ドラゴンは滅びない




戦乙女




 ルージュは、夢を見ていた。


 生身の頃の記憶だった。闇に紛れるために黒い衣装で身を包み、人々の間で息を潜めて、生き長らえていた。
目的も何もなく、ただ生きていた。日に日に栄えていく近代社会に上手く馴染めなくて、もどかしい思いをしていた。
幼い頃に放り出されてしまったので、親の顔も名前も知らなかった。姓は朧気に覚えていたが、それだけだった。
 自分自身の名前すらも知らなかった。名を呼んでくれる親も友人もいなかったので、知る機会がなかったからだ。
一人で街を彷徨っていると大人に捕まり、手込めにされそうになったことや売り飛ばされそうになったこともあった。
体に宿る強い魔力や人外の力を使って逃げ出し、体は無事だったが心には傷が残り、前にも増して人を避けた。
自分自身が一体何なのかを知るために魔導師協会に潜入し、魔導書を読み漁り、ようやく自分の正体を知った。
 牙が生えていて、翼を生やせ、夜が得意で昼が苦手で、血が好物である自分は、吸血鬼族なのだと理解した。
だが、それだけだった。自分が吸血鬼だと理解したところで何が変わるわけでもなく、心中は空虚なままだった。
本の中から見つけた単語を使って自分に名を付けても、同じだった。名を持っても、その名を呼ぶ者はいない。
 これからも、ずっといない。




 名を呼ばれて、意識を戻した。
 見慣れない石壁の天井が視界一杯に広がり、背中から冷たさが伝わってくる。全身に漲る、熱く強い魔力も。
黄泉の世界とは、こんなにも生々しいものか。一度目の死では行けなかったが、二度目の死では行けたようだ。
これで、もうあの寂しさを感じることはない。あの男に会えないのは少し悲しいが、その方があの男は幸せだ。
こんな下らない女と愛し合っても、絶対に幸せにはならない。早く忘れてくれたら嬉しいが、と内心で自虐した。

「右手を動かせ」

 声が聞こえた。どうせこれも幻だ、と思い、それならば従ってみようと右手を動かしてみた。ぎ、と関節が動いた。
右肩には、いつものあの重みはなかった。その代わりに滑らかに動く関節と軽い腕があり、しなやかに上がった。
視界に入ってきたのは、以前のような仰々しい主砲ではなかった。それよりも遥かに細い、人に酷似した腕だ。
だが、外装は魔導金属製で、腕の外側には飛び出し式の刃が埋め込まれている。この腕もまた、人を殺す腕か。

「左手も挙げてみろ」

 また、声が聞こえた。右手を下ろしてから左手に力を込めると、左肩と肘には重みが掛かり、少し手間取った。
こちらは、見覚えのある腕だった。以前の副砲とよく似た外見だが、よく見ると砲身は前よりも長くなっていた。
砲身の下には、腕の太さに見合った無骨な機械の手が付いている。意志を送ると、左手は動き、拳を作った。

「初期動作としては問題はない。だが、状態はまだ不安定だ。調整が必要だな」

 目の前に、整った顔立ちの少女が現れた。すると、ただでさえ薄かった意識が更に薄らぎ、遠のいた。

「機体の調整が済んだら、本覚醒に入る。それまでは休むがいい、ルージュ」

 冷たい指先が、頬に触れていた。彼女の名がフィフィリアンヌであり、一時的な主人であったことを思い出した。
だが、禁書の回収は終えた。だから、約束は果たして自由になったはずだ。生きるも死ぬも、自由ではないのか。
だったら、死なせてくれ。叶わない恋に身を焦がし、嫉妬に狂い、愛する男に手を掛けた愚かな女なのだから。
やっと死という名の解放を手に入れた。ほんの一時だが、愛する男と愛し合うことが出来た。恋心を告げられた。
これ以上、何も望んではいけない。望んだりしたら、生きたくなってしまう。お願いだから、そっとしておいてくれ。
 その方が、きっと幸せだ。




 虚ろな夢をいくつも重ねていたが、眠りが不意に途切れた。
 異様に研ぎ澄まされた覚醒が訪れ、視界が明瞭になった。魔導鉱石に込めた魂が高まり、熱さえ生じている。
胸の魔導鉱石から発せられる熱が全身を巡り、内部機関を動かす。魔導金属糸製の神経に、魔力が流れる。
視界どころか、全ての感覚が冴え渡っている。起き上がってみると、銀色の髪が音を立てながら零れ落ちた。
指に絡めてみると、その髪の硬さも伝わってくる。頬に触れると、その部分だけ生身の肉のように柔らかかった。
胸に触れると装甲の硬さが、腰に触れると駆動部分の隙間が、腕に触れると武器の重みが、全て感じられた。
 失っていた触覚が甦っているのか。信じられない思いで体中を触っていたが、ふと気付いて、辺りを見回した。
古びた、石造りの部屋だった。下を見てみると、ルージュが横になっていたのは六芒星の魔法陣の上だった。
窓はないので、恐らく地下室だろう。殺風景な部屋の片隅には机が置いてあり、そこには少女が向かっていた。
机の上と周囲には大量の本が積み重ねられ、空になったワインボトルが無造作に転がされ、散らかっている。
小柄な体格に釣り合わない大きな椅子に座る背からは、見覚えがある若草色の皮が張った翼が生えていた。

「気は済んだか」

 少女は本から目を上げずに、幼いが良く通る声を発した。

「五感が一つでも戻ると、大分違うようだな」

「フィフィリアンヌ…」

 なぜお前が、とルージュが問おうとすると、フィフィリアンヌは読みかけの本で制してきた。

「ここは私の城だ。私の城に私がおらぬでどうする」

「お前の、城?」

 ルージュが困惑すると、背後から唐突に低い声が響いてきた。

「はっはっはっはっはっはっは。貴君はこの女に拾われたのであるからして、まずは感謝するべきなのである」

 振り向くと、壁際に赤紫の粘液が入ったフラスコが転がされていた。その中で、スライムがごぼごぼと泡立つ。

「なんだ、あの不気味極まりない物体は?」

 ルージュが顔をしかめると、フィフィリアンヌは本を閉じて机に放り投げた。

「そうか。貴様は、伯爵と顔を合わせるのは初めてだったか。あれは伯爵という名のスライムで、私が作った下らん存在だ。あれとは、かれこれ五百年以上の付き合いになる」

「率直な感想として、物凄く気色悪いんだが。私だったら、一時間も保たない。すぐに捨てるぞ」

「私も捨てたいのだが、あれを捨てるために手間を取るのだと思うと無性に情けなくなってきて、気が削げるのだ」

「…違いない」

 ルージュが同意すると、フラスコを盛大に揺らして伯爵が叫んだ。

「これこれこれ! 貴君の調整作業には我が輩も手を貸したのであるからして、敬われこそすれいきなりないがしろにされる理由はどこにもないのであるぞ!」

「そうなのか?」

 ルージュが口元を曲げると、フィフィリアンヌも眉根を曲げた。

「手が足りなかったのだ。私一人では、魔導兵器の調整は難しくてならんのだ」

「有り体に言えば、我が輩達は貴君を助けたのである。ルージュ・ヴァンピロッソよ」

 ごぼり、と伯爵が大きな気泡を吐き出す。フィフィリアンヌは左側の壁を指し、古びた姿見を示した。

「とりあえず、姿を確認しろ。連合軍から貴様ら三体を強奪する際に試作型の機体も同数奪ってきたのだが、思った通り無駄ではなかったな」

 見たくない気もしたが、ルージュは姿見に向き直った。僅かに表面が歪んだ鏡には、機械の女が映っていた。
以前の体と違っているのは、両腕だった。最初に目覚めた時に見たように、右腕は細く、飛び出し式の刃がある。
刃の長さは肘を遥かに超えていて、付け根はバネ仕掛けで飛び出せるようになっている、近接戦闘用の武器だ。
意識を送ると、軽い音を立てて刃が飛び出した。刃の峰が手の甲に当たって、硬さが伝わるのが少し嬉しかった。
刃も魔導金属製なので、かなり頑丈だ。刃と仕掛けを繋ぐ根本にも何かが仕込まれているらしく、違和感がある。
ルージュがしばらく訝っていると、椅子から降りたフィフィリアンヌはルージュの傍に立ち、刃の根本を指差した。

「その魔導金属製の刃は飾りに過ぎん。物理攻撃には有効だが、魔法攻撃に対しては大した威力は望めん。本当の刃は別にあってな、魔力で成す刃こそ本当の刃なのだ。根本には魔導鉱石を仕込んでやったから、貴様の意志で魔力刃が出せるようになっている。魔法攻撃に対抗する際に使用すると良い」

「魔力刃と言うと、ブラッドが私を斬る時に使っていた魔法の刃のことか?」

「極めて簡潔に説明すれば、そんなところだ。左腕の魔力砲にも動力源を内蔵させ、魔力中枢から完全に切り離してやったから、どれだけ使おうとも魔力中枢は痛まん。設計上では、威力は以前の主砲に勝るはずだ」

「なぜ、そんなことを」

「手間を掛けて蘇らせたのに、簡単にやられてしまっては困るからだ」

「私は、また誰かと戦うのか?」

「戦う必要があるからこそ、貴様には武装を与えたのだ。魔導兵器の設計はウィリアム・サンダースの作成した設計図を元にしておるが、私なりの解釈を加えてあるから前よりも遥かに使いやすいはずだ」

「フィフィリアンヌ。お前の本職は魔法薬学ではなかったのか? 魔導技師ではないのだから、魔導兵器にそこまで精通しているようには思えないんだが」

「今回の件に関わっておるうちに、魔導兵器に対して少々興味が沸いたのだ。だが、ただ調べるだけでは物足りんから、多少囓ってみたのだ。どんな知識であろうとも、知ることは無駄ではない。それに、邪魔にもならん」

「竜族は色々な意味で底なしなんだな」

 呆れ半分感心半分のルージュに、伯爵が高笑いした。

「はっはっはっはっはっはっは。この冷血トカゲ女は活字と名の付くものなら全てが好物なのであるからして、無節操極まりない上に際限がなく、つまりは活字中毒と言うよりも単なる活字馬鹿なのであるからして、大量の知識を得ていたとしてもその大半が無駄であり、ただでさえ限りあるトカゲの脳髄を圧迫しつつあるのであり、腐り落ちた知識も少なくないのである!」

「試しにあれを撃ってみろ。面白いことになるぞ」

 フィフィリアンヌは人差し指を立て、伯爵を指した。ルージュは頷くと左腕を挙げ、砲口をフラスコへ向けた。

「ならば、その言葉に甘えよう。寝起きの頭には、あの笑い声は痛いんだ」

「待て待て待て待て待て待たぬかこの冷血女共め! なぜ早々に仲良くなっておるのであるか、貴君らは!」

 がたがたとフラスコを激しく揺さぶりながら、伯爵は喚き散らした。フィフィリアンヌは、ルージュを見上げる。

「私と貴様が仲違いするような理由があるか、ルージュ?」

「理由も必要も、これといって思い当たらないが」

 ルージュが返すと、フィフィリアンヌは伯爵に視線を戻し、僅かに口角を歪めた。

「だ、そうだが」

「ええい、この薄情者め! だ、だが、あまり調子に乗るでないぞ! いずれ我が輩は、貴君の喉を塞いで気管支に侵入し、窒息死させてやるのである! どうだ恐ろしかろう、音もなく枕元から顔へと這い寄り、鼻から口から耳からずるずると入り込んでやるのであるぞ! はっはっはっはっはっはっはっは、さあ存分に怯えるのである! 我が輩に跪き、命乞いをするが良い!」

 伯爵は情けなく叫びながら、ごとごとと後退した。ルージュはフィフィリアンヌと目を合わせると、口元を曲げた。
フィフィリアンヌもまた、意地悪ではあったが笑みのような表情を浮かべていた。少しだけ、この状況は楽しかった。
伯爵の罵倒は止まなかったが、彼女は涼しい顔でそれを聞き流している。この罵倒は、いつものことなのだろう。

「あれから、どれくらい時間が経ったんだ」

 ルージュは、最初に聞いておくべきであろう質問をした。フィフィリアンヌは、平坦に答える。

「ブリガドーンでの戦いから、三ヶ月が過ぎておる。貴様の機体の調整と改造に、手間が掛かってしまったのだ」

「なぜ、私を助けたんだ」

「それは既に説明した。貴様には、戦ってもらいたい相手がおるのだ」

「一体、誰とだ」

「シライシ・ヴィンセント・マタキチの裏にいる者だ」

「ヴィンセント? あれは、お前の手先ではなかったのか?」

「そんな者がいたことを知ったのは、ブリガドーン戦後だ。聞けば、あれは貴様ら魔導兵器三人衆の周囲はおろか、連合軍、引いてはニワトリ頭に連れ立っていた伯爵の前にすら姿を現している。あれは、ただの魔物ではない」

「しかし、あのネコは、お前と私達を繋げる連絡役をしていたのではなかったのか? てっきり私は、ヴィンセントもお前の配下の者なのだとばかり思っていたんだが」

「そんなものは、適当に話を合わせておけばどうとでもなる。あれは、ブリガドーンにも現れたのか?」

「ああ。お前のすぐ傍にもいたことがあるが、気付かなかったのか?」

 ルージュが訝ると、フィフィリアンヌは顎に手を添えた。

「気付けていたら、とっくに気付いておるとも。だが、これで見通せるようになった」

「ヴィンセントの主に、心当たりでもあるのか?」

「少々。だが、確証がない。その材料を集めるためにも、貴様が必要なのだ」

「だが、私は二度も死んだ敗北者だ。お前の望むような働きが出来るとは思えないが」

「死んだからこそ、自由に動けるというものだ。フリューゲルはリリがゼレイブに連れて帰ってしまったし、ラオフーの行方は知れず、ニワトリ頭はこういったことに向いてはおらんし、ラミアンはゼレイブを守るのに手一杯で、フィリオラは顧みる家庭がある。そこで、貴様の出番というわけだ。ブラッドの攻撃をもろに受けて爆砕した貴様が生きているなど、誰も思っておらん。つまり、貴様がどこをうろついていようとも誰も不審がらんということだ。まあ、ヴィンセントとやらの裏におる者に知れたら意味はないがな」

「そう、だな」

 死を望んでいたのは、他の誰でもない自分自身だ。そのはずだ。だが、ルージュは強い後悔に苛まれていた。
無意識に、唇に触れていた。ブラッドと口付けを交わしたのは二回だけだったが、決して忘れられない出来事だ。
思い出すだけで、胸の底が疼いた。振り切ろうと思っても振り切れなかった彼への恋心は、まだ熱を持っていた。
また、ブラッドに会えたら。死んで全てを諦めたはずなのに、そんなことを思ってしまう自分が嫌でたまらなかった。

「返事はすぐに返さずともよい」

 フィフィリアンヌは机の上から本を一冊取ると脇に抱え、椅子から降りた。

「目覚めたばかりでは、本調子ではなかろう。しばらく、私の元で休め」

「解った」

 ルージュが答えると、フィフィリアンヌはまだ喚き続けている伯爵を拾い上げてから扉に向かった。

「貴様にも、色々と考えることもあろうて。特に、男のことはな」

「なっ」

 途端に照れてしまったルージュが言い返すよりも先に、扉が閉められた。階段を上る軽い足音が、遠ざかった。
考えることは、それだけではないのだが。しかし、何を考えようとしても、最初に出てくるのはブラッドの顔だった。
覚えているのは、殺意と敵意に漲ったぎらついた眼差しと、冷酷ながらも楽しげな表情といったものばかりだった。
彼の明るい笑顔を、知らなかった。思い出せたら、とは思うが、見てもいないものは思い出せるわけがなかった。
ロイズの話を信じれば、ブラッドは明るく笑う青年だ。少年のように活発で優しくて、あの子供達の良い兄貴分だ。
どんな声で、どんな顔をして、笑うのだろう。少しでも興味を持ってしまったら、歯止めが利かなくなりそうだった。
 ルージュは鏡に歩み寄ると、右腕から伸びる刃を掲げた。その中に映る機械の女に、思い切り突き立てた。
滑らかな刃を飲み込んだ鏡に無数のヒビが走り、細かな破片が床に落ちた。鏡を割っても、姿は変わらない。
刃を引き抜いてから、砕けた鏡に触れた。冷ややかな手触りとかすかな痛みにも似た違和感が、指に伝わる。

「ブラッド」

 その名を口にすると、愛おしさが込み上げてくる。砕けた鏡に映る女は、泣き笑いのような顔をしている。

「お前は、手を抜いたんだな? 殺してくれと言ったはずなのに、私は生きているじゃないか」

 拳を握った左手を砕けた鏡にめり込ませたが、その手は震えていた。

「全く、お前という奴は、どこまで私を悩ませれば気が済むんだ」

 そして、どこまで好きにさせれば気が済むんだ。吐き出せなかった彼への文句が心中に渦巻き、苦しくなった。
綺麗だと褒めてくれた。女として見てくれた。血を啜ろうとしてくれた。好きだったと、愛していると、言ってくれた。
名を呼んでくれた。愛おしげに、何度も呼んでくれた。彼が、空っぽの自分に価値を与えてくれるように思えた。
ブラッドに会いたい。彼の元へ飛んでいって、その胸に飛び込みたい。それが出来たら、どんなに幸せだろうか。
 頬を伝う、柔らかな感触に気付いた。潤滑油の漏洩か、と目元に手をやって擦ると、指先には水滴が付いた。
内部機関の冷却に使う水が、感情の高揚に合わせて出るようになっている。本物ではない、紛い物の涙だった。
余計な改造をしてくれたものだ、とルージュは内心で毒突きながらも、次から次へと流れ出る涙を何度も拭った。
 死ねなくて、良かった。







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