ロイズは、困っていた。 リリに渡されたカゴの中には、一匹のトカゲが入っていた。土色のウロコに包まれた身を捩り、のたうっている。 それを渡してきた当人は、にこにこしている。その両手は土と草の汁に汚れ、エプロンドレスにも泥が付いていた。 何をしたいのだろう、とロイズが思っていると、リリはロイズににじりよってきた。思わず、ロイズは後退ってしまう。 「何、リリ」 リリは得意げな笑みを浮かべたまま、ずいっとロイズに顔を寄せた。 「ロイ、今日はトカゲを捕まえに行こうよ!」 「なんで?」 「ギル小父さんってね、トカゲとかヘビとかが大嫌いなんだって!」 「あ、うん、そうだけど、でもそれが何か…」 ロイズの背後に立っているヴェイパーは、なんだか嫌な予感がしてきた。リリは、やたらと上機嫌だった。 「だからね、一杯捕まえてギル小父さんにあげるの!」 「なんで?」 ロイズの二回目の問いに、リリはちょっと不満げに頬を張った。 「わっかんないかなぁー。苦手なものは克服しなさいって、いつもお母さんが言っているんだもん。苦いお野菜も変な味のお薬も難しい算術も、頑張ればなんとかなるっていつも言うんだもん。それに、ギル小父さんは大人じゃない。大人なのに怖いものがあるなんていけないよ、おかしいよ」 だからね、とリリは腰に手を当て、威張るように胸を反らした。 「なんとかしてあげようって思うんだ!」 「あのさ、リリ、少佐は本当に苦手だから…」 ヴェイパーが注意しても、リリは聞き入れなかった。 「あ、そうだ、ブラッド兄ちゃんも呼んでくるね! ちょっと待っててね、ロイ、ヴェイパー!」 軽快な足音を立てながら、リリはブラドール家の屋敷に向かって駆けた。二人は、なんとなく顔を見合わせた。 ロイズの抱えているカゴの中では、小さなトカゲがじたばたと動いている。ヴェイパーは、困った様子で俯いた。 空は高く晴れ渡り、日差しはうっすらと汗ばむほど強いが、風は爽やかで汗などすぐに乾いてしまうほどだった。 昼下がりの今は、まるで夏のようだ。ゼレイブは共和国の南部に位置しているので、北部の旧王都よりも温暖だ。 ロイズは、ゼレイブの南方にある斜面の下の道に立っていた。ここは、昨日もリリと一緒に遊んだ場所だった。 ゼレイブは四方を山に囲まれているので狭く見えるが、子供には充分に広く、森があるので遊ぶには充分だった。 程なくして、リリが戻ってきた。だが、彼女が連れてきたのはブラッドではなく、退屈極まりない顔の少女だった。 長く艶やかな黒髪を二つの三つ編みに結って頭の両脇に垂らしており、藍色のエプロンドレスを身に付けている。 灰色の瞳と大人びた雰囲気を持っていて、子供らしからぬ美しさがあった。彼女は、ちらりとロイズを見やった。 だが、すぐさま目を逸らした。ロイズが少しむっとしていると、リリは彼女の手を取って二人の元へやってきた。 「ブラッド兄ちゃんはお仕事があるんだって。だから、今日はヴィクトリア姉ちゃんと遊んでいろってさ」 「あなたの手、熱いわ」 リリの手を振り解き、ヴィクトリアは細い眉を少しひそめた。リリは、苦笑する。 「あ、ごめんなさい」 「本来であれば、この私があなた達のような幼児と馴れ合うこと自体が有り得ないことだわ。けれど、今は私もとても退屈しているから付き合ってあげないこともないのだわ」 ヴィクトリアは、優雅でしなやかな手付きで三つ編みを払った。ロイズは、ヴィクトリアから目を逸らしてしまった。 見た目こそ美しいとは思うが、態度が好きではなかった。常に他人を見下していて、子供のくせに偉ぶっている。 それは旅の仲間であったギルディオスや伯爵だけでなく、他の誰に対しても彼女は高圧的な態度を取っている。 特に、ダニエルに対してもそうなのがやけに気に食わなかった。大嫌いな父親だが、あれでも彼は隊長なのだ。 少しは敬意を払ってほしい、とは思うが、ヴィクトリアの冷淡な眼差しに見据えられると上手く言い返せなかった。 同い年のリリとは、仲良くやれている。明るく元気の良いリリは、ロイズだけでなくヴェイパーとも親しくしてくれる。 ゼレイブに到着した最初の日は、さすがにどちらもぎこちなかったが、翌日からは幼馴染みのように打ち解けた。 だが、ヴィクトリアとはそうはいかない。ロイズらが挨拶に行っても素っ気なく、目を合わせようともしなかった。 何度顔を合わせても同じで、彼女は誰とも馴れ合おうとしなかった。それが、ロイズにはたまらなく不愉快だった。 仲良くしようとしてくれているリリやその両親、ブラッドらの好意を無下にしている。だから、余計に彼女が鼻に付く。 リリには悪いが、ヴィクトリアがいては楽しくない。ロイズがむっつりとしていると、ヴィクトリアはロイズに向いた。 「この私が遊んであげるのだわ。そのことを光栄に思うがよくってよ」 「誰がお前なんかと」 ロイズが顔を背けると、ヴィクトリアはロイズの目の前に歩み寄ってきた。 「あら。反抗的なのね。少し、面白いのだわ」 ひやりとしたものが、頬に触れた。ロイズがぎくりとすると、ヴィクトリアの手がロイズの頬を包んでいた。 「何するんだ!」 ロイズは慌ててヴィクトリアの手を振り払い、後退った。ヴィクトリアは、少年の頬に触れた手を見つめる。 「あなた、内側も面白いわ。いい加減な能力を持っているものだから、魔力中枢の流れが歪んでいるのだわ」 「呪いとか、掛けて、ないよね…?」 ヴェイパーは身を曲げ、恐る恐るヴィクトリアに尋ねた。ヴィクトリアは、目を細める。 「掛けてほしければいくらでも掛けてあげるのだわ」 「掛けないでね、お願いだから!」 ヴェイパーが怯え気味に声を上げると、ヴィクトリアは少々鬱陶しげに唇を曲げた。 「やかましいわ」 「ほら、行こう! ヘビとかトカゲ、一杯捕まえるんだから!」 リリは二人の間に入って二人の手を取ると、歩き出した。ロイズはリリに引っ張られるような形で、足を進めた。 ヴィクトリアはリリの手をすぐに払って離させると、二人から数歩遅れて続き、その背後にヴェイパーが続いた。 「ねえ。ヘビとトカゲを捕まえて、魔法薬でも作るつもりなの?」 ヴィクトリアが尋ねると、リリはにんまりした。 「ううん、ギル小父さんにあげるの!」 「あら、それは素敵な考えね。きっと、嫌悪のあまりに絶叫しながら逃げ出すほど喜んでくれるのだわ」 ヴィクトリアも面白そうだと思ったのか、薄く笑みを浮かべた。だが、その眼差しも表情も冷ややかだった。 「だからさ、リリ。やめた方がいいよ。こういうことは、しちゃダメだよ」 ヴェイパーが宥めても、リリの足は止まらない。 「ギル小父さんは強いんでしょ? だったら、もっともっと強くなってもらわなくちゃ!」 「それって、余計なお世話って言うんじゃないのかな」 ロイズが呟いても、リリは聞き流して草を踏み分けながら前に進んでいった。足取りは軽く、うきうきしている。 あの、だからさ、とヴェイパーは何度もリリを止めようとするが、最後にはリリはヴェイパーの言葉を無視した。 ヴィクトリアはヴェイパーの狼狽ぶりとリリのはしゃぎぶりを眺めながら、ギルディオスの醜態を想像していた。 それだけでもなかなか面白いので、うふふふふふ、と押さえた笑い声を漏らした。その声は、やたらと怪しい。 ロイズはヴィクトリアを見ないようにするために、リリの後ろ姿を見た。リリは浮かれていて、鼻歌すら出ている。 だが、その鼻歌の調子は外れていて音程もおかしかった。母親であるフィリオラが音痴なので、娘も音痴なのだ。 リリの悪戯の標的とされてしまったギルディオス・ヴァトラスは、異能部隊をまとめ上げていたかつての隊長だ。 歩兵から叩き上げで少佐にまで上り詰め、共和国内で虐げられていた異能者達に生きる場所を与えてくれた。 五百年以上も長らえており、異能者達への理解も深く、部下への愛情と統率力に溢れた立派な隊長だったらしい。 彼のことは、フローレンスや他の隊員達だけでなく、ダニエルですら褒めていた。だから、凄いのだと思っている。 そんな人を、苦手なもので責め立てていいのだろうか。良くないよな、懲罰ものだな、とロイズはちらりと考えた。 軍隊であれば、良くて謹慎、悪くて処刑だ。さすがに処刑はないにせよ、食事を抜かれてしまうかもしれない。 フローレンスが生きていた頃は、ロイズもそうして叱られた。怒られるだけならいいが、食べられないのは辛い。 そうならなきゃいいな、と思う反面、そうなるだろうな、と妙な確信をしていた。悪戯の顛末は、大抵がそうだった。 だが、リリはとても楽しそうにしている。彼女のことなので悪意はないのだろうが、ないから余計にタチが悪い。 ヴィクトリアのようにあからさまに悪意を滲ませているなら、まだ解りやすいが、リリは良かれと思っているらしい。 客観的に考えれば絶対にいいわけがないのだが、リリ本人は真っ当なことをするのだと信じているようだった。 一応止めるべきだろう、とロイズはヴェイパーを見上げた。魔導鉱石を通じて思念が伝わったのか、彼も頷いた。 しかし、どうやって。ロイズはリリの背を見たが、話し掛けようにも上手く言葉が出てこず、喉で詰まってしまった。 男ばかりの世界で生きてきたので、女の子の扱いなど解らない。それどころか、繋いでいる手を意識してしまう。 ロイズの手と繋いでいるリリの手は小さくて体温が高く、柔らかい。ロイズは無性に照れてしまい、頬が熱した。 その間にも、リリはずんずんと進んでいた。 四人は、森の奥深くで足を止めた。 リリは勝手が解っているのか、一人で先に行ってしまう。だが、ロイズは道が解らないのでその場に立っていた。 ヴェイパーも同様で、どうしていいのか解らずにいる。ヴィクトリアはと言えば、やはり退屈そうな顔をしていた。 再び、ロイズとヴェイパーは顔を見合わせた。二人の思念は魔導鉱石で繋がっているので、言わなくても解った。 探しに行かないべきか、それとも行くべきか。上官侮辱に当たる行為なのだから、やはり行かないべきだとは思う。 しかし、しきりにリリが急かしてくる。ロイもおいでよー、と明るく弾んだ声で呼ばれては、行かないわけに行かない。 これからもリリと仲良くするためにも、妥協するしかないだろう。ロイズは仕方なしに、リリの方へ向かおうとした。 「あなたは行けばいいわ。私は探さなくても見つけられるわ」 足音を立てずにロイズの背後に寄ったヴィクトリアは、平坦な口調で言った。ロイズは驚き、身を引いた。 「なんだよ、さっきから!」 「あなた、隙が多いのだもの。やろうと思えば、その首を跳ね上げることも出来てよ」 ヴィクトリアの手が伸び、ロイズの首に吸い付いた。ロイズが息を呑むと、彼女は不気味に笑んだ。 「うふふふふふ。爬虫類なんかを探すよりも、あなたを痛め付けた方が余程楽しそうだわ」 「やめてよ、ヴィクトリア!」 ヴェイパーがヴィクトリアに近付いても、ヴィクトリアは横目で見上げただけだった。 「そうね、気が向いたらやめてあげてもよくってよ」 ヴィクトリアの華奢な指先に、ぐうっと力が込められた。ロイズの首筋にめり込み、喉が押し潰されて息が詰まる。 ロイズは必死に息をしようとするが、喉が開かないので呼吸が出来ない。せめて、彼女の手を振り解かなければ。 首を締め付けてくるヴィクトリアの両手首を掴んで引き剥がそうとするが、動かない。少女とは思えないほど、強い。 ロイズがヴェイパーを見上げても、ヴェイパーは反応しなかった。動こうとしているようだが、関節が軋むだけだ。 ヴェイパーも動けないらしい。どうしてなんだ、とロイズが息苦しさで鈍った頭で考えていると、ヴィクトリアが言った。 「あなた達の感覚は、繋がっているわ。だから、その繋がった部分から魔力の流れをほんの少し変えてあげただけなのだわ。あなたの受けている感覚を、その機械人形に同調させてあげたのだわ。どう、苦しい? さぞ苦しいのでしょうね、うふふふふふ」 ヴィクトリアの目線が上がり、喉を押さえているヴェイパーを捉えた。ヴェイパーは、大きな肩を震わせている。 「う、ぐう」 「とてもいいことを教えてあげるわ。とてもとても、素晴らしいことよ」 ヴィクトリアの整った顔が、ロイズの目の前に迫る。彼女の前髪が額に触れ、ほのかに甘い匂いが鼻を掠める。 薄い唇が、弧を描くように吊り上がる。大きな目がゆっくりと細められ、笑みとは程遠い、冷酷な表情が作られた。 「あなたは、捨てられるのだわ」 ロイズが目を見開くと、ヴィクトリアは首を絞める手を緩めずに引き寄せた。彼女の吐息が、頬をくすぐる。 「私、あのネコから聞いたのだわ。あなたの父親は、あなたをここに捨てていくと決めたのだわ」 「う゛」 嘘だ、とヴェイパーは言おうとしたが、金属が擦れ合う鈍い音しか発せられなかった。 「嘘なものかしら。嘘であると信じたいのなら、あなたの父親にお聞きなさい。きっと、教えてくれるのだわ」 ヴィクトリアの灰色の瞳に、息苦しさで青ざめたロイズが映る。 「とてもとても残酷で、とてもとても冷徹で、とてもとても素晴らしい、あなたの哀れで悲惨な薄汚い未来の姿を」 耳元に唇が寄せられ、囁かれた。 「さあ、絶望なさい」 首を潰しそうなほど締め付けていた指先が、ゆっくりと解けた。手のひらが離れた瞬間、ロイズは崩れ落ちた。 ヴェイパーもよろけ、たたらを踏んだ。ロイズは激しく咳き込んで涙目になりながら、ヴィクトリアを睨み付けた。 ヴィクトリアは、愉悦の眼差しで見下ろしている。ロイズはずり下がろうとしたが、手足にまるで力が入らなかった。 「うそだ」 強く言い返すはずだったのに、口から出た声は怯え切っていた。 「あなた如きを、低俗な嘘で惑わそうとは思わないわ。真実であるからこそ、知らしめているのだわ」 再び、ヴィクトリアの手が伸ばされた。ロイズがびくっと肩を縮めたが、その指先は軽く首筋を撫でただけだった。 途端に息苦しさは失せて痛みも消えたが、首を絞められた恐怖が全身を冷やしていたので立ち上がれなかった。 今になって、手足が震え出してくる。死にそうな目に遭ったことは何度もあるが、こんなに怖いのは初めてだった。 心臓が激しく脈打ち、息が上がる。精一杯の敵意を示そうとヴィクトリアを睨むものの、彼女は笑ったままだった。 「そう、苦しいのね。苦しいのだわ。苦しめば良いのだわ。ああ、なんて楽しいのかしら」 うっとりと微笑みながら、ヴィクトリアは二人に背を向けた。 「あなた、素敵だわ」 ヴィクトリアの後ろ姿は、森の中に吸い込まれていった。ロイズは追おうとするが、まだ立ち上がれなかった。 ヴェイパーはロイズの傍に膝を付き、心配げに覗き込んできた。ロイズはまた咳き込み、滲んだ涙を拭った。 涙が出るのは、息苦しいからだ。決して、捨てられるという事実に打ちのめされてしまったわけではないのだ。 大体、ダニエルとは気が合わない。一緒にいたくない。あんな男から離れられるのだから、いっそ喜ぶべきだ。 けれど、胸の奥が締め付けられて喉が詰まる。首を絞められた時以上に息苦しさを感じ、頭の中が白くなる。 捨てられる。捨てられる。捨てられる。捨てられてしまう。捨てられて、放り出されて、なかったことにされてしまう。 「がっ」 一気に苦しさが喉から溢れ出し、ぼとぼとと足元に落ちた。ロイズは体を折り曲げて、草むらの中に吐き出した。 昼に食べたものが、まだ形を止めた状態で出てくる。押さえようと思っても全く止まらず、吐瀉するしかなかった。 また、涙が出る。吐き出すだけ吐き出してから、ロイズはしゃがみ込んだ。がちがちと奥歯が鳴り、背筋が冷える。 「大丈夫だよ、ロイズ。僕がいるよ」 ロイズの背に、ヴェイパーの大きな手が被さった。ロイズは何度も頷くとヴェイパーの手に縋り付き、声を殺した。 泣き出したかったが、泣いてはいけないと思って飲み込んだ。胃液の味がする口の中に、塩辛いものが広がる。 そうだ、ヴェイパーがいる。あんな男などいなくなってもいい。自分の傍には、友人であり兄でもある彼がいる。 ヴェイパーがいてくれればいい。味方は一人で充分だ。僕だって兵士だ、異能者だ、強いんだ、生きていける。 異能者なんだ、強いんだ、と何度も心の中で繰り返した。ヴェイパーの太い指を、手が痛くなるほど握り締めた。 ヴェイパーさえ、傍にいればいい。 07 5/16 |