ロイズは、まだ慣れなかった。 異能部隊として長い間戦い続け、放浪も同然の日々を送ってきたためか、寝覚めがいいと不思議な感じがする。 体も痛くなければ、眠りも浅くない。それもそのはず、作りは古いながらも立派な大きさのベッドで寝ているからだ。 それも、一人で。大人用の大きさなので、八歳児としても小柄な方のロイズはその広さをかなり持て余していた。 夢も見ないほど深く眠っていたので、頭がすっきりしている。ロイズは寝乱れた髪を掻きながら、上体を起こした。 屋根裏部屋の天井に斜めに填め込まれている窓からは、爽やかな朝日が差し込み、鳥のさえずりが聞こえる。 そのさえずりを破壊する、けたたましく耳障りな笑い声が聞こえてきた。鳥は鳥でも、傍迷惑な鳥の鳴き声だった。 「くけけけけけけけけけけけけけけけ!」 朝一番には絶対聞きたくない部類の声が真上から聞こえたので、ロイズは顔をしかめた。 「来たか…」 「朝だってんだよこの野郎ー! くけけけけけけけけけけけけ!」 窓から差し込む朝日が、急に遮られた。その原因は、鋼鉄の鳥人、フリューゲルが貼り付いているからだった。 しかも、上下逆さだった。毎朝のようにこれをやられているロイズはたまったものではないが、とっくに諦めていた。 フリューゲルには、何を言っても聞き入れてもらえない。リリか、もしくはフィリオラでないと、言うことを聞かない。 ロイズは彼に舐められている。フリューゲルが従順になるのは、好いているリリと竜の血を引くフィリオラだけだ。 竜を恐れる気持ちはロイズにも解るし、フィリオラが怖いというのも理解出来る。彼女は穏やかだが、怒ると凄い。 だが、レオナルドが怖くないのは少し意外だ。ロイズにとっては、あまり柄の良くないレオナルドも充分怖かった。 父親、ダニエルのように感情表現が下手なのもちゃんと理解しているのだが、態度がきついのでどうも慣れない。 ロイズは一人で騒ぎ続けるフリューゲルを無視して、ベッドから降りた。タンスの引き出しを開け、服を取り出す。 ブラッドのお下がりの長袖のシャツや吊りズボンを着込んでから、タンスの上に並べた両親の遺品に挨拶した。 「おはよう、父さん、母さん」 朝日に清められているダニエルの軍帽とフローレンスの魔導鉱石のペンダントに、ロイズは微笑みかけた。 「オレ様を無視すんなっつってんだろうがこの野郎ー!」 ばんばんと窓を叩いて自己主張をするフリューゲルに、ロイズは笑みを消した。 「吹っ飛ばしてやろうかな」 「くけけけけけけけけけけけけ! てめぇなんてオレ様の敵じゃねぇんだぞこの野郎ー!」 「どうだか。お前と違って、僕はちゃんと訓練してるからね」 「空を飛べない奴がこのオレ様に勝てるわけがねぇだろうがこの野郎!」 窓を外から開けて、フリューゲルは屋根裏部屋に入り込もうとした。だが、両腕の長い翼が邪魔をして入れない。 これも、毎度のことだった。入ろうとしながらも入れないフリューゲルを眺めていると、梯子を登る軋みが聞こえた。 ロイズは、床に開けられている四角い穴に目を向けた。そこに立てかけてある梯子を伝って、少女が登ってきた。 「おはよう、ロイ」 穴から顔を出したのは、既に着替えを終えていたリリだった。ロイズは、リリに返す。 「おはよう、リリ」 「フリューゲルもおはよう」 リリが屋根裏部屋に入ってくると、フリューゲルは途端に大人しくなって窓からも離れた。 「おう、おはようリリ!」 「僕とリリで態度を変えるなよ、フリューゲル」 フリューゲルの態度の違いにロイズがむっとすると、リリは苦笑する。 「仕方ないよ、ロイ。フリューゲルはまだまだお行儀がなってないんだもん」 「だからってさぁ…」 ロイズは、言葉を濁した。リリは屈託のない明るい笑顔を、窓の外で笑っているフリューゲルに向けていた。 これにもまだ、慣れなかった。ブリガドーン戦以降、リリの表情は少しばかり暗かったが可愛らしさは変わらない。 子供心にも、リリの明るい言動と笑顔に惹かれてしまう。こうして毎日一緒にいるようになったので、尚更だった。 ブリガドーン戦で父親のダニエルが戦死したため、ロイズは天涯孤独の身となりヴァトラス一家に引き取られた。 それは、父親が生前にレオナルドと交わしていた約束であったため、実質的に父親の遺言のようなものだった。 なので、ブリガドーンからゼレイブに帰還するとすぐに、ロイズはヴァトラス一家との同居を始めることになった。 ブリガドーン戦でラオフーと激しく戦ったヴェイパーは、破損状況がひどいので、彼だけは他の場所に移された。 ゼレイブ襲撃で破壊されなかった家屋を改造して作った工房に運び込まれ、ヴェイパーはピーターに修理された。 ピーターはフローレンスほどの腕はないが、魔導技師を目指していた時期があったので、魔導兵器を扱えるのだ。 最初はあまりの破損状況にピーターもさじを投げかけたが、三ヶ月もの時間を掛けたおかげで、すっかり直った。 だが、ヴェイパーの巨大な体格ではヴァトラス一家の家に入れないので、夜はブラドール家の屋敷で過ごしている。 ブラドール家の屋敷には、目の前で両親を殺されたために言葉と魔力を失ったヴィクトリアも世話になっている。 言葉と魔法がなければ、ヴィクトリアはあまり恐ろしくなくなった。それでも、ロイズは相変わらず彼女が苦手だ。 生気を失った灰色の目で見据えられるのが、嫌だからだ。似たような境遇の二人でも、同情し合うことはなかった。 二人とも、自分自身と現実に立ち向かうだけで精一杯だからだ。他人に同情出来るような余裕は、残っていない。 ヴィクトリアの灰色の目には、ロイズが目を逸らしている自分が隠れているような気がするから、嫌でたまらない。 荒々しい憎悪やどす黒い絶望が、満ちている。ヴィクトリアの眼差しでそれを思い出させられるのが、怖いのだ。 リリを始めとしたヴァトラス一家とヴェイパーら異能部隊隊員のおかげで、ロイズはなんとか平穏を保っている。 だが、これが危ういのは自分自身が良く知っていた。だからこそ、ヴィクトリアと向き合いたくなく、彼女が苦手だ。 「ロイ、早く下に行こう。朝ご飯食べないと」 リリに急かされ、ロイズは頷いた。 「うん」 「じゃ、私は先に降りるから」 リリは梯子に足を掛けたが、降りる前に窓の外のフリューゲルを見上げた。 「フリューゲルも、ちゃんとお仕事しないとダメなんだからね」 「おー」 やる気のない返事を返し、フリューゲルは窓の外から飛び去った。リリは、不満げに眉を下げる。 「全くう。フリューゲルは良い子だけど、遊ぶことしか考えてないんだもんなぁ」 リリは、そのまま梯子を下りていった。ロイズは、首を捻ってしまう。 「良い子、じゃないと思うけど」 フリューゲルがリリを慕う理由は解るが、リリがフリューゲルを慕う理由については未だに理解出来ていない。 この間まで敵であった魔導兵器だし、何より言動が粗暴で態度も悪く、良い子の基準には絶対に入らないだろう。 フリューゲルの右手にはリリのネッカチーフが結ばれているので、二人の間にはロイズの知らない何かがある。 それがあるから二人はあんなにも慕い合っているのだろうが、なんとなく面白くないと思うことも何度かあった。 自分とヴェイパーのようなものだと思おうとしても、少し違う気がして、その違いが心の中に引っ掛かってしまう。 ロイズはあまり解せない気持ちのまま、靴を履いて梯子を降り、一階に下りた。台所からは、温かい匂いがする。 リリが両親と言葉を交わしているらしく、彼女の弾んだ声と、レオナルドとフィリオラの話し声が漏れ聞こえてきた。 ロイズは廊下を歩いていたが、ふと足を止めた。食堂に入るまでの僅かな時間に、いつも軽く疎外感を感じる。 リリとその両親に申し訳ないような、居心地が悪いような、やりづらい気分になる。本当の子供ではないからだ。 だが、そんな疎外感も、強い空腹には勝てない。ロイズが食堂に入ると、三人の挨拶の声と笑顔が向けられた。 ロイズも、笑い返した。 一日の仕事を終えると、訓練が待っている。 子供と言えど、仕事はきちんとある。ロイズに割り当てられている仕事は、牧場の家畜の世話の手伝いである。 それが終われば畑仕事があり、その次には勉強が待っている。そして最後にあるのが、異能力の訓練であった。 異能部隊時代はダニエルにしごかれていたが、ヴァトラス一家に引き取られてからはレオナルドが師匠になった。 レオナルドも幼少時に異能部隊に入っていた経験があるため、訓練の要領は解っているが父親とは勝手が違う。 その上、ロイズはレオナルドがどうにも苦手なので、異能力の制御を鍛える訓練はそれほど捗っていなかった。 レオナルドは他人に物事を教えるのはあまり得意ではないらしく、三ヶ月が過ぎた今でも、未だにぎこちなかった。 それでも、異能力を制御する訓練を重ねなければ、制御を失って暴走し、自らの命を落とす可能性があるのだ。 リリもまた、訓練を付けてもらっている。あの戦いの前に、アレクセイとエカテリーナを焼き尽くしてしまったからだ。 アレクセイとエカテリーナは人間ではなく、人の姿をした兵器だが、リリが人を二人焼き尽くした事実は変わらない。 リリはそのことを深く反省したので、異能力の制御の訓練を基礎からやり直すために、父親から教えられている。 異能力の訓練を開始した時は、既に日が傾いていた。短い夏が過ぎてしまうと、昼は日に日に短くなってくる。 辺りは薄暗かったが、レオナルドの灯した炎が地面で燃え盛り、ロイズとリリとフリューゲルの姿を照らしていた。 フリューゲルは、リリのすぐ後ろにしゃがみ込んでいた。レオナルドはフリューゲルを見据え、視線に力を込めた。 「近い!」 「くきゃっ!」 変な声を上げて、フリューゲルは仰け反った。レオナルドの放った炎の固まりが、額に当たったのだ。 「いいかフリューゲル、お前はあくまでもリリの契約獣なんだ、それ以上でもそれ以下でもない!」 苛立った口調でまくしたてながら、レオナルドはフリューゲルに詰め寄った。フリューゲルは、上体を戻す。 「ケーヤクジューってのはトモダチなんだろ、トモダチなら一緒にいるのが普通だろうがこの野郎!」 フリューゲルが言い返すと、レオナルドは据わった目で睨み付けた。 「呼ばれたら来るだけでいいんだ、呼ばれなかったら来るな! というかいつも呼んじゃいない!」 「またか…」 これでは、訓練どころではない。ロイズがげんなりしていると、リリはため息を零した。 「お父さん、フリューゲルが嫌いだもんね…」 二人の頭上では、レオナルドとフリューゲルが言い争っている。基本的な内容は、リリとの関係についてだ。 たまに意味のない罵倒や二人には理解出来ない文句が飛び交うが、理解したいとも思わないので聞き流した。 ブリガドーン戦でラミアンと戦い、派手に大敗したフリューゲルは、リリの強い要望でゼレイブに連れ帰られた。 その時は、ただ連れて帰るだけで頃合いを見計らってフリューゲルを処分してしまおう、という話になっていた。 ゼレイブ襲撃の件もあったので、皆、許す気はなかった。しかし、ゼレイブに帰還すると状況が一変してしまった。 フリューゲルに翼を切り落とされたフィリオラが、リリの願いを聞き入れてフリューゲルを受け入れたのである。 一番反対しそうな人物に賛成されたので、皆が皆毒気を抜かれてしまい、レオナルドですらも言い返せなかった。 フィリオラがフリューゲルを受け入れることを決めた理由は、フィリオラが優しかったから、と言うだけではない。 ゼレイブ襲撃の際に竜人へと変化した彼女は、フリューゲルに斬り付けられ、その攻撃力を身を持って知った。 外見こそ細身だが、ラミアンのような強靱なバネと瞬発力、長距離も楽に高速飛行出来る能力を有している。 フリューゲルを解体してしまうのは簡単だが、フローレンスのいない今は、再び組み立てるのは容易ではない。 それに、彼を殺すことはリリが決して許さない。フリューゲル自身も、リリと出会ったことで変わり始めている。 たとえ殺さずに解放したとしても、フリューゲルを野放しにしてしまえば、また連合軍との戦いが起きかねない。 或いは、連合軍でも誰でもない良からぬ者に捕縛されて、戦いの道具として利用されてしまう可能性もあった。 だから、ゼレイブから出しさえしなければ、リリの傍にさえいれば、フリューゲルに対する懸念は大分減少する。 そうした様々な事情を考慮した末に導き出した答えだ、とフィリオラは説明し、それだけではないとも話した。 アルゼンタムと化したラミアンと戦闘を行ったフリューゲルは魔導鉱石を砕かれ、魂に多大な損傷を受けていた。 リリから与えられた魔力で一時的に回復したが、放っておけば魔導鉱石の活性が失われ、魂が消えてしまう。 そこでフィリオラは、リリの魔導鉱石のペンダントと、フリューゲルの魔導鉱石を魔法を用いて融合させてしまった。 その際にフィリオラは、リリに召喚魔法を教えてフリューゲルに魔法を掛けさせ、フリューゲルと契約をさせた。 つまり、リリは召喚術は一切使えないが召喚術師の立場となり、フリューゲルはリリの契約獣となったのである。 召喚術師と契約獣は、あまり深くはないが魂を繋ぎ合わせている関係であり、僅かだが感覚も繋がっている。 そのため、リリから放たれる過剰な魔力や炎の力はフリューゲルに吸収され、リリの命の危険は軽減される。 また、フリューゲルも魔力封じの魔導鉱石と融合したために、リリの魔力を得て魂を回復させられるようになった。 それに、召喚術師と契約獣としての関係を結んでいれば、リリの意志である程度はフリューゲルを制御出来る。 フィリオラは契約を結ぶ前に、二人と約束事をした。召喚術師と契約獣という関係になる以上、必要だからだ。 フリューゲルはリリに必ず従うこと。リリはフリューゲルを必ず制すること。二人共、きちんと勉強と仕事をすること。 その三つさえ守ればいい、とフィリオラに言われたリリとフリューゲルは、いつになく真面目な顔をして了承した。 そんな経緯を経て、ロイズとほぼ同時にヴァトラス一家と同居を始めたフリューゲルだが、一番の問題児である。 やかましい。人の話をちゃんと聞かない。自分勝手。無遠慮。不作法。無精。不真面目。他にも、まだまだある。 それでもフィリオラは、ここで見捨てたらますます悪くなってしまうと思っているらしく、きちんと家族扱いしている。 ロイズもフリューゲルに苛立ったり堪えきれなくてケンカをすることはあったが、とりあえず折り合いは付けている。 しかし、一家の主であるレオナルドだけは別だった。事ある事にフリューゲルと衝突し、激しく言い争っている。 妻を傷付け娘を攫った張本人であるから、というのもあるが、大事な娘に近付く不届き者だとも思っているらしい。 その心配はちょっと早いんじゃないだろうか、とロイズさえも思うのだから、リリもそう思っているに違いなかった。 二人の言い争いは、佳境に入っていた。レオナルドは息も切らせずに早口で喋り立てていて、忙しなかった。 フリューゲルも負けずに言い返しているのだが、こちらの文句は精神年齢に合わせて幼く、大分拙いものだった。 すると、居間の窓が開いた。ロイズが振り返ると、呆れ果てている顔のフィリオラが夫と魔導兵器を見つめていた。 「いい加減にしてくれません?」 その声が聞こえた途端、レオナルドの文句が止まった。レオナルドは、渋々妻に振り返る。 「しかしだな…」 「ロイズ。今日はどっちが悪いんですか?」 フィリオラに問われたので、ロイズは言いづらかったが報告した。 「たぶん、レオ小父さん」 「そんな感じはしていましたけどね。端から聞いていましたけど、レオさんのはほとんど言い掛かりでしたし」 全くもう、とフィリオラは肩を落とす。 「今日のフリューゲルは、朝の鳴き声と無断外出はあったけど結構良い子にしていたのに。それを、レオさんがぶち壊しにしてどうするんですか。レオさんも、ちょっとは成長して下さいよ。レオさんが私の隣の部屋に引っ越してきた時と、反応がちっとも変わらないじゃないですか」 急に情けなくなってきたのか、レオナルドは俯いた。 「…すまん。つい。だが、フィリオラ、オレは」 「そりゃ、フリューゲルを躾けたいのは私も同じですけど、やり方ってものがあるんですから。いつもいつもそうやって頭ごなしに怒鳴ってばかりじゃ、フリューゲルじゃなくたって反発したくなりますよ。ですが、レオさんとケンカをすると疲れるので私は勘弁願います」 「お前、いきなり何を言うんだ」 妻の言い草に、レオナルドは戸惑った。フィリオラは、身を乗り出す。 「それ以上ケンカをするなら、レオさんの夕ご飯は先生のところへ持っていくことにしましょう」 「おい、それはないだろう、フィリオラ! 兄貴よりもオレの方が余程働いているじゃないか!」 レオナルドもさすがに困ったのか、妻に向き直った。フィリオラは、にやりとしている。 「だって、フリューゲルは魔導兵器だからご飯を食べないですし、悪いのはレオさんじゃないですか。リリとロイズはどう思いますか?」 答えづらいのでロイズとリリが黙っていると、フリューゲルが可笑しげに叫んだ。 「くけけけけけけけけけけけけけ! やーいやーい、オシオキだー! オシオキだったらオシオキだー!」 「賛成票二に無効票三ということで、レオさんの本日のお仕置きは、夕ご飯抜きということで決定ですね」 フィリオラは意地悪く微笑み、台所へ向かっていった。レオナルドは手を伸ばそうとしたが、妻はもういなかった。 本当にレオナルドの分の夕食を兄夫婦の元へ持っていくつもりらしく、食器の準備をしている音が聞こえてきた。 「お父さん」 リリは父親の足元に寄り添うと、小声で囁いた。 「お母さんに謝るなら、今のうちだよ。あと、フリューゲルにもね」 レオナルドは物凄く苦い顔をしていたが、深く息を吐いた。 「謝るのはいいが、許してもらえるまでが骨なんだよなぁ…」 「が、頑張って下さい」 ロイズの力ない励ましに、レオナルドは弱く笑った。 「ああ、やるだけやってくる」 レオナルドは軽く手を振ると、台所のある勝手口へ向かっていった。その後ろ姿は、なんだか物悲しげに見えた。 この様子だと、今日の異能力の訓練は中止に終わりそうである。これまでにも、こういったことが何度かあった。 だから、いつものことだった。ロイズはすっかりやる気を削がれてしまったので、とりあえずリリと顔を見合わせた。 「どうする、リリ?」 「ちょっとだけ遊ぶ?」 「今度も、レオ小父さんに勝ち目はなさそうだしね」 「うちじゃ、お母さんが一番強いから」 ね、とリリがフリューゲルを見上げると、フリューゲルは腰を大きく曲げてリリを覗き込んだ。 「うん。オレ様も、フィリオラはちょっと怖いぞ。レオナルドはきついけど、そんなでもないんだぞ」 遠くから、ロイズの名を呼ぶ声が聞こえてきた。ロイズが顔を上げると、屋敷の方からヴェイパーが駆けてきた。 重たい足音を響かせてヴァトラス家の敷地までやってきたヴェイパーは、立ち止まると、関節から蒸気を噴いた。 辺りに、白く熱い空気が立ち込めた。ヴェイパーはリリとフリューゲルに挨拶してから、ロイズに近付いてきた。 「ロイズ、訓練はどうしたの? また、あれなの?」 「うん。あれ」 ロイズは説明するのも面倒だったので、台所を指した。フィリオラの澄ました声と、レオナルドの声が漏れてくる。 落ち着き払ったフィリオラとは対照的に、レオナルドは終始困っている。ヴェイパーは、思わず苦笑してしまった。 「懲りない人だね、レオナルドも」 「ヴェイパー」 ロイズは、ブラドール家の屋敷を指す。 「さっき、お屋敷から戻ってきたみたいだけど、力仕事でも頼まれたの?」 「ヴィクトリアがね」 ヴェイパーがその名を口にすると、ロイズとリリの表情は沈んだが、フリューゲルは聞き返してきた。 「なんかどうかしたのか、ヴィクトリアが」 「こっちも、あれだよ。最近は少佐やラミアンだけじゃ手に負えなくなってきているから、僕が手伝ったんだ」 ヴェイパーが答えると、フリューゲルは西日に照らされている古びた屋敷を見やった。 「クスリ、もっと飲ませりゃいいのに。竜の医者もお前らも、どうしてそれをしないんだ? その方が楽だろ?」 「そんなことをしたら、ヴィクトリアが可哀想だよ。だから、しちゃいけないし、しないんだよ」 ヴェイパーは、首を横に振る。フリューゲルは、赤い光で成された瞳を僅かに歪めた。 「誰にでも、することじゃないんだな」 苛立ちとやるせなさの混じった言葉を漏らし、フリューゲルは顔を背けた。ロイズは、吸血鬼の屋敷を見つめた。 屋敷の敷地内に立派な木が何本も生えているためか、夕日が遮られ、屋敷の周囲は一段と影が濃くなっていた。 ブリガドーン戦を終えてゼレイブに帰還してから、心を病んでしまったヴィクトリアと接する機会は減っていた。 リリでさえも、以前に比べてヴィクトリアに会いに行く機会は減っていた。これではいけないと思うが、変えられない。 また、ギルディオスと接する時間も減った。ギルディオスはヴィクトリアを放っておけず、彼女の傍にいるからだ。 それが寂しいと二人とも思っていたし、心の隅ではヴィクトリアがずるいと思うこともあったが、とても言えなかった。 子供の目から見ても、今のヴィクトリアは異常だった。そんなヴィクトリアを野放しにしておくのは、危険だからだ。 ギルディオスは、そのための犠牲のようなものだ。また、ヴィクトリアも、ある意味では犠牲になっていると言える。 目を向けたくない暗い感情を、押し付けられている。ロイズもリリも、彼女に押し付けて自分は明るい場所にいる。 それではいけない、と思うことはある。しかし、楽なのは事実だ。辛いことから目を逸らして、楽しく暮らしていたい。 せっかく手に入れられた、どこにでもあるような在り来たりな幸せと暖かな日常を手放したくないし、壊したくない。 だからロイズは、屋敷に背を向けた。 07 7/24 |