ドラゴンは滅びない




雨空




 フィリオラは、娘の様子を見ていた。


 雨が伝う窓に貼り付いて外を見つめている幼い娘の後ろ姿は、いつになく寂しげで、時折ため息も吐いている。
昨夜から降り出した強い雨が続いており、朝になっても暗いままで、空一面が厚い鉛色の雲に支配されていた。
大きな雨粒が屋根を叩き、庭や道に大きな水溜まりを作っていた。リリは、不安げな眼差しで空を見つめている。
リリの傍にいるロイズも、同じく外を見ている。リリの表情が暗いのは、外で遊べないのが不満だからではない。
 朝から、フリューゲルがいないのだ。雨宿りをしているのだろう、とフィリオラが言ってもリリは納得しなかった。
まともな魔法は使えないとはいえ、召喚術師と契約獣の契約を交わし、魔法を用いて魂を繋げ合っている関係だ。
何かしら、感じるものがあるのだろう。リリは自分の分の仕事を終えて勉強を始めたが、少しも身が入らなかった。
ロイズもそれに釣られてしまったらしく、不安げだった。フィリオラはため息を零してから、手元の石盤を小突いた。

「今日の分のお勉強は、まだ終わっていませんよ」

「でも…」

 リリは冷え切った窓に小さな手を当て、鉛色の空を仰ぎ見た。

「フリューゲルが、帰ってくるかもしれないし」

「だからって、ずっと待っているわけにはいかないじゃないですか」

 フィリオラは少々呆れ、頬杖を付いた。ロイズも、窓の外を見上げる。

「だけど、もうお昼も近いし、そろそろ帰ってきてもいいと思うんだけど」

「魔導兵器は金属で出来ていますから、水には弱いんですよ。だから、雨が止むまでは飛ぶに飛べないんですよ」

 フィリオラから説明されても納得しがたいのか、リリの表情は晴れなかった。

「だけど、ちょっと変だよ。フリューゲルが、近くにいる感じがしないんだもん」

「そうですか?」

「お母さんには解らないかもしれないけど、私には解るもん。だって、私とフリューゲルはケーヤクしてるんだから」

 リリは少し不機嫌そうに、小さな唇を曲げた。

「いつもだったら、フリューゲルがどこにいるのかはなんとなく解るの。そっちだなって思った方向を見ればちゃんといるし、フリューゲルもそうだから私がどこにいてもすぐに見つけてくれるもん。それに、シネンっていうのも繋がっているから、お喋りしなくてもお話し出来るんだもん。だから、さっきから何度も呼び掛けているんだけど、ちっとも答えてくれないんだもん。絶対に変だよ」

「眠っているんじゃないですか? 魔導兵器と言っても、魂は生き物なんですから」

「それならそれで、解るもん…」

 リリは俯くと、エプロンをぎゅっと握り締めた。

「私、探しに行く」

「ダメです。こんなにひどい雨の中を出歩いたりしたら、風邪を引いてしまいます」

 フィリオラが首を横に振ると、リリは顔を逸らした。

「ちゃんと上着を着れば平気だもん。外に出れば、もっと見つけやすいかもしれないじゃない」

「でも、どうしてフリューゲルはいなくなっちゃったんだろう?」

 ロイズはちらりとリリを見てから、また窓の外を見た。

「ラミアン小父さんの魔力の蜃気楼を破ったんだったら、絶対にラミアン小父さんが解るはずなのに」

「じゃあ、ゼレイブの中にいるんですよ」

「違うよ!」

 フィリオラの言葉を遮るように、リリは急に叫んだ。

「ゼレイブにいないのだってちゃんと解るもん! フリューゲルがゼレイブの中にいるんだったら、呼び掛けたらすぐに来てくれるもん! すぐに見つけられるもん! でも、どこにもいないんだよ! 本当にいないんだよ!」

「そうですか…」

 フィリオラはリリの頑固さに、首を竦めた。すると、居間の扉が開き、雨に濡れているレオナルドが入ってきた。
レオナルドは厄介そうに水を含んで肌に貼り付く髪を払っていたが、目を閉じて魔力を高め、一瞬だけ力を放った。
直後、レオナルドの周囲の空気が熱した。レオナルドは己の発した熱で強引に乾かした服を払い、粗熱を消した。

「お帰りなさい、レオさん。着替え、出しましょうか?」

 フィリオラが立ち上がると、レオナルドはまだ水分の残っている髪を乱した。

「いや、いい。この天気だ、洗濯物を増やすわけにはいかない」

「その時は、お部屋の空気をレオさんに温めて頂ければいいですから」

 フィリオラがにこにこと笑うと、レオナルドは眉を下げた。

「前にも言ったとは思うが、抑制した状態で力を出すのは辛いんだぞ。やるんだったら、お前の魔法でやれ」

「でも、たまに力を抜かないといけないのはレオさんの方じゃないですか。私は平気なんですけど」

「風呂を沸かす程度で充分だ。オレも、若い頃ほど魔力は有り余っちゃいない」

 レオナルドの口振りは、どこか悔しげだった。フィリオラは、頬に手を添えて目を伏せる。

「それは残念ですねぇ。レオさんに乾かして頂けると、どんなに厚い服もふかふかになるんですけどねぇ。最近は夜も寒くなってきたことですし、そろそろ冬物のお洗濯もしなくてはいけませんから、存分に活躍してほしかったんですけどねぇ。凄ーく残念です」

「解った解った、やればいいんだろう。解ったから、それ以上なじるな。だが、布団は勘弁してくれ。あれはさすがに苦しいんだ。うっかりすると燃やしそうになっちまうんだ」

「ありがとうございます、レオさん」 

 フィリオラは、途端に喜んだ。レオナルドは妻の現金さに困りつつも、その笑顔には勝てなかった。

「まあ…大したことじゃないしな」

「お父さん!」

 二人の会話が切れたのを見計らって、リリはレオナルドの元に駆け寄った。

「お外、行ってきたんだよね? フリューゲルはいなかった?」

「見当たらなかったが」

 レオナルドの答えに、リリは肩を落とした。

「そっか…」

「まだ出てこないのか、あれは」

 レオナルドがフィリオラに問うと、フィリオラは頷いた。

「おかげで、今日のリリはすっかりご機嫌斜めなんですよ。困ったものです」

 フィリオラとレオナルドの視線が、交わった。レオナルドはすぐに視線を逸らしてしまったが、また妻へと戻した。
それは意地っ張りの夫の条件反射のようなものなので気にはならなかったが、視線には戸惑いが含まれていた。
フィリオラもまた、戸惑いを隠せなかった。フリューゲルが姿を消した真相を、フィリオラとレオナルドは知っている。
そのことを、このまま隠し続けていて良いのか。不安故に苛立っているリリを見ていると、哀れさすら感じてしまう。
話すべきか、それとも隠し通すべきなのか。フィリオラは悩みながら、強い雨が降り続いている窓の外を見上げた。
 心中も、空のように重苦しかった。




 昨日。フィリオラは、ギルディオスの訪問を受けた。
 それは、子供達や夫が仕事に出払っている午前中のことで、フィリオラは洗濯を終えて干している最中だった。
近頃、ギルディオスは心を病んでしまったヴィクトリアに付きっ切りなので、一人で出歩くのは珍しいことだった。
なので、ブリガドーン戦以降はあまり会話出来ず、フィリオラも忙しいのでギルディオスに会えない日々が続いた。
だから、ギルディオスから訪問されるのは願ってもないことだった。彼に相談したいことも、山ほどあったのだ。
フィリオラは手っ取り早く洗濯物干しを片付けてしまうと、ギルディオスを居間に通して、向かい合って話をした。
リリのこと、ロイズのこと、フリューゲルのこと、ゼレイブ全体のこと。ギルディオスは、それをじっと聞いてくれた。
フィリオラが子供だった頃と同じように、辛抱強く付き合ってくれた。それがまた嬉しくて、お喋りに拍車が掛かった。
キャロルやジョセフィーヌには言えないこともギルディオスだったら楽に話せたので、とても気が楽になっていた。
今まで相槌を打っていただけのギルディオスが口を開いたのは、フィリオラの長いお喋りが一段落した頃だった。

「なあ、フィオ」

 ギルディオスはソファーに沈めていた大柄な体を起こし、足を組んだ。

「はい?」

 三杯目の紅茶で喉を潤してから、フィリオラは首をかしげた。ギルディオスは、屋根の上を指し示す。

「リリとフリューゲルのことなんだが」

「二人とも、良い子ですよ。フリューゲルは、まだまだ躾が必要ですけど」

 フィリオラが笑むと、ギルディオスは少しばかり声を低めた。

「本当にそうか、フィオ?」

「え…」

 ギルディオスの威圧的な態度に、フィリオラは一瞬臆した。

「本当ですってば。何を言い出すんですか、小父様は」

「リリが家出したこと、決着を付けてねぇんじゃねぇのか?」

「あれは、もう終わったことですし。リリも無事に帰ってきましたし、だから、いいんですよ」

「それで、お前は満足なのか?」

「だって…」

 フィリオラは、両手で包み込んでいるティーカップに目線を落とした。辛いことを蒸し返して、傷口を抉りたくない。
リリが姿を消し、ブリガドーンで夫が戦っている間、ゼレイブで待っているフィリオラは気が狂いそうな思いだった。
掛け替えのない二人が、誰よりも愛している大切な家族が危険な目に遭っている。それだけで、とても苦しかった。
そんな思いは、もう二度としたくなかった。せっかく手に入れた当たり前の幸せが壊れていくのは、耐えられない。
だから、戦いのことは忘れてしまうに限ると思った。フリューゲルが自分を傷付けたことも、忘れようとしていた。
 確かに、フリューゲルは恐るべき破壊力を持った魔導兵器だ。だが、リリさえ傍にいれば、彼はただの魔物だ。
他の皆もそうしている。下手に傷を抉ってしまったら、無用な悲しみや苦しみが生まれるのではと危惧したからだ。
在り来たりだが、だからこそ愛おしい日々を守りたい。だから、リリの家出のことも、胸の奥に押しやることにした。
リリは己の力の暴走で、家出をしたくなるほど傷付いてしまった。娘の傷も、抉らずに、触れずに、治してやりたい。
今までと同じ日常を続けていけば、完全に消えることはなくともいつか薄らぐはず。そう思って、目を逸らしている。

「嫌だから、辛いから、目を逸らすのか?」

 フィリオラの心中を見透かしていたギルディオスは、やれやれと言わんばかりに首を横に振った。

「それじゃ、お前の家族と一緒だな」

「違います!」

 フィリオラは弾かれるように立ち上がったが、ティーカップを落としてしまい、足元で砕け散った。

「私は、お父様やお母様とも違います! 私は、ちゃんとリリを愛しています!」

「オレからすりゃ、同じだぜ。痛いところには触れないようにして、壊れ物みたいに大事に大事に扱ってよ」

「違うったら違うんです!」

「だったら、なぜリリを叱らない? お前も、レオも」

 激昂するフィリオラとは正反対に、ギルディオスは至極冷静だった。

「どこが違うってんだよ。まるっきり一緒じゃねぇか。ツノの生えているお前を魔力封じの魔法陣を書いた部屋に閉じ込めていた、お前の親とそっくりだ。こいつぁフィルの受け売りだが、優しさと甘さは別物なんだぜ?」

「違う…違うんです…」

 フィリオラはずり下がり、崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。違う。あんな親と、一緒にしないでくれ。違うんだ。
忘れていたはずの、幼い頃の記憶が溢れ出してくる。冷たく暗い部屋に押し込められて、泣いていただけの日々。
小さな体に有り余る竜の力を制御出来なくて、そのたびのお仕置きだと言われて物のように部屋に放り込まれた。
同じ竜の血を引いているはずなのに普通の人間である兄と姉と比べられて、毎日、悪い子だと言われ続けていた。
抑圧されすぎて暴走してしまい、竜へと変化してしまってからは、家族の態度は一変した。急に優しくなったのだ。
 最初は、凄く嬉しかった。今まで言葉を交わしてくれなかった家族と食卓を共にし、一緒に笑えるようになった。
だが、家族の笑顔はぎこちなかった。フィリオラの竜の血に怯えているから、態度がぎこちないのも当然だった。
家族は優しいのではない。フィリオラを恐れている。避けている。蔑んでいる。嫌悪している。だからこそ、笑う。
笑ってさえいればどうとでも誤魔化せる、という意図が解るようになったのは、少し成長した頃だったように思う。
それに気付いた途端、家族の笑顔はただの仮面になった。フィリオラに見せていたのは、取り繕った顔だった。
 フィリオラは、実の家族の誰からも愛されていなかった。だからこそ、リリには愛情を注いで育てようと誓った。
褒める時は褒めて、叱る時は叱って、ちゃんと躾けて勉強も魔法も教えて、力の制御も教えて、良い子にしようと。
リリは、その通りに育ってくれた。だが、炎の力を暴走させてしまったリリは、家族ではなくフリューゲルを頼った。
それが許せなかった。こんなにも愛しているのに、誰よりも大事に思っているのに、そこで家族を裏切るのか。
血を分けた娘のことが、初めて腹の底から腹立たしくなった。だが、そんなことを思ってはいけないと思い直した。
それでは、自分を蔑んだ家族と同じになる。笑顔を浮かべながらも冷たい目をした、あの家族になってしまう。
目を逸らしたのも、娘に対して理不尽な怒りを抱きたくないからだ。それさえなければ、今まで通りの日々は続く。

「フィオ」

 ギルディオスの大きな手が、フィリオラのツノの生えた頭をぐしゃりと撫でた。

「違う、違う、違う…」

 フィリオラは頭を抱え、体を丸めた。

「そんなに、辛いか?」

 ギルディオスの言葉に、フィリオラは涙を滲ませながら頷いた。辛い過去の傷は、未だ癒え切っていない。

「だったら戦え。なあに、フィオだったら出来る」

 ギルディオスの励ましに、フィリオラは震えながら顔を上げた。

「だ、だけど…」

「ついでに、フリューゲルのことも試したいんだ。あの鳥頭は、信頼に値する男なのかどうか知りてぇんだ」

 ギルディオスはフィリオラの肩を支え、顔を上げさせた。フィリオラは、目元から溢れる涙を拭う。

「小父様ぁ…」

「フィオ。お前は優しい子だ。だが、優しいだけじゃ、親はやってられねぇんだぞ」

「…はい」

 フィリオラは、弱々しく頷いた。頭ではそれが正論だと解っているが、自分の過去の傷がじくじくと膿んでくるのだ。
レオナルドとリリとの幸せな日々ですっかり癒やされたと思っていたが、何十年経とうと治っていなかったらしい。
正直、戦いたくなかった。真っ向から向き合える自信もなければ、戦えるほどの気力があるとも思えなかったのだ。
だが、ここでリリと向き合わなければ、自分はあの家族と同じになってしまう。そうなってしまうのは、絶対に嫌だ。
 上辺だけ整えた冷ややかな家族が嫌だったから、ストレイン家を出た。レオナルドと結婚した。ゼレイブに来た。
戦わなければ、傷口は更に膿む。リリと向き合わなければ、偽った笑顔を顔に貼り付けるようになるかもしれない。
フィリオラは何度も涙を拭っていたが、唇を噛み締めた。まだ震えの残る両手でエプロンを強く握り、顔を上げた。

「私、頑張ってみます」

「おーし、その意気だ」

 ギルディオスはフィリオラの髪を乱し、明るく笑った。

「じゃ、オレの立てた作戦を説明してやろう。フリューゲルの奴に、十日ばかり家出をしてもらう」

「それだけですか?」

 拍子抜けしてしまい、フィリオラは目を丸くした。ギルディオスは、ソファーに座り直す。

「おう。そうすりゃ、リリがどれだけフィオとレオに心配を掛けたのか思い知ることが出来るだろう? これはフィオの戦いでもあるが、リリのお仕置きでもあり、フリューゲルの適性試験も兼ねている。どうせなら、一度にやっちまった方が色々と楽だろ?」

「でも、それだけでいいんですか?」

「ああ。フリューゲルが本当にリリが好きならちゃーんと帰ってくるだろうし、帰ってこなかったらそれっきりだと思っていい。十日後にフリューゲルが帰ってきたとしても、そこでリリがフリューゲルを嫌ったりしたら、リリとフリューゲルの関係もその程度ってことになる。リリはまだ子供だ、フリューゲルのことをただのおもちゃとしか思っていない可能性もないわけじゃねぇ。もしも、リリがそんな気持ちでフリューゲルと契約しているなら、契約は強制解除させろ。そんなんで契約獣にされたんじゃ、フリューゲルが可哀想だからな。でもって、他の連中にも手回しをしておけ。リリが何をどう言おうと一切反応するな、手を貸すなってな。そいつはレオも例外じゃねぇ。鉄は熱いうちに叩いとけ。それも、徹底的にな」

「小父様、結構容赦ないですね…」

 ギルディオスの作戦の周到さに、フィリオラは眉を下げた。ギルディオスは、ちょっと肩を竦める。

「少しでも舐められちまったら、親も上官もお終いだからな。締めるところはぎちっと締めてやらねぇと」

「作戦開始は、いつにするんですか?」

「そうだなぁ…」

 ギルディオスは顎をさすっていたが、窓の外を見やった。遠い平野の果てに、分厚い雲が広がっている。

「雨、降りそうだな」

「ジョーさんの予知ですと、明日の夜に降るらしいですけど」

「じゃ、フリューゲルには今夜中にでも出ていってもらおう。雨が降れば、子供の行動範囲はぐっと狭くなるからな」

 ギルディオスは、よっこいせ、と立ち上がり、壁に立てかけてあったバスタードソードを取って背負った。

「問題はヴィクトリアだが、まあ、オレが相手をしてやりゃいいか。じゃあな、フィオ」

「あ、はい」

 フィリオラも立ち上がり、ギルディオスを玄関先まで見送った。ギルディオスは手を振りながら、屋敷へと去った。
ギルディオスが傍からいなくなってしまうと、少しだけ膨らんでいた自信が空気を抜くように萎んでいくのを感じた。
扉を閉めたフィリオラは、心細さを感じてまた泣きそうになった。だが、涙を堪えて唇を締め、心を奮い立たせた。
もう子供ではないのだ、ギルディオスにべったりと甘えているだけでは自分がダメになる。そう、決意を固めた。
 じゃり、と硬いものを踏んだ感触に気付いてフィリオラが足を上げると、無惨な陶器の破片が散らばっていた。
飲みかけの紅茶が破片を濡らし、広がっている。しゃがみ込んで破片を一つ拾うと、ちくりとした痛みが走った。
 前にも、このカップを床に落としたことがあった。その時は割れなかったが、中にヒビが入っていたのだろう。
だから、二回目には割れてしまった。なんだか、今の状況に似ていた。フィリオラは、慎重に破片を拾っていった。
破片の中に溜まっていた生温い紅茶が手のひらを伝い、滴が床で弾ける。このカップは、もう捨てるしかない。
だが、この幸せは壊したくない。フィリオラは皮が切れて血が出るのも構わずに、手の中の破片を握り締めた。
床に広がる紅茶の海へ、赤黒い滴が数滴降り注いだ。フィリオラは奥歯を食い縛って必死に声を殺し、泣いた。
 胸の奥で、古傷が疼いていた。







07 8/2