ルージュは、物思いに耽っていた。 果てしない水平線から走ってきた風が、銀色の髪をなびかせる。硬い毛先が装甲を掠り、耳障りな音を立てた。 絶え間ない潮騒が聞こえ、山肌を抜ける風の鳴き声もする。だが、どの音もルージュの聴覚には届かなかった。 先日の出来事が思考を支配し、感覚を鈍らせている。ブラッド・ブラドール。思い出すたび、魂が締め付けられる。 ルージュは岩に背を預け、左手で胸元に埋められた五角形の魔導鉱石を握った。指の間から、光が零れる。 赤みを帯びた紫の淡い光が、銀色の頬を照らす。死した魂から発する光には、生き物の暖かみは存在しない。 男など嫌いだ。好きになるわけがない。同族だから気に掛かっているだけだ。だが、体が熱するほど心が熱い。 左手の下の胸の奥、動力機関の代わりに体内に備え付けられている人造魔力中枢からも熱が生じるほどだった。 先日、全身に入り込んだ湖水と泥は、洗浄して完全に除去した。三度の雷撃で故障した箇所も、修復されている。 だが、心は元に戻らない。ブラッドに対する複雑な感情は日に日に募るばかりで、気が付けばいつも考えている。 「どうした」 不意に声を掛けられ、ルージュは反射的に身構えたが、すぐに緩めた。 「いや、別に」 「二人が貴様を気に掛けておったぞ。あの馬鹿鳥は、吸血鬼女のネジが緩んだ、などと下らんことを言っておった」 成長しきっていない、少女の高い声。だが、口調は極めて平坦で抑揚がなく、老成した落ち着きを含んでいた。 声の主は、ルージュの頭上に張り出している岩石に腰掛けていた。古めかしい、闇色のローブを身に纏っている。 袖が末広がりでスカートも長いが、両脇には深いスリットが入っている。そこから、滑らかな細い足が伸びていた。 脹ら脛の中程までの長さがある革製のブーツもまた古めかしく、随分と使い込まれているので艶が良く柔らかい。 華奢な腰をベルトで縛り、長く真っ直ぐな緑髪を頭の後ろで一括りにしている。頭には、二本のツノが生えている。 耳は長く尖っており、その左耳にだけ銀のピアスが付けられていた。だが、最も目を引くのはその顔立ちだった。 人形の如く整った、作り物じみた顔。幼いながらも色気を含んでおり、彼女には得も言われぬ美しさがあった。 形の良い鼻筋、薄い唇、白い頬、華奢な顎、頼りない首筋。だが、その瞳は赤く、人ではないことを示していた。 彼女は立ち上がると、岩石を軽く蹴った。宙に躍り出ると、背中から生えている若草色の翼をばさりと広げた。 器用に風を孕み、ルージュの目の前に着地する。翼を折り畳んだ彼女は、赤い瞳を上げてルージュを見やった。 「何か、あったのか」 「大したことではない。本当に、どうでもいいことなんだ」 ルージュは、首を横に振る。彼女は、きつく吊り上がった目を少し細める。 「ほう」 彼女は訝しげではあったが、それ以上は問い詰めてこなかった。ルージュは、内心で安堵する。 「禁書の回収作業は順調だ。多少の邪魔は入っているが、問題ではない」 「連合軍にも目を配れ。そろそろ、あちらも動いてくる頃だろうからな」 「承知している。だが、連合軍は一体何の目的を持って首都へ向かっているんだ。立地的に考えて、廃墟と化した首都に前線基地を構えたところで何の利点もないように思える。首都のある島側は大陸側に比べて土地も狭いし、制圧はとっくに完了しているはずだ。軍艦や歩兵部隊を呼び付けて兵力を掻き集めているようだが、連合軍はどこの誰と戦うつもりでいるんだ」 ルージュが言うと、彼女は腕を組んで眉を曲げた。 「考えるまでもなかろう、ここを襲撃するつもりでおるのだ。共和国を事実上征服した連合軍がまだ手を出しておらんのは、空に浮かぶ土地だけだからな。だが、予想よりも随分と敵の動きが遅いことが気になるが、慎重になるのも無理からぬことやもしれん。準備段階で派手なことをすれば、国際政府連盟から目を付けられるからな。連合軍、いや、大国も決して馬鹿ではない。敢えて時間を掛けて兵力を掻き集めるなどの準備を行えば、多少は誤魔化しが効くからな。もっとも、標的であるこちらからは丸解りだがな。恐らく、作戦を展開するための部隊の他に、共和国内の統治という名の征服を行うための部隊を混ぜているはずだ。比率では、その征服部隊の方が多いかもしれぬ。戦後の混乱で共和国が無政府状態に陥っているうちに様々な部分に手を加えておけば、後でやりやすくなるのだ。新政府を立ち上げる前段階として生き残りの共和国国民を徹底的に懐柔させておけば、連合軍から引き抜かれた者が新たな指導者となっても反乱は起きづらいだろうからな。そして、収容所に押し込めていた人々を解放して一時の自由を味わわせ、収容所時代と比べれば幾分まともな環境に置いてやる。彼らが元の暮らしに戻ろうと四苦八苦している間に新国家が旗揚げされ、指導者は耳障りの良い甘言を並べ立てる。だがその裏では、利己的かつ強攻な政治を始めることだろう。そして、復興が終わり人々が政府にまで気を向けられる余裕が出た頃には、共和国は隅から隅まで大国に染められている、という結末だ。また、行き着く先は軍事国家なのかもしれんな。世界では民主主義が取り入れられ始めたというのに、またそうなっては旧時代に逆戻りではないか。いい加減、飽きたぞ」 「民主主義とは」 ルージュの問いに、彼女は面倒そうに、だが的確に返した。 「その名の通りのことだ。指導者を民衆の手で選び、民衆の意見を尊重し、民衆が生きやすい国を作るための方針だ。帝国主義や軍国主義は長続きせん上に、時代に合っていないからな。そんなことも知らんのか、貴様は」 「そういうことは、私には関係ないから興味もない」 「視野が狭いな。私の側近だった男は、もう少し世界を広く持っておったが」 「だが、それらは人間だけに適応されることだ。私達のような存在には、関わりのない話だ」 「その体を得ている時点で、充分関わっているではないか」 「あなたに付いた時点で、あちらとの関係は失っている」 ルージュは、竜の少女を見据えた。竜族特有の赤い瞳と、無機物の赤い瞳の視線が交わる。 「フィフィリアンヌ・ドラグーン」 「私に付いたぐらいで、一度生じた縁 竜の少女、フィフィリアンヌはルージュの瞳を見返した。 「ルージュ。貴様は使い勝手の良い者だ。ラオフーに比べれば力加減を弁え、フリューゲルよりも遥かに頭が冴えているが、考え方がいやに後ろに向いておる。貴様は死人であるから無理もないことだとは思うが、少々度が過ぎているように感じるのだが」 「死した者に、前を向けという方が無理ではないか?」 「別にそうは言ってはおらん。貴様ら三人は、実に効率良く禁書を集めてくれた。私の計算を遥かに上回る勢いで、連合軍ばかりかあのニワトリ頭もはね除け、禁書目録に記載していた禁書の九割九分は取り戻した。程なくして、私の命じた仕事は終わる。そうなれば、貴様らは自由の身となる。私は貴様らという存在を有効に活用するために、連合軍の基地から奪い取っただけに過ぎんのだ。その目的である禁書の奪還が終わってしまえば、貴様らと私が連携する意味はない。貴様らも私を好いていないようだし、私も貴様らに執着があるわけではない。ニワトリ頭のような物好きもおらんようだしな。もっとも、連合軍に追われることにはなるかもしれんが、貴様らのような魔導兵器であればそう簡単にやられはせんだろうて」 「そのようだな」 「なんだ、嬉しくないのか? あの馬鹿鳥とネコ被りのトラは大いに喜んでおったが」 「嬉しくない、というわけではない。だが」 「行く当てもないのであれば、ゼレイブ辺りに向かえば良い。ラミアンなら、貴様を理解するだろう」 「ラミアン・ブラドールか」 「そうだ。奴は気取った性格と妙な言い回しが鼻に突くが、頭はそれなりの男だ。奴も貴様も魔導兵器と化した身だ、何か通ずるものはあるはずだ。それ以前に、同族でもある。面倒な輩もおらんことはないが、フィリオラがおるのだから問題はないだろう。あの子は誰も彼も受け止めてしまうからな」 「そこに、いるのか?」 ラミアン・ブラドールがいるのなら、息子のブラッドもいるはずだ。ルージュは、僅かに視線を彷徨わせた。 「ああ、いるぞ。ラミアン・ブラドールの一人息子、ブラッドもおる。奴も同族と言えば同族だ」 フィフィリアンヌは、ルージュの眼差しが揺れたことを見逃さなかった。 「ルージュ。もしやとは思うが、ブラッドに何かされたのか?」 「い、いや、別に、何もされてはいない! それに、会ったというわけでは!」 思考を見透かされたのか、とルージュはぎょっとして身を引いた。フィフィリアンヌは、淡々と言う。 「奴も今年で二十歳になる。子供だとばかり思っておったが、いつのまにか大きくなりよった。ゼレイブは山奥にある小さな村であるから、若い女などおらん。前はおったかもしれんが、戦争で若い男達が出征してしまったから家族共々ゼレイブを出てしまっていることだろう。フィリオラとレオナルドの娘のリリはおるが、あれはまだ小さすぎてな。そのような環境に置かれれば、いくら奴とて溜まるものもあるだろうて。増して、父親がラミアンと来ている。あの男の言いつけを忠実に守っているのであれば、近くの街に女を買いに行きもせんだろう。その上、レオナルドは少々品性に欠ける男だから下の話もするはずだ。好奇心旺盛で血気盛んな二十歳の男が、それに興味を持たんわけがない。まあ、貴様の体が体だから無理に出来るとは思えんが、やろうと思えば出来んこともなかろうて」 「されるわけがないだろう!」 「ほう。なぜ、されないと言い張れる?」 「それは、その、そういう性格の男とは思えないからだ」 ルージュが躊躇いながらも返すと、フィフィリアンヌは組んでいた腕を解いた。 「ラミアンは生粋の吸血鬼族であったから、顔だけは良い男であった。そのラミアンに似てきたのであれば、ブラッドもさぞや見た目だけは良い男になったことだろう。貴様は面食いなのか?」 「だから、そういうわけでは」 「顔が良いだけの男というものはつまらんぞ、ルージュ。ブラッドは顔は良いかもしれんが、勉強不足だから魔法の腕は今一つであるし、あんな田舎に引っ込んでおるものだから世間には疎いし、普通の人間よりは強いかもしれんが私の尺度で考えれば大したことはないし、物を知らんくせに生意気であるし、ニワトリ頭のことを見習いすぎたようで感情ばかりが先走って行動が伴わないし、吸血鬼としての自覚が未だに薄い部分が」 「そんなことはない!」 ルージュは叫んでから、顔を逸らした。ブラッドを貶める言葉を聞かされていると、なぜか腹が立ってしまった。 他人のことなのだから、何をどう言われても関係ないはずだ。だが、神経を逆撫でされるような気分になっていた。 そうではない。そうであるはずがない。そうであってほしくない。そんなことを思った末に、つい声を荒げてしまった。 何が、そんなことはないのだ。ルージュはブラッドのことをほとんど知らないのだから、判断など付かないはずだ。 なのに、なぜそこまで苛立ってしまったのだ。ルージュは居たたまれなくなってきて、逃げ出したい気分になった。 「そうか。ブラッドに会ったのだな? それが貴様の懸念の正体か」 鎌を掛けられたのだ。ルージュが気付いた時には既に遅く、フィフィリアンヌの狡猾な視線に舐められていた。 「ああ。会った」 ルージュは表情を固め、小さく呟いた。フィフィリアンヌは前に踏み出し、ルージュとの間を狭める。 「奴に会いたいか?」 「解らない」 ルージュが顔を伏せると、フィフィリアンヌは冷淡に言い捨てた。 「気に食わなければ殺してしまえば良いではないか」 「それは!」 反射的に顔を上げてから、ルージュは再び俯いた。 「だが、しかし…」 「事が起こる前に、やるべきことは済ませておいた方が良いぞ」 フィフィリアンヌはルージュに背を向けると、ばん、と若草色の翼を広げた。 「いずれ、死ぬやもしれぬからな」 「死ぬのか、あいつが」 思い掛けない言葉にルージュが困惑すると、フィフィリアンヌは横顔を向ける。 「このままいけば、そうなるやもしれん。その前にやれるだけのことはやるつもりだが、どうなるかは解らん。私とて、万能というわけではないのだ。多少、先が見通せるだけに過ぎん。行動を起こすのであれば、早いほうが良い。少しでも躊躇うと、手遅れになってしまうからな」 翼で空気を叩いたフィフィリアンヌは、ルージュの頭上まで浮上した。 「私は中に戻る。貴様も気が済んだら戻れ。あまり潮風に当たっておると錆びてしまうぞ」 ルージュはそれに答えずに、フィフィリアンヌに背を向けた。あまり強さのない羽ばたきが、遠ざかっていった。 事が起こる、とは、何が起こるというのだ。フィフィリアンヌのいやに思わせぶりな言い回しが、引っ掛かった。 所詮、ルージュらはフィフィリアンヌの手駒でしかない。駒には、差し手の見ている盤の大きさすら解らない。 この場所で彼女が何をしているのか、その目的は何なのか、何を考えているのか、外からでは全く解らない。 禁書を集めることの意味も、その禁書を何に使うのかも、禁書奪還作戦開始当時から一度も教えられていない。 禁書奪還作戦もルージュらに丸投げしているも同然なので、フィフィリアンヌ自身が関与することは滅多にない。 だが、逆らいがたい主だ。三人と彼女の間に取り交わされている約束事は、たった一つしかないというのに。 禁書を集めろ、それを終えたら解放する、だから今は従え。それ以外には何もなく、魔法による契約もしていない。 けれど、ルージュだけではなく、フリューゲルやラオフーも逆らわない。言葉では噛み付くが、行動は起こさない。 フィフィリアンヌが竜族であることが、最も大きな理由だ。魔性の力を持つ獣は、獣の王たる竜には逆らえない。 獣の本能に刻み付けられた、遠き昔からの決まり事だ。竜族が滅んだも同然の今であっても、変わっていない。 では魔物ではなかったら逆らえたのか、と思うが、恐らく逆らえないだろう。フィフィリアンヌは、そういう存在だ。 「そうか」 ルージュはフィフィリアンヌの言葉を反復し、口に出した。 「ブラッドは、死ぬのか」 ブラッド・ブラドール。彼が死んでしまうとしたら、どうする。胸中に渦巻く熱を帯びた思いを、伝えてしまおうか。 だが、死んでしまうのであれば、伝えなくても良いかもしれない。その方が、苦しみが少なくて済むようにも思う。 けれど、心は彼に向かう。それが向かう先がなくなってしまったら、ルージュの思いは中空に投げ出されてしまう。 そのどちらが苦しいだろう。どちらも苦しいのは間違いない。だが、しかし。ルージュが俯いていると、声がした。 「お悩みの様子でごぜぇやすねぇ、吸血鬼の姉御」 「ヴィンセントか」 ルージュが振り返ると、すぐ後ろに白ネコが座っていた。二股の尾を、ぱたぱたと振っている。 「あっしはそういう色事にはとんと疎いもんでして、あっしから言えることは何もありゃしやせん。ですがねぇ、竜の女の言うことはもっともだと思いやすぜ」 「そうだな」 ルージュが素っ気なく返すと、ヴィンセントはにやりとした。 「どうせ、いつかはみぃんな死んじまうんでさぁ。この世の中に、死なないものなんてありゃしやせんぜ」 「ヴィンセント。お前は、何が起きるのか知っているのか?」 「さあて。あっしの口からは答えられやせんなぁ」 ヴィンセントは笑っていたが、口調には何か含みがあった。そいでは、と立ち上がると、音もなく歩いていった。 ルージュは引き留めようと思ったが、声を掛けるより先に姿を消していた。肉球の足跡も、唐突に途切れている。 ヴィンセントは神出鬼没のネコだ。空間移動魔法を用いて移動しているらしく、気付けばそこにいることが多い。 気紛れに現れて、気紛れに消えてしまうのが常だ。それに、追いかけてまで問い詰めたい気分でもなかった。 気晴らしでもして、頭を冷やさなければ。ルージュは足元を強く蹴って、背中の推進翼から青い炎を噴出した。 一気に加速して上昇したが、中腹辺りで止まり、振り返った。見慣れたはずだが、何度見てもやはり巨大だった。 乾いた岩肌。急な斜面。無骨な外見。鋭利な山頂。地上から離れた麓。空間を歪めてしまうほどの強烈な魔力。 空を背負い、海を下にした異様な存在。ゆったりとした動きで回転する斜面には、魔法陣が刻み付けられていた。 二重の円に囲まれた、巨大な五芒星。それは斜面の一面にだけ印してあるのだが、とんでもない大きさだった。 ルージュの身長の何十倍もの大きさで、遠くから見なければ全景は解らない。直径は、街一つ分はありそうだ。 ブリガドーンだけは平穏だ。身の内に魔導鉱石のレンガで成された球体を隠しているが、外見は変わらない。 何も起きないでほしい。せめて、彼への思いが片付くまで。ルージュはそう願ったが、一方で無理だと悟っていた。 本能的なものなのか、はたまた二人の言葉に不安を煽られたせいなのかは解らないが、明確な確信をしていた。 しかし、ブラッドへの思いは定められなかった。思い切ってしまおう、と思うと躊躇いが生まれて二の足を踏む。 押し殺してしまえ、と思うとブラッドの眼差しや表情が蘇る。ルージュはブリガドーンに背を向けると、飛び出した。 一刻も早く、迷いを振り切りたかった。 美しき魔導兵器の魂は、吸血鬼の青年に支配される。 思うが故にその思いは移ろい、彼女の魂をきつく締め付ける。 いずれ手にするであろう自由への迷いもまた、移ろいの元凶であった。 鋼鉄の乙女の悩みは、尽きないのである。 07 4/16 |