ドラゴンは滅びない




灰燼



 ロザリアは、地上を見下ろしていた。


 高い。遅い。つまらない。これに対して感じることは、それだけだった。地上には、楕円の長い影が落ちている。
海を泳ぐ鯨に似た形状の影は進行速度に合わせてゆったりと動いており、面白味もなければ刺激もなかった。
これなら、地上を走り回る蒸気自動車の方が余程素敵だ。窓に映っている自分の顔は、不機嫌そのものだった。
両手首に掛けられた手錠が鬱陶しく、両脇を固めている体格のいい軍人が邪魔だ。すぐにでも、撃ち殺したい。
だが、両手の自由が効かないので懐の拳銃を抜くことも出来ない。面倒なことになったわね、と内心でぼやいた。
 硬式飛行船の乗り心地はそれほど悪くない。蒸気機関車よりも穏やかで船よりも柔らかいが、刺激がなかった。
過ぎていく景色はあまり変わらないし、見えるものも地上と変わらない。どこまでも、似たような廃墟が続いている。
 ロザリアの座る席の脇を通った若い軍人が好色な目を向けてきたが、きつく睨み返すと足早に去っていった。
根性なし、と内心で毒突いてからロザリアは固い椅子に身を沈めた。壁には、真紅の軍旗が下げられている。
 金の房の付いた真紅の布には、金色の獅子が描かれている。近頃ではすっかり見慣れた、連合軍の紋章だ。
両脇を固める軍人の胸元にも、同じ紋章が付いている。要するに、ロザリアは連合軍に捕らえられているのだ。
当然、この飛行船は軍用なので内装は簡素だった。制服に身を固めている軍人もいるが、一般の兵士も多い。
 なぜこうなったのか、ロザリアには解らない。ヴィクトリアが旅に出て暇だったので、外を出歩いていただけだ。
殺す相手も見当たらないので適当に狙撃でもして遊ぼうかと思っていたところ、連合軍の車両が唐突に現れた。
そのまま有無を言わさずに車に押し込められ、気付いた頃には連合軍の飛行船に乗せられ、空を飛んでいた。
 椅子を通じて、内熱機関式駆動機関の唸りが伝わってくる。珍しいことに、この飛行船は蒸気機関ではない。
近年発達してきた揮発油を燃焼させて動く駆動機関で、共和国以外の国では普及し始めているもののようだ。
蒸気自動車よりも遥かに燃費が良く、また燃料の補給にも手間取らないのでかなり重宝されているのだそうだ。
そんな最新鋭の飛行船を使っているのだから、この部隊は連合軍の中でも地位の高い部隊なのかもしれない。
 夫、グレイスがいてくれたならすぐにでも逃げ出せたのだろうが、生憎ロザリアは魔法の腕はからっきしだ。
射撃の腕こそ優れているが、それ以外はまるでダメだ。だから、魔法を知っていても脱出など出来ないのだ。
このまま処刑されるのか、と思うと腹立たしくなってくる。手持ちの弾丸を全て使って、殺せるだけ殺してやろう。
そうでもしなければ気が済まない、とロザリアが苛立ちを募らせていると、板張りの床を踏み締める音がした。
革靴の硬い底が、板を叩いて近付いてくる。どうせまた軍人だろう、と思っていると、明るい声が掛けられた。

「いよう、ロザリア!」

 いきなり名を呼ばれ、ロザリアが驚愕に目を丸めると、その男は体格の良い軍人を押し退けてきた。

「元気してた?」

 ロザリアが驚きのあまりに言葉を失っていると、彼は度の入っていない丸メガネの下でにこにこと笑った。

「オレはね、超元気!」

「…どうして、あなたがここにいるの」

 ロザリアは事態を把握出来ず、率直な疑問を呟いた。だが、彼は答えるより先にロザリアを抱え上げた。

「あ、きゃあっ」

 横抱きに持ち上げられ、ロザリアは声を裏返した。ロザリアを警護していた軍人が、困惑しながら中腰に立った。

「特別管理官。その女は、一体なんなのですか。命じられた通り、連行してきたのですが」

「ケガさせてねぇな、手錠もきつくねぇな、縛ったりしてねぇな、薬も飲ませてねぇな、よーしよおし」

 抱え上げたロザリアの目の前に顔を寄せて、彼は入念に眺め回してきた。肩に付けられた階級章は、大佐だ。
度の入っていないメガネも、しっとりとした長い黒髪の三つ編みも、灰色の瞳も、声も、ロザリアの夫に違いない。
だが、状況が全く把握出来なかった。ここは連合軍の飛行船の中だ。それに彼は、特別管理官、と呼ばれていた。
一体何がどうなっている。ロザリアがひどく混乱していると、夫、グレイスはロザリアの耳元に口を寄せて囁いた。

「相変わらず綺麗だぜ」

「馬鹿…」

 不意のことに、ロザリアは頬が熱くなってしまった。顔を離す前に頬に口付けられ、ますます紅潮してしまう。

「じゃ、オレは愛しの妻との再会に勤しんでくる。お前らは適当にやっとけ」

 グレイスはにやにやしながら、ロザリアを抱えたまま歩き出した。困惑したロザリアは、夫の胸に縋った。

「ねえ、ちょっと」

 床を鳴らしながら進むグレイスの足取りは軽く、ロザリアの体重をものともしていないどころか浮かれている。
一番大きな船室を出て通路に入ると、その両脇に控えていた兵士が軍靴を鳴らして背筋を伸ばし、敬礼した。
グレイスは軽すぎる言葉で彼らを労ってから、奥へと向かった。通路の一番奥には、やけに豪奢な扉があった。
 その扉の前にも二人の兵士がいたが、雰囲気が違う。肌の色素が薄く、表情もなく、人形のように立っている。
男と女だが、どちらも同じようなものに見えた。グレイスが通りかかっても反応することはなく、敬礼もしなかった。
この兵士達は、ただの人間とは思えない。ロザリアが少々訝っていると、グレイスは扉を勢い良く蹴り飛ばした。

「ご開帳ー!」

 どばぁん、と盛大に開け放たれた扉の中に入ったグレイスは、廊下に振り返った。

「エカテリーナ、アレクセイ。お前らも適当に休んでおけ。どうせ、基地に着くまで退屈なんだから」

「了解しました」

 無機質な男女は声を揃えて答え、全く同じ動作で敬礼をした。やはり人間らしくはなく、機械じみている動作だ。
グレイスは背中で扉を閉めると、口の中で魔法を唱えて鍵を掛けた。部屋の中も、扉と同じく豪奢に作られていた。
既視感があるばかりか、落ち着く雰囲気の部屋だ。思い出してみれば、灰色の城の居間もこんな感じの内装だ。
毛足の長い絨毯が敷き詰められ、応接用のテーブルとソファーと幅の広い机、ベッドまでが備え付けられていた。
机の上には大量の書類が積み重ねられていたが、ほとんど手を付けていないのか整理すらされていなかった。
ロザリアが物珍しさで部屋の中を見回していると、いきなり放り投げられた。その先は、当然ながらベッドの上だ。

「やっ」

 思い掛けないことにロザリアが悲鳴を上げると、すぐさまグレイスが覆い被さってきた。

「可愛いなぁ、もう」

「あんまり乱暴にしないでくれる?」

 グレイスの体の下からロザリアは文句を言ったが、グレイスはだらしなく笑っている。

「一年半も会えなかったんだ、オレも溜まってんだよ。ちったあ許してくれよ、ロザリア」

「その前に」

 ロザリアは足を上げ、かかとの高い靴底でグレイスの腹部を押し上げた。

「何がどうなってこういう状況になっているのか、きちんと説明してくれないかしら。説明してくれなかったら、私もその気にはなれないわよ」

「すぐにその気にさせてやるのに」

「その脳天を撃ち抜くわよ。大体何よ、久々に会えたと思ったらいきなりあんなことして。恥ずかしいじゃないの!」

「それがいいんだよぅ。お前が恥じらう姿は最高なのに」

「あのねぇ…」

 ロザリアは顔を背け、ため息を零した。グレイスは顔を伏せ、妻の白い首筋に顔を埋める。

「ま、いいさ。話せる範囲だけなら話してやるよ」

 シーツの上に散らばった黒髪の感触と匂いを存分に味わってから、グレイスは妻の耳元に口を寄せた。

「但し、それは存分に楽しんだ後だ」

 ロザリアが言い返すよりも先に、グレイスは妻に深く口付けた。舌を差し込み、少々荒っぽく絡め合わせた。
ロザリアはグレイスの体を押し退けようとしたが、一年半振りに会えた嬉しさからか力が入らず、抗えなかった。
久し振りだからか、頭の芯が痺れそうになる。ロザリアは頭を上げて夫の首に腕を回し、口付けを堪能した。
 グレイスが仕事で城を留守にするのは慣れていたはずだが、こんなに長いのは初めてだったので切なかった。
その空虚な気持ちを紛らわそうにも気晴らしに殺せる人間もおらず、一人娘のヴィクトリアも外出してしまった。
灰色の城のメイドでグレイスの傀儡であるレベッカもいなくなっていたので、ロザリアは一人きりになっていた。
 灰色の城は、一人でいるには大きすぎる。物資は足りていたが刺激が足りず、改めて家族が大事だと思った。
娘もそうだが、夫こそが欠かせない。生まれて初めて心から愛した男であり、心から愛してくれる男なのだから。
一年半の空白の時間を埋めてしまうために、ロザリアはいつになく積極的に夫を求め、欲動のままに動いた。
 達するまで、それほど時間は掛からなかった。


 事を終えると、気怠い空気が漂った。
 ロザリアは火照りと甘い疼きが濃く残る体に、グレイスの着ていた連合軍の軍服を羽織ってベッドに座った。
グレイスは実に幸せそうな顔をして、下半身だけ服を着た姿で立派な椅子に座っていた。かなりだらしない姿だ。
ロザリアはそれを咎めようかと思ったが、口を閉じた。久々に会えたのだから、少しぐらいは許してやらなくては。
カーテンを開け放った船室の窓の外では、薄い雲が流れている。その下に見える景色は、相変わらず廃墟だ。
ロザリアは立ち上がって夫に近付くと、その膝に腰掛けた。乱れてしまった長い黒髪に、グレイスが指を通した。

「愛してるぜ、ロザリア」

 満ち足りた表情のグレイスに、ロザリアは微笑んだ。

「ええ、愛しているわ、グレイス」

 腰に腕が回され、引き寄せられた。ロザリアはそれに従い、夫の肩に頭を預けた。

「そろそろ、教えてくれてもいいんじゃない?」

「そうだな。どこから話そうかなぁ」

 グレイスはロザリアを抱き締めながら椅子に体重を預け、背もたれを重たく軋ませた。

「そうだな、最初はこれだな」

 グレイスはロザリアの着ている軍服のポケットを探ると、そこから小さな印画紙を取り出した。

「何、写真?」

 ロザリアは、夫の手から白黒の写真を受け取った。そこには、人とも機械とも付かないものが撮影されていた。
それも、三体。手前のものは豊満な胸とくびれた腰を持つ女性的な外見をしているが、両腕には砲が付いている。
真ん中のものは女性のようなものよりも遥かに大きな体格で、頭部にはネコのような耳があるのが特徴的だった。
一番奥のものは細長い体格で、両腕に翼のような金属板が付けられ、頭もクチバシのような装甲が付いていた。
 外見はどれも違っているが、似通った部分が一つだけある。三体とも、胸元に五角形の台座があることだった。
だが、台座は空っぽだった。そこに填るべき五角形の何かが、まだ填っていない頃に撮られた写真なのだろう。
三体は魔法陣が描かれた上に直立させられていて、その周辺では技師と思しき作業服の男達が仕事をしていた。

「こいつは、大国にある連合軍基地の作業所の写真だ」

「連合軍の?」

 ロザリアが聞き返すと、グレイスは頷いた。

「ここに映ってる魔導技師共は共和国から逃げ出した連中なんだが、とっ捕まって収容所入りになってたんだ。それを手当たり次第に引っこ抜いてきて、魔導兵器を造らせていたらしい」

「ありがちな話ね」

「まぁな。だが、ここから先がちょっと面倒なんだよ」

 グレイスは写真を妻の太股の上に置くと、写真に写る魔導技師の一人を指した。

「その魔導技師の中に、死んだはずの男がいたんだ。このオレ様がきっちり呪い殺してやったはずの、ウィリアム・サンダースがな。ほれ、こいつだ」

「あら、本当ね。よく似ているわ」

 ロザリアは、夫の指している男を見た。屈強であった体格は強制労働で萎み、顔も窶れているが間違いない。
ロザリアも、一度ぐらいはウィリアム・サンダースを目にしている。戦前の旧王都で、彼は夫に利用されていた。
グレイスに命じられるままに、ラミアン・ブラドールの魂を閉じこめた狂気の機械人形、アルゼンタムを造った。
だが、猟奇殺人を繰り返すアルゼンタムに恐れを成したのか、ウィリアムは娘のキャロルを置いて逃げ出した。
ウィリアムには、グレイスに逆らえば死す反逆を禁ずる呪いが掛けられていたので、逃亡と同時に死んだはずだ。
ならば、この写真はそれよりも前のものなのか。だが、写真の隅に入れられている日付は、二年前の初夏だ。
この日付を素直に信じるのであれば、ウィリアム・サンダースは夫の呪いから逃れて生きていたことになる。
 しかし、ウィリアムはただの魔導技師だ。魔法の心得はあるだろうが、夫の呪いを打ち破れるほどではない。
となれば、誰かがウィリアムの呪いを解いた、ということか。それが誰なのか、ロザリアは察しが付いていた。

「キース・ドラグーンが一枚噛んでいるのね?」

「ご名答ー。さすがは元刑事さん」

 グレイスは写真を指の間に挟み、ぴらぴらと振った。

「この写真は、オレが一年半前に殺した連合軍の諜報部員の荷物から出てきたものなんだ。そいつは魔導師暗殺のための情報伝達役をしていて、オレの周辺も嗅ぎ回ってたんで目障りだったんだよ。で、さくっと殺して荷物をぶちまけたら、魔導師協会の名簿とかと一緒にこの写真が出てきたってわけ。呪い殺したはずの男が生きているなんてのは呪術師にとっては最大の屈辱だから、今度こそウィリアム・サンダースを殺すためにオレは連合軍に潜入したってわけ。魔法と金と呪いを使って軍人共をちゃっちゃとたらし込んで、三ヶ月ぐらいでウィリアム・サンダースの元に辿り着いてきっちり殺してやったんだ。殺す前に記憶を洗いざらい引っこ抜いたら、案の定、キースの野郎の仕業だったよ。キースは旧王都から逃げ出したウィリアム・サンダースを拾って、このオレの呪いを解きやがって、その上から今度は自分の呪いを掛けたんだ。オレの呪いを長期間受けていたせいでかなり弱っていたウィリアム・サンダースの魂は、呆気なくキースの呪いに掛かってちまって、キースの意のままに動く木偶人形にされたのさ。だが、知能は生かしたままだった。アルゼンタムみてぇな魔導兵器をじゃんじゃん造らせるつもりだったんだろう。他にも、人造魔物の研究をしていた奴に人造魔物を造らせてみたり、その魂を強くさせるために人造魔物を薬やら魔法やらで何度も殺したり生き返らせたりしたり、国外で捕まえて運んできた魔物も痛め付けてみたり、ジョセフィーヌの肉体に代わる新しい肉体になる奴を捕まえてきて閉じこめておいたり、まー、とにかく色んなことをやらかしてたんだよ。どれもこれもえげつないが、オレの知る情報はウィリアム・サンダースの記憶だけだったからイマイチ情報が足りなくて、何がやりたいのかさっぱりだった。その上、キースの奴は事を始める前に死んじまった」

 ていうかオレらが殺したんだよな、とグレイスは得意げに笑った。

「連合軍は魔導師を殺す傍らで、キースの目的が何だったのかを探ろうとしていたのさ。キースのやりたかったことを探り出して、それを今後の作戦に役立てるつもりだったらしいんだ。近頃の人間にしてはなかなか頑張っていた方だったんだが、魔法の知識がないんで調べられる範囲にも限度があったんで探り切れなかったんだ。だが、連合軍は何が何でもキースの思惑を知って利用したかった。しかし、ただの諜報員では役に立たない。いっそのこと竜族にでも話を聞くか、って相談を軍の上層部がしていたところに飛び込んできたのがこのオレってわけ。それが、一年半と一ヶ月半前の話だ。丁度その頃、オレは連合軍に若手の幹部候補として潜り込んでいたから、上の連中に近付くのも簡単だったよ。兵隊と部下と資金をくれるって言うから、引き受けてやったのさ」

「それで、この写真に写っている魔導兵器が、キースのやりたかったことなの?」

「まぁ、そういうこと。アルゼンタムが上手く出来たことに味を占めたんで、第二弾の製作に取りかかったのさ。だが、それが完成するよりも前にキースは死んじまった。けれど、キースの書いた三体の魔導兵器の設計図や魔導兵器を造り上げる技術を持った連中は生きていた。恐らくキースは、オレが書いてウィリアム・サンダースに渡したアルゼンタムの設計図を参考にしたんだろうな。あの野郎は性格こそ最悪だったが、頭は結構良かったからな。それぐらいのことが出来たって、なんら不思議はねぇ。連合軍はそこに目を付けたのさ」

「でも、連合軍は魔法が嫌いじゃなかった? 嫌いだから、魔導師を皆殺しにしているんじゃないの?」

「それもそうなんだが、他にも理由があるらしい。オレは興味ないけど」

「そうなの。けれど、面白いことがあるから、あなたは連合軍なんかに付いているのよね?」

「まぁな。このオレ様の助言でこの三体の魔導兵器は無事完成したんだけど、完成と同時に三体ともどこかに消えちまってさあ。そいつを探し出せって言われて探してたんだけど、見つからなかったんだ。ついこの間までは、な」

 グレイスはロザリアの着ている軍服の胸ポケットを探り、もう一枚の写真を取り出した。

「ほれ」

 小さな印画紙の中には、先程の写真に写っていたあの女性型の魔導兵器と思しき後ろ姿が撮影されていた。
長い足に両腕の武装を持った兵器が女性らしい長髪を翻して空へ飛び去る姿だが、隅には死体が転がっている。

「写真ってのは便利だよなー、マジで。こいつは共和国東部で撮影されたんだが、目撃報告は他にも大量にある」

 グレイスはロザリアの脇に顔を出し、にやける。

「最初は無作為に破壊活動を行っているように思えたんだが、回数を重ねるうちに法則性が見えてきたんだ。こいつらは魔導師協会の廃墟を襲ったり、隠れ住んでいる魔導師を殺したり、書庫や図書館を焼き払ったりして、禁書に分類されている魔導書を集めているんだ。確信を得るために、連合軍の適当な部隊に禁書を運ばせたら襲ってきたからまず間違いないだろう」

「禁書?」

 聞き覚えのある単語に、ロザリアは顔を上げた。グレイスは頷く。

「そう、禁書。禁書ってのは魔導師協会が分類した危険な魔導書の通称だが、禁書が存在していることを知っている魔導師はあまりいない。せいぜい役員か高位魔導師か、ぐらいだが、そのほとんどは連合軍に抹殺されている。禁書目録もあるが、オレがどさくさに紛れて奪ったものを含めても三冊しかない上に禁書の題名を全て書き記してあるわけじゃない。だが、あの三体の魔導兵器は、禁書目録に記されていた禁書を徹底的に奪っていった。行動の効率が良すぎて、ちょっと恐ろしいくらいだ。となれば、連中を手引きしている奴が裏にいるはずだ。戦火と連合軍の追っ手から逃れて未だに生き残り、あまつさえ全ての禁書を把握している魔導師協会役員なんて、この世に一人しかいねぇだろ?」

「あら、そうなの。それはそれとして、特別管理官って何よ? いい加減すぎない?」

 ロザリアは、軍服の肩に付いている階級章を引っ張った。星が三つに線が二本、刺繍されている。

「丁度良いのがなかったの。でもないわけにいかないじゃん? だから、即興で考えて作った役職だよ。地位もそう。大佐ぐらいでいいんじゃないっすか、ってお偉いさんに言ったら次の日から大佐になっちゃってたの」

 グレイスは甘えるように、ロザリアの背に寄り掛かった。

「それで、ヴィクトリアはどうした? 迎えに行かせた兵士共の話じゃ、城にも旧王都にもいなかったようだが」

「ヴィクトリアは、その禁書を探しに出かけちゃったわ。あなたの愛しの重剣士と一緒にね」

 ロザリアは冗談めかして言ったが、グレイスはいやに神妙な顔をした。

「そっか…」

「どうしたの、グレイス」

「いや、別に。ヴィクトリアも大きくなったんだなぁってさ」

 グレイスはロザリアの髪を乱し、笑んだ。

「そうだよな。その方がいい。お前も、オレに付き合いたくなかったらすぐに旧王都に帰してやるぜ」

「嫌よ」

 ロザリアは即座に反論し、グレイスに詰め寄った。

「またあなたと離れなければならないなんて、考えただけで苦しいわ。それに何よ、気弱なことを言うなんてちっともあなたらしくないわ。帰れ、なんて言われたら、尚のこと一緒にいたくなるわ」

「じゃ、いてくれるんだな?」

「当たり前よ」

 ロザリアはグレイスを引き寄せて口付け、唇を離してから呟いた。

「あなたみたいなのに付いていけるのは、私ぐらいしかいないんじゃなくて?」

「あーもう、可愛い!」

 グレイスはロザリアを力一杯抱き締めたが、手に触れた滑らかな素肌は少し冷え始めていた。

「さすがに服着ようか。寒いし」

「忘れていたわ」

 ロザリアはグレイスの膝から降りると軍服を彼に放り投げてから、脱ぎ散らかした服を着込んだ。

「それと、もう一つ聞いていい?」

「なんだよ」

 シャツの袖に腕を通しながら、グレイスは振り向いた。ロザリアは下着を着てから、スカートを履く。

「レベッカが見当たらないんだけど」

「さあてな」

 グレイスは顔を逸らすと、軍服を羽織った。三つ編みを抜き、背中に放り投げた。

「その質問に答えるのは、また今度だ」

 グレイスは表情を戻したが、声色にはやや冷淡さが残っていた。先程の態度といい、少しばかり引っ掛かった。
何か、含みがある。だが、それを言及してはいけないような雰囲気が漂っていたので、ロザリアは黙っていた。
 グレイスは、ロザリアには把握しきれないほどのものを抱えている。呪術の仕事だけではない、様々なものを。
夫婦として暮らしてきた十二年と少しの年月では、七百年以上も長らえている彼の全てが解るはずがないのだ。
話してくれることもあるが、それは一端でしかない。グレイス・ルーを知り尽くしているのは、彼しかいないだろう。
だから、無理に話してくれなくてもいい。ロザリアは服を着終えると、グレイスの背に縋って彼の体に腕を回した。

「グレイス」

 グレイスは胸元に回された妻の手に、己の手を重ねて握り締めた。

「オレが連合軍に任された仕事は、キースのお遊びの後始末だけじゃねぇ。ブリガドーンの攻略もしろって言われているんだ。それだけは、教えといてやるぜ」

「そう。でも、あなたならなんだって出来るわ。あなたに出来ないことなんて、この世にはないわ」

「ああ、そんなのは世界の常識だ。宇宙の真理だぜ」

 グレイスはロザリアの腕を緩めさせると、その手の甲に口付けてから扉に向かった。

「オレは先に船を下りる。基地にはオレの密偵が帰還しているはずだから、情報を聞き出しておきたいんでね」

 じゃな、と軽く手を振りながらグレイスは部屋から出た。開いた扉の隙間からは、あの二人の姿が見えていた。
エカテリーナとアレクセイと呼ばれた二人の兵士は、最初に見た時と全く変わらない格好で立ち尽くしていた。
足元の砂粒一つ、髪の毛の毛先一つ、動いていないに違いない。やはり、この二人は人間ではなさそうだった。
だが、どうでもいい。ロザリアはグレイスの感触が残る右手を気にしつつ、背もたれの大きい椅子に腰掛けた。
 着陸地点は、連合軍基地だった。飛行船は降下しつつあり、遥か下に見えていた地面が徐々に迫っていた。
広大な土地が背の高い柵に囲まれ、その中にはくすんだ色の幌を張った巨大なテントがいくつも並べられていた。
その屋根には、連合軍の紋章が印されていた。ロザリアは体に残る夫の体温を味わい、感嘆のため息を零した。
 グレイス。愛する夫。愛おしい男。尊い存在。一年半の空白を経ても、彼への思いは少しも揺らいでいなかった。
重ねたばかりの体よりも、心の奥底が熱い。この熱になら、体ごと溶かされて焼き尽くされても構わないと思った。
いっそ、灰と化してもいいと思った。この幸福を噛み締めたまま死ねるのならば、どれほど素晴らしいことだろうか。
 グレイス・ルー。灰色の呪術師。遠き時代から業と罪を積み重ね、屍と憎悪の上に立って生きる、人ならざる人。
そんな男を愛した瞬間から、運命は決まっている。彼と同じように罪人として裁かれるか、共に殺されるか、だ。
後悔はしていない。それどころか、そんな男に愛されて血を分けた娘まで成した自分が、誇らしいとさえ思える。
 連合軍の思惑。三体の人造魔導兵器の目的。ブリガドーンの存在。禁書の意味。そんなことに、興味はない。
グレイスさえいてくれれば、他はどうでもいい。ロザリアは恍惚としながら目を細め、廃墟の町並みを見下ろした。
 生ける者がいない世界は、とても美しい。




 灰色の呪術師を愛し、愛される女。
 その業の深さに魅入られた彼女もまた、深き業の底に在る。
 闇で成された世界の内側から、見ているからこそ。

 灰色が、麗しき色に見えるのである。






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