ドラゴンは滅びない




逢い引き




 ブラッドは、湖を目指していた。


 そこに、何があるというわけではない。あるとすれば、真っ平らな水面と広大な草原と静寂ぐらいしかない。
それでも、行かずにはいられない。自分の手で殺してしまった彼女の面影を追い求めるのは、やめられない。
ブリガドーン戦が終わった当初は、ルージュのことを全て忘れてしまおうと、なかったことにしてしまおうと思った。
けれど、出来るはずもなかった。生まれて初めての恋は鮮烈で、魂が滾るほど熱く、記憶が薄らぐわけもない。
 目の前に広がる闇を、凝視していた。ゼレイブを包み込んでいる魔力の蜃気楼を出ると、少々景色が変わる。
空気中の魔力濃度の違いのせいか、外へ出るとほんの僅かばかり視力が落ちる。だが、問題にすらならない。
落ちた分を、己の魔力で補填すればいいだけの話だ。ブラッドは背中から生やした翼を、力強く羽ばたかせた。
 視界の先には、平坦な水面が見えていた。訪れるたびに、彼女がやってくる夢を見ずにはいられなかった。
だが、それは有り得ない。だからこそ、夢だ。ブリガドーンでの戦いの日に潰えた、恋心の名残が作る幻想だ。
幻想になど縋り付いたまま、生きることは出来ない。しかし、そうでもしなければ、抉り抜かれた心が壊れそうだ。
あの戦いで、ブラッドが失ったものは少ない。ロイズやヴィクトリアに比べれば、失っていないにも等しいくらいだ。
だが、ブラッドにとっては巨大な損失だった。ようやく彼女を心を通じ合わせ、笑みを交わし、唇を重ね合った。
殺したくなかったし、殺されたくもなかった。しかし、殺す以外の選択肢を見出せなかった末に殺してしまった。
ブラッドの放出した膨大な魔力を浴びながら、海中に沈んでいったルージュの儚くも美しい笑みを忘れられない。
思い出すたびに、胸の奥が鈍く痛む。ルージュから激しい打撃を受けた背骨が、治ったはずなのに疼いてくる。
 まだ、彼女が好きだ。ブラッドは翼の羽ばたきを緩めて空中で制止すると、だらりと両手を下ろして項垂れた。

「くそ…」

 己に対しての叱責だった。他の誰も責められない。ルージュとのことは、決断を見誤った自分が全て悪いのだ。
ブラッドは三ヶ月前よりも若干伸びた髪を掻き乱し、深く息を吐いてから、湖の岸部に向かって降下していった。
水浴びをする季節ではないからこそ、頭を冷やすのには丁度いい。魔力を高めてさえいれば、溺れることもない。
 そしてブラッドは、暗い水面へ身を投じた。




 躊躇いながらも、進んでいた。
 ルージュは冷たい夜風を切り裂いて飛びながらも、未だに迷いを振り切れなかった。本当に、行っていいのか。
行ったところで、必ずブラッドに会えるとは限らない。むしろ、会えずに引き返してしまう可能性の方が高いのだ。
だから、左腕で抱えているバスケットの中身が無意味に終わるだろうとは容易に想像出来て、少し空しくなった。
 フィフィリアンヌの策は、実に簡単だ。世間一般の女が男をなびかせるためにする行動と、ほとんど変わらない。
遠くからわざわざ会いに行き、手製の料理を食べさせ、口説く。口説き文句も教えられたが、思い出したくない。
口説く練習もさせられてしまったが、全身を掻きむしりたくなるほど恥ずかしくて、部屋を飛び出したこともあった。
その時の恥ずかしさが蘇ってきてしまい、ルージュは空中で止まった。頬が火照り、全身が熱くなるのが解る。
触覚を与えられたのは嬉しいが、自分がいかに照れているかを思い知ってしまうのは、どうにも頂けなかった。

「いないと、いいんだが」

 ルージュはバスケットを抱える手に力を込めつつ、ちらりとゼレイブの方角を見やった。直線上に、湖がある。
あの湖には、思い出がある。彼と二度目の接触を果たし、言葉を交わした場所だ。忘れようにも忘れられない。
真っ直ぐゼレイブに向かっても良かったのだが、魔力の蜃気楼を張っているラミアンに感付かれてはいけない。
魔力の蜃気楼の隙を探すためにも、一旦降下して様子を見なくては。そう思い、ルージュは高度を下げ始めた。
 湖面に到達した直後、不意に水面が割れた。ルージュは反射的に制止すると、身構えながら水面を凝視した。
膨らんだ水面の波紋の中心が内側から破られると、白銀色の骨張った翼が、闇色の湖水から突き出てきた。
白銀色の翼が大きく羽ばたくと、翼の生えている背と肩が現れ、それに続いて頭と腕が水面から引き出される。
水面に制止した影は、翼を生やした背を丸めて激しく咳き込んだ。喉元を押さえながら、湖水を吐き出していた。
ひとしきり吐き出してから、荒い呼吸を繰り返した。肩を大きく上下させながら、髪から滴っている湖水を拭った。
 溺れていたのか、それとも溺れようとしていたのか。どちらにせよ、普通の神経で出来ることではないだろう。
夏場ならともかく、夜はすっかり寒くなったこんな時期に、しかも夜に水浴びをするような者は余程の物好きだ。
或いは、溺死を願う自殺志願者ぐらいだ。ルージュは魂を握り潰されそうな思いを感じながら、見つめていた。
 びっしょりと濡れた髪を掻き上げて、彼は目を上げた。途端に瞳孔が収縮し、目を限界まで大きく見開いた。
その目には、嬉しさよりも混乱が満ちていた。銀色の瞳は僅かに左右に揺れていたが、じっとこちらを見ていた。
 最初に何を言おうか、考えていた。だが、それらの言葉は喉の奥で縮こまってしまい、口から出てこなかった。
彼もまた、硬直していた。半開きの唇から掠れた吐息を漏らしたが、言葉らしい言葉を発することはなかった。
二人は、そのまま見つめ合った。甘くもなく、だが敵意もない、鉄線のように強張った視線を交わらせていた。

「妙な趣味だな」

 先に言葉を発したのは、ルージュだった。

「こんな季節の、しかも真夜中に水浴びをするとは。酔狂にも程がある」

 間を置いて、寒さと戸惑いに震えた言葉が返ってきた。

「言えてるな」

 ブラッドは、まともな返事が出来なかった。何を言うべきかを考えるよりも先に、どうでもいい言葉が口を吐いた。
殺したはずの女が、そこにいる。だが、その右腕からは巨大な主砲が失われており、代わりに刃が付いていた。
それ以外は、ほとんど変わっていなかった。砕いたはずの胸の魔導鉱石も、吹き飛んだはずの翼も戻っている。
一体どういうことなのだ。混乱の嵐にぐちゃぐちゃに掻き乱された頭で事態を把握しようとしたが、出来なかった。
 きっと、夢なのだ。肌を伝い落ちる湖水の冷たさや感覚の失せた指先の感覚も、夢の中のものに決まっている。
そうでなければ、ルージュがここにいるはずがない。しかし、彼女を見つめていると、次第にどうでもよくなってきた。
幻覚でなければ、触れられるのでは。ちらりと頭の片隅を掠めた思考が膨らみ始め、欲動が迫り上がってきた。
 ブラッドは、強く羽ばたいた。冷え切ってしまった体に鞭打って一気に高度を上げると、彼女と高度を合わせた。
目線を合わせると、ルージュは少したじろいだ。その左手が後ろに下げられたが、それすらも気にならなかった。
攻撃されてもいい。もう一度彼女に触れられるのなら。ブラッドは躊躇いなく両手を伸ばし、その頬を包み込んだ。
手のひらに、湖水よりは若干暖かく、柔らかな金属の感触が広がった。それを力任せに引き寄せ、顔を寄せた。

「ま、待て」

 ルージュに胸を押されたが、ブラッドは怯まずに迫った。鉄臭くも柔らかな彼女の唇と、自分の唇を重ねた。
ルージュの抵抗は、長く続かなかった。ブラッドが口付けを深めると、胸を押していた右手はだらりと下がった。
きっと、これは素晴らしくも残酷な夢なのだ。ブラッドは体重を掛けてルージュを押し倒し、空中で覆い被さった。
二人の姿勢は崩れ、水面に落下しそうになったが、ルージュは推進翼から青い炎を迸らせて姿勢を持ち直した。
 推進翼で姿勢を保ちながら、ルージュは唇から伝わってくるブラッドの低い体温を感じ、胸が詰まってしまった。
もう、何も考えられない。虚ろな意識の中でも何度となく反芻していたことが、今、再び現実として訪れている。
翼の生えた背に手を回し、引き寄せた。するとブラッドの腕もルージュの背に回され、二人はきつく抱き合った。
ルージュから唇を離したブラッドは、硬い装甲に覆われているが細身の腰に腕を回して、力任せに抱き締めた。

「熱い」

 ブラッドの呟きが、すぐ傍で聞こえた。ルージュは急に照れくさくなり、彼の肩に顔を埋めた。

「それは、その、まだ廃熱が完了していないからだ」

「いい夢だな」

「夢ではない」

「ルージュ。なんでオレを殺さないんだ? オレは、ルージュを殺したんだぜ?」

 ブラッドの苦しみが滲み出た呟きに、ルージュは首を横に振った。

「私が、お前を殺せると思うか?」

「殺してくれよ。オレは好きな女を守るどころか、殺しちまったんだ。だから、オレはオレを許せねぇんだ」

「私は、お前を許す」

 ルージュが答えると、ブラッドは弾かれるようにルージュの体を押しやり、自責した。

「嘘なんか吐くなよ! オレのこと、恨んでんだろ! 好きだ好きだって言ってたくせに殺しやがったんだからよ!」

「そうだ。私は死んだ。二度目の死だ」

 ルージュは二の腕を握り締めているブラッドの手に、手を添えた。

「最初の死は孤独だった。誰もいない世界で、誰にも知られずに死んだ。だが、二度目の死は違う。私自身が切望した死だったんだ」

「だからって、オレがお前を殺していいわけがねぇだろうが」

 ブラッドはルージュの両上腕を両手で握り、項垂れる。

「私はお前に殺してほしかったんだ。だから、お前が苦しむ必要はどこにもない」

 ルージュは唇の端を持ち上げ、自虐の混じる笑みを見せた。

「惨めで仕方なかったんだ。死んでいるくせにお前を好きになって、挙げ句に人並みに嫉妬までしてしまった自分が嫌でたまらなかったんだ。お前には、限りない未来がある。だが、私には何もない。そんな私になど好かれたところで、お前にいいことがあるわけがない。機械で作られた女には、女としての価値もない。性格も悪い。根性も歪んでいる。だが、お前は違う。お前には家族がいて、慕ってくれる者達がいて、帰るべき場所もある。おまけに顔も良い。私などが関わっても、邪魔になるだけだ。それに、ますます惨めになるからな。ブリガドーンでの戦いは、丁度いい機会だと思ったんだ。殺してもらえて、恨むどころか感謝している」

 ルージュは、ブラッドの胸元に頭をもたせかける。

「だが、死ねなかった。それもお前のせいだ。あの時、お前の攻撃を受けた私は、人造魔力中枢を中心にして爆砕するはずだった。だが、爆砕する瞬間にお前の顔など思い出してしまったから、ほんの少し気が逸れてしまって魔導鉱石を庇ってしまったんだ。おかげで、ひどい損傷は受けたが致命傷には至らなかった。せっかくお前の手で殺してもらったのに、それを無駄にしてしまったんだ。どうだ、愚かだろう?」

「すっげぇ、馬鹿だよ」

 ブラッドは訳の解らない衝動が沸き起こり、ルージュを力一杯抱き締めた。

「オレも、ルージュも!」

「あ、わっ!」

 ブラッドの顔が目の前に近付いたので、ルージュはブラッドを引き剥がそうとしたが、腕にまるで力が入らない。
それどころか、全身の熱が増してくる。このままでは火傷させてしまう、と身を捩ろうとしても、抵抗出来なかった。
すると、急にブラッドの腕が緩んだ。少しばかりほっとしたルージュは身を引こうとしたが、彼の震えに気付いた。
 悪ぃ、と一言だけ呟いたブラッドは、ルージュを抱き締めたまま泣き出した。その涙は、ルージュの装甲を伝う。
人造魔力中枢から生じる熱よりも柔らかい熱を宿した滴が、ぼたぼたと落ちて流れ、湖の水面に飲み込まれる。
抱き合っている上にブラッドの感情が高ぶっているためか、ルージュの中にブラッドの思念が流れ込んできた。
悲しみと罪悪感、後悔と苦悩、そして燃えるような愛情。どれもがルージュへ向き、ルージュだけを思っていた。

「なぜ、泣く」

 ルージュが問うと、ブラッドは嗚咽混じりに返した。

「わかんねぇ…」

 答えになっていない答えだったが、ルージュはそれだけで満足だった。ここに彼がいるのだから、なんでもいい。
ブラッドが泣き止んで落ち着くまで、二人は抱き合っていた。互いに半身であるかのように、離れようとしなかった。
離れたら、また距離が開いてしまうように感じた。ようやく寄り添えたのだから、僅かでも隙間を開きたくなかった。
ブラッドの体温が、魔導金属製の肌に染み入ってくる。それだけで、心も魂も何もかもが溶けてしまいそうだった。
 生まれて初めて、幸せだと思った。




 湖畔へ降りた二人は、並んで座っていた。
 ブラッドは、強烈な恥ずかしさを堪えていた。三ヶ月と少し前にも、似たようなことをしたのではなかっただろうか。
あの時は泣き付いた相手が父親で、それはそれで恥ずかしかったのだが、今回の方が恥ずかしさの強さが違う。
今すぐにでも、目の前の湖面に飛び込んで溺れてしまいたい。そのまま地中に潜って、身を隠してしまいたい。
それほどまでに、恥ずかしかった。ルージュと再会出来た嬉しさとは別物の火照りで、顔が真っ赤になっている。

「なぜ照れる?」

 からかうように、ルージュが問い掛けてきた。ブラッドは紅潮した顔を背け、項垂れる。

「なんか、今、フィオさんに意地悪してたレオさんの気持ちが解った気がする…」

「どういう意味だ?」

「こっちの話。気にしないでくれね?」

 うあー、と変な唸り声を漏らしながら生乾きの髪を掻き乱したブラッドは、横目にルージュを窺った。

「つうか、これって本当にオレの夢でもなんでもないんだよな?」

「そんなことを言うということは、私と会う夢でも見てくれていたのか?」

 嬉しげなルージュに、ブラッドはやりづらくなって目線を逸らした。夢は夢でも、普通の夢ではない。

「見たっちゃー見たんだけど、えーと、言っても怒らないって誓ってくれたら言ってもいいような…」

「別に怒りはしない」

 ブラッドの曖昧な答えに、ルージュは少々訝しみながらも返した。ブラッドは、恐る恐るルージュに目線を戻す。

「夢ん中で抱いてた」

「はあ!?」

 ブラッドの簡潔で率直すぎる表現に、ルージュは声を裏返した。ブラッドは、慌てながら付け加える。

「あ、でもさ、でも、普通だったから! たまにルージュが生身になってたりしたけど、基本的にはそっちの魔導兵器の体で、でもちゃんと女で、うん、それにすっげぇ良かったし!」

「ということは、お前は、私に欲情出来るのか?」

 裏返したままの声を小さくしながら、ルージュはずり下がった。ブラッドは、また赤面して頷いた。

「だって、すげぇじゃん。胸が」

「そこしか見ていないのか!」

 ルージュはぎょっとして、胸を覆った。ブラッドは照れと情けなさを誤魔化すために苛立ち、ルージュに迫る。

「顔も込みに決まってんだろうが! つうか、怒らないって言ってくれたじゃねぇか!」

「怒るというか、なんというか、その、困るんだ!」

「あ?」

 今度は、ブラッドがきょとんとする番だった。ルージュは大きさの違う両手で顔を覆い、恥じらった。

「だって、困るじゃないか。今までずっとそんな目で見られていたと知っていたなら、もう少し慎んだのに」

「何を?」

「戦闘をだ。あんなに派手な攻撃ばかりして、砲撃も滅茶苦茶に撃ってしまって、おまけにひどい挑発も…」

 なんてはしたない、とルージュが泣き出しそうなほど弱ってしまったので、ブラッドは戸惑った。

「あれのどこが恥ずかしいんだ?」

「私は恥ずかしいんだ!」

 ルージュは顔を覆っていた手を外し、気恥ずかしさのあまりに声を上げた。

「ルージュ。こっち向けよ」

 ブラッドはルージュの頬に手を添えると、目を合わせた。見つめ合っていると、気恥ずかしさなど消えてしまった。
それよりも、遥かに愛おしさの方が強い。ブラッドはルージュの顎に手をずらして持ち上げると、顔を近寄せた。
が、分厚く硬い金属の手に遮られた。ルージュはブラッドの顔をぐいっと強く押しやってから、後退してしまった。

「あ、う、まだ、そんな!」

「もう三回もしたじゃん。何を今更」

 ルージュの左手から顔を離したブラッドは、不満げに眉を下げた。ルージュは、かなり困った顔をしている。

「ブラッドが強引にしてきただけじゃないか! わ、私の意志はどうなんだ、私の意志は!」

「オレのこと、好きなんじゃないの?」

「好きなものは好きだが、えと、その、だからってそういうことは、無遠慮というか、不作法というかで!」

「父ちゃんみたいなこと言うなぁ」

 ブラッドは呆れ混じりに、口元を引きつらせた。ルージュは地面を蹴って、ブラッドとの距離を開く。

「お前が強引すぎるんだ! それだけのことだ! 大体、お前の言い方だと、したいだけみたいじゃないか!」

「じゃ、ルージュはしたくねぇの?」

 あまりにもルージュが困っているので少々意地悪をしたくなってしまい、ブラッドはにやけながら言ってみた。
途端に、ルージュは固まった。ブラッドが前のめりになって近寄ると、油切れの機械のようにぎこちなく俯いた。
その体に触れてみると、熱していた。かなり照れてしまったらしく、足元の雑草がしおれるほど過熱していた。
ブラッドは、それがやたらと可愛く思えてしまった。あんなに硬い態度を取っていた女が、こんなに弱っている。
それが、愛らしくないわけがない。ブラッドはたまらなくなって、ルージュの肩を両手で掴むと力任せに押した。

「わあっ」

 いきなり押し倒されてしまい、ルージュは驚いて声を上げた。軽い衝撃の後に、体の上に影が覆い被さった。
そして、影が迫ってきた。ルージュの額に当たる頭部装甲に額を当てたブラッドは、この上なく幸せそうだった。

「オレは、すっげぇしたい」

「う…」

 ルージュは言い返そうとしたが、言葉に詰まってしまった。ブラッドの真摯な眼差しには抗えず、こくりと頷いた。
したくないわけがない。ルージュ自身も、何度となくブラッドとの口付けを思い出して感触を反芻していたからだ。

「じゃ、いいよな?」

 ブラッドはルージュの返事を待たずに、唇を塞いできた。息をしないはずなのに苦しくなり、ルージュは呻いた。
抵抗するのも煩わしいほど満たされて、されるがままになった。ブラッドの口付けは荒く、どちらかと言えば乱暴だ。
だが、それすらも嬉しい。ルージュは若干躊躇いは残っていたが、両腕を伸ばしてブラッドの骨張った肩を掴んだ。
ブラッドはルージュの唇を噛むようにして味わっていたが、離れた。ルージュの頭を押さえると、首筋を晒させた。
 頭と胴体部分の接続用部品でしかない首に、牙が突き立てられる。小さく鋭利な痛みが、触覚に伝わってきた。
血を吸い出す代わりなのか、首筋に舌を這わせてきた。その仕草もぞんざいで荒っぽかったが、心地良かった。
ルージュもブラッドの頭を押しやって首筋を出させ、牙を突き立てた。すぐに治るような、浅い傷に止めておいた。
ブラッドの手が頭から外され、胸に被せられた。何の躊躇いもなく乳房を握り締めたが、急にブラッドは項垂れた。

「硬い…」

「や、柔らかいはずが、ないだろう」

 ただの外装なんだから、とルージュが小声で言い返すと、ブラッドはルージュの上にへたり込んだ。

「オレの夢ん中じゃ、たっぷんたぷんだったんだけどなぁー」

「卑猥な擬音はやめろ。というか、それはお前の夢であって現実ではない」

「でも、まあ、いいか」

 ブラッドは体を起こすと、硬い乳房に指を伝わせた。ルージュは必死に表情を殺したが、堪えきれなかった。
歯を食い縛って声を殺すも、吐息は漏れてしまう。ルージュの敏感な反応に、ブラッドは不思議そうな顔をした。

「触られるの、解るん?」

「少しは」

 ルージュは高ぶった声色を押さえようとしたが、不自然な上擦りは隠しきれなかった。

「へえ」

 妙に嬉しくなったブラッドは、ルージュの胸の間に顔を埋めた。ルージュは後退ろうとしたが、既に手遅れだった。
首筋と同じように、ブラッドは胸の外装に舌を這わせてくる。その感触と混乱から、ルージュは身を捩ってしまう。
そのまま舌は上へと移動し、魂を収めている魔導鉱石に接した。魂に直接伝わった感覚に、ルージュは跳ねた。

「ひあっ」

 たまらなくなってブラッドを押し退けたルージュは、魔導鉱石を押さえた。感じたことのない感覚が、体を走った。
中断させられたことが不満なのか、ブラッドはやや残念そうだった。ルージュは身を固くし、唇をきつく引き絞った。
彼の諸々の感情が魂に流し込まれたため、ルージュは動揺していたが、全身を貫いたものの余韻は残っていた。
抗いたい気もするが、受け止めてしまいたいものだった。動悸のように高鳴る魂が、ルージュの体をまた熱させた。

「ルージュ、可愛いな」

 ブラッドは、ルージュの過剰な反応と喘ぎにも似た悲鳴が可愛らしくてたまらず、頬を緩めた。

「そう、か?」

 ルージュが躊躇いながらもブラッドに目を向けると、ブラッドはにやついた。

「そう思うから言ってんじゃん」

「そうだ、忘れるところだった」

 ルージュは話を変えるために、離れた位置に置きっぱなしにしていたバスケットを取り、彼に渡した。

「無理にとは言わないが、食べてみてくれないか」

「これ、なんだ?」

 ブラッドは、渡されたバスケットの蓋を開けた。すると、中には布が被せてあり、甘い小麦の匂いが漂った。

「菓子だ」

 ルージュが簡潔に説明すると、ブラッドは布を剥いだ。布の下には、大量のクッキーが積み重なっている。

「これ、誰が作ったん?」

「私以外の誰がいる」

「じゃ、全部喰う」

 ブラッドはクッキーを一度に何枚も掴み取ると、口に押し込み、飲み下した。その食べ方に、ルージュは呆れる。

「だからって、一度に喰うな。私の苦労をなんだと思っている」

「悪ぃ。だって、腹減ってたから。これ旨いな。結構器用なんだな、ルージュは」

 指先を舐めながら、ブラッドは笑った。褒められたことでまた照れ臭くなったルージュは、顔を伏せた。

「そんなもので良ければ、いくらでも作ってきてやるが」

「なあ」

 ブラッドは不意に表情を消し、真顔になった。

「これで、終わりじゃないよな?」

「終わりじゃない。今度こそ、始まりだ」

 ルージュはブラッドの傍らに寄り添うと、その右腕に刃の付いていない左腕を絡ませて、彼の肩に頭を預けた。
ブラッドは、二の腕を握っているルージュの左手に左手を重ねた。手のひらには、硬い金属の感触しか訪れない。
しかし、熱かった。それが彼女の命の息吹なのだと思うと、ブラッドは胸が詰まった。ルージュは、死んでいない。
肉体の命こそ潰えてしまったが、魂はこの世に生きている。その証拠に、笑ったり怒ったり恥じらったりと忙しない。
今度こそ、ルージュを守り切ろう。ブラッドはルージュの頭に頭をもたせかけると、精一杯の思いを込めて囁いた。
 愛している、と。




 翌朝。ブラッドは、自室のベッドの上でぼんやりしていた。
 時間が経つに連れ、ルージュと再会したことが夢だったのか現実だったのか、解らなくなってしまいそうだった。
夢だと思えば夢に終わるし、現実だと思えば現実になる。どちらの方が幸福なのかも、解らなくなりそうだった。
夢なら夢でそれでいい。現実なら現実で最高だ。だが、証拠がない。ルージュのクッキーも、胃に残っていない。
焼き菓子は消化が良いので、すぐになくなってしまう。ちょっとぐらいは残しておくんだった、と今更ながら後悔した。
ブラッドは寝不足故に出てくる欠伸を噛み殺しながら、年代物の姿見を何の気なしに見、首筋の傷跡に気付いた。

「おおおおおっ!?」

 噛み付かれたのは、夢ではなかったのか。ブラッドは鏡に詰め寄ると寝間着の襟元を広げ、もう一度確かめた。
うっすらと赤みを帯びた小さな傷跡が、首筋に二つ並んで付いている。これは間違いなく、ルージュの牙の跡だ。

「くけけけけけけけけけけけけけ! 朝っぱらから元気だなこの野郎ー!」

 と、突然やかましい声が掛けられた。ブラッドは顔をしかめ、窓の外に貼り付いているフリューゲルを見上げた。

「お前、何やってんの?」

「オレ様はヴィクトリアを起こしに来たんだ! 起きてくれねーと、遊べないからな! でも、まだヴィクトリアもニワトリ頭も起きてなかったんだ! だから、起きてたお前のところに来てやったんだぞこの野郎!」

「あ、そういえばそうだったっけか」

 そういえば、そんな話をギルディオスから聞いていた。ブラッドは首筋を押さえたまま、鋼鉄の鳥人に話し掛けた。

「あのさ」

「ん、なんだ?」

「いや、いいや。気にしないでくれ」

 ブラッドは、問いを飲み込んだ。同じ魔導兵器であるフリューゲルなら、ルージュの接近にも気付けるだろう。
だから、昨夜ルージュが近付いたことに気付いているかもしれないと思ったが、敢えて聞かないでおくことにした。
ただでさえゼレイブの内情は不安定になのだから、余計な情報を流して、それを掻き乱してしまうのは良くない。
フリューゲルは質問の意図を訝っていたが、ブラッドから興味を失ったらしく、けたたましく鳴きながら飛び去った。
 ブラッドは、慎重に首筋から手を外した。消えていないことを祈りながら手のひらを剥がすと、確かに、在った。
今ばかりは、再生能力の高い自分の体が疎ましかった。もうしばらくは、彼女に噛まれた痛みを堪能したかった。
人差し指で噛み跡をなぞり、かすかに窪んだ傷口を押さえてみた。勝手に頬が緩んできて、だらしない顔になる。
あまりにやけていると、両親に何かあったのかと勘繰られてしまうので、元に戻さなければとは思うが戻らない。
名残惜しいが、傷跡も消さなければならない。ブラッドは着替えを出してベッドに放り投げ、寝間着を脱ぎ捨てた。
 また、夜中に湖に行こう。だが、これからは意味が違う。愛おしい鋼鉄の乙女を待ち受けるために、出向くのだ。
これは、二人だけの秘密だ。他の誰にも話してはならない。この恋は、祝福されるような恋ではないと知っている。
だから、隠しておくべきだ。それに、逢い引きだから二人きりでいるのが当たり前だ。そう思えば、罪悪感もない。
ブラッドとルージュの恋は、ようやく始まったばかりだ。誰にも邪魔されずに、二人だけで幸せな時を過ごしたい。
 向け合うのは敵意ではなく、愛なのだから。




 想い合う二人の吸血鬼は、思い出の場所で再会する。
 真夜中の逢い引きは、青年の荒んだ心を癒やし、鋼鉄の乙女の魂を満たした。
 互いへの愛で蘇った恋は、夜空に見守られながら、密やかに育まれる。

 愛し合う二人の運命は、ようやく交わったのである。






07 7/31