ドラゴンは滅びない




苦杯



 ロイズは、躊躇っていた。


 手の中のコップには、並々と魔法薬が注がれている。見るからに毒々しい緑色で、鼻を掠める匂いもきつい。
だが、飲まなければどうしようもない。ロイズは父親や隊員達の視線を受けつつ、嫌悪感を堪えて持ち上げた。
 一口、口に含んだ。だが、それだけで吐き戻してしまいそうになる。しかし、これを飲み干さなければならない。
必死に我慢して傾け、喉を開いて胃に直接流し込む。食道をどろどろと流れる液体の感触が、また気色悪かった。
最後の一滴まで流し込んで前に向いた直後、吐き気に襲われた。涙目になりながら、それをもう一度飲み下した。

「あのさ、ピーター…」

 ロイズの傍らに立つヴェイパーは、真っ青なロイズを不安げに見下ろした。

「やっぱり、もうちょっと薄めてやらないと…」

「ああ、ダメダメ。そんなことしたら、効果が薄くなっちまう。これでも薄めて作った方なんだぜ?」

 異能部隊隊員の中でも年若い兵士、ピーターが首を横に振る。

「ロイズ、口を開けるんじゃないぞ。開けたらすぐに戻ってくるからな」

 口を押さえて震えているロイズに、ポールが笑う。ロイズは頷くことも出来ず、硬直しているしかなかった。

「そんなに苦いか?」

 彼らの後方に立っていたダニエルは、自分のコップを覗いた。一滴も残っておらず、空になっている。

「私は平気だが」

「一緒にするな、だそうです」

 ロイズの肩に手を触れたアンソニーが、少年の思念を読んで肩を竦めた。

「でもなロイ、仕方ないんだよ、こればっかりは。魔力濃度が高くなりすぎると、オレ達みたいなのは自分の力で自滅しちまうからさ。自分の力で死んじまいたくないだろ? そうならないために、薬が必要なんだよ」

 な、とピーターがロイズを慰めた。ダニエルはロイズの背後に近付くと、真上から見下ろした。

「特に、お前は危険だ。自制が効かないうちは、魔力鎮静剤を欠かしてはならない」

「そりゃ、そうだけど…」

 ヴェイパーは小さく言ったが、口を噤んだ。ロイズのためにも言い返してやりたかったが、言い返せなかった。
ロイズの顔からは血の気が引き、涙ぐんでいる。ヴェイパーはその苦しみが想像出来ないことが、悔しかった。
人造魂としてこの世に生まれ出たヴェイパーは、当然ながら物を食べることは出来ず、味を知れるわけがない。
だから、今、ロイズが味わっている苦しみの一欠片も理解出来なかった。それが、とても情けないことだと思った。

「ロイズ。これからの道中は、お前の力が欠かせないのだ」

 ダニエルは空になったコップで、俯いている息子を指した。

「ゼレイブへの移動手段の要はポールの力だが、ポールだけに頼り切ることは出来ない。お前の能力はヴェイパーを仲介しなければ使い物にならないが、それでも使い方次第では有効に使うことが出来る力だ。お前が歪めた空間をポールの力で先へ繋いでもらえば、その分ポールの負担が少なくて済む。そのためにも、今日は休んでおけ」

 ロイズは手で覆った口をかすかに開き、言った。

「訓練は」

「それはある。私が言ったのは、移動はしない、という意味だ」

 ダニエルは冷徹な眼差しで、息子を見据える。

「訓練を一日でも欠かせば粗が出る。その粗は己自身だけでなく、部隊全体をも危険に晒す可能性がある」

 無理を言うな。ロイズはそう思ったが、思念には出さなかった。口の中には、粘り気のある苦みが残っている。
第一、大人と同列に扱うことからして無理なのだ。いくら異能者であるとはいえ、大人と子供の差は大きすぎる。
それも、長年訓練を重ねてきた歴戦の兵士と、八年前に生まれたばかりの子供では追い付けるはずもない。
そんなこと、ダニエルには解っているはずだ。なのになぜ、ロイズを隊員達と同列に扱おうとしてくるのだろうか。
それこそ、実戦の時に綻びが出る。ロイズを戦列に加えていたために負けそうになった戦闘も、何度かあった。
 父親はどうかしている。母親のフローレンスが戦死してからというもの、ダニエルは日に日におかしくなった。
ロイズは、奥歯を強く噛み締めた。言いたいことは増えていくが、増えるだけで口に出せないのが悔しかった。
 自分が、情けない。




 異能部隊は、寂れた街の片隅に留まっていた。
 前回は連合軍に嗅ぎ付かれてしまったが、今回は道を選びに選んで進んだので連合軍の目から逃れていた。
狭い街なので、人間の数も少ない。アンソニーの接触感応能力を用いて、住民の思念を徹底的に調べ回った。
余所者を好意的に受け入れてくれる人間はいなかったが、連合軍の息の掛かった人間はいないようだった。
不穏な気配はないが、安心することは出来ない。だが、戦闘をしなくていいと思うと、それだけで気が安らいだ。
 ダニエル・ファイガー率いる異能部隊が、任務のために共和国中を回り始めたのは、戦時中の頃からだった。
任務の内容について、ロイズは教えられたことがない。母親のフローレンスも、言えないなぁ、と言葉を濁した。
本当は任務なんてないのでは、と思うこともないこともなかったが、父親らの行動を見ているとそうとは思えない。
具体的な目標こそ見えないが、目的を持って行動している。無作為に行動したことなど、ただの一度もなかった。
異能部隊は戦闘部隊だ。共和国戦争前から編成されていた部隊で、どの隊員もよく訓練されていて確かに強い。
共和国軍そのものが解体されてしまったので、銃器の入手や補給はかなり難しいが、彼らには小銃など必要ない。
父親のダニエルは強力な念動力を持っているし、他の隊員もそれぞれに特異な異能力を生まれ付き持っている。
つまり、彼らは生きながらにして兵器なのだ。その上、人間よりも遥かに頑丈な魔導兵器、ヴェイパーも仲間だ。
前回のように、魔力封じや念力封じで力を封じられればまるで役に立たないが、そうならなければ非常に強い。
 その異能部隊に与えられた任務なのだから、相当なものなのだろうとは想像出来るが、何なのかは解らない。
教えてもらいたい、教えてもらわなければならない、とロイズも思っているが、相手が父親では深く突っ込めない。
母親が持っていたような精神感応能力がロイズに備わっていたなら、父親の心を読んで情報を引き出せただろう。
だが、ロイズの持っている力は、役に立つのか立たないのかよく解らない空間湾曲能力と僅かな念動力だけだ。
その空間湾曲能力も、自分一人ではまだ完全に制御することが出来ないので、ヴェイパーに一度力を通している。
全身が魔導金属で成されたヴェイパーを通すと、力の荒さが整えられるのでロイズにも制御出来るようになる。
しかし逆を言えば、ヴェイパーがいなければろくに能力も操れない役立たず、なのだ。実際、自分でもそう思う。
 ロイズは足を止め、上がった息を整えた。隊員達が留まっている廃屋から大分離れた場所まで、走ってきた。
背を丸めて肩を上下させていると、背を太い指に押された。ヴェイパーが、身を屈めてロイズを見下ろしている。

「ほら、立ち止まらないの。歩かないと、筋肉が硬くなっちゃうよ」

「解ってる」

 ロイズは額に滲んだ汗を拭い、砂利道を歩き出した。すぐ後ろを、ヴェイパーがゆっくりと歩く。

「もうしばらく進んだら、引き返そう。あんまり遠くに行くと、迷子になっちゃうかもしれないから」

「うん」

 ロイズは頷くと、足を前に進めた。今はほとんど使われていない道のようで、砂利道の両端は雑草だらけだ。
人が通ったような足跡もなく、馬車や蒸気自動車が通った痕跡もない。道の先は、鬱蒼とした森に繋がっている。
季節の移り変わりと共に生い茂った草木からは、青臭い匂いが漂ってくる。それが、先程の苦みを思い出させた。

「ピートさんの薬って、なんであんなにまずいんだよ」

 先程の魔法薬の味が舌の上に蘇り、ロイズは顔をしかめた。

「僕達の中で、魔法薬の調合を知っているのは彼だけだからね。隊長も知らないんだよ、あれだけは」

 難しいんだよ、とヴェイパーは付け加えた。ロイズは被っていた帽子を外して指先に引っ掛け、軽く回した。

「僕から見れば、そこら辺の雑草を引っこ抜いてきて潰しただけにしか思えないんだけど」

「野生の魔法植物は魔力が薄いから、平凡に見えるんだよ。ちゃんと育てた魔法植物って、凄いんだよ」

「どういうふうに?」

 ロイズが尋ねると、ヴェイパーは大きな手を広げた。

「旧王都にいた頃に何度か見たことがあるんだけど、色が凄いんだ。真っ赤だったり真っ青だったり真っ黒だったり、見た目も植物じゃなくて作り物みたいなんだ。形も凄くて、変なツタがうねうねしていたり、葉っぱもぐねぐねしていたり、実も変なのばかりだった。ブラッドの話によれば、やっぱり苦いらしいんだけど、調合でなんとか出来るんだってさ。僕にはさっぱりだけど」

「ヴェイパー」

 ロイズは帽子を被り直してから、振り返った。ヴェイパーは、ぎちりと首をかしげる。

「なあに?」

「その、いつも話に出てくるブラッドって人は、ヴェイパーの友達か何かなの?」

「うん。そうだよ。ブラッドは僕に色々なことを教えてくれた、とても大事な友達だよ」

「そのブラッドって人がいる場所が、これから向かうゼレイブってところなんだよね」

 ロイズが言うと、そうだよ、とヴェイパーが返した。

「しばらくゼレイブに留まって、補給するんだ」

「でも、皆の話じゃかなり遠い場所にあるみたいだけど、どうしてそんな遠いところに行くんだろう?」

 ロイズの疑問を受けたヴェイパーは、先程と反対側に首をかしげた。

「物資を確実に確保出来るからじゃないかな。ゼレイブは魔法で守られている街だし、隊長の友達もいるから」

「ふうん」

 ロイズは、その説明で一応納得した。引っ掛かる部分がないわけではなかったが、筋はちゃんと通っている。
今朝、物凄く苦い魔法薬を飲まされる前に、地図を広げてゼレイブの位置を説明されたが相当な田舎だった。
広大な共和国領土の南部に位置していて、隣国の国境に近い山脈のふもとにあるのだが、本当に小さかった。
 ロイズからしてみれば、そんな田舎で補給出来るとは思えない。いっそのこと、連合軍を襲った方が効率的だ。
ダニエルにはダニエルの考えがあるのかもしれないが、ヴェイパーが知らなければロイズが知るわけもなかった。
元々、ダニエルは必要以上に自分の考えを口にしない人間だ。饒舌なのは作戦前ぐらいで、普段は寡黙な男だ。
だから、こういうことは珍しいことではない。何も言わないのは作戦に自信があるからだ、と思うようにしている。
 現在、異能部隊が留まっている場所は共和国の西部だ。更に西に進めば海に出るが、海まで行ったことはない。
海の向こうにある島には滅ぼされた首都があり、廃墟と化した首都には連合軍の大部隊が駐留しているそうだ。
だから、首都と大陸の間の海域には連合軍の海軍が常におり、巨大な軍艦が行き来しているので入る隙はない。
増して、海上にはブリガドーンが浮かんでいる。そちらに近付いたら最後、何が起きるか解ったものではない。
 子供心としては、海を見たい、という気持ちもないわけではない。だが、危険を冒してまで見たいとは思わない。
けれど、心の底には母親が思念で見せてくれた海の情景が残留している。潮の匂い、煌めく波、美しい朝焼け。
母親のフローレンスは、高感度の精神感応能力を持っていた。だから、見せられた情景はかなり現実味があった。
他にも、フローレンスが思念で見せてくれたものは色々とある。楽しいことも、辛いことも、悲しいこともあった。
その一つ一つが大事で、母親との絆のように思えた。中でも海に関するものは、憧れも相まって印象深かった。
だが、それを見たいとも思わないと思うようになってしまった自分が、どうしようもなく空しくまた腹立たしかった。
 父親に毒されている。その毒によって、母親が与えてくれたものが薄められていくような、そんな気さえした。
父親に虐げられることには慣れている。度が過ぎると感じるようになっても、それは仕方ないのだと諦めが付く。
しかし、母親に絡むことが薄らぐのは耐えられない。そして、父親に染められるままの自分もまた耐えられない。
出来れば、これ以上父親に従いたくなかった。ゼレイブにも行きたくないし、異能部隊の中にも居続けたくない。
けれど、異能部隊を離れてしまえば生きていけない。色々と思い悩んでも、結局は生きていたいと思ってしまう。
それがまた、苛立ちを増させる。根性がない、と情けなくなるが、子供なのだから仕方ないと己に言い訳さえする。
それもまた、苛立ちの原因になる。ロイズはやりきれない気持ちを持て余しながら、足をただ前に進めていた。
 口中には、まだ苦みが残っていた。




 魔力鎮静剤が、荒ぶる力を宥めていく。
 ダニエルは意識を魔力中枢に向け、魔法薬によって異能力が安らぐ感覚を感じ取っていた。一応、効いている。
ピーターの作る薬は、苦すぎて効くのか効かないのか解らなくなる時がある。彼は、それほど器用ではない男だ。
こんなことだったら旧王都にいた時にフィリオラにでも苦くない魔法薬の調合を教えてもらえば良かった、と思った。
それは、ゼレイブに行けば出来るだろう。フィリオラに指導してもらえば、ピーターの魔法薬もまともになるはずだ。
 中世時代の残留物である古い塔の上に、ダニエルは立っていた。高い塔ではあるが、念動力を使えば簡単だ。
眼下に広がる街には、連合軍の目から逃れながら生きている人間達の姿がいくつかあったが、鮮やかさはない。
人は生きているが、街は死んでいる。大きな都市が連合軍に支配された今では、街と街の交流も流通もない。
鉄道も破壊され、街道も封鎖され、山道にも両軍の死体や兵器などが転がっているので、流れは生まれない。
その結果、何もかもが淀んでいく。元より細々としていた生活が更に細くなり、死に向かっていくだけの日々だ。
繁栄もなければ、再生もない。連合軍の勢いが少しでも緩まなければ、共和国が復興することは有り得ない。
新たな政府も立ち上げらなければ連合軍を追い出せないが、国際政府連盟による縛りは強さを増す一方だった。
このまま行けば、共和国という国は滅びる。他国の領土となり、支配下に置かれ、共和国という名を失うのだ。
寂しいが、それもまた時代の流れなのかもしれない。過去の歴史の中でも、負けた国は滅ぶのが常套だからだ。
 では、妻は負けたというのか。ダニエルは魔法薬とは違った重たい苦みが胸中に広がるのを感じ、顔を歪めた。

「何に、負けたというんだ」

 最愛の妻、フローレンスは死んだ。ダニエルの気付かぬ間に、心の底から愛した女は心臓を貫かれて死んだ。
 フローレンスはダニエルと同じように一人息子のロイズを愛していたが、我が子の愛し方だけは正反対だった。
ロイズを甘やかしていたのでダニエルが咎めると、フローレンスは言った。子供の幸せってのを教えてるのよ、と。
子育ての方針はそれほど違わなかったが、考えは違っていた。ダニエルは、最初から兵士として教育したかった。
それに対し、フローレンスは子供の頃ぐらいは子供らしく、と言っていた。解らないでもないが、甘すぎると思った。
 戦前ならまだしも、戦後の今は物騒だ。だからこそ、子供の身であっても生き延びられる方法を教えたかった。
ダニエルがそうだったからだ。幼い頃に、ギルディオス・ヴァトラス率いる異能部隊に入隊したので鍛えられた。
その頃の訓練や経験があるからこそ盤石な基礎が作られ、異能力に関しても格闘に関しても自信が持てている。
ダニエルは、それをロイズに与えてやりたいだけだ。異能力を持っている以上、その力と共生しなければならない。
力に振り回されたり押し潰されるのではなく、力と共に生きる。それこそが、異能者が生きる道だと確信している。
 フローレンスも、そう出来ていたはずだ。共に共和国軍時代の異能部隊で生き、戦中戦後も逞しく生きていた。
女だてらに他の隊員に負けずに戦い、時には自身の精神感応能力を使って敵勢を全滅させたことだってある。
腕力こそ男達には劣るが、フローレンスは弱くはない。その彼女が、背後からの一撃を受けて命を落としていた。
精神感応能力者のフローレンスが、背後の敵に気付かないわけがない。増して、一撃で貫かれるはずがない。
彼女の死体を接触感応能力者のアンソニーに調べてもらったが、手掛かりらしい情報は一切残っていなかった。
本当は徹底的に調べてやりたかったが、妻の死体を曝しておくのは忍びなく、一日も経たずに埋葬してやった。
 今にして思えば、動揺していた。仲間が死ぬことには慣れていたはずだが、愛する妻では衝撃の大きさが違う。
信じられなかった。信じたくなかった。受け入れたくなかった。知りたくなかった。だが、生々しく苛烈な現実だった。
 ダニエルには、異能部隊の隊長としての役割がある。隊長が崩れれば部隊が綻び、全員を危険に晒してしまう。
それを弁えているから、妻の死体を埋めた。ほんの少し温もりの残る、だが、硬くなった体を最後に抱き締めた。
鉄錆の匂いと土の匂いに混じって、体を重ねた時に感じる甘い匂いも感じた。それが空しくて、また悔しかった。
 手放したくもなかった。別れたくもなかった。死んでほしくなどなかった。けれど、フローレンスは死んでしまった。
死んだ者は生き返らない。生きていた頃は柔らかく温かかった体も、時間と共に腐り果てて汚らしいものと化す。
その光景を目の当たりにすることは、我慢出来なかった。だから、彼女が美しさを保っているうちに別れたのだ。
 フローレンスが死んだことをロイズに伝えると、ロイズは顔色を失い、嘘だ、と連呼して我を忘れて泣き喚いた。
ダニエルは沸き上がってくる様々な感情のままに、ロイズに手を上げた。妻の死体の元に引き摺って、教えた。
それで良かったのかどうか、今でも時折迷ってしまう。だが、それで良かったのだ。間違ったことはしていない。
誰しも、生きていれば死に直面する。曖昧に誤魔化したり、柔らかく伝えるよりも、知らしめた方が余程良い。

「やっと、一年か」

 他人の死があれほど悲しかったのは、初めてだった。胸苦しさのあまりに涙が出てきたのも、また初めてだ。
だが、上手く泣けなかった。長い間、軍人として、戦士として、部隊を束ねる者として、力んできたせいだろう。
肝心な時に力を抜けずに、妻の死すら悲しんでやれなかった。それが無性にやるせなく、物悲しいと思った。
 ゼレイブに行けば、少しはまともになるかもしれない。旧友、レオナルドに会えば、心も安らいでくれるだろう。
前隊長、ギルディオスにも会いたいがそれはまた次だ。今、会うべきは、心を許すことの出来る友人なのだ。
友人ならば、部下に言えないことも言える。補給の理由が自分自身というのは、隊長としては情けない気がした。
だが、このままでは前に進めなくなってしまう。任務に支障を来さないためにも、しばらく心を休める必要がある。
 そうしなければ、いずれダニエルは壊れるだろう。




 薄闇の中、ロイズは目を覚ました。
 訓練の疲労と空腹を感じながら、体を起こした。空き家の床に、屈強な隊員達が体を折り曲げて眠っている。
それぞれの体温で生温い空気は砂っぽく、肌がざらついている。しばらく目を開けていると、次第に慣れてきた。
低い天井とその隅に張ったクモの巣、壁際に放置された割れた食器などが目に付いた。無意識に、胸元を探る。
服の上から、五角形のものをきつく握り締めた。母親の形見でありヴェイパーとの繋がりである、魔導鉱石だ。
それを掴んでいると、落ち着いた。関節を軋ませながら起き上がると、玄関の扉が開いて淡い光が差し込んだ。

「誰が起きたのかと思ったが、お前だったか」

 逆光の中、ダニエルが立っていた。夜から朝に掛けて見張りを行っていたので、朝露で戦闘服が湿っていた。
ロイズが寝床から立ち上がって父親を見上げると、ダニエルは顎で外を示した。外へ行け、という意味だろう。

「起きたのなら出てこい。人の気配はないが、見張っておくに越したことはない」

「うん」

 ロイズが頷くと、ダニエルの強い目に見据えられた。

「早くしろ」

 ロイズは枕にしていた上着を広げて羽織り、他の隊員達を跨ぎながら進んでいき、細く開いた扉を擦り抜けた。
ダニエルは心なしか疲れているようだったが、表情は変わらなかった。ロイズは潰れた帽子を直し、頭に被った。

「後方はヴェイパーが固めている。お前はヴェイパーの元に行け」

「解った」

 ロイズはダニエルに背を向け、歩き出した。すると、帽子の上から頭を押さえられた。

「…あ」

「解ったのなら、早く行け」

 ダニエルはすぐに手を離すと、くるりと身を翻した。ロイズはかなり戸惑いながらも従い、空き家の裏手に回った。
帽子越しに感じた父親の手は少し冷たくて硬く、とても大きかった。まともに触られるのは、どれくらいぶりだろう。
嬉しいと思いそうになって、奥歯を噛んだ。あんな男に触られたことを、なぜ嬉しいと思わなければならないのだ。
胸に満ちた柔らかな感情が、途端に苦みに変化した。ロイズは乱暴に帽子を被り直し、ヴェイパーの元へ駆けた。
 衝動的に、泣きたい気持ちになった。だが、必死に堪えた。泣く意味もなければ理由もない、と何度も思った。
ロイズは喉の奥から迫り上がってくるものを押し殺すのに、必死だった。少しでも気を緩めれば涙が出そうだった。
 母親の笑顔が、ひどく恋しくなった。





 血を分けた存在であろうとも、心までは分かち合えない。
 在り方に迷う父親と、それを理解出来ない子は、それぞれに苦悩する。
 父と子の胸中は、苦しみから生じた味に満たされる。

 その味は、薬よりも遥かに苦いのである。






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