横濱怪獣哀歌




大山、鳴動セズ



 同居人が帰宅していなかった。
 鍵を開けて中に入っても人の気配はなく、電灯を付けてみても書置きの類は見当たらなかった。ついでに言えば、 冷蔵庫の中に作り置きの夕食もなかった。光永愛歌は落胆しつつ冷蔵庫を閉め、ジャケットを脱いでからハンガーに 掛けた。誰もいないのをいいことにタイトスカートを脱ぎ、ストッキングも脱ぎ、ブラウスも脱いで下着姿になる。

「狭間君、今日は休みだって言っていたのに、随分帰りが遅いわね」

 結っていた髪を解いてから、愛歌は部屋着のワンピースに袖を通してファスナーを上げ、ホックを留める。

「ヲルドビスに呼び出されたとも考えられるけど、営業時間はとっくに終わっているわけだから、そろそろ帰ってきて もおかしくないはず。買い物に行ったとしても、商店街の店は閉店している時間だしねぇ……。まさかとは思うけど、 夜遊びを覚えた、とか? そりゃまあ、ちょっと足を延ばせはキャバレーもナイトクラブもパブもスナックもあるに はあるけど、狭間君、夜遊び出来るほどのお金は持っていなかったはずだし……」

 狭間の行き先が気になってきたが、思い直す。

「ま、そのうち帰ってくるでしょ。未成年じゃないんだし、行動を制限するのはよくないよくない。成人済みの男子が 夜遊び一つしない方が不健全ってもんよ、うんうん」

 愛歌はテレビを付け、冷蔵庫から冷えた缶ビールを出し、買い溜めしておいたサバの味噌煮の缶詰を開けた。 夜の十時過ぎなので番組は過激な内容で、露出度も高い。夕刊に目を通していると、じり、と黒電話が短く鳴った。 ワンコールにも満たなかったので、愛歌が手を伸ばしかけた時にはベルは止まっていた。
 受話器を上げる時間すらなかった。




 愛歌の帰宅から遡ること一時間前。午後九時過ぎ。
 カーラジオから流れていたプロ野球の中継が終わり、横浜大洋ホエールズと中日ドラゴンズの試合が終わった 直後に、狭間は突如車外に放り出された。顔と首を戒めていた黒髪が外されたが、視界が元に戻ったのは一瞬にも 満たない時間で、すぐさま布袋を被せられた。ごわごわしていて肌触りは最悪で、しかも生臭かった。ツブラを腕に 抱いていたはずなのに、車外に放り出された時に奪われたらしく、辺りを探っても見つからなかった。
 ベルトを掴まれて引っ張られ、足場の悪い道を歩かされた。時折拳銃らしき硬いもので小突かれ、罵倒されたが、 反抗出来るわけがない。足の裏に伝わる感触が剥き出しの地面から硬い床に変わると、その床に座らされ、布袋を 剥がされた。すると今度は光を真正面から当てられ、再び視界が奪われる。

「長旅お疲れ様でした、狭間さん」

 光源である懐中電灯を手にしているのは、柄の悪い大男達を従えている女学生、九頭竜麻里子だった。

「……どうも」

 生返事を返し、狭間は目を瞬かせた。目が慣れてくると、自分の置かれた状況が解ってくる。胡坐を掻いて床に 座らされていて、両手を後ろで縛られており、手首にはざらつく荒縄が食い込んでいる。周囲を窺うと、工事現場で よく見かけるプレハブ小屋の中だった。パイプ椅子が乱雑に散らばっていて、錆びたスチール机には赤黒い染み がこびりついていて、窓ガラスは一枚残らず割れていた。

「ツブラはどこにいるんですか」

「御安心なさいませ、狭間さん。私達が大事にお預かりしております、大事に」

 異様に愛想良く微笑む麻里子の声に重なり、車のサスペンションが軋む音が聞こえてきた。ということは、ツブラ はトランクに押し込められているのだろうが、車のヘッドライトの数から察するに複数台の車があるので、どの車が 音源なのかは解らなかった。動力源である怪獣達の声を聞こうにも、皆、一言も言葉を発しない。

「こうして面と向かってお話しするのは初めてですね、狭間さん」

 麻里子は狭間に歩み寄ってくると、怪獣義肢である髪を操って禍々しい刃を作り、狭間の首筋に添えた。

「そりゃ、まあ、御客様とただのウェイターですから」

 黒い刃がかすかに肌に擦れ、嫌な汗が背筋を垂れ落ちる。狭間が上擦り気味に返すと、麻里子はもう一つの刃を 作り、狭間の顎の下に差し伸べてきた。その刃を避けるために狭間は顎を浮かせる形になり、結果として麻里子 と目が合った。懐中電灯の逆光の中、少女の瞳は一際眩しく輝いていた。

「あなたの素性についても調べさせて頂きましたが、うちの寺崎と同郷なのですね」

「へ、ぁ?」

「常法寺って知ってっか?」

 にやにやしながら、その寺崎が会話に割り込んでくる。

「あれ、俺の実家。つっても、家出してからは電話一本掛けたことねぇけどな。そう言われてみりゃ、確かに俺んち の檀家にいたな、狭間ってのが。よくよく見てみりゃ、狭間の親父にツラが似てなくもねぇな」

「常法寺……って」

 狭間は顎を浮かせたままの格好で記憶を探り、思い出した。今や温泉郷となった船島集落だが、温泉が湧く前は どこにでもある小ぢんまりとした集落だった。世帯数も少なく、名字も似たり寄ったりで、狭間姓の世帯も一つや二つ ではないので屋号で呼び合っていた。集落全体が親戚であり、昔馴染みであり、寄り合い所と化している寺の住職と その家族は無条件で尊敬されていた。ただ一人を除いては。

「――――あ」

 そこで、狭間は気付いた。寺崎善行は常法寺の長男であり、寺の跡取り息子となるはずだったのだが、十数年前 に勘当されて家出したのだ。派手に改造した車で夜な夜なレースまがいの暴走を繰り返し、暴走族仲間とつるんで は騒ぎを起こしていたからだ。俺はレーサーになるんだと口癖のように言っていたが、あんなろくでなしがレーサー になれるはずもない、と狭間の両親を含めた集落の住民達は非難していた。風の噂では、都会でレーシングチーム に拾われたが、トラブルを起こした末に相手チームのレーサーをケンカで死なせて服役したそうだ。

「あれ、本当だったんだ……」

 震える狭間に、寺崎は凄んでくる。

「俺は悪くねぇ。悪いわけがねぇんだよ。あのクソッ垂れのヘボドライバーが、何度も何度も下手くそな追い抜きを 仕掛けてきた挙げ句に俺に接触しやがったのが悪ぃんだよ。あれさえなかったら、俺はあのレースで優勝して、F2 かグランチャンピオンに出られたはずなんだよ! いいか、俺は悪くねぇ! 俺は! 悪くねぇ!」

 狭間の耳元で力一杯怒鳴ってから、寺崎は肩で息をする。

「俺は悪くねぇんだよ。ハンドルを握れなくなる程度にしてやるつもりだったんだよ。あいつの受け身が下手すぎたのが 悪ぃし、ついでにその後ろにレンチがあったのが悪ぃし、あいつの頭蓋骨が軟弱だったのが悪ぃんだよ」

 狭間の引きつった顔が映るサングラスの奥では、寺崎の淀んだ目があらぬ方向を睨んでいた。そこでまた、狭間の 記憶が蘇ってきた。新聞の片隅のとても小さな記事に書かれていた、レーサー同士の傷害事件の内容を。寺崎 の名前までは書いていなかったし、船島集落の住民達はそれが寺崎だとは思いもしなかったから、皆、見過ごして しまったのだ。もしかすると、その当時から寺崎は九頭竜会と関わっていたのかもしれない。だから、事件の記事 に名前が載らなかったのではないのか。被害者のレーサーと諍いが起きたのも、レース中の無茶な追い抜きだけが 原因ではないのかもしれない。狭間の想像に過ぎないが。

「まあいい。んで、御嬢様。このクソガキな怪獣ブローカーをどうします?」

 狭間を突き飛ばしてコンクリートの床に放り投げてから、寺崎は幼い上司に指示を乞うた。

「御命令とあれば、指でもなんでも潰しますぜ」

「それは無粋ですよ、寺崎さん」

 麻里子は髪の形状を元に戻し、肩に掛かった髪を払った。

「拷問はエレガントに行いましょう。肉体的な損傷を与えるのは簡単ですが、簡単すぎて面白味がありませんしね。 それに、猶予を与えなくてはなりません。現時点では、私達と狭間さんは対等な関係にあるのですから。狭間さんが 私達と盃を交わす気があるのであれば、それに応じるまでですが、そうでなければ――――」

 殺されるだけだ。言葉にするまでもなく、されるまでもなく、狭間は直感する。

「そちらに公衆電話があります。私の車の自動車電話の番号は、こちらに控えておりますので。良いお答えをお待ち しておりますよ、狭間さん。私か、愛歌さんか、それともゴウモンの贄となることを選ぶのかは御自由です」

「拷問……?」

「ゴウモンです。私が、彼にそう名付けたのです。彼はとても有能で、優秀で、有益な怪獣なのです。彼の体液から 生じるガスはあらゆる生物を苦しめ、死に至らしめるのです。私はカムロが共にいてくれるので、ゴウモンの発する 毒を受けても影響を受けずに済みますし、カムロの恩恵を受けている者達も同様です」

 ねえカムロ、と麻里子は黒髪を掻き上げると、髪の間から赤い目が現れる。

「ゴウモンの芳しき香りで生き物が朽ちていく様はこの上なく美しいのですが、あの香りは一度服に付くとなかなか 取れないのが難点です。私は明日は登校しますので、制服にゴウモンの香りが残っていたら、厄介なことになって しまいかねません。狭間さんが苦しみ抜く姿を眺められないのは残念ですが、致し方ありません」

 麻里子は黒髪に似た怪獣義肢に愛おしげに指を絡め、目を細める。

「ゴウモンのガスが充満するのは、これから十五分後です。それまでに御決断下さいね、狭間さん。もしものことに なったとしても、ヲルドビスのマスターには一身上の都合でお辞めになったと説明しておきますので、どうか御心配 なさらぬよう。愛歌さんにも、そう説明しておきますので」

 一枚のメモと十円玉を無造作に放り投げ、麻里子は踵を返す。

「では、ごきげんよう」

「ツブラには手を出すな、御願いだ!」

「ツブラさんにいかなる処遇を与えるのかは、狭間さんのお返事次第で決めますので、それは御心配なさらず」

 麻里子と男達がプレハブ小屋から出ていくと、車が次々に発車していき、辺りはしんと静まり返った。山道を下る 走行音が遠のいていくにつれて、狭間は殺されるかもしれない恐怖は収まったが、今度は危機感に襲われた。ここが どこなのかがそもそも解らないので、逃げ出したところで遭難するのが関の山だ。運良く誰かに見つけてもらえた としても、それが九頭竜会の関係者だったら元も子もない。もたもたしていたら、ゴウモンとやらのガスで死んで しまうかもしれない。だが、逃げ出したところでどうにもならないのでは。不安と焦りばかりが募る。

「くそぉ」

 手首の拘束を外そうと身を捩るが、勢い余って肩が外れそうになっただけだった。幸い、両足は動くので十円玉と メモのところまでは行けたが、拾うことからして一苦労だった。光源がないので手探りで見つけるしかないのだが、 見つけたとしても後ろ手に縛られた手では思うように掴めず、何度も取り落とした。やっと掴んだ十円玉とメモで はあるが、このままでは内容を確認出来ないので、狭間はスチール机に置いてから振り返った。

「……どうしろってんだよ」

 使い込まれた十円玉一枚と電話番号が書かれたメモ用紙と向き直ったが、麻里子に言われるがままに行動した ところで事態が解決するはずもない。まずは誤解を解かなければ。狭間が怪獣ブローカーではないことを証明する には、愛歌に証言してもらう必要がある。そのためには狭間の素性を明かさなければならないが、能力までもを 明かさなければ大丈夫、かもしれない。ツブラがシャンブロウであると知られたら、九頭竜会はツブラを独占して悪用 するだろうが、知られなければきっと。と、思ったが、九頭竜会の一員である須藤邦彦にはツブラが光の巨人と戦う 様を見せてしまったし、その際に狭間はツブラを脇に抱えて逃走したので、狭間とシャンブロウに繋がりがあること が知られているのはまず間違いない。となれば、麻里子の本当の狙いは狭間ではなく、ツブラだったのだ。

「あああああああああ、くっそおおおおおおおおおっ!」

 今更気付いても、何もかも手遅れだ。狭間は前のめりになり、スチール机に思い切り額を打ち付ける。

「そうでもなかったら、ノースウェスト・スミスの話なんてするわけがねぇだろ! 全部解ってなきゃ、あんな娘が 俺に近付いてくるわけがねぇだろ! 埠頭のレースだって、ありゃあ俺を試すためだったんだ! 俺がどこまでボンクラ なのかを知るためにだ! ああその通りだ、俺はボンクラ以下だよ! 何も出来ねぇ、よぉっ!」

 がぁんっ、と一際強く頭を打ち付けた後、狭間は額の痛みと悔しさで唸る。

「畜生……」

 何も出来ないのは解り切っている。何か出来るはずだ、何かすべきなのだ、と心の奥底で考えてはいても、いざ その時が訪れると行動に移せない。ノースウェスト・スミスの件もそうだ。自力でなんとかすべきものを、出来るはず のものを探そうともしなかったではないか。これからもずっとそうなのか。――いや、そうではない。

「何か、あるはずなんだ」

 狭間は呼吸を落ち着けてから、今一度、辺りを見回す。ガラスが割られた窓に近付き、窓枠に残っている破片 に荒縄で縛られた手首を添え、慎重に擦り付けた。焦って自分の手首まで切ったら一巻の終わりだ。手元が見えない 恐怖と緊張を堪えながら、荒縄の繊維が一本切れるたびに呼吸を緩め、深呼吸する。喉が乾涸び、荒ぶる心臓が痛み、 手汗がべっとりと滲んだが、手を強く握って震えを誤魔化した。
 それから何分経ったか。ガラスの破片が狭間の冷汗が染み込んだ袖口を貫き、浅い切り傷がいくつも出来た後、 ようやく荒縄が綻んだ。数本だけ残った繊維を力任せに引き千切ると、狭間は泣き出したくなるほど嬉しくなった が、これからが本番なのだと思い直した。乾き過ぎた喉に粘つく唾を飲み下してから、狭間は立ち上がった。

〈待て〉

「誰だよお前」

 プレハブ小屋から出た途端に呼び止められ、狭間は苛立ちと共に言い返した。一刻も早く、ツブラを攫った車を 追わなければならないというのに。

〈待て、人の子〉

「だから黙れ、お前になんか構っている暇はないんだ!」

〈俺はゴウモンと呼ばれている。この山そのものだ〉

「ゴウモン? お前がか?」

〈そうだ。俺はあの娘とその周りの連中からはそう呼ばれている。焦らないでくれ、人の子。天の子は遠からず自由に なる、そしてお前の元に戻ってくる。だから、この場に留まれ〉

「なんでそんなことが解るんだ」

〈解るさ〉

 俺の背中で起きていることだからな、と怪獣は囁いた。ず、と足元が揺らぎ、狭間はよろめいた。すると、ざわつく 木々の奥で金属がひしゃげる音が聞こえた。人間達の悲鳴、罵声、絶叫の後、夜風が渦巻いた。弱い月明かりを 吸うかのように夜空へ昇る赤い触手を認め、狭間は安堵した。枝葉を足掛かりならぬ触手掛かりにして飛んできた 小さな影は、一直線に狭間を目指している。サングラスもカツラも取れてしまった少女怪獣が降ってくると、狭間は それを受け止めたが、衝撃までは吸収しきれずに座り込んだ。

「悪ぃ……」

 居たたまれなくなり、狭間はツブラを抱き締める。けれど、ツブラの触手はだらりと垂れ下がり、短い手足も狭間 にしがみついてこなかった。白目のない目はとろんとしていて、口が半開きで、ただでさえ白い顔が更に白くなって いるようだった。動物園を出た後から様子がおかしかったが、あの時は眠たくなったのだとばかり思っていた。だが、 これは明らかに異常だ。狭間はツブラを揺さぶるが、反応は鈍い。

「おい、どうした! しっかりしろ!」

「マ、ァゥ……」

 ツブラの唇から弱く声が漏れたが、瞼が下がり、かくんと首が仰け反った。

「起きろ、おいツブラ!」

 ツブラを引っぱたいたり、呼びかけたりするが、反応は変わらない。そうこうしているうちに、壊れた車から 脱したヤクザ達が戻ってくる気配がする。足音と叫び声が聞こえてくる。狭間はツブラを背負うと、赤い触手を ずるずると引きずりながら駆け出した。とにかく、今は逃げなければ。
 逃げなければ、生き延びられない。





 


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