ダニエルは、表情を殺していた。 背中で扉を閉め、深く息を吐いた。この部屋で療養している仲間、ポール・スタンリーの病状は悪くなる一方だ。 頭痛の痛みが激しすぎて、物を食べることはおろか水を飲むことすら出来ずにいる。薬を飲ませても、収まらない。 楽にしてくれ、と何度となく頼まれたが聞き入れなかった。治るかもしれない、という淡い希望を持っていたからだ。 しかし、治るどころか日に日に痛みはひどくなる。ダニエルは居たたまれなくなって、ぎちりと奥歯を噛み締めた。 「ダニーさん」 名を呼ばれて顔を上げると、屋敷の主の妻、ジョセフィーヌが水を張った洗面器を抱えていた。 「ダニーさんも、どこかいたいの?」 「どこも痛まない自分が腹立たしいぐらいだ」 ダニエルは毒突き、ジョセフィーヌに背を向ける。ジョセフィーヌは、その背に近寄った。 「あのね、あのひとね」 「すまない、後にしてくれないか」 ダニエルは彼女の言葉を遮り、足早に歩き出した。大方、ジョセフィーヌはポールの未来を予知したのだろう。 ポールの未来は、既に決まり切っている。それは、ジョセフィーヌが予知をしなくとも、ダニエルにも解っていた。 近いうちに、彼は死ぬ。ダニエルは爪が骨に食い込むほど強く手を握り締め、長い廊下をひたすら歩いていった。 ブラドール家の屋敷は窓があまり大きくないので光量が少なく、廊下の奥など昼間であっても夜のように暗い。 それは恐らく、この屋敷の主が吸血鬼だからだ。種族の性質上、色素が少ないので吸血鬼は日光を好まない。 そして、この屋敷の主が既に死んでいるからだ。ラミアン・ブラドールは、死した魂を銀色の骸骨に入れた者だ。 息子と妻こそ明るいが、空気はひんやりとしている。この屋敷自体が、十年前に死んでしまったからに違いない。 死は、誰しもに訪れる。だが、今でなくてもいいだろう。ダニエルはどうしようもなく苛立って、床を踏み鳴らした。 しかし、気持ちは晴れなかった。 日が落ちる頃になると、少しは落ち着いた。 ダニエルはゼレイブを見渡せる山の斜面にいた。針葉樹が多かったが、合間には広葉樹も多少生えている。 斜面の下方には、ブラドール家やヴァトラス家が拓いた畑が並んでいたが、作物の芽は伸び始めたばかりだ。 まだ土の範囲が広く、小さな芽は遠くからではよく見えない。畑の傍には井戸があり、木桶が転がされている。 牧場は、この斜面とは反対側の斜面に作られている。柵に囲まれた広大な野原には、家畜が放たれていた。 ゼレイブの街並みを焼く西日は鋭いが、温かくもある。戦場で見た時は、毒々しいと感じてしまったというのに。 それは、光に照らされているものが違うからだ。戦場には大量の死体と瓦礫しかないが、ゼレイブには生がある。 長い間、生のある光景を目にしていなかった。行く先々で激しい戦闘を行い、敵と味方の死体ばかりを作ってきた。 この十年間で、ダニエルとレオナルドの道は大きく変わった。ダニエルは戦い続けたが、レオナルドは逃げた。 彼自身も念力発火能力という強力な異能力を有しているが、フィリオラと出会ったことで、彼は随分と変わった。 それまでは斜に構えて世間を見ており、他人を好こうともしなかったが、フィリオラを心から愛するようになった。 フィリオラと愛し合うようになってから、レオナルドはむやみに炎の力を振るうこともなくなり、性格も丸くなっていた。 そして、共和国戦争で壊滅した旧王都からゼレイブに逃れ、フィリオラとの間に子供を設けて日々を過ごしている。 若い頃のレオナルドを知る者からすれば、信じがたいことだ。だが、現実にレオナルドは真っ当な道を生きている。 だが、ダニエルは変わらない。共和国軍が解体されても異能部隊として存在し続け、未だに戦い続けている。 共和国軍時代に下された任務を馬鹿正直に遂行し、連合軍と敵対してきたために幾人もの仲間が命を失った。 彼らの死に様は、良く覚えている。ダニエルに従うことを誓ってくれた彼らを守り切れなかったのが、強烈に悔しい。 ギルディオスのように、上官としての役割を果たすことが出来ない。彼ならば、もっと上手くやっていただろうに。 やはり、決断を下すべきだ。ゼレイブに向かった時から決めていたことだが、それでいいのかと決めかねていた。 もっと他の道があるのでは、と何度となく思ったが、考えれば考えるほどに迷いばかりが生まれて心が揺らいだ。 だから、最初の考えを貫こう。ダニエルは念動力を放ちながら足元を蹴り、地面から離れて空中に飛び出した。 高みに昇ると、小さな街は一目で見渡せた。 降りた先は、手狭な家の前だった。 屋根裏部屋があるので一応二階建てだが、全体的に小さめなので、遠目に見れば平屋建てのようだった。 この家はヴァトラス家が建てたものではなく、以前からここに建てられていたもののようで、年季が入っている。 上下式の窓のガラスはあまり新しそうではないが、丁寧に磨き上げられているので、古そうには見えなかった。 玄関先には花の咲いている鉢植えが並び、玄関先から家の裏までを背の低い木の柵がぐるりと囲んでいる。 ダニエルが玄関の扉を叩くと、間を置かずして開かれた。中から出てきたのはこの家の主、レオナルドだった。 「なんだ、お前か」 「なんだはないだろう、ダニー」 レオナルドが少々不愉快げに返すと、ダニエルは彼の肩越しに家の中を見やった。 「てっきり、フィリオラが出てくるものだと思っていたのだ」 「用でもあるのか?」 レオナルドは問い掛けてから、まあ入れ、と中を手で示した。ダニエルは靴底の土を落としてから、入った。 「何もなければ訪ねたりはしない」 「そりゃそうだがな」 レオナルドはダニエルを従えて、食堂に入った。食堂に併設している台所では、フィリオラが忙しくしていた。 カマドに掛けられた鍋からは湯気が上り、良い匂いが立ち込めている。どうやら、夕食の支度をしていたようだ。 フィリオラはレオナルドとダニエルに気付くと、にっこり笑った。カマドに手を翳して短く呪文を唱え、火を弱めた。 草色のエプロンドレスのエプロンで濡れた手を拭きながら居間に入ってきたフィリオラは、ダニエルを見上げる。 「ロイズさんとヴェイパーさんなら、リリと一緒に遊んでますからもう少ししたら帰ってくると思いますよ」 フィリオラは手を挙げ、台所で出来上がりつつある料理を示した。 「せっかくですから一緒に夕ご飯を食べませんか、ダニーさん? ジョーさんには、一言言えば済みますし」 「いや、そういうことじゃない」 ダニエルはフィリオラの屈託のない笑顔から、目を逸らした。そしてまた、二人に戻す。 「話がある」 「私は、どうしましょう?」 レオナルドとダニエルを見比べてから、フィリオラはおずおずと言った。 「フィリオラも一緒の方がいいだろう」 ダニエルが答えると、フィリオラは少し戸惑いながらも頷いた。 「はあ」 「なんだ、急に畏まって」 レオナルドも不可解そうにしていたが、居間のテーブルに座った。その隣の椅子を引き、フィリオラが腰掛けた。 四人掛けなので、ダニエルは必然的に二人の向かいに座った。西日を背にしているので、目の端が眩しかった。 事は早い方がいい。あまり引き延ばしても、いいことはない。ダニエルは二人を見据え、躊躇わずに言い切った。 「簡潔に言おう。ロイズを預かってくれないか」 「え、ですけど、ここよりもラミアンさんのお屋敷の方が広いですから、今のままの方が」 フィリオラは曖昧な笑顔を浮かべ、ダニエルを窺う。ダニエルは、その笑顔を射抜くように視線を強めた。 「そういう意味ではない。私は、ロイズをここに置いていくと言ったんだ」 「ゼレイブから出るつもりなのか、ダニー。ポールも随分と弱っているし、このまま留まっていた方がいいと思うが。外へ出たところで、連合軍がいる。せっかく、あの戦争を生き延びられたんだ、また危険に身を曝すこともない」 レオナルドに諫められても、ダニエルは聞き入れなかった。 「私達には任務がある。たとえ人数が減ろうとも、我々は異能部隊なのだ」 「戦争はもう終わったんですよ、ダニーさん。それに、任務なんて言っても、もう…」 ねえ、とフィリオラはちょっと肩を竦めた。レオナルドは、やや苛立った眼差しをダニエルに向ける。 「お前は自分の子を捨てるためにここに来たのか?」 「言葉は悪いが、実直に言ってしまえばそうだ」 ダニエルが平坦に言い放つと、椅子を蹴り倒す勢いでフィリオラが立ち上がった。 「どうしてそんなことを言うんですか、ダニーさん! ロイズさんとフローレンスさんに悪いと思わないんですか!」 テーブルに押し付けた拳を固く握り締め、フィリオラはダニエルを睨んでくる。彼女の肩を、レオナルドが抱く。 「まあ落ち着け。お前が怒ったせいで、オレが怒れなくなっちまったじゃねぇか」 フィリオラを座らせてから、レオナルドはダニエルと向き合った。 「だが、オレも怒りたい気分だ。お前も親なら、親の義務をちゃんと全うしないか」 「お前達、いつもと立場が逆だな」 ダニエルは、一笑した。だが、その笑顔に柔らかさはない。 「あれの能力は実戦では使いづらい。これ以上行動を共にしていても、足手纏いになるだけだ。我々は任務を遂行しなければならない。その任務を果たすためには、部隊の弱点を取り除かなければならない。ロイズは、我々の中で最も弱ければ最も力の扱いが下手だ。空間湾曲能力は瞬間移動能力と念動力の亜種のようなもので、使いようによっては便利だが、使い手の実力が足りていなければ空間や地面に穴を開けることしか出来ない。実際、ロイズはそんなものだ。ヴェイパーを使用して能力を安定させているから戦闘能力が人並みになっているが、ヴェイパーがいなければ常人以下だ。兵士としての士気にも欠けている。異能部隊隊員として、相応しいとは思えない」 「そんなこと、仕方ないじゃないですか! ロイズさんはリリと同い年の子供なんですから、まともに戦えなくて当たり前です! フローレンスさんが亡くなったのに、まだそんなことを言うんですか!」 フィリオラが激昂しても、ダニエルは冷淡だった。 「フローレンスは、運が悪かっただけだ」 「そんなに大事な任務なんですから、ダニーさんの任務は一体どんな任務なんでしょうねぇ?」 フィリオラは刺々しく言い放ったが、ダニエルは首を横に振る。 「口外出来ない」 「お前が友達じゃなかったら、テーブルごと蹴り倒してやるところだ」 感謝しろよ、とレオナルドは強調した。ダニエルは、唇の端を歪める。 「ああ、ありがたいね」 「ダニーさんの性格、ちょっとは丸くなったかと思っていたんですけど悪化していたみたいですねぇ」 やたらと嫌みったらしく言い、フィリオラは顔を背けた。レオナルドは腕を組む。 「それで、ギルディオスさんには言ったのか? あの人が来たのは昨日だから、とっくに会っただろう?」 「会ってはいるが、相談するほどのことでもない。それに、今は上官ではないのだから、報告の必要はない」 ダニエルが一蹴すると、フィリオラはあからさまに顔をしかめた。 「確かに小父様は、もうダニーさん達の上官じゃないですけど、だからって…」 「だが、オレ達もすぐには決められない。こっちにも色々とあるんでな」 レオナルドが言うと、ダニエルは頷いた。 「解っている」 「いいえ、解っていないです。全然解っていません」 フィリオラはむっとしながら、立ち上がった。 「実の親から物のように放り出されてしまうロイズさんが可哀想ですから、私もちゃんと考えておきますけどね!」 ふんだ、とフィリオラはむくれながら台所に戻った。レオナルドは妻の背を見送ってから、ダニエルに向く。 「下手な冗談だとは思いたいが、お前がそういうことを言わないのはよく知っている」 「冗談だったら、もっと気の利いたことを言うさ」 ダニエルは立ち上がり、目線を合わせようとしないレオナルドを見下ろした。 「邪魔をした」 ダニエルが居間から出ようとすると、玄関から元気の良い声がした。ただいまあ、と幼く明るい声が家に響いた。 程なくして、足早にリリが駆け込んできた。ネッカチーフを被った幼女は居間に入ってくると、父親の傍に立った。 「お帰り、リリ」 レオナルドが迎えると、リリは父親の腕を引いた。 「ねえねえお父さん、ロイもうちで一緒に夕ご飯食べていいよね? もっともっとお話ししたいの!」 「お母さんに聞いてみろ」 と、レオナルドが台所を指すと、リリはすぐさま台所に駆け込んだ。おかーさーん、とはしゃいだ声で呼んでいる。 外で散々遊んできたリリのエプロンドレスの裾や袖は土と草で汚れていて、小さな手の爪には土が入っている。 フィリオラはまずその汚れを見咎めて、最初に手を洗いなさい、と言っているが、リリは聞かずに喋り続けている。 ダニエルは母と娘の会話を聞き流しつつ、背を向けた。玄関付近では、ロイズがおずおずと家の中を覗いている。 その背後にはヴェイパーが立っていて、こちらも中の様子が気になるようだった。ダニエルは、玄関を通り抜けた。 「あ、隊長」 ヴェイパーに呼び止められるよりも先に、ダニエルは歩調を早めて進んだ。視界の端を、息子の姿が掠めた。 ロイズはダニエルを見上げたが、すぐに目を逸らした。背後の玄関からは、リリの快活なお喋りが聞こえてくる。 一緒に食べていいって、ほら上がりなよ、とリリはロイズの腕を半ば強引に引っ張って家の中に連れ込んだ。 玄関先に取り残されたヴェイパーは、困っているらしくその場に突っ立っている。入り口が、体より小さいからだ。 ねえ、僕はどうすればいいの、とリリに話し掛けているヴェイパーの声を背に感じながら、ダニエルは歩いた。 振り返ってしまえば、終わりだ。感情を波打たせないように心を押し潰しながら、ひたすらに前を向いて進んだ。 瞼に残る息子の横顔は、ひどく寂しげだった。 07 5/12 |