ヴィクトリアは、目を覚ました。 悪い夢を見ていた気がする。頭が重く、全身が怠い。何日も食べていなかったかのように、ひどく空腹だった。 頭上には、見覚えのある天井と窓があった。ここはゼレイブであり、ブラドール家の屋敷の一室に違いなかった。 この間まで、ブリガドーンにいたはずなのに、いつ戻ってきたのだろう。攫われたこと自体、夢だったのだろうか。 それにしては、記憶が生々しすぎる。だが、戻ってきた時の記憶がない。その部分だけ、抜け落ちたかのようだ。 枕元に座っていた、母親の手製のクマのぬいぐるみを撫でた。その傍らに、黒光りする拳銃が横たえてあった。 かなり使い込まれている、六弾倉式回転拳銃だ。ヴィクトリアは見た瞬間に、それがロザリアの拳銃だと解った。 ならば、母親が来ているのだろうか。喜々として母親の拳銃を手にすると、その影に隠れていたものが現れた。 度の入っていない丸いレンズが填った、父親のメガネだった。レンズの端には、赤黒いものがこびり付いている。 途端に、嫌な脂汗が全身から噴き出した。ヴィクトリアはがくがくと震えながら、母親の拳銃を強く握り締めた。 嘘だ。嘘だ。あれは夢だ。現実ではない。母親が目の前で殺され、父親の死体が海へ捨てられたなど、嘘だ。 何度もシーツを蹴り付けてずり下がり、壁まで逃げたが血の色は失せない。瞼の裏に残る光景も、変わらない。 飛行服を着た女に胸を貫かれ、血を噴き出しながら死んだ母。死に神じみた男に、海へ投げ捨てられた父親。 嘘だ、嘘だ、嘘に決まっている。悪い夢だ。現実じゃない。そんなことがあっていいはずがない。だって、二人は。 「…!」 誰にも負けないのだわ、と叫ぼうとしたが、出たのは掠れた吐息だけだった。 「…」 どうして。誰かが私を呪ったの。許さない。お父様とお母様を返せ。殺し返してあげる。そう、喚いたはずだった。 だが、何も言葉にならなかった。喉は震えるが音にならず、涙は出るが嗚咽は漏れず、息ばかりが乱れていく。 これも嘘だ。きっと夢だ。目を覚まさなくては。ヴィクトリアはベッドから降りると鉱石ランプを取り、高く振り上げた。 鉱石ランプを壁に叩き付けると、ガラスが割れて魔導鉱石が砕け散った。ヴィクトリアは、その破片を一つ拾った。 夢ならきっと、痛くない。そう思って破片を力一杯握り締めると、鋭い痛みが駆け抜け、手のひらから血が滴った。 痛みに耐えかねて破片を落としたヴィクトリアは、傷が出来たばかりでずきずきと痛む右手を下ろし、後退した。 壁越しに、荒い足音が駆けてくるのが聞こえた。殴るように扉が開かれた直後、ギルディオスが飛び込んできた。 「ヴィクトリア!」 ギルディオスは手から血を流しているヴィクトリアと叩き割られた鉱石ランプを見た途端、ぎょっとした。 「何したんだ、お前!」 ねえ、これは悪い夢なのよね。そう言って、お願いだから。この痛みも夢なのよね。ヴィクトリアはそう言った。 だが、ギルディオスは答えてくれなかった。それどころか、不思議そうな様子でヴィクトリアを見下ろしていた。 「どうしたんだ、ヴィクトリア」 聞こえないはずがなくってよ。だって、私はきちんと喋っているわ。ねえ、そうでしょ、ギルディオス。ねえって。 「声が、出ないのか?」 ギルディオスは、口を動かしているが声を発していないヴィクトリアの両肩を掴んだ。 「そうなんだな、ヴィクトリア」 違う、違うわ。私はちゃんと喋っているわ。聞こえていないはずがないわ。聞こえていないなんて、嘘だわ。 「とりあえず、落ち着け。出血も止めねぇと」 下らない嘘を言わないで。私に触らないで。 「ヴィクトリア!」 ギルディオスは、身を捩って逃れようとしたヴィクトリアを押さえた。ヴィクトリアは、血の流れる右手を突き出した。 その手で、彼のヘルムを思い切り押した。だが、流れる血でぬるりと滑ったため、右手は呆気なく外れてしまった。 「まずは、ファイドに診てもらわなきゃな。手もそうだが、声のことも」 ギルディオスはヴィクトリアをひょいと抱き上げると、廊下に出た。ヴィクトリアは、空いている左手を振り上げた。 魔力を高めて放ちさえすれば、逃れられる。だが、魔力中枢は冷たく沈黙して、魔力はほんの少しも出なかった。 なんで。どうして。ヴィクトリアは虚空に伸ばしていた左手をだらりと下ろして脱力し、ギルディオスの胸にもたれた。 これが現実なものか。有り得るはずのないことばかりが起きる。ただの悪い夢だ。きっと、そのうち目を覚ます。 目を覚ませば、手の届く場所に愛する両親がいて笑いかけてくれる。いつものように、強い魔法や呪いを放てる。 声だって、出ないわけがない。共和国語以外の言葉も勉強したので知っているし、なんだったら喋ることも出来る。 そうだ。これは夢なんだ。だが、瞼の裏に貼り付いている地獄そのものの光景は薄れず、声は出ないままだった。 誰か、助けて。そう叫んだはずなのに、言葉にならなかった。 抵抗する気力すら、尽きていた。 ギルディオスに抱えられて一階の客間に連れてこられたヴィクトリアは、黒竜族の医師、ファイドに診察された。 最初に右手の傷を消毒してから治癒魔法を掛けて傷を塞いだが、開くかもしれないから、と清潔な布が巻かれた。 次に、瞼を広げられ、舌を押さえられて喉の奥を覗かれ、心音を確かめられ、脈を取られ、痛覚も確認された。 ファイドはヴィクトリアの胸元に手を当てて魔力を確かめていたが、眉根をひそめた。手を外すと、顔を曇らせる。 「いかんなぁ」 「どこか、悪いのか」 ヴィクトリアの背後に立っていたギルディオスに問われ、ファイドは腕を組んだ。 「声が出ないこと自体は、心因性と見ていいだろう。目の前であんなことがあっては、子供である彼女が耐え切れるはずもない。心を壊してしまわないために負担を肉体へと向けた結果、影響が喉へと出てしまったわけだ。時間はかなり掛かってしまうだろうが、いつか治るだろう。だが、問題は魔力中枢の沈黙だ。魔力自体は生じているのだが、どうにも循環が悪くてならん。魂も、反応が随分と弱い。このままでは、魂が魔力中枢と肉体から乖離してしまうかもしれん。しかし、衰弱している以外は、外傷もなければ病症も見当たらないのだよ。となれば、それも心因性かもしれんなぁ」 「魂も弱るのか?」 「弱るとも。あれもれっきとした肉体の一部だ、過負荷が掛かれば弱る。肉体からの乖離と魂の衰弱を阻むための投薬もしてみるが、心因性ならばそれほど効果は望めんだろうなぁ。本人の生きる意志というのがなければ、魂はいずれ死ぬ。だが逆に、意志さえ強ければ多少なりとも融通が利くのがこの世界のいいところだ。身に覚えがあるだろう、ギルディオス」 「あ、まぁ」 「ヴィクトリアの場合は、生存の意志の回復をさせるためにも、療養するのが最適な治療だな。つまり、ゆっくり休みたまえと言うことだ。他の者達から話を聞いたが、ブリガドーンでの戦いは相当ひどかったようだからなぁ。君も当分の間は休みたまえ、ギルディオス。ゼレイブにいれば連合軍には出くわさないし、魔導兵器三人衆とやらも全滅にも等しい状態だ。まあ、しばらくは戦う機会もないとは思うがね。だが、ヴィクトリアから目を離してはいかんぞ。先程も錯乱したようだし、著しく情緒が乱れている。最悪、自害しかねん」 ファイドの言葉に、ギルディオスは物悲しい気持ちでヴィクトリアを見下ろした。彼女が、哀れでたまらなかった。 ヘルムになすりつけられた彼女の血は拭き取ったが、どんな気持ちで血を流したのかと想像すると胸苦しくなる。 「そうか…」 「まず、ジョセフィーヌに消化の良い食事でも作ってもらって食べさせたまえ。君達ヴァトラス小隊がブリガドーンからゼレイブに帰還するまでの十日間は眠りっぱなしだったから、すぐには胃が受け付けないとは思うが何も食べないよりは余程いい。白湯から始めて、その次に緩めの粥でも食べさせてやりたまえ。普通の食事に戻るまでは日数が掛かるだろうが、根気良くやるしかない」 ファイドは、俯いているヴィクトリアを覗き込んだ。 「なあに、そのうち元通りになるとも。安心したまえ、ヴィクトリア」 ヴィクトリアは傍にあったテーブルに、指を滑らせた。声が全く出ないため、書いて伝えるしかなかったからだ。 『うそだ』 指の動きから文字を読み取ったギルディオスは、彼女の傍らに屈み、励ました 「嘘じゃねぇさ。ちゃんと治るって」 『うそ』 「すぐにまた、今までみたいに喋れるようにもなるし魔法だって使えるようになる。だから、そんなに悲観するな」 『うそ』 「嘘なんかじゃねぇさ」 『だったら、わたしのかぞくをかえして』 「それは、無理だ」 『ほら、うそだ』 ヴィクトリアはテーブルに爪を立てていたが、ギルディオスの腹部を殴った。両手で、何度も何度も殴り付けた。 返せ、返せ。全部を返せ。お前など役に立たない。お前など嫌いだ。嫌いだ。お前が代わりに、死ねば良かった。 死ね、死ね、死んでしまえ。爪が剥げそうなほどの勢いでギルディオスの装甲を引っ掻いて、しね、と叫び続けた。 だが、ギルディオスは言い返してこなかった。その代わり、ぼろぼろと涙を落とすヴィクトリアを抱き締めてきた。 ヴィクトリアは装甲を引っ掻きながら、泣き叫んだ。けれど、どれだけひどい言葉を吐こうとも一切聞こえなかった。 聞こえるのは荒く乱れた呼吸と苦しげな嗚咽だけで、いつも耳にしていた自分の声は欠片も混じっていなかった。 いっそ、死なせてほしかった。 ヴィクトリアはまたもやギルディオスに抱えられて、自室に戻った。 壁に投げて叩き割った鉱石ランプは、手早くジョセフィーヌが片付けたらしく、細かな破片すら残っていなかった。 破片が残っていれば、それを飲み込んで死んだのに。窓ガラスを割ろうにも、部屋からは重たい物が消えていた。 衣服や下着類などは折り畳まれてベッドに載せてあるが、トランクはなくなっており、魔法の道具も奪われていた。 クマのぬいぐるみの中に仕込んである小型の拳銃も取り出され、母親の形見の拳銃からは弾丸が抜かれていた。 椅子はさすがに残っていたが、ヴィクトリアが持ち上げられないような重たいものに取り替えられてしまっていた。 それが、どうしようもなく腹立たしい。ヴィクトリアは母親の拳銃を枕に叩き付けようとして、震える手を下ろした。 お母様に痛い思いをさせてはいけない。お父様にも痛い思いをさせてはいけない。そう思い、なんとか自制した。 すると、扉が叩かれた。入ってきたのは、ポットと粥の入った器を載せた盆を持っているギルディオスだった。 ヴィクトリアは、反射的に顔を背けた。ギルディオスはテーブルをベッドの傍まで引き寄せてから、盆を置いた。 机の前から椅子を引き摺ってきて腰掛けたギルディオスは、マグカップに白湯を注ぎ、ヴィクトリアに差し出した。 「ほらよ、ヴィクトリア」 何もいらない。このまま死んでしまいたい。ヴィクトリアが顔を背けていると、銀色の手は目の前にやってきた。 「ゆっくりでいいから、飲んでくれ」 『いらない』 ヴィクトリアはシーツの上に指を滑らせ、文字を書いて答えた。 「石盤と白墨も持ってくるんだったなあ。ま、いいや。それはまた次だ」 ん、と顔の前にカップを突き出されたヴィクトリアは、根負けしてカップを受け取り、また書いた。 『すこしだけなら』 「まあ、少ししか飲めねぇだろうから、無理はするな。オレも若い頃、戦場で下手扱いちまってひどいケガをして寝込んだことがあるんだが、喰わなきゃって思うのにまるで喰えなくてよ。で、無理矢理喰って、戻しまくった覚えがある。それがまた、情けねぇし格好悪いしでよ。だから焦るんじゃねぇぞ、ヴィクトリア。弱っちまった時は、焦ったってろくなことにならねぇからな」 ギルディオスの話を聞き流しながら、ヴィクトリアは白湯を口に含んだ。少し冷めているので、程良い温度だった。 だが、飲み下そうとすると、つい今し方まで動きを止めていた喉が受け付けてくれず、嘔吐感が迫り上がってきた。 結局飲み下せず、吐き戻してしまった。げほげほと激しく咳き込んでいると、白湯に混じって僅かな胃液も戻した。 ギルディオスは盆に載せてあった布巾でヴィクトリアの口の周りを拭いてやってから、穏やかな言葉を掛けてきた。 「だから、ゆっくりでいい。焦る必要なんてねぇんだ」 『なぜ、かまうの』 咳き込みながら、ヴィクトリアはシーツに書いた。ギルディオスは、首をかしげる。 「何がだ?」 『かまわないで』 「旧王都からここまで一緒だった相手に向かって、何を言いやがる」 ギルディオスは、いつものように笑った。ヴィクトリアは、更に書く。 『わたしは、あなたがきらい』 「だろうぜ」 『あなたがしねば、よかったのに』 「…かもな」 ギルディオスは、苦笑した。 「でも、オレはグレイスとロザリアの代わりに死ぬことは出来ねぇ。今までも、これからも、ずっとそうなんだ」 『それが、なんなの』 「何でもねぇよ。それだけだ。オレがお前を構うのは自己満足みてぇなものだし、オレがお前を救えるなんて欠片も思っちゃいねぇ。お前はグレイスとロザリアほどじゃねぇけど、今まで悪いことをしてきたんだからその報いが来たんだって思わないでもない。でも、放っておけねぇんだ。他の連中はどうなのかは知らねぇが、オレはヴィクトリアのことはそんなに嫌いじゃねぇからよ」 『すかれていない。わたしもすいていないから』 「でも、嫌でも連中とは付き合うことになるぜ。そのうち、好きになれるかもしれねぇぞ」 『ありえない』 「さあ、どうだかな。だが、安心したよ。そんなにべらべら喋れるってことは、結構大丈夫じゃねぇか」 ギルディオスは、確信するように頷いた。ヴィクトリアはまた白湯を口に含むと、時間を掛けて少しずつ嚥下した。 まだ引っ掛かりはあったが、今度は平気だった。長らく空だった胃に白湯が入ると、腹の中に違和感が広がる。 大丈夫なわけがない。ギルディオスの明るい態度に釣られて会話したようなもので、本当は黙っていたかった。 他の者達だったら、こうはいかないだろう。二ヶ月と少しの間、共に旅をした間柄だからこそ気を許せているのだ。 いつのまにか、ギルディオスを受け入れている自分に気付いた。旅を始めた頃から、彼が嫌いで仕方なかった。 やたらと馴れ馴れしくて遠慮がなく、ヴィクトリアを子供扱いしてばかりで、ちっとも大人として見てくれなかった。 背伸びをしてばかりのヴィクトリアを諫めたり、宥めたりしてきた。早く立派になりたいのに、いちいち邪魔をする。 なかなか寝付けない夜は呼んでもいないのに後部座席にやってきて、ヴィクトリアが寝付くまで見守ってくれた。 灰色の城では家事を一切やらなかったので、やり方が解らなかった炊事や洗濯を、大雑把ながら教えてくれた。 危ない時は守ってくれ、叱る時は叱り、褒める時は褒めてくれた。家族でもないくせに、家族のような態度を取る。 だから、嫌いだ。お前なんて家族の代わりにもならない、とヴィクトリアは薄い唇を噛み締めながら、彼を睨んだ。 すると、ギルディオスはヴィクトリアに右手を差し出してきた。かなり使い込まれたガントレットの手が、向けられる。 一体、何をするつもりだ。ヴィクトリアが訝っていると、ギルディオスはベッドに身を乗り出して右手を近付けてきた。 「オレはヴィクトリアの保護を続ける。ロザリアと約束したからな」 ギルディオスは、ヴィクトリアとの距離を狭めながら続けた。 「オレはな、傭兵なんだよ。ロザリアとはまともな契約をしなかったが、報酬ももらい損ねたが、一応お前の母さんに雇われていることには変わりない。といっても、自発的に、なんだけどな。んで、その契約を続行させるに辺り、必要なのはこれまでの報酬なんだが」 そんなものはどうでもいい。そうは思ったものの、ロザリアの名を出されると心が揺らがないはずがなかった。 契約も何もない、本当に他愛もない口約束に過ぎないが、ロザリアが自分を心配し愛してくれていた証なのだ。 途端に寂しさは高まり、同時に切なくなるほどに嬉しくなった。ヴィクトリアは涙を堪えていると、左手を取られた。 顔を上げると、ギルディオスは騎士のように片膝を付いてしゃがみ込んでおり、ヴィクトリアの左手を掲げていた。 「オレじゃなくてラミアン辺りがやれば似合うんだが、こればっかりはそうもいかねぇしな」 若干照れくさそうなギルディオスは、ヴィクトリアの左手の甲に冷ややかなマスクを軽く当てた。 「これで、今までの報酬と、今後の前払いは頂いた」 その行為に驚いたヴィクトリアは慌てて左手を下げ、後退った。ギルディオスは立ち上がり、ヘルムを掻く。 「つまり、これからオレがヴィクトリアを構うのはロザリアとの契約とオレの意志の半々ってことだ。そういうことなら、お前もそんなに文句はねぇだろう?」 冗談じゃない。大有りだ。だが、言い返そうにも言い返せず、ヴィクトリアは金属の感触が残る手の甲を擦った。 けれど、感触は消えなかった。だが、一人きりでいると、悪い方向へ進んでしまうのは自分でも薄々解っていた。 だから、誰かが傍にいてほしいと思っていた。そうでもしなければ、家族が死んだ寂しさに耐え切れなくなるだろう。 その誰かがギルディオスである必要などどこにもないのだが、なんとなく、はねつけてしまいたくない気分だった。 ならば、仕方ない。妥協してやるしかない。ヴィクトリアはギルディオスの腕を小突いてから、そこに指を伝わせた。 『わかった』 「おう」 ギルディオスはヴィクトリアの書いた文字を読み取り、笑った。ヴィクトリアが受け入れてくれたのが、嬉しかった。 絶望に沈んだ者を、一人きりにしてはいけない。更なる孤独の深淵を覗いてしまえば、また同じことの繰り返しだ。 双子の兄のイノセンタス・ヴァトラスとフィフィリアンヌの弟のキース・ドラグーンは、深淵から戻れず、狂っていった。 状況と結末こそ違えど、孤独が二人を追い詰めたのは確かなのだ。孤独は、心の傷を押し広げ、深くしてしまう。 だから、絶望の中にいるヴィクトリアを冷たく悲しい深淵へと沈ませないためにも、孤独から遠ざける必要がある。 最も有効な手立ては、彼女の傍にいてやることだ。大したことは出来ないかもしれないが、変わるかもしれない。 ヴィクトリアはギルディオスから目を逸らし、白湯を口に含んだ。急ぐとまた吐き戻してしまうので、慎重に飲んだ。 大分痩せて顔色も白いヴィクトリアを見つめながら、ギルディオスは右手を握り締めた。握力は、衰えたままだ。 この契約、というより、約束を果たすことは出来ないだろう。日を追うごとに、魂の衰えは明確になりつつあった。 ヴィクトリアが完全に立ち直るまで傍にいたいが、それまで保つように思えなかった。それでも、やれる限りやろう。 彼女の父親の、友人の勤めとして。 愛する者を滅ぼされ、絶望の底に沈みゆく、少女が一人。 魔法を紡ぐ声と魔法を成す力を失い、孤独の海へと堕ちていく。 氷のように美しく、眠りのように蠱惑的な、漆黒の深淵から逃れるためには。 差し伸べられた手を、取るだけでいいのである。 07 7/14 |