々とはあまり関わりたくないんですよ。 埠頭の一件の他にも、色々とあったので。なので、すみません」

「そうですか」

 麻里子の声色が僅かに落ちた。だが、それは落胆ではなかった。

「ですが、あなたに私の誘いを断る権限などありません」

 麻里子は口角を鋭く上げ、大きく見開いた目で狭間を射竦める。風もないのに長い黒髪が扇状に広がり、肩の上 で髪が束になったかと思うと、ぎゅばっ、と瞼のように開いた。あの時と同じ赤い瞳が現れ、ツブラのそれと同じ白目 のない赤い目がぎょろつく。麻里子は黒髪を一束抓むと口付けを与えるように唇で噛み、艶めかしく舐める。初めて 目にした時は戸惑っただけだったが、今なら解る。麻里子の後ろ髪は、須藤の左腕と同じ怪獣義肢だ。
 
「あなたの素性は解っているのですよ、狭間さん」

 テーブルの下から這い寄ってきた数本の髪が尖り、狭間の手首、股間、心臓、頸動脈に狙いを定めた。怪獣義肢 の声は聞こえてこない、というよりも当獣が黙っている。麻里子への忠誠心の表れだ。こいつも須藤の左腕と同様に ヤクザに感化されてしまったのだろうか、と勘繰ってしまう。

「続きは車中でお話しいたしましょう」

 麻里子は髪を引っ込めて立ち上がったので、狭間はすかさずツブラを抱えて逃げ出そうとするが、狭間の足より も麻里子の髪は素早かった。再び、頸動脈とこめかみに毛先が据えられる。針よりも的確で、釘よりも凶悪だ。
 せめてツブラだけでも逃げてくれ、と狭間はツブラを離そうとするのだが、こんな時に限ってツブラは狭間に力一杯 しがみついてきた。レインコートの下から伸ばした触手を狭間に絡みつけているので、ちょっとはそっとでは離れそう になかった。仕方ないので、狭間は麻里子に従った。ツブラに一暴れしてもらおうかと考えたが、麻里子にツブラの 正体を知られるリスクと一時の危機を天秤に掛けたら、前者の方が余程重いので却下した。麻里子は狭間が抵抗する 気配がないと知ると友人を相手にするような笑みを浮かべ、食べ終えたパックや空き缶を片付けてから、駐車場へと 移動した。育ちがいいのはいいことだよなぁ、と狭間は現状とは無関係なことに感心した。

「あっ」

 図書館に近い駐車場に向かう道中、狭間は対向車線の歩道で自転車を押す紙芝居屋を見つけた。

「あっ!?」

 紙芝居屋は狭間と麻里子を見た途端に後退り、自転車に跨った。

「後は若い二人でごゆっくりぃいいいいい!」

 と、叫びながら坂を下っていってしまった。ヒーローがそれでいいのかよ、いやよくないだろ、と狭間は落胆した。 救いを求めて伸ばしかけた手は、虚空すら掴めなかった。

「御知り合いですか?」

 麻里子は狭間の首にするりと髪を巻き付け、少しずつ引き絞っていく。

「い、ぎぇ、ぜんぜん」

「そうですか」

「ぶへぁっ!」

 麻里子の髪が緩むと、狭間は喉を押さえて激しく咳き込んだ。これなら、ツブラの拘束の方がまだ優しい。ツブラの 触手は柔らかいし、すべすべしているし、何より手加減してくれるのだから。だが、そのツブラはと言えば、狭間の腕の 中でじっとしていた。喋りもせずに丸まっている。さながら、借りてきたネコだ。
 そうこうしているうちに駐車場に至ると、重厚感溢れる黒塗りのベンツが待ち構えていた。ベンツのエンジンである 怪獣は軽く唸るが、こちらもはっきりとは喋らなかった。ベンツのボンネットに寄り掛かっていたのは、スキンヘッドに サングラスで千手観音のスカジャンを羽織った大柄な男、寺崎善行だった。ベンツの周りには、見るからに人相の 悪い男達が乗った車が何台も停まっている。退路が塞がれている。

「また会ったな、バイト坊主」

 にやけながら近付いてきた寺崎は、狭間の髪を掴んで思い切り引っ張り、顔を上げさせる。恐ろしく強い握力で、髪 どころか頭皮も引きつり、狭間は激痛の中で奇妙な表情を作った。

「……どうも」

「スカしてんじゃねぇやクソが!」

 いきなり怒鳴った寺崎は狭間を突き飛ばし、ベンツに投げた。背中がドアに激突する、かと思いきや、後部座席に 転がり込んだ。ツブラも一緒に入った。髪が何本か引き抜かれたのだろう、頭皮に熱い痛みが広がる。痛みに呻き ながら起き上がろうとすると、今度は麻里子の硬いローファーが狭間の膝を踏みにじった。力一杯、骨を抉る。

「少し、お付き合いして下さいますね?」

「は、ぃい」

 この状況でも逆らえる輩はいるかもしれないが、少なくともそれは自分ではない。狭間は微動だにしないツブラを 抱えて起き上がると、麻里子も後部座席に座り、寺崎がドアを閉めた。助手席には強面の男が座り、これ見よがし に拳銃を弄んでいる。ああ今度こそ死ぬ殺される死ぬ確実に、と狭間が打ちひしがれていると、麻里子は黒髪の束 を一抓みして持ち上げ、狭間へと差し出した。髪束が絡み合い、鋭利な刃へと姿を変える。

「率直にお尋ねしましょう。狭間さん、あなたは怪獣ブローカーですね」

「は?」

「あらまあ、白々しい。あなたが怪獣Gメンである愛歌さんに囲われているのは、あなたが怪獣密売に関わる人物 であり、私達の業界と政府にとって重要な情報を握っているからですね。そうでもなければ、怪獣Gメンがわざわざ 出向いてあなたを迎えに行く理由がありませんからね」

「え」

 それはいくらなんでも買い被り過ぎだ。狭間は反論しようとしたが、麻里子は黒い刃を狭間の顎に添える。

「その情報がいかなるものかは、これからゆっくりとお話しして頂きましょうか。――――静かな場所で」

 ベンツのエンジンが唸り、重たい車体が動き出した。と、同時に麻里子の髪束が狭間の顔を覆い、締め付けた。視界 は奪われて呼吸も制限され、耳すらも塞がれた。どうせこんなことになるだろうと思っていたが、どこまで事態が 悪化するのか、考えるだけで嫌になる。だが、なんとかして事態を打開する方法を見つけ出さなければ、最悪、 殺される。そもそも狭間は怪獣ブローカーではないし、裏社会の情報なんて握っていないのだから。
 どうにかしなくては。だが、どうすればいい。





 


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