どこからか吹き付けてきた風が、瓦礫を寂しく鳴かせている。 砂埃の混じった風にヒゲを揺らしながら、ネコは微動だにしない。半壊した屋根の上に、ちょこんと座っている。 伯爵が言葉を返さずにいると、ネコは目を細めた。しなやかな動作で屋根から飛び降りると、地面に着地した。 たしっ、と肉球が地面に吸い付く。飛び降りた拍子に鞭のようにしなった長い尾は、意外なことに二本生えていた。 それで、伯爵は確信した。先程の声の主はこのネコだ。大方、近代まで生き延びている魔物の一種なのだろう。 ネコは二本の尾を主張するように振りながら、伯爵の元に歩み寄ってきた。毛並みは艶々し、目の色も鮮やかだ。 伯爵の入っているフラスコの前までやってくると、下半身を下ろして座った。そして、短い牙の生えた口を開いた。 「あっしが珍しいんですかい、旦那?」 「貴君は東方の者であるな?」 伯爵は、ネコの口調でそう判断した。共和国語を使っているものの、言葉の抑揚が西方のそれではない。 「よくお解りで。確かに、あっしの生まれはこっちじゃございやせん。遠い遠い、東の果ての島国でごぜぇやす」 ネコは笑ったらしく、牙を剥いた。伯爵は、フラスコの内側から触手を伸ばした。 「貴君は、我が輩に何か用でもあるのかね」 「いんやあ、大したことじゃありやせん。ただ、ちょいと気になっただけでごぜぇやす」 「我が輩達のことがかね?」 「さすがは旦那、お察しが早うごせぇやす」 二本の尾を持つ白ネコは、伯爵を見上げてくる。 「何分、退屈なんでごぜぇやすよ。あの馬鹿げた戦争が終わってくれたのはええんでやんすが、ここら辺にいた人間はみいーんなおっ死んぢまいやしたからねぇ」 「死んだ人間の数も多いが、収容所送りになった人間の数もとんでもない数であるからな」 「全くで。こういう時ばっかりは、人ならざる身として産まれた身の上をありがてぇと思いまさぁ」 「貴君、名をなんと申すのであるか?」 伯爵の問いに、ネコは深々と頭を下げた。 「シライシ・ヴィンセント・マタキチと申しやす、しがねぇネコマタでごぜぇやす」 「シライシ、とな?」 「その字が解らねぇんでしたら、真ん中の名前だけでよろしゅうごぜぇやす」 「我が輩の名はゲルシュタイン・スライマスであるが、我が輩は高貴なる身の上である。伯爵と呼ぶがよい」 「あんれまあ、旦那は面白いことを言いやすねぇ。あっしらみてぇな生き物に、高貴も何もありゃしやせんぜ?」 可笑しげに、白ネコ、ヴィンセントは声を転がした。伯爵は、少しむっとした。 「貴君には解らぬのかね、我が輩のこの麗しさを、そしてこの優雅さを!」 「へいへい、そんなら伯爵の旦那でよろしゅうごぜぇやすね」 ヴィンセントは、伯爵を受け流した。伯爵は面白くなかったが、機嫌を損ねてはいけないので言い返さなかった。 一人でいるのは退屈だ。どうせなら、話し相手がいた方がいい。その相手に、ヴィンセントは打って付けのネコだ。 ごとり、と伯爵はフラスコを前に進めた。ヴィンセントはしなやかに跳ねると、伯爵の隣に軽く飛び降りてきた。 瓦礫の上は人が乗るには狭いが、スライム入りのフラスコとネコ一匹が乗るだけであれば、充分な大きさがある。 ヴィンセントは前足を折り畳んで座ると、伯爵のフラスコをじっと覗き込んだ。その眼差しは、好奇心に満ちていた。 「伯爵の旦那は、まっこと面白いお人でごぜぇやすねぇ。とすると、あのお仲間も面白いんですかい?」 「面白いと言うより、愚劣である」 伯爵はフラスコの内側を這い上がっていくと、ぽん、とコルク栓を内側から押し抜いた。 「あのニワトリ頭の甲冑は愚か極まりない男である。あの小娘も、身の丈に合わない言動をするのである」 「そいつぁ面白そうでごぜぇやすねぇ。一人でいるよりは、ずうっとよろしゅうことでさぁ」 「あまり良くもないのである。まぁ、暇にはならぬがな」 伯爵は、ほんの少し語尾を和らげた。ヴィンセントは鼻をひくつかせ、ぴんと伸びたヒゲを動かした。 「あの壁の中身はなんだったんですかい、旦那?」 「ヴィンセントよ、貴君は昼間から我が輩達のことを見ておったのか?」 「さっき言いやしたでしょう、退屈なんですよあっしは。ですから、この眼 ヴィンセントの青く丸い瞳に、伯爵が映り込む。その瞳孔は、闇の深さに合わせて大きく開いていた。 「そしたら、遠ーくの方から黒い車が来たんですや。こりゃ何だ、けったいな連合軍かはたまた共和国軍の生き残りか、なんておっかなびっくりしとりましたら、そこには甲冑の旦那と別嬪なお嬢ちゃんが乗っとりやしてねぇ」 「我が輩もいたのであるが」 「ああ、すいやせん。あっしの視点は何分低いでやんすからね、旦那の姿は見えなかったんでごぜぇやす。そいで、その黒い車がどこへ行くのか気になったんで、その後ろをひたひたと追い掛けとりやしたら、旦那達は魔導師協会の廃墟に行きやした。そこでまたじいっと見ちょりやしたら、別嬪なお嬢ちゃんが何やら唱えやして、連合軍がどれだけ攻撃しても壊れなかった壁を動かしたじゃありやせんか。こいつぁ普通の人間でも軍隊でもないと解ったんで、一体どんな連中なんだろうと思って眺めておったんでごぜぇやす。そしたら伯爵の旦那が外に出てきとくれたんで、こりゃ一つお話でも聞こうじゃないかと話し掛けた次第でして」 ヴィンセントは、きゅっと目を細める。 「思った通り、旦那とお話しすると退屈しなくて済みそうでごぜぇやす」 伯爵は、触手で持ち上げたコルク栓でヴィンセントを指した。 「我が輩も、暇を潰したいと思っていたところである」 「旦那、一つ聞いてもいいでごぜぇやすか?」 「何をであるか、ヴィンセント」 「壁ん中にあった本は、どんなものでごぜぇやしたか? ちょいと気になりやしてねぇ」 「何、大したものではない。ただの魔導書である」 「そうでごぜぇやすか。まぁ、あっしのようなならず者には解らねぇようなことが書いてあるんでしょうなぁ」 ヴィンセントは、二本の尾を器用に振る。 「いっそ、なぁーんにも解らねぇ方がいいのかもしれやせんねぇ」 「はっはっはっはっはっはっは。そうかもしれぬな、ヴィンセントよ。無知であるならば、思い悩むこともあるまい」 「あんまり頭が良いっちゅうのも、考え物でさぁ。物事が見えすぎるっちゅうのは、さぞ辛かろうと思いやすよ」 「だが、どうせ生きるのであれば、この豊かな教養を生かして生きるべきである。それが高貴なる者の努めである」 「つくづく、旦那は面白ぇお人でごぜぇやすなぁ」 ヴィンセントは、さも可笑しげに笑った。伯爵はなんだか言い返す気も起きなくなり、とりあえず高笑いをした。 それから、二人は取り留めのないことを話した。会話の主導権はヴィンセントが握り、伯爵はあまり話せなかった。 他人との会話に飢えていたようで、一人でいたというのは本当らしかった。話題の中心は、戦後の状況だった。 荒れた国内を放浪していたヴィンセントは、竜の城に閉じ籠もっていた伯爵より遥かに多くの情報を持っていた。 共和国内の主要都市は連合軍によって制圧されているから出入りが難しいが、田舎町までは手は回っていない。 だから、主要都市の周辺から逃げた人々はその田舎町に住み着いているが、所詮田舎町は田舎町でしかない。 食糧の絶対数が増えたわけでもないのに人口ばかりが増していくので、却って状況が悪化しているのだそうだ。 だが、ブリガドーンの存在は人々の暮らしを何一つ変えていないのだそうだ。ブリガドーンが何もしないからだ。 良きにしろ悪きにしろ、ブリガドーンが人界に影響を及ぼすのであれば、人々もそれ相応の反応を取るものだ。 しかし、ブリガドーンは空に浮かぶ巨大な岩石に過ぎない。天変地異どころか、神も悪魔も連れてこなかった。 連合軍はブリガドーンに興味を持っているようだが、ブリガドーンの浮かぶ位置が高いので手出し出来ていない。 だから、今のところは何も変わっていない。これからは変わるかもしれないが、現時点では何事も起きていない。 これから人のいる街へ向かうのであれば、覚悟をしておいた方がいい。連合軍の影は、そこかしこにあるのだ。 人がいれば、その中に誰が隠れているかは解らない。そして、その誰かが何を企んでいるのかも解らないのだ。 ヴィンセントの忠告に、伯爵はただ笑った。それぐらいのことがなくては、竜の城から外へ出た意味などない。 そして、伯爵は、夜明け近くまで即席の友人のヴィンセントと話し込んでいた。その内容は、極めて下らなかった。 伯爵もまた、他人との長い会話に飢えていた。 四日目の朝が始まったのは、昼前のことだった。 それというのも、ヴィクトリアの寝起きが悪いからだ。日が昇ってから大分過ぎなければ、起き上がりもしない。 大事に大事に育てられていたので、朝早く起きる必要がなかったため、早く起きる習慣が身に付いていないのだ。 昼近くなってようやく起きたヴィクトリアはまだ眠たそうだったが、ギルディオスから急かされて渋々準備をした。 トランクの中から真鍮製の小振りな洗面器を取り出したヴィクトリアは、その底を指先で、こん、と小突いた。 洗面器の底に刻まれた魔法陣を、ヴィクトリアの魔力が目覚めさせる。鈍い銀の器は、底から水が湧き出した。 八分目ほどまで水が満ちると、ヴィクトリアは洗面器の縁を叩いて水を止めた。そして、その水で顔を洗った。 ヴィクトリアによれば、この洗面器は水を生み出す魔法を仕込んだものであり、便利な道具の一つなのだという。 確かに水が湧き出す器があれば、水源を探す手間が省けるし泥水を啜る必要はないが、少々不精な気がする。 ヴィクトリアはまだぼんやりしていたが、洗面器の水を掬って口に含むとゆすぎ、砂っぽい地面に吐き捨てた。 「眠たいのだわ」 「なんか喰うなら、さっさと喰えよな。お前が喰い終わったら、ここを出る」 ギルディオスは蒸気自動車の車体に寄り掛かり、腕を組んでいた。ヴィクトリアは、ギルディオスを見上げる。 「あなた、どうしてそんなに元気なのかしら。不思議なのだわ」 「オレからしてみりゃ、どうしてお前はそんなに寝覚めが悪ぃのか不思議だぜ」 ギルディオスは、ちょっと肩を竦めた。ヴィクトリアはトランクの中を探り、紙袋を取り出した。 「眠いものは眠いのだわ」 ヴィクトリアは、二度焼きして保存が効くようにしたパンを囓った。だが、硬いらしく、苦労しながら食べていた。 その硬さが鬱陶しいのか、ヴィクトリアは更に不機嫌になった。腹が減っているから、食べているだけなのだろう。 ヴィクトリアは奥歯に力を入れて乾いたパンを噛み砕いていたが、喉が渇いたのか、水を手で掬って飲んでいる。 どうやら、カップを出す手間を省いたらしい。ギルディオスはやれやれと思いながら、ふと伯爵のことを思い出した。 ボンネットに鎮座しているフラスコの中で、伯爵は気色悪い動きで震えていた。これは、機嫌の悪い時の動きだ。 「あー、悪ぃ悪ぃ」 平謝りしながら、ギルディオスは自分の荷物の中から布にくるんだワインボトルを出した。 「いいから我が輩を潤わせたまえ、ギルディオスよ! このままでは干涸らびてしまうのであるぞ!」 「うるせぇ」 ギルディオスはフラスコのコルク栓を抜くと、その口にワインボトルを当てて中にどくどくと注ぎ込んだ。 「おおおう…」 ぶるぶると全身を脈動させながら、伯爵は赤ワインを体に馴染ませた。その声に、ヴィクトリアは眉根を歪める。 「黙りなさい。うるさいのだわ」 「良いではないか、この時間は我が輩の至福の時間であるからして!」 伯爵が言い返すと、ヴィクトリアは据わった目で伯爵を睨み付けた。 「私は眠いのだわ」 「だったら、移動中にでも寝ておけ。どうせ、暇なんだからよ」 オレは暇じゃねぇけどさ、とギルディオスはワインボトルを上げて栓を閉めた。その間、運転するのは自分だ。 体が体なので大した疲労は感じないが、気疲れはする。少しはありがたがってくれよな、と内心で文句を言った。 伯爵は年代物のワインの渋みを味わいながら、視点を動かした。感覚も高めてみたが、彼の気配はなかった。 ヴィンセントは、この近くからはいなくなったようだ。暇が潰せたから気が済んで、放浪に出たのかもしれない。 またいつか、会いたいものだ。ヴィンセントは口が達者だったので、話し込むにはなかなか面白い魔物だった。 ヴィンセントが生まれ故郷だという極東の島国の話も興味深く、もっと聞いておくべきだったと今更ながら思った。 「で、次はどこに行く?」 ギルディオスは身を屈め、ヴィクトリアに尋ねた。ヴィクトリアはトランクから折り畳んだ地図を出し、広げた。 「そうね、次は北西に向かうわ。その先の街にも、魔導師協会の支部があるはずなのだわ」 「ここからそこまで行くとなると、また二三日掛かりそうだな。道が良けりゃ、もうちょい早いだろうがな」 よっしゃ、とギルディオスは上半身を起こし、砂埃を浴びて白っぽくなってきた黒いボンネットを叩いた。 「ヴィクトリア、魔力充填よろしくな。三日も走り通しだったから、さすがに魔力が減ってきちまったみたいでよ」 「仕方ないわ。やってあげてもよくってよ」 ヴィクトリアは、囓りかけのパンを前歯で削るように食べた。 「でも、それは食べ終えてからだわ」 「へいへい。お姫様の言う通り、ってか」 ギルディオスは、ヴィクトリアを急かすことを諦めることにした。それに、この旅は急ぐような旅ではないのだ。 立ち止まりながら進むのも、悪くない。ギルディオスは屋根の下から出ると、瓦礫を照らす日差しの下に出た。 腰までしか長さのない赤いマントを羽織った甲冑の背を見、伯爵は昨夜の余韻に浸りながら小さく泡を成した。 景色は旧王都のそれと良く似ているが、見慣れているようでいて見知らぬ光景という少し不思議なものだった。 フィフィリアンヌがいるべきである位置付けにヴィクトリアを据えたこの生活も、四日目ともなると慣れてきていた。 違和感も多少は薄らいできた。だが、やはり、フィフィリアンヌと共に過ごした日常と同じように価値のない時間だ。 しかし、居心地は悪くない。瓦礫の光景も長く視ていると面白みを感じてしまうように、次第に心地良くなってくる。 慣れとは、偉大だ。 廃墟の世界をひた進み、朽ちた街を訪れる。 そこにあるのは一冊の禁書と、人語を解す魔性の存在だけであった。 少女は禁書を手に入れ、重剣士は緩やかな時間を慈しみ、そして。 高貴なる粘液は、退屈を紛らわすのである。 07 3/4 |