フィフィリアンヌは、読書に耽っていた。 幅広く大きな机の上には、先程まで書き物を記していた羊皮紙が何枚も散らばり、羽根ペンも転がっている。 ブリガドーンを調べていくうちに次第に増えてしまったため、整理しようとは思うのだが、面倒で仕方なかった。 いずれ、全て無用になることが解っているのだから、整理したところで無意味だと思っているせいでもあったが。 ブリガドーンはあまりにも巨大であり、強大だ。フィフィリアンヌの知識を持ってしても、全てを解明出来ていない。 調べた傍から新たな巨石が転送されて合体し、そうかと思えば昨日まであった大岩が消え、構造は滅茶苦茶だ。 何らかの法則があるのではないか、と最初は思ったが、どれだけ計算しても魔力の法則性は見つからなかった。 そのうちに、自分なりに結論を出した。魔導鉱石を大量に含んだ岩や原石が現れ消えるのは、波と同じなのだと。 自然の営みに、法則など在りはしない。枠組みに填めて考えようとすれば、尚のこと解らなくなってしまうだろう。 ならば、填めようとしなければいい。型に填め込んで形が定まるものは、人の手で加工された後のものだけだ。 魔力も生き物だ。人が使えばそれだけ増えるが、人が使わなくなれば次第に減り、いつしか消滅してしまう。 ブリガドーンは、死にかけた魔力が寄せ集まったものだ。だからこそ不安定で、いつ崩壊するかも解らないものだ。 今のところは微妙な均衡を保って空に浮かんでいるが、崩れる切っ掛けさえあれば呆気なく崩壊することだろう。 目を上げると、真っ暗な居間で眠る三人の子供達が目に入った。ソファーの上では、リリが身を丸めている。 その向かい側のソファーではヴィクトリアが眠りこけ、ロイズは二人に寝場所を取られたので床で眠っていた。 季節は初夏だが、ブリガドーンは高所に浮かんでいるので気温が低く、夜ともなれば底冷えするほど寒くなる。 なので三人は、フィフィリアンヌの貸し与えた上着を着込んで厚手の毛布にくるまり、静かに寝息を立てていた。 リリがフリューゲルに連れられてブリガドーンを訪れてから、十五日が過ぎた。長いようでいて、短い時間だ。 連れてこられたばかりの時のリリは、何時間も高速で飛行したために顔色は真っ青で、全身が冷え切っていた。 炎を放ちすぎたためと極度の緊張による疲労から高い熱を出して寝込んでしまったが、二日もしないで全快した。 普通なら一週間は寝込むところだが、伊達に竜の血を引いてはいない。その回復力には、さすがに感心した。 リリがこの山へ来た理由や、その心境を聞くうちに、幼い頃のフィリオラが思い出されて懐かしい気持ちになった。 幼い頃のフィリオラは、竜の力を制御しきれずに屋敷を何度も壊し、フィフィリアンヌやギルディオスに泣きついた。 だが、リリの事情はフィリオラとは違った。人を二人も焼いてしまった、と告白したリリは高熱と恐怖で震えていた。 リリを支えているのは、フリューゲルの存在だった。幼児のような感性を持つ鋼鉄の鳥人は、彼女を慕っている。 フリューゲルも良い遊び友達と出会ったからか、あまり破壊衝動に駆られることもなくなり、楽しげに笑っている。 リリが笑うのは、そんなフリューゲルの心を離したくないからだ。フリューゲルと離別すれば、リリは折れてしまう。 人を焼き殺したという罪は、八歳の少女の胸には重すぎる。その罪の重さから、両親と別れることを決意した。 本当は、今すぐでもゼレイブに帰って両親に会いたいに違いない。だが、リリは必死に意地を張って笑顔を作る。 家族のいる温かな場所に帰らないことが、罪を犯した自分への罰になるのだと頑なに信じているからである。 なんと幼く、またなんと愚かな子だろう。フィフィリアンヌはリリの寝顔を見、遠い昔に死した我が子を思い出した。 フィフィリアンヌは人間の夫、カインと添い、男女の双子を産んだ。その片割れ、リリエールに、リリは似ている。 リリエールは快活な娘だった。大人しい兄、アルベールとは違って外で遊ぶのが好きで、声を上げて笑っていた。 その娘が死んでから、どのくらいの月日が過ぎただろう。数えるのも億劫になるほど、随分と昔になってしまった。 フィフィリアンヌは本を机に伏せると、椅子から降りた。足音を立てないようにして、リリの元に近付いていった。 ソファーの肘掛けに腰掛けて、幼女の寝顔を見下ろす。目元には涙が滲んでいて、毛布をきつく握り締めていた。 優しく、髪を撫で付けてやった。薄茶の柔らかな髪の下には、ツノとは言い難い長さの竜のツノが生えていた。 撫で付けたことで気付いたのか、リリは身を捩った。フィフィリアンヌが手を離すと、リリは毛布に顔を埋めた。 「おかあさん」 ごめんなさい、と呟き、リリはまた眠りに落ちた。その寝顔は今にも泣き出してしまいそうで、哀れでならない。 フィフィリアンヌはリリの肩に毛布を掛け直してやってから、ソファーに背を預けて足を組み、居間を見渡した。 窓際に、薄い人影が立っていた。手足が長くすらりとしていて、減り張りが大きく、丸みのある体型で女だと解る。 「姿を見せてやらんのか?」 フィフィリアンヌが彼女に声を掛けると、彼女は首を横に振った。 「まだダメだよ」 「私はそうは思わんがな」 「だって、合わせる顔がないじゃない」 「ニワトリ頭にでも聞けば良いではないか。あの馬鹿であれば、知っているやもしれんぞ」 「でも、隊長は顔がないから、聞いてもどうしようもない気がするけどね」 「ああ、そうだな」 フィフィリアンヌは目を細め、彼女を見つめた。彼女は顔を上げ、窓の外を見やった。 「あ、いる。まだちょっと遠いけど、すぐにここまで来るよ」 「誰がだ」 「皆だよ。あの人もいる。だけど、来てほしくないなぁ」 「なぜだ。あれほど会いたがっていたではないか」 「会いたいのは本当だけど、会えないよ。情けないから。たぶん、怒られるよ」 「なぜそう思う?」 「そりゃ、あの人はそういう性格だから。フィルさんも知っているでしょ、うちの人の軍隊野郎ぶりは」 彼女は弱い月明かりの下で、うっすらと微笑んだ。 「でも、やっぱり会いたいなぁ。会って、色んなことを話したいよ。あたしの声が聞こえたら、だけど」 「聞こえるとも。奴もどちらかといえばこちら側の存在なのだ、聞こえぬわけがなかろう」 「だと、いいんだけどね」 風が吹き付け、上下式の窓が叩かれた。その風が月を覆っていた雲を払い除けたらしく、光量が少し増した。 月光は彼女の体を容易く通り抜け、影を生まなかった。目を凝らさなければ見えないほどに、その姿は朧だった。 だが、光が差したことでその姿は目視出来るようになった。彼女は、長い金髪を後頭部の高い位置で結っていた。 暗赤の戦闘服を身に付け、使い込んで大分くたびれた軍靴を履いているが、いずれも女の体に馴染んでいた。 男よりも細いとはいえ、腕や足には確かな筋肉が付いている。それは、彼女が戦いに明け暮れていた証だった。 大きくたっぷりとした胸からは、液体が流れた後が染み着いており、腹の部分まで色が変わってしまっていた。 戦闘服の胸元も貫かれたように破れており、彼女の胸の間も破られ、裂けた皮の奥には骨と肉が覗いている。 破れた場所から見えている乳房の上部も潰され、心臓のあった位置には穴が空き、空虚な闇が広がっていた。 一見して致命傷だと解る傷であり、生者でない証拠だった。彼女は傷口に手を載せると、自嘲気味に唇を歪めた。 「これ、どうにか出来るかなぁ。ちょっとは綺麗な格好で会いたいんだけど」 「出来るとも。貴様にその意志があれば、姿などどうにでもなる」 フィフィリアンヌの言葉に、彼女は顔を上げた。 「やれるだけやってみるよ。思念を操ることは、あたしの得意技だからね」 彼女は窓枠から腰を上げると、音もなく床の上を滑り、フィフィリアンヌの元へやってきた。 「そういえば、あたしとフィルさんってこんなに長話したことなかったよね?」 「記憶にないな」 「でっしょー? だからなんか勿体ない気がするのよねー、せめてもうちょっとまともな時に話したかったなぁー」 彼女は積み重ねられた本の上にふわりと載ると、フィフィリアンヌに笑いかけた。 「ちょっとどころかかなーり取っつきにくいけど、話し始めれば話せるんだもん。もっと話しておくんだったなあ」 「私もそう思わんでもない。だが、貴様らはさっさと城を出ていってしまったから、話すに話せなかったのだ」 「あの任務馬鹿がさあ、言うのよ。これ以上旧王都に留まるのは無意味だー、とかなんとか。そりゃあの時は共和国軍と連合軍がうじゃうじゃいて、危ないっちゃ危ない状況だったけど別に急ぐこともなかったのよ。むしろ、あのままもうちょっとフィルさんの城にいて、やり過ごした方が良かったような気がするのよね。でもあの馬鹿は、他人の世話になるのがなーんか気に食わないみたいで、皆の体が治ってちょっとしたら出発しちゃったのよねぇー。もうちょっとぐらい他人に甘えてもいいと思うんだけど、あれもかなりの意地っ張りだからさぁ。レオさんほどじゃないけど、面倒なのは確かよ。我ながらなんでこんなのが好きなんだとか思わないでもないけど、でも、やっぱり好きなのよね」 彼女は笑っていたが、それが不意に陰った。だが、彼女はすぐに表情を戻し、フィフィリアンヌに近付いた。 「あ、そうだ。スープの味、あの子はなんか言ってなかった?」 「いや。何も言わずに食べておったぞ。相当腹が減っていたようで、綺麗に食べ尽くしてくれたがな」 「あーもうっ、鈍い! どうしてそういう似なくていいところに限って似るかなぁー!」 彼女は、悔しげに両の拳を握る。フィフィリアンヌは伏せていた本を取り上げ、また広げた。 「貴様のやり方では味が濃すぎて敵わんのだ。私の舌で濃いと感じるのだから、相当なものだぞ」 「えー、薄めたのお? それじゃ気付かなくて当然だよー」 「当たり前だ。塩も香辛料も貴重なのだ、そう大量に使えるわけがなかろうて」 「ちょっと塩辛いくらいが丁度良いんだって。訓練開けとか任務開けとかに食べると、おいしいんだなぁーこれが」 「所詮貴様も軍属か」 「あ、馬鹿にしてるの、それ?」 「呆れておるのだ」 これだからニワトリ頭の部下は、とフィフィリアンヌは呟き、ページをめくった。彼女は背を丸め、膝を抱える。 「あたしの料理は、まともだと思うんだけどなぁー…。そりゃ、フィオちゃんとキャロルちゃんには負けるけどさ」 「粗雑な貴様が勝てるわけがなかろうが。フィリオラは貴様より遥かに器用で、キャロルはそれが本職なのだ」 「結局、あたしもあの人も親には向いていないってことか」 あーあ、と盛大なため息を吐き、彼女は膝に顎を乗せた。 「ま、そりゃそうよね。あたしらはどっちも軍人なんだから。当たり前っちゃ当たり前だけど、でも、なんか悔しいわ」 フィフィリアンヌは目を上げ、彼女の横顔を見やる。 「なろうとすれば、誰であろうとも親になれる。私とてなれたのだ。そうなろうとしなければ、なれるわけがなかろうて」 「あたしは、なろうとしたんだよ。いいことをしたら褒めてやろう、悪いことをしたら叱ってやろう、どれだけ愛しているか目一杯伝えてやろう、って思ってやってみたんだけど、難しいんだなぁこれが。あたしもあの人も、本当の親からそういうことをされたことがなかったから、どっちもろくに知らなかったんだよね。だけど、隊長がしてくれたこととかを思い出して、やれるだけ頑張ってみたんだ。でも、やっぱり上手くいかなくってさあ。あたしはあの子を甘やかすしか出来なくて、あの人は逆に厳しくするしか出来なくて。何をするにも手探りだけど、それでも出来る限りのことをしてやろうって思ったの」 彼女はフィフィリアンヌを見下ろすと、眉を下げた。 「あの子、何か言ってなかった? あたしのこととかあの人のこととか」 「さてな。私はリリにしか興味がないから、他の子供に気が向くことはない」 「それ、ちょっとひどくない?」 「貴様とてそうだろうが」 「まあ、そりゃあ、ねぇ。十ヶ月もお腹の中で育てて、死ぬほど痛い思いをして産んだわけだし」 彼女は両足を伸ばすと、少々気恥ずかしげに頬を掻いた。フィフィリアンヌは目線を戻し、活字を辿る。 「海に執心しておるのだそうだ」 「え?」 「ルージュから、そう報告があったのだ。現在、ルージュにはブリガドーン近辺の警戒と連合軍の監視を命じておるのだが、そのたびにお前の子の姿を目にしているのだ。場所はまちまちらしいのだが、毎日のように岩に座って海を見下ろしているのだそうだ。基地島の場所はどこか、と聞かれたから教えてやったが、人間の目では見えているかどうかは怪しいがな。大陸内地から出てきたのだから海が物珍しいのは解るが、リリと遊ばずに海を見ているのだから相当なものだ。おかげで、遊び相手を失ったリリに退屈だとぼやかれてしまったぞ」 「そっか、海かぁ」 彼女はしみじみと呟くと、柔らかく笑んだ。 「何か、覚えがあるのか」 フィフィリアンヌの問いに、彼女は笑みを消した。先程までの快活な表情は完全に失せ、明るいお喋りも止んだ。 彼女は音もなく立ち上がって、長い髪を揺らしながらフィフィリアンヌに向き直ると、切なげな様子で目を伏せた。 「感じだけは思い出せるんだけど、中身がないの。相変わらずよ」 「子の名は、思い出せたか?」 「それもいつもと同じ。出そうで出てこないの」 「ならば、夫の名も」 「あの人の顔とか背格好とかは思い出せるんだけど、そこから先はさっぱりで」 彼女は、小さく舌を出した。フィフィリアンヌは、ページをめくる。 「教えてやっても良いが」 「教えられたら、卑怯じゃない。ただでさえあたしは卑怯なのに、そんなことをしたらもっと卑怯になっちゃうよ」 「私は、そうは思わんぞ」 「フィルさんに優しくされると変な気がするぅ」 彼女は顔をしかめたが、すぐに笑った。 「でも、ありがとう。ここに置いてくれて。他に行くところなんてないし、行きたいところも思い出せなかったから」 「構わん。一人二人増えたところで、変わるものでもないからな。それに、霊魂を相手にするのも慣れておる」 「さっすがぁ。竜族は経験が違うわぁ」 彼女は笑うが、目元は笑っていなかった。顔の上半分の透明度が異様に高く、背後の本棚が透けていた。 鼻筋も薄く、口元と首筋は辛うじて見えているが希薄だ。肩から下だけがはっきりしているので、首無しのようだ。 髪はあるが、顔はない。口はあるが、目はない。傷口のある部分は色が濃かったが、手足もやや薄めだった。 見える部分は見えるが、見えない部分は決して見えない。見えない部分は、彼女の内に残留していないからだ。 「そろそろ教えてよ、フィルさん。あたしは、なんて名前だったっけ?」 彼女は下半分しかない顔を、フィフィリアンヌに近付けた。フィフィリアンヌは目を上げる。 「それは卑怯と思わんのか?」 「ちょっと卑怯だとは思うけど、でも、あの人が来るんならそれぐらいは思い出しておかないと」 そうじゃないと名乗れないじゃない、と彼女は恥じらった。フィフィリアンヌは手を伸ばし、彼女の顎に手を添えた。 空気よりもほんの少し重みのある、冷たいものが指に触れた。女性らしい丸みのある顎を、慎重に持ち上げる。 力を入れすぎると、すぐにでも通り抜けてしまいそうだった。触れた部分から魔力を注ぎ込みながら、名を呼んだ。 「フローレンスだ。フローレンス・ファイガー、それが貴様の名だ」 真水に染料を落として広げたように、透けていた部分に色が馴染んでいった。薄かった影が、闇を増していく。 戦闘服や肌の陰影も濃くなり、ぽっかりと空虚だった口から上にも形が戻り、女らしい睫毛の長い目元が出来た。 瞼を開くと、その下から澄んだ青い瞳が現れた。生者に比べて潤いが少ないが、意志の宿った瞳を瞬かせた。 「それが、あたし?」 フィフィリアンヌの手が外されると、彼女は少し首をかしげた。フィフィリアンヌは頷く。 「そうだ」 彼女、フローレンスは両手で顔を覆うと、肩を震わせた。 「そうなんだ、うん、そうだ、そうだったんだよ」 苦しげな嗚咽を殺しながら、彼女は泣いた。その姿は弱々しく、希薄で、嗚咽に震えるたびに姿が薄らいでいた。 彼女がなぜ記憶を失っているのか。そしてなぜ、死んだのか。その真相を掘り返すのは、あまりにも酷だと思った。 ある程度の予想は付いている。だが、口にすれば、死した理由さえも忘れ去っている彼女を苦しめるだけなのだ。 鉄槌で乱暴に叩き壊された石のように彼女の記憶はいびつに崩れ、欠片を集めようとしても全ては集まらない。 集めようとしても、どこから辿ればいいか解らない。標となるものが見当たらないから、彼女は彷徨っているのだ。 フィフィリアンヌは泣き伏せるフローレンスを見つめていたが、目線を落とした。床には、ロイズが眠っていた。 間近に母親がいることも気付かずに、深く眠っていた。誰かに縋り付くように、毛布の上半分を抱き締めていた。 それが、彼の寂しさを現していた。本当は両親に甘えたくてたまらないのに、母親は死に、父親は態度を変えた。 一番の友人であり、また兄でもあるヴェイパーから引き離されてしまったから、その寂しさが極まっているのだろう。 「ねえ」 フローレンスは涙に濡れた頬を拭い、顔を上げた。 「うちの子、どれだっけ?」 フローレンスの青い瞳は虚ろで、声色には恐怖と絶望がこびり付いていた。その足元には、ロイズが寝ている。 だが、彼女は足元を見ずに、フィフィリアンヌだけを見ていた。子供達の姿が、目に入っていないかのように。 いや、きっと目に入っていない。記憶の損失と共に魂が欠落した状態で霊魂となった彼女は、非常に不安定だ。 だから、魔力が特に高いフィフィリアンヌしか目視出来ないのだ。三人の子供の力は高くとも、所詮は子供だ。 フィフィリアンヌの魔力が高いが故にそちらにばかり気が向いてしまい、見えていたとしても見えなくなっている。 魔法で手を加えてやるのは容易いが、それは彼女への優しさではない。彼女は精一杯、己と戦おうとしている。 異能部隊の兵士であった誇りからか、母親としての責任からか、異能者としての自尊心なのからかは解らない。 だが、戦いは戦いだ。下手に横から手を出してしまうと、ただでさえ痛んでいる彼女の心と魂を潰しかねない。 フィフィリアンヌは、フローレンスの問いには答えなかった。フローレンスは視線を彷徨わせていたが、消えた。 室内の気温が少しだけ戻り、底冷えするほどの肌寒さは消えた。それに気付いたのか、ロイズは身動きした。 だが、目を覚ますことはなかった。フィフィリアンヌは子供達に目をやっていたが、また活字へと視線と戻した。 ルージュの報告によれば、連合軍の軍備は完了している。フリューゲルの報告によれば、彼らも向かっている。 ラオフーの報告によれば、海面におかしな波が立っている。戦いの気配は、じりじりと足元に近付いてきている。 しかし、今夜は妙に静かだ。風も弱ければ海も大人しく、ブリガドーンも珍しく安定している。嵐の前の静けさか。 少しは自分も気が立つのだろうか、と思っていたが、気味が悪いほどに心が落ち着いているのが不思議だった。 そういうものかもしれない。こういった出来事は今までに何度も経験したのだから、今更気を立てることもない。 「さて、私も仕事をするか」 フィフィリアンヌは本に栞を挟むと、椅子から降りた。指先を振って虚空に六芒星を描き、とん、と机を小突いた。 途端に、塔のように高く積み重ねられていた大量の禁書が消え失せてしまい、机には白い埃だけが残された。 禁書を封じるには、それ相応の力を持ったもので蓋をしなければならない。ブリガドーンは、それに打って付けだ。 空間転移魔法で禁書を転送した先は、魔導兵器三人衆が回復や魔力充填に使う、半球体内部にある地下室だ。 禁書の保管場所として作った部屋なので、元々頑丈だ。これから起こる戦いも、充分に耐え抜いてくれるだろう。 次にやることは決まっている。夜明けまでに済めばいいが、とフィフィリアンヌは思いながら、すっと目を閉じた。 短距離の空間転移魔法ならば、呪文も魔法陣も必要ない。転移先を念じながら魔力を放つと、その姿は消えた。 竜の気配も霊魂の気配も消えた居間には子供達の穏やかな寝息だけが聞こえていたが、衣擦れの音がした。 ヴィクトリアは毛布をめくって半身を起こすと、禁書が全て消え失せた机の上を見上げ、悔し紛れに舌打ちをした。 フィフィリアンヌの話し声で目を覚ましたのだが、会話の相手の声が一切聞こえてこなかったのが不思議だった。 気になるには気になるが、それほどではない。それよりも、あの声だ。ヴィクトリアにしか聞こえない、声がする。 眠っている時でさえも、頭の中に響いてくる。その声はいつもヴィクトリアを宥め、諭し、落ち着かせてくれる。 彼女は何を伝えたいのだろうか。ヴィクトリアは再びソファーに体を横たえると、彼女の声と潮騒に耳を傾けた。 ブリガドーンの夜は、静かに更けていく。 07 6/19 |