伯爵は、傍観していた。 つい先程まで息をしていた男が、ただの骸と化していた。時間が経つに連れて肌の張りが失せ、変色していく。 病による苦痛で全身の肉が削げており、屈強だったはずの手足は骨と皮ばかりになり、痛々しいほど弱っていた。 薄く開いたままの瞼の間からは、濁った瞳が覗いていた。それは虚空を見つめているが、何も映していなかった。 ポール・スタンリー。瞬間移動能力者。異能部隊の古参兵。戦後も異能部隊の隊員として、任務に終始した。 伯爵の知る彼の情報は、たったそれぐらいしかない。だから、悲しんでやろうにも悲しめる要素があまりなかった。 ただ、男が死んだ、としか思いようがない。他に何か思えと言われても、それ以外に感じないのだから仕方ない。 だが、その男の上官であった男は別だ。ポールの横たわるベッドの傍らに突っ立った甲冑は、項垂れている。 ギルディオスは、変わり果てたポールを見つめていた。顔が顔なので表情は窺えないが、悲しんでいるのだろう。 彼はポールの傍に寄ると、子供にするようにその頭をぐしゃりと撫でた。これが、ギルディオスの愛情表現なのだ。 かつての部下は、ギルディオスにとっては子供も同然だ。彼らが幼子だった頃から、指揮を執っていたのだから。 だから、いくつになろうとも子供は子供なのだ。ギルディオスはポールを慈しむように撫でていたが、手を外した。 背中に載せていた鞘から、人の背丈ほどもある鉄塊のような剣を引き抜いた。それを顔の前に上げ、横たえた。 「天上のヴァルハラに向かいし者に、どうか、戦女神の加護を」 ギルディオスはバスタードソードを下げると、鞘に収めた。 「良かったな、ポール。これでもう、どこも痛くなくなったんだからよ。だから、ゆっくり休め。ヴァルハラに行った他の連中に、よろしく頼む」 ギルディオスは、伯爵のいるテーブルに向く。 「伯爵。悪いが、しばらくポールの奴を見ててやってくれ。一人にしちゃ可哀想だからな」 「我が輩も暇であるからして、それぐらいの頼み事は受けてしんぜよう」 「ゼレイブに来て、今日で五日目か。だから、ポールは六日目だったわけか」 ギルディオスは部屋の扉に手を掛けたが、止めた。 「ポールの奴ぁ、ちったぁ休めたのかねぇ」 口調こそ、普段となんら変わらない。だが、彼の声はほんの僅かだが震えを帯びており、動揺を滲ませていた。 きっと、泣いているのだろう。ギルディオスとはそういう男だ。伯爵は、部屋を出ていった甲冑の背を見送った。 元から薄暗い部屋は、死者が横たわることによって更に陰鬱になっていた。空気にまで、死が蔓延している。 厚い扉の向こうからは、話し声が聞こえてくる。それは異能部隊の隊員達や、この屋敷の者達の声であった。 しかし、皆はそれほど驚いている様子はなかった。ポールの死は、誰にとっても予想出来た事態であったからだ。 だが、予想出来た結果であっても、皆の口調は重たかった。むしろ、予想出来たからこそ辛いのかもしれない。 そして今朝、彼は死んだ。側頭部に穴を開けて魔導金属をねじ込まれた、能力強化兵手術の後遺症が元だ。 異能部隊の接触感応能力者、アンソニー・モーガンが調べたところ、彼の脳の中に血塊があったのだそうだ。 その血塊は、能力強化兵手術の際に脳内に出来た傷が悪化して出来たものだそうで、大分前からあったようだ。 いつ破裂してもおかしくないほど膨れあがっていたのが、とうとう、今日の早朝に破裂してしまったのだそうだ。 彼が死した瞬間を、伯爵は目にしていない。だが、ポールに最期まで付き添っていたギルディオスは見ていた。 付き合いのいい男だと思う。最期の最期まで、ギルディオスはかつての部下に対して誠実であろうとしたのだろう。 全く、彼らしい。 葬儀は、滞りなく終わった。 北側の斜面にある墓場には、戦死者のものと思しき真新しい墓や、遠い昔からある墓がいくつも並んでいた。 そのどれもがきちんと手入れされていて、リリが作ったものである可愛らしい花輪が墓石の前に備えられていた。 そして、今日、新しい墓が建てられた。魔法を用いてポールの名を刻み付けられた墓石が、据えられている。 その下には彼の遺体と私物を納めた棺が埋められたばかりなので、墓石の周辺は土の色が新しくなっていた。 ゼレイブの街から離れている場所なので、ひっそりと静まっていた。葬儀が終わったので、皆は既に戻っている。 だが、伯爵だけは墓場にいた。ここ数日ブラドール家の屋敷の地下室に籠もっていたので、外に出たかったのだ。 ゼレイブは、その上空をラミアンの魔法で覆い尽くされている。よって、魔力の密度が通常の空間とは違っている。 外は嫌いではない。出る機会が少ないだけだ。フラスコを撫でる夜風を感じながら、フラスコの栓を押し上げた。 ぽん、と音を立ててコルク栓を抜いた。そのコルク栓を赤紫色の触手で揺らし、夜風に含まれた湿気を吸った。 斜面から見下ろせるゼレイブの家々からは、明かりが漏れている。今日ばかりは話し声も少なく、静まっていた。 視界の端に、大柄な影が現れた。そちらに気を向けて注視すると、藍色の暗がりの中に甲冑が立っていた。 彼は伯爵に気付くと、よう、と親しげに手を挙げた。その片手には、古びたラベルが貼られた瓶が握られている。 ギルディオスは雑草を踏み分けながら昇ってくると、ポールの墓石の傍にやってきた。そして、伯爵を掴んだ。 「何やってんだよ、お前」 ギルディオスの目の前まで持ち上げられた伯爵は、ぐにゅりと身を捩った。 「貴君こそ、墓でも荒らしに来たのであるか?」 「ポールに、酒でも飲ましてやろうと思ってな」 ギルディオスは伯爵の軽口に言い返さず、ごとりと伯爵を地面に置いた。 「ラミアンが寄越してくれたんだ。百五十年物だとさ」 ポールの墓の傍で胡座を掻いたギルディオスは、ワインボトルを伯爵に見せた。伯爵は、そのラベルを読む。 「この銘柄は珍しい酒ではないが、まあ味は良いのである」 「伯爵がそう言うんなら、そうなんだろうな。喜べ、ポール。ほれ、酒だ」 ギルディオスはワインの栓を引き抜くと、おもむろに墓石に傾けた。赤紫の液体が注がれ、墓石を染めていく。 どくどくと流れていくワインの酒精と香りが辺りに漂い、土の匂いにほんの少し混じっている死臭を紛らわした。 薄暗いため、墓石を汚したワインの色が血のようにも思えたが、血よりもずっと粘り気はなく光沢も少なかった。 「ん」 ギルディオスはワインの入ったボトルを伯爵のフラスコの上に差し出し、どぼどぼと流し込んだ。 「おおおおう…」 全身を伝い染み渡る酒精と渋さに歓喜し、伯爵は身震いした。ギルディオスはボトルを下げ、足の間に置く。 「旨いか?」 「だから先程も言ったであろう。それなりである」 伯爵はぐにゅりと粘液の肉体を捻って、隅々まで赤ワインを染み渡らせた。ギルディオスは、頬杖を付く。 「ダニーとレオは、飲み明かすんだと。ポールのことだけじゃない、積もる話があるらしい」 「貴君はその話を知っておるのであるか?」 「レオは言おうとしてきたんだが、断った」 「なぜである。そういった面倒事に絡むのは、貴君の得意ではなかったかね?」 「何から何まで首突っ込むわけにはいかねぇだろ。オレも大人だ、その辺はちゃーんと弁えているさ。あいつらにも、色々あるんだよ。オレらにも、色々あるように」 ギルディオスは、少しだけ笑った。 「寂しいねぇ、おい」 ギルディオスは片腕を挙げ、ポールの墓石に載せた。友人の肩でも抱くような、親しみのある仕草だった。 「ポールよう。お前が基地島に来た日のことは、よぉく覚えているぜ。あの時のお前は、痩せてて目だけぎらぎらした子供だったなぁ。レオとダニーには負けるが、お前も充分生意気だったよ。力が上手く使えなかったくせにやたらと前に出たがったり、無断で基地から外出したり、瞬間移動先と移動対象の照準を間違えてオレを海に落としてくれたり、まぁ色々とあったよ。お前がいてくれたから、任務で何度も助けられたよ。お前もダニーと一緒で女っ気のない野郎だったが、一人ぐらいは惚れた女がいたんだろうな? その話は、ヴァルハラでしようじゃねぇか。お前の気が済むまで、付き合ってやるからよ」 ワインに濡れた墓石を、銀色の手が撫でる。 「死ぬのは、部下ばっかりだな」 「それは仕方のないことである。貴君は人であるが人ではないのであるからして」 「言うな。解っているさ、そんなこと」 ギルディオスはがしゃりとヘルムを上げると、その中にワインボトルを押し込み、ぐいっと傾けて流し込んだ。 甲冑の胸と腹の中で水音が弾け、酒の匂いが漂ってきた。だが、ワインは吸い込まれず、隙間から染み出した。 足の付け根や腰の繋ぎ目から零れる赤い滴が、銀色の装甲を伝う。ギルディオスはボトルを置き、息を吐いた。 「旨いな」 「味も解らぬのに何を申すか」 「気分だよ、気分。オレは今、浸ってんだから、それをぶち壊すんじゃねぇよ」 ギルディオスは伯爵に毒突いてから、もう一度ワインを腹の中に流し込んだ。内側に水が当たり、鈍く爆ぜる。 「あ、終わった」 「これこれこれこれ、何を無駄なことをしておるのかね! どうせなら我が輩に寄越したまえ、ニワトリ頭よ!」 伯爵は、慌てて喚いた。ギルディオスは空になったボトルを振っていたが、下半身を指した。 「股間とか足の中になら、ちょいと残っているはずだぜ。入る?」 「…何が悲しくて、男の股間に潜り込まねばならぬのである」 伯爵が呆れ気味に漏らすと、ギルディオスは笑った。 「言ってみただけだ。つうか、オレも嫌だ」 ギルディオスは赤ワインの溜まった足を伸ばし、投げ出した。その膝の隙間から、血のようにワインが滲み出る。 「後で一通り洗わねぇとな。体中が酒臭くってたまんねぇ。オレは好きだが、子供らが嫌がるだろうしな」 「ギルディオスよ」 「んあ」 伯爵に問い掛けられ、甲冑は振り向いた。伯爵は触手を伸ばし、先端で彼のヘルムを指した。 「貴君は、この男の死に目に泣いておったのであるか?」 「まあな。悲しかったのもそうだが、泣いてやらなきゃポールに悪いだろ」 「悪い、とな?」 「ああ」 ギルディオスは頷くと、赤ワインの滴が付いたマスクを指先で拭った。 「異能部隊の連中は、どいつもこいつもろくな人生を送っちゃいねぇ。ダニーもフローレンスもレオもジョーも、ポールもピートもアンソニーもヴェイパーもロイズもな。好かれるよりも先に疎まれて嫌われて、挙げ句の果てに戦いに駆り出されちまってよ。ダニーはあの性格だからあんまり辛そうにはしねぇけど、あいつもあいつで辛かったんだろうな。ロイズも見た目こそ普通にしているが、ダニーとそんなに一緒にいないところを見ると、ダニーとは上手くやれてねぇんだろうな。レオはフィオと一緒になったおかげでなんとかなっているが、フィオと会わなかったら、あいつは今頃どうなっていたんだろうな。考えただけで恐ろしいぜ」 ワインに汚れた指先を舐めるように、口元の辺りに擦り付けた。 「泣けば許してもらえる、なんてことは思っちゃいねぇよ。オレが異能部隊なんて作らなきゃ、死ななかったはずの奴はいくらでもいる。フローレンスもモニカもジムもポールもだが、キースだってそうだ。連合軍の兵隊もそうだ。キースが戦争さえ起こさなきゃ、キースに戦争を起こさせる切っ掛けを与えなかったら、キースのことをちゃんと受け止めてやれていたら、結末は変わっていただろうぜ。オレ達は十年前のままだっただろうぜ。きっとそうだ。だから、オレは泣いてやるのよ」 ギルディオスは墓石に刻まれたポールの名を、慈しむように撫でた。 「憎むなら憎め、ってな。そうしてもらわねぇと、オレの方が気が済まねぇしよ」 「はっはっはっはっはっはっはっは。そんな気遣いをせずとも、貴君を恨む者は星の数ほどいるのである」 「だろうぜ」 ギルディオスはポールの墓から手を外すと、地面に寝転がった。頭上には、無限の星空が広がっている。 「オレは星の数ほど生き物を殺してきたんだ。それぐらい恨まれねぇと、釣り合いが合わねぇよ」 「何を急に、妙なことを言うのである。それは、貴君が望み選んだ末の結果なのである」 「ま、そりゃそうだがな」 ギルディオスは頭の後ろで手を組み、膝を曲げてその上に足を載せた。関節の隙間から、ワインが零れる。 「なあ、伯爵。お前は、異能部隊が発足した当時の主要任務、知っているか?」 「はっはっはっはっはっはっはっは。その辺りのことは、魔導師協会時代にラミアンが調べてフィフィリアンヌに報告しているのであるからして、必然的に我が輩も知り得ておるのである」 「だな。まさかとは思うが、ダニーの奴、その任務を続けているんじゃないだろうな?」 「通常の神経で考えれば有り得ない話であるが、あの男の性格からすれば有り得ぬ線ではないのである」 「だが、ダニーに限って確証もなしに動くとは思えねぇしー…。ひとまず、アンソニーから聞き出してみるか」 情報源はきっとアンソニーだ、とギルディオスは一人で納得している。伯爵は触手を縮め、フラスコの中に戻す。 「それを聞き出して、どうするつもりなのであるか?」 「ダニーの横っ面を、一発殴ってやるのさ。でもって、オレも殴り返してもらう」 「そうだとしても、それでどうにかなるとは思えないのであるが」 「だーから、気持ちの問題なんだよ、こういうのは」 ギルディオスは立ち上がると、ポールの墓の前で最敬礼し、力強くかかとをぶつけた。 「ポール・スタンリー少尉! 異能部隊前隊長、ギルディオス・ヴァトラス少佐より貴君へ処分を下す! 本日本時刻をもって、貴君を除隊処分とし、その任を解くこととする! 尚、この命令は異能部隊現隊長、ダニエル・ファイガー大尉の命令と同等の権限があることを伝えておく! 以上!」 一際強く、声が張られた。その余韻が消えた頃、ギルディオスは手を下ろして墓を見下ろした。 「てぇわけだ、ポール。もう、任務のことは忘れろ。だから、ゆっくり眠ってくれや。死んだ奴ぁな、自由になれるんだ。それまでは色んなものに縛られたり潰されたりしていただろうが、死んじまえば何もかもが消えちまうからな」 ギルディオスは伯爵を見やり、肩を竦めた。 「ま、オレみてぇなのは例外だけどな」 そして、ギルディオスは再び墓の傍に腰を下ろした。彼のヘルムの横顔を見、伯爵は軽く違和感を感じ取った。 態度こそ、口調こそ、いつも通りだ。部下が死したことで気落ちしているようではあったが、いつもの彼である。 しかし、何かが変わっている。それが何であるかを具体的に察することは出来なかったが、引っ掛かりを感じた。 「ギルディオスよ」 伯爵は、ごとり、とフラスコを前に進めた。 「我が輩に、何か言うことはないのかね?」 「ねぇよ。なんだよいきなり、気持ち悪ぃな」 ギルディオスはさも鬱陶しそうに、顔を逸らした。 「あるとでも思ってんのかよ」 「はっはっはっはっはっはっはっは。それもそうであろう、貴君の引き出しは数も少なければ底も紙の如く薄っぺらいのであるからして、そもそもの話題の量からして限られているのである。何、これといって他意はないのである。ただそこに貴君がいたから言葉を発してみただけである」 伯爵はもう一度高らかに笑い声を放ったが、弱めた。ギルディオスの反応が薄く、何もしてこなかったからだ。 いつもであれば、フラスコを叩くか弾くぐらいはする。だが、それがないということは、それだけ気が逸れている。 不愉快な気持ちになったが、敢えて黙ってみた。ギルディオスも黙り込んでいて、二人の会話は続かなかった。 そうしていると、弔いらしい雰囲気になっていた。それを壊すのがなんとなく惜しくなり、伯爵は黙り続けてみた。 黙り込んでいると、長く封じ込めていた気持ちが蘇る。遠い昔に消え去った、幽霊の友人に対する気持ちだった。 彼がこの世から消え去った直後、伯爵は言葉を封じ込め、長らく喋らなかった。あれは、伯爵なりの弔いだった。 ギルディオスが死者へ向けて涙を流すように、伯爵は言葉を静めて黙る。形こそ違うが、やることは変わらない。 どちらも、死者への礼儀だ。 死した者との、別れの夜。 スライムと死人の重剣士は、酒を浴びながら、ただ言葉を交わす。 悼む言葉を並べなくとも、それは彼らなりの弔いなのだ。 夜は、静かに更けていくのである。 07 5/23 |