ドラゴンは滅びない




狂乱の収穫祭




 ヴィンセントは、身を潜めていた。


 ゼレイブに潜入してから、三ヶ月半以上が過ぎていた。その間、ゼレイブではそれほど大きな異変はなかった。
ヴァトラス一家に引き取られたフリューゲルが十日ばかり家を出たりしたが、事件らしい事件はそれぐらいだった。
だから、これといって調査することもなく、退屈な日々を送っていた。幸い、ゼレイブでは食料に事欠かなかった。
様々な作物を作っているので、その倉庫を荒らすネズミが絶えない。それを捕まえて食べていれば、充分だった。
魔物といえど元々大して能力の高い方ではないので、魔力を押し殺していれば、その辺りにいる獣と同じになる。
ゼレイブを包んでいる魔力の蜃気楼を抜ける際も、弾かれてしまわないようにぎりぎりまで魔力を絞って侵入した。
あの吸血鬼はフィフィリアンヌの側近をしていただけのこともあり、なかなか頭の切れる男なので油断は出来ない。
だからヴィンセントは気を張っている日々を続けていたのだが、気が抜けてしまうこともないわけではなかった。
 特に、今日のような日は危ない。日差しに暖められた空気が心地良く、気温が高いので春のような雰囲気だ。
こんな気候は、ネコを眠らせるには丁度良すぎる。なのでヴィンセントは、枝の上でうつらうつらと船を漕いでいた。
そのため、大分意識が遠のいていた。足音と気配が近付いていることに気付くのが、ほんの少し遅れてしまった。
はっと目を開いた時には、枝の真下に影があった。ヴィンセントは恐る恐る首を伸ばして、青い瞳を下に向けた。
そこには、くたびれた白衣を羽織った黒竜の医者、ファイドが立っていたが手には似合わないカゴを下げている。

「なんでぇ、黒竜の旦那でごぜぇやしたか」

「なんだとはなんだい、失礼な」

 ファイドはヴィンセントの姿を見ても、特に驚くこともなかった。ヴィンセントは頭を振り、眠気を追いやった。

「そいで、旦那は何の用事でこんな森の奥までいらしたんですかい?」

「それはこちらのセリフではないかね、ヴィンセント」

 ファイドはカゴを下ろし、威圧的に腕を組んだ。ヴィンセントは辟易し、首を縮めた。

「へいへい、解りやしたよ」

 ヴィンセントは枝から飛び降りると、積み重なった柔らかな枯れ葉に着地した。

「そいで、旦那。あっしに何か用事でもあるんでごぜぇやすか?」

「それこそこちらのセリフだ」

 ファイドは身を屈めると、ヴィンセントの両脇に手を差し込んでひょいっと持ち上げてしまった。

「君が何かをするつもりであれば、私は君を追い出そうではないか」

「うへえ、そいつぁおっかねぇでやんす」

 ヴィンセントが大袈裟に怖がると、ファイドは快活に笑った。

「だが、何もしないのであれば見逃してやろうではないか。君自身は罪を犯していないのだからね」

「なら、とっとと放しておくんなせぇ」

「なんだい、素っ気ない」

 ファイドがヴィンセントを下ろすと、ヴィンセントは二股に分かれた尾をぱたぱたと振った。

「しかし、今日はなんだか静かでやんすねぇ。いつも聞こえてくる子供連中の声がしやせんぜ」

「ああ、それは」

 ファイドはカゴの中に入っている、赤い木の実の付いた枝の束を見下ろした。女達に頼まれて穫ってきたものだ。

「収穫祭が近いからだよ。色々と準備があるものでね」

「そいつならあっしも知っちょりやすぜ。まあ、あっしの知っちょるモンとはちょいと違うんでしょうがねぇ」

「やることは違っていても、内容は似たようなものだと思うがね。作物の実りに感謝し、大地の神を敬うのだから」

 ファイドは親しげな笑顔のまま、ヴィンセントを見下ろした。

「ところでヴィンセント、一つ君に尋ねておきたいことがあるのだが」

「なんでやんすか、旦那」

「君の祖国に存在する、スモウという格闘技とはどんなものなのだね?」

「…へぇ?」

 思い掛けない単語にヴィンセントが目を丸くすると、ファイドは苦笑した。

「実はだね、ラミアンがそのスモウとやらを収穫祭で行うと言って聞かないのだよ」

「なんでそうなるんですかい?」

「私が彼に聞いてみたところによると、異国の文化を直に体験し、知識と経験を深めたいのだそうだ」

「しかし、なんでまたスモウなんでやんすか?」

「肉と肉をぶつけ合い力を競う男達が、猛々しくて美しいからだそうだよ」

「でも、ここの連中は普通の連中ですぜ? スモウを取るなんざ、きっと無理でやんすよ」

「いや、何も本格的にやろうというわけではない。収穫祭でやるだけなのだし、遊びに過ぎん」

「まあ、確かにありゃあ神事でやんすけど…」

「そこでだね、君の知識で彼らの中途半端な知識を補ってほしいのだよ。このままでは、男達が哀れでならんのだ」

「てぇことはあれですかい、マワシを締めずにフンドシ一丁でやろうってな腹だったりしやすかい?」

「おや、よく解ったな」

 ファイドに感心されたが、ヴィンセントはげたげたと笑い出した。

「そいつぁ旦那、スモウでもなんでもねぇですぜ! ただの取っ組み合いにしかなりやせんぜ!」

「その、マワシ、というものも必要なのだね?」

「当たり前でさぁ。マワシがなきゃあ、始まりやせんぜ。そのマワシを掴んで、がっぷり四つに組むんでさぁ」

 うひぇひぇひぇひぇひぇ、と奇妙な笑い声を上げながら、ヴィンセントはファイドに近寄った。

「そいで、他には何があるんでやんすか?」

 そして、ファイドはラミアンが得意げに話していたスモウの知識を話した。そのどれもが、根本から間違っていた。
それを聞き、ヴィンセントは腹が捩れるほど笑い転げた。共和国と祖国の島国が、離れているせいもあるだろう。
共和国は大陸の西の端にあるのだが、対する島国は大陸の東の果ての更に先にある、国土の狭い国なのだ。
国交も少なく、閉鎖的な国家だった。なので、周辺諸国に間違った情報が伝わっていたとしても不思議ではない。
 ファイドの話を聞く間、ヴィンセントは笑い転げ続けた。



 それは、奇行にしか見えなかった。
 ブラドール家の屋敷の庭に生えている太い木の幹へ、ラミアンが絶え間なく強力な張り手を打ち込んでいた。
鋭い爪を持つ魔導兵器が繰り出す張り手は破壊力が充分で、そのせいで打ち込まれた部分の皮が剥けていた。
皮の破片が飛び散って柔らかい生木の部分が見えているにも関わらず、ラミアンの張り手は一向に緩まない。
 ギルディオスは、正直付き合いきれなかった。傍らに立つヴィクトリアも、呆れた目で吸血鬼を見つめていた。
そもそも、スモウとは何なのだ。第一、それを収穫祭で行う必要があるのか。絶対にない、と妙な確信をしていた。
股間に布を巻き付けただけの全裸同然の格好で戦うなど、とてつもなく嫌だ。甲冑の体であっても、そう感じる。
だから、生身である他の男達はさぞ苦しんでいるだろう。一番若いブラッドであっても、不愉快げな顔をしていた。
 左手にクマのぬいぐるみを、右手に小振りな石盤と白墨を持っていたヴィクトリアは、ぬいぐるみを脇に挟んだ。
かっかっかっ、と石盤に白墨を滑らせて短い文章を書き記すと、ラミアンを見つめているギルディオスを小突いた。

『あれ、何?』

「ああ、ヴィクトリアは寝てたから聞いてなかったもんな。ラミアンがよ、収穫祭でスモウをやるんだと」

『スモウ?』

「東方の格闘技なんだとよ。ラミアンの持っていた東方の本に書いてあったらしい」

『どういうものなの?』

「オレもよく知らねぇよ。魔法陣みてぇな円の中で、裸の男同士で向かい合って取っ組み合うって話だ」

『なぜ裸なの?』

「だーから、オレに聞くなよ。聞くならラミアンに聞け」

 ギルディオスが顎でしゃくってラミアンを示すと、ヴィクトリアは即座に書いた。

『絶対に嫌なのだわ。微塵も関わりたくなくってよ』

 彼女の冷淡な反応に、ギルディオスは軽く肩を竦めた。その気持ちは解らないでもないが、口には出せない。
ラミアンの奇行は、ゼレイブに立ち込めている陰鬱な空気を振り払おうと考えた末の行動なのだと解っている。
ギルディオスも、ヴァトラス一家の件は進展したがそれ以外はそのままなので、なんとかしたいとは思っている。
そのための下準備として、まずはゼレイブ全体の雰囲気を明るくしなければならないが、それが結構難しいのだ。
確かに収穫祭は空気を変える切っ掛けを作るのに最適な行事だが、スモウが催し物として相応しいとは思えない。
まず、スモウが何なのかがさっぱり解らない。フィフィリアンヌなら知っていそうだが、生憎彼女はここにはいない。
だから、ラミアンに聞くしかないのだが、延々と張り手を続けているラミアンに話し掛けるのは少し躊躇してしまう。
けれど、スモウについて把握しなければ手も貸せないし、何より一人でやる気になっている彼が哀れに感じる。
しかし、やはり近寄りがたい。ギルディオスががりがりとヘルムを引っ掻いていると、足音が背後に近付いてきた。

「おう、ジョー」

 ギルディオスが振り返ると、そこには洗濯物の詰まったカゴを抱えたジョセフィーヌが立っていた。

「少佐。うちの人を止めて下さらないんですか?」

 ジョセフィーヌは、嫌そうに顔をしかめている。ヴィクトリアは彼女をちらりと見たが、目を合わせようとしなかった。
ジョセフィーヌはヴィクトリアの冷ややかな反応には慣れているので、これといって反応もせずに甲冑に向いた。
ギルディオスはラミアンを見てから、またジョセフィーヌに向いた。どちらの気持ちもよく解るので、言葉に詰まった。
だが、曖昧な態度のままではいけない。ここはラミアンに味方してやらなければ、とギルディオスは思い、答えた。

「まあ、オレも変だとは思うがよ」

 ギルディオスは太い腕を組み、黙々と張り手をしているラミアンを見やった。

「けど、たまにはいいんじゃねぇの?」

「ですけど、私には到底理解しがたいですわ」

 ジョセフィーヌが渋い顔をすると、ヴィクトリアが振り返った。すると、いつのまにかファイドが庭に立っていた。
ギルディオスが釣られてそちらを見ると、ジョセフィーヌも向く。ファイドは親しげな笑顔を浮かべつつ、挨拶した。

「やあ、諸君」

「あら、ファイド先生」

 ジョセフィーヌが笑顔を返すと、ファイドは三人の傍にやってきてから、ラミアンに声を掛けた。

「やあ、ラミアン」

 その声に、ラミアンは手を止めて振り返った。丁寧な仕草で礼をしてから、ファイドに向いた。

「これはファイド先生、何か御用ですか」

「調子はどうなんだね、ラミアン」

 ファイドが笑うと、ラミアンは仮面を付けた顔を横に振った。

「動かぬ標的では、練習などなりません。これでは、一向にスモウを習得することが出来ません」

「ねえ、ラミアン。考え直して下さらない? 何も、そんなおかしなことをしなくてもいいじゃないの」

「ジョー。ラミアンがスモウをすると、そんなに悪い未来になるってのか?」

「そうではないけれど、でも、嫌なのですわ」

 ラミアンらしくないわ、とジョセフィーヌは顔を背けて唇を尖らせた。ギルディオスは、苦笑いする。

「解らねぇでもねぇがよ」

「ヴィクトリアはどう思う?」

 ファイドに尋ねられ、ヴィクトリアは手早く書いた。

『興味なくってよ』

「とりあえず、他の男共を抱き込むことから始めねぇとならねぇな、こりゃ」

 ギルディオスはそう言ったものの、ゼレイブに住まう他の男達が素直に付き合ってくれるとは到底思えなかった。
彼の息子のブラッドは強制的に付き合わされるだろうし、異能部隊の二人もギルディオスが言えば付き合うだろう。
だが、一番の問題はヴァトラス兄弟だ。レオナルドも面倒だが、最も厄介なのはリチャードなのは言うまでもない。
性格はきついが頭に血が上りやすいレオナルドは、頑張れば乗せられるだろうが、リチャードはかなり手強い。
それに、リチャードは肉体を酷使すること自体が好きではないし、毎日の畑仕事ですら渋っているような始末だ。
説得には大分苦労しそうだが、ゼレイブに住まう人間の頭数が少ないので、参加してもらわなければならない。

「ところでだね」

 ファイドは皆を見渡し、ヴィンセントから聞き出してきたスモウなる格闘技の情報を述べた。

「スモウを取るにはフンドシだけでなく、マワシ、というものを締めなくてはならぬようだよ。ラミアン」

「そうなのですか?」

 本当に知らなかったらしく、ラミアンは驚いていた。ファイドは頷く。

「うむ。大人の背丈の三倍ほどの長さと手から肘よりも少し長いほどの幅のある厚い布を四つに折ってだね、それを股間に締めるのだそうだよ」

「ならば、ジョー。そのマワシの製作を頼めるかね? 無論、人数分を」

 と、ラミアンがジョセフィーヌに頼むと、ジョセフィーヌは物凄く苦い顔をした。

「ラミアン、あなたは皆さんを巻き込むつもりなのね?」

「当然ではないか、ジョー」

 ラミアンはふっと笑みを漏らし、仮面を付けた顔を上げた。

「肉体と肉体をぶつけ合い、己の力だけで優劣を競うのだから実に素晴らしいではないか。普段の我々の戦い方と言えば、ある意味ではとても卑怯であり、また人道から外れている」

「そりゃ人外だからな、オレ達」

 ギルディオスの半笑いの呟きも無視し、ラミアンは胸に手を当てて語り続けた。

「円で囲まれた狭い空間の中で、完璧に対等な立場で戦い合うというのだから、なんと平等な世界だろうか。また、こんなにも猛々しく荒々しい格闘技を生まれながらに会得しているリキシという戦闘部族は、分厚い肉で作られた鎧を纏って戦うというではないか! 戦闘部族リキシの姿勢は、昨今の物質社会に反しており、前時代的ではあるがそれは格闘そのものではなく精神面を重視している証だ! ああ、なんと異国情緒に溢れているのだろうか!」

 ラミアンは銀色のマントをはためかせながら、天へと片手を差し出した。

「天に許されるのならば、私はその極東の島国へと渡ってみたい! ああ、この身が鋼でさえなかったら!」

 陶酔しきったラミアンをげんなりとした目で見つめていたジョセフィーヌは、ギルディオスを見やった。

「少佐、うちの人を一度ぶん殴って下さいます? この間の戦いで、頭のネジが外れたのかもしれませんわ」

「うん、オレもちょっとだけ引っぱたきたくなった」

 ギルディオスは笑いを噛み殺していたが、ファイドに向いた。

「ところで、お医者先生。なんでマワシのことなんか知っていたんすか?」

「私も色々な地を回っていたからね、少しだけ耳にしたことがあるのだよ」

「だったら、なんでもっと早く言わないんすか」

 ギルディオスに苦笑いされて、ファイドは曖昧な笑顔を浮かべた。まさか、ヴィンセントから聞いたとは言えまい。
恍惚としながら東方諸国への憧れを語るラミアンを、ヴィクトリアは吹雪よりも冷たいであろう目で見つめていた。
どうも彼女は、他人が熱くなればなるほど冷めるらしい。ギルディオスも、今度ばかりはそんな気持ちになった。
これが普通の格闘技であったり剣術であれば得意分野なので張り切るのだが、スモウは完全に未知の世界だ。
何がどうなるのか、さっぱり解らない。だが、ラミアンはファイドの説明を受けてますます張り切ってしまっている。
こうなれば、もう引っ込みは付かない。行くところまで行くしかない、とギルディオスは妥協しながら肩を落とした。
 ラミアンは、極東の島国に住まうリキシ以外の戦闘部族、サムライやニンジャについてかなり熱く語り続けた。
どうやら彼は書物で知った東方諸国について並々ならぬ興味があるらしく、いつになく情熱的に声を上げていた。
道理で、ブラッドが逃げ出すわけだ。朝から屋敷で彼の姿を見かけないと思ったら、ちゃんと理由があったらしい。
 東方諸国への情熱を語るラミアンの声は、興奮で上擦っていた。







07 8/20