ドラゴンは滅びない




胎動する魂



 最初の記憶は、星々だった。


 漆黒の闇に、細かな光が散っている。
 手を伸ばせば届きそうだ。隔てるものは何もなく、きんと張り詰めた夜の空気は魂の芯すらも凍り付かせる。
 体が、動かない。吸い込まれそうなほどの星空に魂は惹き付けられているが、顔を上げることすら出来ない。
指の先にさえも意思は届かず、重たい鉛のように沈黙し、意識は冴え渡っているのに、神経は機能を成さない。
 体の内に、熱が起きる。己の体さえ自由に出来ない自分への悔しさか、それとも、遠い夜空に対する恋しさか。
乾いた砂に水を染み込ませるかのように、感情が潤い、全身に漲る。熱に似た鼓動が、魂を、体を満たしていく。
 ああ。私は、生きている。




 その書き置きを見つけたのは、全くの偶然だった。
 主のいない書斎兼研究室の埃が分厚く積もった机に腰掛けた拍子に、均衡を保っていた本の山は崩れ落ちた。
乱雑に積み重ねられていた分厚い本は、互いの自重によって辛うじて維持されていたが、震動に負けたのである。
やっちまった、と肩を竦めながら本が散らばった床に向き直ると、視界の隅を薄っぺらいものが滑空していった。
几帳面に端を合わせて折り畳まれた古びた羊皮紙が、音もなく床に舞い降りた。僅かな風で、埃がかすかに動く。
それを拾おうと足を出すと、本の山がもう一つ崩れた。そのせいで埃が更に舞い上がり、空気は真っ白くなった。
煙幕のように凄まじい埃を手で払いながら前に進むと、数冊の本を思い切り踏み付けたが、気にしないことにした。
 ギルディオスは机と同じく埃が厚く積もった床に屈み込むと、銀色の装甲で出来たガントレットの手を伸ばした。
ぎち、と手首の関節を軋ませながら、指の間に挟んだ羊皮紙を回した。今時、こんな紙を使うのは彼女ぐらいだ。
ギルディオスはその場に胡座を掻いて座り、羊皮紙を広げた。その中には、神経質ながら丁寧な字が並んでいた。

  私に用があるのであれば、私を捜すがいい。
  私に用がないのであれば、私を追うことはない。
 
  フィフィリアンヌ・ドラグーン

 彼女らしい、突き放した文章だった。ギルディオスは、謎かけのように抽象的なその一文を何度なく読み返した。
この手紙の主であり、この書斎の主であり、そしてこの古びた城の主であるフィフィリアンヌは唐突に姿を消した。
それは、何の前触れもない出来事だった。どうということのない日常の最中、突然フィフィリアンヌはいなくなった。
当初は、誘拐か何かかと疑ったが、フィフィリアンヌは六百年近くを長らえているハーフドラゴンの魔法薬学者だ。
この時代の人間にどうこうされるほど、柔な女ではない。ギルディオスは、そのうち帰ってくるだろうと思っていた。
だが、一日が過ぎようと、三日が過ぎようと、一ヶ月が過ぎようと、フィフィリアンヌは己の城へ帰ってこなかった。
さすがにおかしいとは思ったが、前にもそういうことがあったので無駄に心配することでもない、とも考えていた。
 しかし、一年が過ぎてしまってはそうは言っていられない。だから、彼女の行方の手掛かりを捜していたのだ。
けれど、重度の書痴であるフィフィリアンヌの書斎には、数え切れないほどの本がこれでもかと詰め込まれていた。
どういった本がどこにどれだけあるかということは、書斎の主であるフィフィリアンヌにしか判別が付けられない。
なので、当然ながらギルディオスには何が何だかさっぱりで、どこから手を付けるべきかすら解らないほどだった。
出来ることと言ったら、本の山を無駄に動かしてみたり、書類の詰まった引き出しを開けたり閉めたり、ぐらいだ。
そんなことを三日も繰り返していたので、とうとう困り果てて大きな机に腰掛けたところ、机上の本の山が崩れた。
その中から発見したのが、この羊皮紙の書き置きである。近代文明の栄えた昨今は、羊皮紙を使う者は少ない。
中世時代から長らえているフィフィリアンヌは、つるりとした洋紙よりも羊皮紙の方が触り心地が良いと好んでいる。
なので、世間では珍しいが、中世時代で時間経過を止めているも同然のこの城ではあまり珍しいものではない。
 ギルディオスは書き置きを眺めていたが、ごとり、と机に硬いものが落ち、その周囲から埃の淡い波が漂った。
視線を上げると、机の端には、先程までは見当たらなかった赤紫の液体が満ちた大振りなワイングラスがあった。

「フィフィリアンヌも、全く身勝手なものである」

 うにゅり、とワイングラスの中で粘液が蠢き、赤紫の触手を伸ばした。ギルディオスは、机にもたれかかる。

「つうか、フィルの奴、大丈夫か? あんなにひどい方向音痴のくせに、一人で出歩くなんて無謀すぎるぜ。あいつのことだから何かあるとは思えねぇが、万が一ってこともあらぁな」

「はっはっはっはっはっは。もしもあの女の身に何かあれば、どれほど愉快で爽快で素晴らしいのであろうか!」

 ぶるぶると全身を震わせながら、ワインレッドのスライムは哄笑する。ギルディオスは、ヘルムを引っ掻く。

「フィルの方向音痴を直す魔法なんて、あるわけねぇしなぁ」

「はっはっはっはっはっは。あの女の方向音痴が治るようなことがあれば、我が輩は二度と笑わぬと竜女神にでも誓おうではないか!」

「もしかしたら、その辺りをずうっと迷ってんじゃねぇの? だから帰ってこねぇんじゃねぇのか?」

 ギルディオスは半笑いになりながら、ワイングラスを仰ぎ見た。スライムは、うねうねと気味悪く脈打つ。

「はっはっはっはっはっはっはっは。そうなのであれば、是非とも放置しておこうではないか。あの無用に尊大な冷血トカゲ女が道に迷っている様など、想像しただけで身が捩れるほど愉快ではないかね、ニワトリ頭よ!」

「んー…」

 ギルディオスは気持ちだけ目を細め、羊皮紙の書き置きを弱い日差しに透かした。だが、透かしもなさそうだ。
あるのは、フィフィリアンヌの冷徹な文章だけだ。ギルディオスは神経質な字を睨み付けていたが、紙を下ろした。

「要するに、心配はいらねぇってことか?」

「あの女は屁理屈に手足を付けて皮を被せた上に燻して煮詰めたような女であるからして、有り得るのである」

「五百年とちょい付き合ってるけど、未だに訳解らねぇところがあるしな」

「はっはっはっはっはっはっは。あの女を理解出来る者がいるとしたら、それはあの女だけなのである」

「ま、そうだろうぜ」

「そして、貴君の愚かさを誰よりも理解しているのは、誉れ高き魂を類い希なる知性を持った我が輩なのである!」

「うるせぇやい」

 ギルディオスはスライムの発する低音ながらもやかましい笑い声に辟易し、手の甲でワイングラスを小突いた。
うおぅ、と鈍い悲鳴が上がり、笑い声は途絶えた。ギルディオスがため息を零すと、トサカに似た頭飾りが揺れた。
フィフィリアンヌがいないと、このやかましいだけのスライムの相手をするのはギルディオスだけになってしまう。
 スライムの名は、伯爵と言う。無論、自称である。本名はゲルシュタイン・スライマスだが、それも自称である。
伯爵は、フィフィリアンヌが幼少時に生み出した人造魔物のスライムであり、フィフィリアンヌの旧知の友人である。
フィフィリアンヌは、知性こそ優れているが方向感覚というものが欠片も備わっておらず、凄まじい方向音痴だ。
五百年以上も過ごしている自身の城の中であってもたまに迷ってしまう始末なのだから、本当にどうしようもない。
その欠点はフィフィリアンヌ自身も弁えていて、その方向感覚のなさを、なぜか方向感覚の鋭い伯爵で補っている。
なので、外出する際は常に伯爵を入れたフラスコを腰に携帯するのが常だが、どういうわけか今回は忘れている。
それが意図したものか、無意識なのかは解らない。だが、書き置きの文面から察するに心配の必要はなさそうだ。

「用事、ねぇ」

 用があるのであれば、私を捜すがいい。フィフィリアンヌの書いた一文を、ギルディオスは読み直した。

「そんなもん、別にねぇけどよ」

 ギルディオスは、書斎の窓に目をやった。掃除されていないので、埃や雨水の痕跡が貼り付いて汚れている。
その窓の向こうには、瓦礫の山と化した街が見えた。鬱蒼と茂った深い森の先には、かつての都の名残があった。
五年前に終結した共和国戦争の傷跡は、未だ癒えていない。日々、市民や兵士の屍が積み重なっていくだけだ。
激しい戦闘によって途切れてしまった線路は、十年前は機関車が走っていたが、今では単なる錆び付いた線だ。
壊れた線路は、広大な大地を真っ直ぐ進んでいる。枕木に載った二本の鉄の延長線上に、それは浮かんでいた。
 一言で言い表せば、それは山だった。草木が生えていないので無骨な岩肌が露出していて、斜面はかなり急だ。
だが、その斜面は大地には繋がっていなかった。雲間を突き破っている頂は普通だが、その下は途切れている。
山の底は遠目に見れば半球のように見えるだが、目を凝らせば山肌と同じくごつごつと隆起していることが解る。
底の向こうには薄青い空が見え、山の下にはいびつな円の影が落ちている。つまり、あの山は浮いているのだ。
 その山がいつの頃から現れたのかは、はっきりとは解らない。ただ、気付いたらそこに浮かんでいたのである。
そして、誰が言い出したのかは解らないが、滅びた国の空に浮かび上がった山はブリガドーンと称されていた。
共和国戦争に大敗した共和国国民は、廃墟となった街を這いずり、今日を生き延びるために死力を尽くしている。
だから、気付くのが遅かった。皆が皆、日々を生き抜くために必死だったので、空を見上げる余裕などなかった。
ブリガドーンは、そこに浮かんでいるだけで何をするわけでもない。ゆっくりと、回転しているだけの存在だった。

「そっちが勝手にやってんだったら、こっちでも勝手にやらせてもらおうじゃねぇか」

 ブリガドーンを見つめながら、ギルディオスは呟いた。

「オレも、結構暇なんだよな」

 ギルディオスは書き置きを畳んで指に挟み、立ち上がった。油を差したばかりなので、関節の動きは滑らかだ。
窓ガラスには、屈強な甲冑が映る。年季の入った装甲は鈍く重たい輝きを持ち、頭飾りとマントの赤が鮮やかだ。
上下に二つの流線形のスリットが左右に空いているヘルムの内側は空虚な闇であり、中には何も入っていない。
だが、その胸部の中心には赤い魔導鉱石の填められた魔導金属の台座があり、その石の中に彼の魂は在る。
 ギルディオス・ヴァトラスは五百十数年前に死した中世時代の傭兵だが、死後、竜に新たな人生を与えられた。
ギルディオスの魂を魔導鉱石に封じ、生前に使っていた全身鎧の肉体を与えた者こそ、フィフィリアンヌである。
そして、やむにやまれぬ事情でギルディオスはフィフィリアンヌとその友人である伯爵と同居する羽目になった。
その頃の腐れ縁が今でも続いているので、ギルディオスはフィフィリアンヌの城に住んでいるという次第である。
最初は不本意だったが慣れてしまうとこれはこれで楽しいと思えるようになり、今では掛け替えのない友人達だ。
もっとも、気が合うから、というわけではない。フィフィリアンヌも伯爵も、どちらも強烈で偏屈な人格の持ち主だ。
むしろ、気が合わないから続いている。おかしな話だが、お互いのずれ具合が心地良いと思えてしまうのである。
 ギルディオスは伯爵のワイングラスを掴むと、書斎を出た。伯爵からは激しく文句をぶつけられたが、無視した。
出掛けるとなれば、準備をしなくては。確か、城の倉庫には連合軍から奪い取った蒸気自動車があったはずだ。
暇を持て余していたせいで手入れしていたので、魔導鉱石蒸気機関の魔導鉱石に魔力を入れれば動くはずだ。
外に出たら、まずどこに向かおうか。ギルディオスは冷たい廊下を歩きながら、少年のように心が浮き立っていた。
 たまには、外に出るのも悪くない。




 ヴィクトリアは、レンガ壁の破片に腰掛けていた。
 足をぶらぶらさせながら、街を見渡していた。生者の息吹を感じない灰色の世界は、寝床のように心地良い。
壁や石畳には、生々しい銃弾や砲弾の痕跡がある。戦争で死した人間の白骨死体が、そこかしこに落ちている。
焼け焦げた髪の毛が貼り付いた頭蓋骨が、つま先の下に転がっている。ヴィクトリアは、靴底で頭蓋骨を蹴った。
かこ、と乾いた音がし、動いた拍子に前歯が抜け落ちた。頭蓋骨の側面には弾痕があり、これが致命傷のようだ。
砂埃に混じって、どこかから死臭が流れてくる。長い黒髪をたなびかせる風を胸一杯に吸い込み、深く吐き出す。
 どこを見ても瓦礫だ。共和国戦争前の旧王都の姿は記憶にない。物心付いた時には、こうなっていたからだ。
母親の話では、戦前は寂れた地方都市だったそうで、工業都市でもあったので郊外には工場の跡地が多かった。
だが今では、あらゆる建物が壊されている。五百年以上前には王宮であった巨大な城も、見る影もなくなっている。
旧王都を囲む城壁は歪み、至るところに穴が開いている。その風穴の先に、焼け焦げた地面が垣間見えている。
感覚を研ぎ澄ませると、廃墟の隙間から、死にかけた人間が死に間際に怨念を焼き付けた魂の気配を感じた。
飢えと連合軍への恨みを滾らせた、弱々しくも命の輝きを持った僅かな気配が近くにあったが、それが消えた。
どうやら、近くで誰かが死んだようだ。死して間もない魂が弾け、意識の粒子と化して空気の中へと溶けていく。
 つまらない。廃墟の世界は心地良いが、それだけだ。刺激がない。どこを見ても、何をしても、退屈極まりない。
ヴィクトリアが不満で唇を曲げそうになった時、不意に感覚を貫く力強い気配が訪れ、激しい音も耳に入った。
思わず顔を上げて、音源に素早く振り返る。砕けた石畳に散らばる破片を太い車輪が踏み潰し、粉塵が舞う。
蒸気自動車が、ごとごとと道を走っている。連合軍からの強奪品らしく、車体は黒塗りで紋章が潰されている。
運転席に座っているのは近代的な駆動機械に不似合いな時代遅れの全身鎧、ギルディオス・ヴァトラスだった。
 ヴィクトリアは、抱きかかえていたクマのぬいぐるみの背に手を差し込み、そこから小振りな拳銃を抜いた。
何の躊躇いもなく銃口を上げ、ギルディオスに据えた。引き金を軽く引くと同時に、ぱん、と破裂音が響いた。

「うおっ!」

 途端に、運転席のギルディオスが仰け反る。慌てて制動を駆けたが勢いが死なず、横滑りしながら停車した。
ヴィクトリアは、硝煙が薄く立ち上る銃口を細い息で吹く。運転席から下りたギルディオスは、駆け出してきた。

「何しやがんだ、いきなり!」

「別に、なんでもないのだわ」

 ヴィクトリアは、平然と返した。盛大な足音を立てながらやってきたギルディオスは、少女の拳銃を指した。

「人の脳天撃つ時はな、一言予告しやがれってんだよ!」

 掠ったんだからな、と側頭部を指していきりたつギルディオスから、ヴィクトリアは目を逸らした。

「当たる方が悪いのだわ」

「撃つ方が悪いに決まってんだろ、ヴィクトリア!」

 彼の怒声にも動じず、少女は澄ましている。よく手入れされた黒髪と仕立ての良い服に、裕福さが現れている。
幼いながらも大人びた顔立ちの中でも、灰色の瞳が最も印象的だった。右手に握られた銀色の拳銃が、鈍く光る。
濃い灰色のワンピースと茶色の革靴を履き、肩からは小さなカバンを提げ、左手にはぬいぐるみを抱いている。
お世辞にも綺麗とは言い難いもので、背中には切れ目が入っている。その中に、拳銃が押し込まれていたのだ。

「あなた、どこへ行くの。教えてもらいたいのだわ」

 ヴィクトリアの右手が上がり、銃口がギルディオスを捉える。ギルディオスは、動揺もせずにそれを見下ろした。
こういうことには、慣れている。腐れ縁の呪術師の一人娘のであるヴィクトリアとは、幼い頃からの付き合いだ。
ヴィクトリアの両親は、どちらとも恐ろしい性分である。父親は悪行を快楽とし、母親は乱射と殺戮を何よりも好む。
そんな家庭環境で育った少女なので、ヴィクトリア自身も悪事を悪事とは思わず、遊びのように感じているのだ。
 だから、彼女に銃口を向けられることも、魔法を撃たれることも、戯れに呪われるのも、これが初めてではない。
そんなことに慣れてしまうのもどうかと思ったが、慣れたものは仕方ない。ギルディオスは、彼女の銃を押し返す。

「あのなあヴィクトリア、退屈凌ぎに銃を撃つんじゃねぇと何度言ったら解るんだ」

「暇なんだもの。仕方ないのだわ」

 しれっとしているヴィクトリアに、ギルディオスは頭を振った。

「だからってなぁ…」

「これ、何をしておるのかね、ニワトリ頭よ! そのような小娘に撃たれたぐらいで我が輩を放置するでない!」

 蒸気自動車の助手席で、ごろごろとフラスコが転がり回る。伯爵の喚きに、ヴィクトリアは眉根を曲げた。

「うるさいのだわ」

 たぁん、ともう一発銃声が轟いた。外装が弾丸に抉られ、鉛玉が跳ねる。その衝撃に戦き、伯爵は言い返した。

「これこれこれ! 他人の車両に傷を付けるでない! ついでに我が輩を狙うでないぞ!」

「やかましいわ」

 更に撃とうとしたヴィクトリアの右手を押さえ、ギルディオスは彼女に尋ねた。

「で、お前は何してたんだよ」

「何もしていないのだわ。あなた達こそ、何をしているのかしら。相変わらず、一人、足りないのだわ」

 ヴィクトリアはギルディオスの影から、蒸気自動車を見上げた。

「竜の女は、まだ帰ってきていないの?」

「まぁ…ちょっとな」

 ギルディオスが言葉を濁すと、ヴィクトリアは銃口を下げた。

「どこへ行くのかは知らないけど、私は暇なのだわ。だから、付き合ってあげてもよくってよ」

「はっはっはっはっはっはっは、それは大いなる誤りであるぞ、ヴィクトリアよ!」

 助手席からフラスコごと跳ねた伯爵は、蒸気自動車のボンネットに落ちた。半回転してから、ごとりと止まる。

「貴君が我が輩達に付き合うのではない、貴君が我が輩達に付き合うのである。生後十二年程度の幼子が、生後五百七十六年の我が輩に対して偉ぶれる要因は、一つもないのである。増して、高貴さも麗しさも知性の豊かさも語彙の多さも何もかもが我が輩の方が上であり、貴君は足元にも及ばぬ存在なのである。であるからして、貴君は我が輩の膝下にひれ伏すべきなのであるぞ、ヴィクトリアよ!」

「理屈になっていないのだわ」

 ヴィクトリアは伯爵を指し、ギルディオスを見上げた。ギルディオスは、肩を竦めて両手を上向ける。

「いつものことだろ。ま、暇なのはオレも同じだけどな」

 ギルディオスは、砂埃で霞んだ空を仰ぎ見た。共和国戦争後は、様々な事情で隠れ住む日々が続いていた。
共和国戦争が起きる前は外出もしていたし、様々な仕事などもあったのだが、今ではあまり外出はしていない。
十年前に起きた壮絶な事件に深く関わっていたため、下手に表に出ると連合軍に目を付けられてしまうからだ。
厄介事にも慣れているが厄介事を好んでいるわけではなく、傭兵で元軍人と言えど荒事は決して好きではない。
 だから、外へ出ずにフィフィリアンヌの城に籠もり、剣の修練や城の雑務をしながらこの十年を過ごしてきた。
たまに外出したとしても、なるべく人目に付かないように移動していたため、長期間外出をしたことはなかった。
 彼女が姿を消すのは、初めてではない。十年間の中で、唐突に出掛けて半年も帰ってこなかった時がある。
意味深な書き置きも、深読みさえしなければ文面通りなのだ。用事があれば、会いに行けば良いだけのことだ。
フィフィリアンヌとの付き合いは長い。彼女の手によって、死から蘇らせられ、甲冑の体と仮初めの命を得た。
それから、もう五百十数年が過ぎだ。それだけの年月を共にしたのだから、離れる時があってもいいだろう。
フィフィリアンヌの行方は、友人としては少々気に掛かる。だが、それらはそのうちどうにかなってくれるはずだ。
ギルディオスは彼女を友人だと思っているが決して仲間などではないし、フィフィリアンヌ本人もそう思っている。
馴れ合いはするが、連れ合いはしない。フィフィリアンヌと伯爵も、ギルディオスとの関係に濃さを求めていない。
だから、捜し出す必要はどこにもない。捜し出したりしたら、却って鬱陶しがられてしまう可能性の方が大きい。
 ギルディオスは、ヴィクトリアを見下ろした。彼女は取り澄ました眼差しでこちらを見たが、すぐに目線を外した。
どうせ暇潰しをするなら、連れは多い方がいいだろう。多少根性が曲がっている方が、退屈しないで済みそうだ。

「ヴィクトリア。オレらと一緒に来るんなら、準備してこいよ」

「解っていてよ。お母様に話を付けてくるのだわ」

 ヴィクトリアは僅かばかり目を細めたが、笑みは見せなかった。ギルディオスは、逆手に蒸気自動車を指す。

「じゃ、さっさとしてこいよ。今夜、旧王都を出るからな」

 蒸気自動車のボンネットに載ったフラスコの中で、伯爵がごぼりと大きく泡を吐いて苛立ちを現した。

「これ、何を言い出すのかね! そんな小娘など同行させても、悪いことはあれどいいことなど皆無であるぞ!」

「うるせぇな。てめぇと二人っきりになっちまうなんて、考えただけで頭痛がするんだよ」

 だからだ、とギルディオスは強調した。伯爵は、高笑いする。

「奇遇である、それは我が輩も同じであるぞギルディオス! 貴君の魔物並みに愚かで単純な知能では、我が輩の優雅なる会話についていけるわけがないのであるからな!」

「黙りやがれ軟体生物」

 ギルディオスの罵倒に伯爵は動じず、笑い声を上げ続けている。その様を、ヴィクトリアは静かに眺めていた。
二人のやり取りには、少し毒があるが何の意味もない。ただ、下らないだけだが、少しは退屈が紛らわせそうだ。
廃墟の旧王都を彷徨い歩く日々が長すぎた。同じ廃墟であっても、別の廃墟であれば目新しいことがあるだろう。
それに、外へ出掛けることに少々憧れを抱いていた。幼い頃から、灰色の城に閉じ籠もって生きていたからだ。
初めての旅に同行するのがギルディオスと伯爵というのは頼りないことこの上ないが、それは妥協するしかない。
退屈だ。陰鬱だ。だから、外に出たい。二人の言い合いは続いているが、ヴィクトリアはそれを聞き流していた。
 辺りには、二人の喚き立てる程度の低い罵倒と皮肉だけが響いていた。




 街は崩れ、人々は死に絶え、天空には山が浮かぶ。
 異様な世界であろうとも、それが何年も続けばいつしか日常と化す。
 普通であるとは言い難い三人の、至って普通の日々は。

 こうして、始まるのである。






07 2/20