横濱怪獣哀歌




大山、鳴動セズ



 どこをどう逃げたのかは、あまりよく覚えていない。
 解っているのは、足を滑らせて斜面を転げ落ちたことぐらいだ。ぐったりしたツブラを抱えて真っ暗な山道を走って いたのだから、無理からぬことだ。強かに打ち付けた背中が痛んだが、手足はなんともなかった。悪運だけはある のか、と泥まみれの狭間は草むらの中から身を起こしたが、その際に手足に絡みついていたものが解けた。それは 汚れきったツブラの触手で、咄嗟に狭間を守ってくれたようだった。だが、狭間が受けるはずだった衝撃を受けた ツブラはますますぐったりしていて、呼吸も更に弱くなっている。

「畜生ぉ!」

 これからどうする。どうすればいい。

「どうにも出来たら苦労はしねぇよ!」

 ツブラの触手を体に巻き付けてから、狭間は意地で立ち上がった。狭間が滑り落ちた場所を見つけたのだろう、 斜面の上では懐中電灯の光がちらついている。その光から少しでも離れようと、狭間はひたすら足を前に進めた。 立ち止まっていると、事態はどんどん悪くなる。動いたからといって好転するとは限らないが、ぼんやりしている よりは余程いいはずだ。そう思っていなければ、心が折れそうになる。
 走って走って走り抜いて、何度も転んで立ち上がって、その度に口の中に血と土の苦みを感じた。息が上がって 喉は痛み、手も足も鉛のように重たいが、心臓だけは激しく荒れ狂っていた。孤独と恐怖と、すぐ傍にある絶望 とありもしない希望に追い立てられながら、狭間は進み続けた。
 すると、不意に視界が開けた。うっすらとした月明かりが照らしていたのは、轍の付いた砂利道だった。その先には、 ぽつんと小さな光が灯っていた。人家だ。だが、なぜこんなところにある。どう考えても九頭竜会と関わりのある 建物だ、近付くべきじゃない、と理性が喚き散らしたが、星よりも少しだけ強い光には折れかけた心を支える力が 存分に宿っていた。誘蛾灯に惹かれる虫の気持ちを嫌というほど味わいながら、狭間はよろよろと歩いた。
 光源の正体は、倉庫だった。錆び付いたシャッターが開きっぱなしで、車はなかったが木箱や段ボール箱が大量に 詰め込まれている。迷路のような狭い空間を滑り抜け、奥へ奥へと進んでいくと、使い込まれた作業机に黒電話が 鎮座していた。狭間は手の甲で汗と泥が混じったものを拭い取ってから、深く、強く、息を吸った。
 ジーンズで出来る限り手を拭ってから受話器を取り、ダイヤルを回し、愛歌の部屋に電話を掛けた。黒電話の傍 にある小さな時計は午後十時過ぎを示しているから、愛歌は帰ってきているはずだ。ダイヤルを回し終えたが、距離 があるからかすぐには繋がらなかった。呼び出し音が始まった途端に、倉庫の奥で物音がした。
 すぐさま受話器を置き、狭間は作業机の影に潜り込むが、泥と砂と枯葉の足跡を拭い去ってこなかったのでどこに 隠れているのかは一目瞭然だ。己の浅はかさを心底憎んだが、もう手遅れだ。蝶番が軋み、ドアが閉じ、体重の軽い 足音が箱の隙間を摺り抜けてくる。

「電話」

 足音の主が電話に手を伸ばしかけたが、汚れに気付いたのか、手を引っ込めた。

「ジョウジ君の仕業」

 その人物の声は少女のもので、控えめだった。じゃこじゃことダイヤルを回し、どこかに電話を掛けたが、会話の 内容は察しが付けられなかった。少女は相槌を打つだけで、それ以上のことは話そうともしなかった。短い通話が 終わって受話器を戻すと、少女は長くため息を吐いて緊張を緩めた。すると、また別の足音が聞こえてきた。

「むーちゃん、どうしたんすか」

「定期連絡」

「あー、そういえばそんな時間っすもんね。で、今日は誰が出たんすか」

「ハルミ姉さん」

「先々週はナツエちゃんで先週はフユカちゃんだったっすから、ローテーションが一巡したんすね。で、今日はまた 何話したんすか」

「別段」

「そりゃまあそうっすよね、特に話題なんてないっすよねー」

「ジョウジ君も電話?」

「そうっすよ。なんでも御嬢様がうちの工場にお出でになるとかで、昼間に電話をもらったんすけど」

「何故」

「怪獣義肢移植手術の準備のためじゃないっすか? 大陸の連中にちょん切られた組長の右腕と右足をなんとか しなきゃならないっすからね。九頭竜会、総出を上げて」

「タツヌマ先生は」

「配送されてくるはずの怪獣義肢の材料が届かないせいで、苛々しちゃってどうしようもないっすから、放っておいた んすよ。いくらオイラが打たれ強いからといっても、八つ当たりされるのは勘弁願いたいっすね」

「それで」

「その辺の事情を聞かせてやったんすから、不法侵入だけはお咎めなしにしてやるっすよ。御嬢様の御客様?」

 物陰に迫ってきた影は、弱い逆光の中、狭間を見下ろしてきた。最初から、狭間の存在は気付かれていたのだ。 侵入した証拠をたっぷり残しているのだから当然の結果ではあるが、もしかしたら見逃してもらえるのではないかと いうかすかな期待を抱いていたせいで、狭間はひどく落胆した。
 と、同時に驚愕で心臓が縮み上がった。二人目の声の主であろう男は、人間の姿をしていなかった。だが、その 声には怪獣言語は一切混じっていない。しかし、体格と体形は人間だ。だが、外見は怪獣と表現すべきだ。どちら でもあるのか、どちらでもないのか。狭間は混乱しながら、男を凝視した。
 頭部と胸は金属質な光沢を持つ外皮に覆われ、右腕は岩石じみた外皮に覆われ、左腕はトカゲに似たウロコの 付いた外皮に覆われていたが、上半身だけはまだ人間らしさが保たれていた。だが、両足は逆関節になっている ばかりか、尻尾までもが生えている。やはり怪獣だ。だが、怪獣言語を一切使わない。ならば、人間なのか。

「むーちゃん、御嬢様の自動車電話にお電話頼むっす」

 人間なのか怪獣なのか解りづらい生き物は狭間の襟首を掴み、爪先でツブラをつまむと、軽々と持ち上げた。

「了解」

 むーちゃんと呼ばれた少女の姿を目の端で捉え、狭間は再度驚いた。顔つきと体形は日本人だが、長い髪の色 が紅葉したモミジのように真っ赤だった。なんなんだここ、なんなんだよこいつら、と狭間は自分のことを棚に上げて そう思った。抵抗するだけはしたが呆気なく取り押さえられ、人間以上怪獣未満の生き物の脇に抱えられた。荷物の ように運ばれながらツブラを見ると、ツブラは脱力しきっていた。今はそれでいい、大人しくしているべきだ。
 機会を待つためにも。




 建物の構造は把握出来なかったが、用途は解ってしまった。
 至る所に積まれている木箱や段ボール箱の中には、違法に採取された怪獣達の生体組織が入っていた。その中 には声を発せる怪獣もいて、狭間とツブラの存在に気付いて助けを乞うてきた。箱をがたがたと揺さぶっては外に 出してくれと叫んでいたが、狭間もツブラも拘束されていたので応えられなかった。それがどうしようもなく 歯痒かったが、そう思えるだけまだ気力が残っているのだと思い直し、狭間は腹に力を込めた。
 狭間とツブラが連れ込まれた部屋は薄暗く、生臭かった。中央に据えられているのは立派な手術台で、天井には 大きな無影灯が付いていて、手術台の脇には様々な手術器具が揃っている。薬品が入った茶色瓶も山ほどあり、 棚に収まり切らずに床に散らばっている。まるでホラー映画の一幕である。怪獣でも人間でもない男が言って いた通り、この建物は怪獣義肢を移植するための場所なのだ。無論、何もかもが違法だ。

「……あの」

 手術台の手前に立たされた狭間が躊躇いがちに尋ねると、人間以上怪獣未満は気さくに名乗った。

「あ、オイラ、ヤブキジョウジって言うんすよ。ちょっと面倒臭い字を書くんすけどね」

 これっすこれー、と彼が太い爪で示したのは、壁に貼られているレントゲン写真だった。怪獣の手足を縫い付けて 間もない頃のものだろう、骨も血管も繋がっていない。その写真の隅には、藪木丈治、と記されていた。

「で、あの可愛い子はオイラの嫁っすから、手ぇ出しちゃダメっすからね?」

「しないですよ絶対!」

「だったら、いいんすけどね」

 藪木がにやつくと、耳元まで裂けた口角が歪んだ。牙の隙間から零れる匂いは硫黄と鉄だった。

「丈治君」

 手術室のドアが開き、先程の赤毛の少女が入ってきた。白衣を着ているのだが、サイズが合わないので裾を引きずって いる。藪木はその裾を抓んで器用に結んでやってから、廊下を見やる。

「タツヌマ先生、いいっすかー?」

「良かぁないよ。寝入り端に叩き起こされたんだから」

 大股に歩いて手術室に入ってきたのは、細身で長身の若い男だった。白人じみた彫りの深い顔付きも目を惹いた が、最も強烈な印象を与えたのは、青緑色の髪だった。それを一括りに結んで背中に垂らしていて、赤黒い染みが まだらに付いた白衣を羽織っている。タツヌマと呼ばれた男は手術器具を一瞥してから、狭間とツブラを眺める。

「アキナ。御嬢様はなんと御命令を?」

「解剖」

「どっちの? 僕はただの人間をバラして喜べるような、生温い感性を持ち合わせちゃいないんだけど」

「怪獣娘」

「その表現は適切じゃないな。人間型怪獣だ」

 タツヌマは息も絶え絶えのツブラを眺め回してから、鉗子で触手を一本抓み、観察した。

「触った感じは血管に近いね。見た目は髪の毛に似ているけど中は空洞だ。本体の肌の色は青白く、白目はない。 となると……これが、御嬢様が御執心のシャンブロウってことか。なるほど、面白そうだ」

「バラしてどうするんすか?」

「使えそうなものがあれば保管しておくし、使えそうにないものだったら適当に加工して売り捌けばいい」

「通常運転」

「そう、いつも通りだ。僕達の仕事がなんであれ、下請けであることに代わりはないんだから」

 タツヌマはアキナという名の少女に指示し、ハサミを持ってこさせた。

「狭間君だっけ、君? 中国マフィアか政府のどっちかに通じているのかはこの際どうでもいいけど、怪獣ブローカー なら、もうちょっと丁寧に商品を扱ってくれないかなぁ。でないと、こっちも加工する時に色々と面倒なんだよ」

「あ、え、ちょっとそれって」

「うちに怪獣の材料が入ってこなくなったのは、大陸の連中が怪獣の闇取引市場を掌握しちゃったからってのは別 に説明するまでもないけど、その辺の情報を横流しする気がないって言うのなら、狭間君の商品を解体して顧客に 売るしかないじゃないか。シャンブロウをバラすのは少しばかり惜しいけどね。君をバラして、実用化前の怪獣義肢 をくっつけてみるのも悪くないけどね」

 ほら寄越して、とタツヌマはツブラを引っ張ったが、狭間は余力を振り絞ってツブラを引っ張り返し、抱え込んだ。 そんなことで守れるわけがない。だが、もうそれ以外に成す術がない。すぐさま蹴り付けられ、スカジャンのかぐや姫 が蹂躙される。その足が誰のものなのかは定かではなかったが、狭間の後頭部と背中と脇腹を執拗に蹴ってくる。 噛み締めすぎた奥歯が軋み、砕けそうだ。ツブラの小さな手が狭間の湿ったシャツを掴み、震えている。二度三度、 四度五度、蹴られる。殴られる。痛みと悲鳴を堪えすぎて吐き気すら感じたが、根性で抑え込む。

〈聞こえるか、人の子〉

 己の肉が殴打される水っぽい音と骨と靴底がぶつかる音の合間に、ゴウモンの言葉が聞こえた。

「……ああ」

 だから、どうだというのだ。狭間が反論したい気持ちを交えて応じると、ゴウモンは言った。

〈天の子の力を借りておけ。そうすれば、お前は俺のガスで眠らずに済む〉

 それは、つまり。狭間が行動に移すよりも先に、数本の触手が歪めた唇の間に滑り込んできた。普段はすぐには 開かない歯を緩めて受け入れ、喉の奥の粘膜に触手を貼り付かせた。ぬるん、ぺとん、くにゅり。ツブラの触手が 太い血管に吸い付いた感触を味わうと、猛烈な安心感に襲われて緊張の糸が切れた。
 濃厚な硫黄の匂いが、粘膜を焼いた。





 


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