リチャードは、蒸気自動車を操っていた。 助手席に座るアンソニーは延々と続く地平線を退屈そうに眺め、二人の会話はとっくの昔に途切れていた。 元々、お互いにそれほど深い付き合いがあるわけではない。だから、話題を振っても話があまり続かなかった。 二人で共に行動をするようになって、もう四日目に入る。お互いに相手に慣れてきたが、飽きた頃でもあった。 吹き付けてくる強い風は、一週間前に比べると明らかに冷え込んでいた。冬の気配は、じりじりと近付いている。 リチャードとアンソニーという脈絡もなければ関係も薄い二人が蒸気自動車に乗っている理由は、至って簡単だ。 必要物資を入手するために、ゼレイブで収穫された農作物を闇市で物々交換するために遠出したからである。 これまではレオナルドやブラッドが交代で行っていた仕事だったのだが、男手が増えたので持ち回りになった。 リチャードが選ばれたのは経験豊富だからだが、その相棒にアンソニーが選ばれた理由も解りやすいものだ。 アンソニーの接触感応能力は、触れた物体や人間の情報や思考を瞬時に感じ取ることが出来る能力である。 闇市で流れている品物は、どれも出所が不確かで、見た目は本物だが中身は粗悪な偽物ということが多々ある。 そういった怪しげな物品の中から本物を見つけ出すには、アンソニーの接触感応能力は打って付けなのだった。 なのでアンソニーは、闇市でリチャードに引きずり回された挙げ句、接触感応能力を乱用する羽目になったのだ。 物質を直接操る念動力や瞬間移動能力に比べれば、魔力消費量は少ないが、それでも疲れるものは疲れる。 おかげで、目的のものを入手した頃には、アンソニーは異能力の酷使による疲労で苛立ってしまうほどだった。 それから二日が過ぎた今はアンソニーも回復して元に戻ったが、酷使したことはさすがに申し訳ないと思った。 だが、共和国戦争の騒乱が未だに続く共和国内でまともな物資を入手するためには、彼の異能力は不可欠だ。 「一日半ぐらい走れば、ゼレイブに戻れそうだね」 なだらかな丘陵地帯に伸びる長い道の先を見つめながら、リチャードが呟いた。 「空間転移魔法とか、使わないんですか?」 二人きりの時間に飽きているアンソニーは、少々刺々しい。リチャードはハンドルから片手を離し、上向ける。 「ブリガドーン戦で、僕もかなり疲れちゃったからねぇ。十年前だったら魔力中枢の耐久性も少しは強かったんだろうけど、僕もいい歳だからね。あの戦いで無茶苦茶な出力の魔法を放ったから、どうもそのせいで魔力中枢に損傷が起きちゃったみたいなんだ。もちろん、ファイド先生にも診断してもらったけど、致命傷には至らないけど魔力出力の上限が狭くなったって言われてね。要するに、今の僕は高位魔法を乱発出来なくなっちゃったんだ。空間移動魔法は中位と高位の間ぐらいに位置する魔法で、発動させる際には空間軸の固定と同時に空間歪曲を行わなきゃならないわけで、神経も使えば頭も使う魔法なんだ。距離が長かったり移動人数が多かったりすると、術者の負担は倍々で増えていく。僕らがほいほい使っていたから簡単そうに見えたんだろうけど、あれは面倒なんだよ。空間軸を固定するだけでも色々と知識が必要だし、魔力出力の計算も欠かせないしね。つまり、物凄く疲れる魔法なんだよ。ブリガドーンでの戦闘は僕も多少やりすぎたって思うし、魔力中枢に損傷が起きることは覚悟して魔法を撃っていたから宣告された時は別に驚かなかったけどね。さすがに、もう無茶は出来ないってことだね」 リチャードは運転席の扉に肘を載せ、頬杖を付く。 「ウィータもじきに生まれることだし、いい加減に落ち着きを持てっていうことなのかもね」 「かもしれませんね」 アンソニーは、投げ遣りに返した。ゼレイブにいる頃から、リチャードとはあまり性格が合わないと思っていた。 数日間行動を共にしても、その考えは変わらなかった。嫌い、というほどのものではないが微妙に噛み合わない。 リチャードもまたアンソニーと深く付き合うつもりはないらしく、それほど突っ込んだ話を振ってくることはなかった。 だから、アンソニーが素っ気ない態度を取っても、リチャードは気に掛けることはせずにいつも通りに接してきた。 乾いた関係だが、それならそれでやりやすい。必要な情報があったとしても、力を使って視てしまえば済むことだ。 アンソニーは、ふと目を上げた。肌を掠めている風に含まれている情報が感覚に染み込んできて、何か視えた。 程なくして、その情報の主が目視出来た。真っ直ぐに続く道の先に大きな物体が横付けされて、塞がれていた。 それは、大型の蒸気自動車だった。輸送用なのか幌の付いた荷車を繋いであるため、車体はかなり大きかった。 立ち往生しているのか、とも思ったが、それにしては不自然だ。脱輪や故障なら、そういった情報が伝わってくる。 明らかに道を塞ぐことを目的にしている。アンソニーが訝っていると、蒸気自動車の背後から人影が飛び出した。 それに気付いたリチャードが蒸気自動車を制動し、停車させると、人数が増えた人影は足早に駆け寄ってきた。 あっという間に、二人の乗る蒸気自動車は取り囲まれた。囲んでいる者達は、強奪品と思しき小銃を持っていた。 顔には覆面を被り、みすぼらしいが身を隠すには丁度良い色合いの服を纏い、銃を持つ手付きも慣れている。 「あらま」 事も無げに、リチャードは肩を竦めた。アンソニーは、面倒に思いながらも呟いた。 「族ですか」 二人の言葉を遮るように、複数の銃口が突き付けられた。リチャードは、頭の後ろで手を組んだ。 「反乱軍の残党、連合軍兵士の成れの果て、過激な革命家、どさくさ紛れに出来た犯罪者集団、単純に物資が目当ての近隣住民。どれにする?」 「どれでもいいと思いますよ」 アンソニーも頭の後ろで両手を組み、上体を反らした。 「人数は八。武装は小銃。蒸気自動車の荷車の大きさからすれば、もう五六人はいると踏んでいいでしょうね」 銃を突き付けられてもまるで動じない二人に、族の方が戸惑っていた。リチャードは、アンソニーに片目を閉じる。 「僕がやっていい?」 「お好きに」 アンソニーは、ため息を零した。リチャードが頭の後ろから両手を外して立ち上がると、銃口が一斉に動いた。 リチャードはそれらの前に手を翳すと、口を動かさずに呪文を紡いだ。直後、小銃の銃身が一斉に溶け始めた。 恐ろしいまでの高温と突然の異常に驚いた彼らは、慌てながら小銃を投げ捨てると、服の下からナイフを抜いた。 手前にいた一人が、身軽な動作でボンネットに飛び乗った。リチャードは口の中で呪文を唱えながら、手を向けた。 「ちょっと痛いよ」 リチャードの手が、汚れた覆面で隠した顔を掴んだ。振り上げたナイフを下ろすよりも先に、後頭部が破裂する。 硬質な破裂音が響き、砕けた頭蓋骨と脳漿が地面に吹き飛ぶ。軽く額を小突くと、あっけなくよろけて落下した。 丸腰だと思っていた相手に仲間がやられたことに、族は混乱していた。口々に、小声で言葉を交わし合っている。 魔法か、魔導師か、まだいたのか、見たことのある顔だと思わないか、そうだ、あれだ、あの悪魔の魔導師だ。 「僕のこと、知っているみたいだねぇ」 リチャードはボンネットの上に立つと、族をぐるりと見渡した。 「じゃ、誰か答えてくれる?」 「ヴァトラス、中尉…?」 族の一人が、混乱しながらもはっきりと述べた。その声は意外に若く、声変わりすらしていない子供の声だ。 先程殺した男はリチャードとそれほど年齢の変わらない男だったが、よく見ると肩の線がなだらかな者もいた。 子供だけでなく、女も混じっているようだった。だが、女がいると察しても、リチャードは微塵も動揺しなかった。 「ご名答」 リチャードはくるりと右手を翻すと、掲げた。 「じゃ、さようなら」 リチャードの指先が弾かれ、ぱちん、と乾いた破裂音を起こした。音が終わるよりも早く、地面が突然隆起した。 それは族の足元から伸び始め、先は槍のように鋭利に尖っていた。だが、それは一本ではなく、大量に現れた。 この場から逃げ出そうとした者の足が、貫かれる。立ち尽くしていた者は、下半身から脳天まで貫通して絶命した。 転んだ者は容赦なく頭と胸を複数の土槍に貫かれ、背中から赤黒く濡れた突起を生やしたまま、倒れ伏した。 リチャードに襲い掛かろうとした者もいたが、飛び掛かろうとした途端に真下から顎を砕かれて、眼球が割れた。 一瞬に近い出来事だった。土槍の出現が収まると、辺りには無惨に殺された死体が転がり、血臭が広がる。 この匂いには二人とも慣れているが、嫌悪感は湧く。リチャードはボンネットに座ると、ぱんぱんと両手を払った。 「これで何回目だっけ?」 「行きが二回で、これまでに二回ですから、五回目ですね。よく襲われますよね、オレ達は」 アンソニーは、ボンネットの上に両足を投げ出した。リチャードは、再度指を弾いた。 「やだねぇ、この国はすっかり無法地帯じゃないか。殺すのは簡単だけど、処理が面倒なんだよねぇ」 すると、行く手を阻んでいた蒸気自動車と荷車がいきなり持ち上げられ、底面を砕かれながら上昇していった。 先程と同じ土槍だったが、遥かに大きかった。大型の蒸気自動車の煙突の数倍の太さの土槍が、屋根を貫く。 アンソニーの察した通り、荷車の中には残党が残っていたらしく、幌の中からは恐怖に満ちた絶叫が溢れ出した。 だが、リチャードはそれを一切聞いていないかのような顔で、もう一度指を弾いた。直後、幌が内側から破れた。 土槍の側面から細い土槍が生え、埋もれた木の根を千切りながら伸びていく。その様は、針葉樹に似ていた。 薄布のように簡単に切り裂かれた幌と、紙細工のように容易く壊された荷車からは、ぼろぼろと死体が落ちた。 背の高い針葉樹ほどの高さまで伸びている太い土槍に支えられている荷車から落ちれば、ひとたまりもない。 ただでさえ損傷の激しい死体が更に壊れ、臓物や肉片が飛び散る。粘り気のある水溜まりが、いくつも出来た。 「魔法陣、いちいち書くのは面倒だしね」 だから一番簡単なやつ、とリチャードが両手を上向けると、アンソニーは無惨な死体の山を見やった。 「これのどこが簡単なんですか。昨日のよりも派手じゃないですか」 「僕は、土を変化させてどうこうするのが結構得意なんだよ。相性というか、魔力の馴染みが良いんだね。壁とかも簡単なんだけど、一番簡単なのは土槍だね。ちょっと集中して魔力を高めてやれば、ほら」 リチャードが蒸気自動車の傍らを指すと、地面と雑草を突き破りながら、新たな土槍が伸び始めていた。 「大分前にこれで畑を耕そうかって言ったら、レオがえらく怒っちゃってねぇ。なんでだと思う?」 「無理だからだと思いますよ」 アンソニーは、ボンネットの座るリチャードの傍まで成長した土槍を見ながら返した。それは、かなり非常識だ。 まず、この魔法は畑仕事に使うようなものではない。こんなことをしたら、せっかく軟らかくなった土が硬くなる。 土槍の材料になる土は、地中深くから押し上がってきているので、そこから邪魔な石が運ばれるかもしれない。 気持ちは解らないでもないが、理解は出来ない。リチャードが土槍を弾くと、その土槍はぼろぼろと崩壊した。 それと同調するように、頑強な太い土槍も砂のように脆くなり、真ん中から折れて持ち上げていた車を落とした。 内側からの攻撃で半壊していた荷車は真っ逆さまに蒸気自動車へ落下すると、錆びた車体を無惨に押し潰した。 貫かれていた族の死体も落ち、他の死体に積み重なって血溜まりを広げた。そして、全ての土槍が崩れ去った。 潰れた蒸気自動車の周囲からは白い砂煙が立ち上り、破れた幌の間から聞こえてきた呻き声は弱まり、消えた。 「さて、埋めますか。魔法を使った痕跡も綺麗に消さないと、連合軍に嗅ぎ付けられちゃうしね」 リチャードはボンネットから降りると、先の尖った小石を拾い、ぽんぽんと手の中で投げた。 「埋めやすいところ、読んでくれる?」 「またですか」 アンソニーは仕方なしに蒸気自動車から降り、地面に手のひらを付けた。そこから、死体の情報も流れ込んだ。 知りたくもない死者達の生前の記憶や素性や思考が一気に脳内を侵してきたので、アンソニーは顔をしかめた。 魔力を高めて力を押さえ、いらない情報を切り捨ててから、改めて地中を探った。なるべく、柔らかい部分を探す。 土が硬いと、それだけ魔法の効果も鈍く魔力の消耗も大きい。リチャードを無駄に消耗させるわけにはいかない。 アンソニーは兵士として一通りのことを会得していると言っても、魔法を操れるリチャードよりは戦闘能力が劣る。 接触感応能力を生かした接近戦や一対一では負け知らずだが、一対多数になると、途端に不利になってしまう。 だから、魔法さえ使えればほぼ無敵に近いリチャードを欠かすことは出来ず、死なせてしまっては後が面倒だ。 二人きりでいる以上、仲間には違いない。 死体の処理をした後、二人は前進した。 ゼレイブに到着するまでにはまだまだ時間が掛かるので、少しでも距離を稼ぐべく、日が落ちるまで走り続けた。 完全に日が落ちる寸前まで進み続けたが、それ以降は危険だと言うことで道端に蒸気自動車を止め、野営した。 蒸気自動車の運転は交代でしていても、疲労してしまう。リチャードは、魔法を使ったために魔力も消耗していた。 一晩休めば治る程度だが、無理は禁物だ。アンソニーは助手席で休み、リチャードには後部座席を渡してやった。 闇市で掻き集めた物資の入った木箱は、運転席と後部座席の足元に積まれ、二人の間には立派な壁が出来た。 リチャードは、積み重ねた木箱の隙間から助手席で体を休めているアンソニーを見たが、暗い夜空を仰いだ。 辺りに人気はなく、両脇の森からは時折怪しげな生き物の鳴き声が聞こえ、頭上では星の運河が輝いていた。 アンソニーは、先程からずっと黙っている。規則正しい呼吸がかすかに聞こえるので、眠っているかもしれない。 互いの顔も見えない。起きているかも解らない。ならば、前から言ってみたかったことを言う機会だ、と思った。 「ゼレイブに来てからは、僕も結構退屈でね。だから、余計なことをごちゃごちゃ考えていたんだ」 だが、アンソニーの反応はない。なので、リチャードは独り言として言うことにした。 「これまではキャロルと自分のことばかりを考えていたけど、レオ達に会えたおかげで精神的な余裕が出来たから、魔導兵器三人衆のことやブリガドーンのこと、連合軍のこととか色々と考えてみたんだ。もちろん、君達の異能部隊のこともね」 リチャードは、厚手の毛布の下で足を組み、頭の後ろで手も組んだ。 「一番疑問に感じたのは、ダニーさんほどの軍人がなぜ状況を見極められなかったのか、ということだった。あの人はちょっと視野が狭くて一本気で力任せだけど、指揮官としての才能はあるし、兵士としては充分すぎるほど強い。異能力も凄まじいから勘も鋭いし、経験も豊富だから判断力もある。そんなに立派な人だったのに、ルーロン・ルーなんていう過去の遺物が実在すると信じ込んで進軍し続けていた事実が信じられないんだ。ブリガドーンでの戦いの後でギルディオスさんから又聞きしたフィルさんの話だと、ルーロン・ルーというのはヴァトラ・ヴァトラスの創作物で実在していない人物だったんだけど、帝国が無理矢理実在することにしてルー一族なんて造り上げちゃったらしいんだ。グレイスさんが連合軍を手を組んでいたのも、ブリガドーンを利用して架空の存在でしかないルーロン・ルーを公式文書の上で殺すためだったんだそうだよ。となると、そこで君達異能部隊の話と齟齬が生じる」 リチャードは軽く上体を起こし、木箱の隙間からアンソニーの俯いた横顔を見やった。 「異能部隊は、なぜルーロン・ルーが実在しないと解らなかったんだ? 君達ほどの力を持った人達なら、やろうと思えばその辺の情報を掴めたと思うんだ。まあ、口で言うほど簡単なことじゃないだろうけどね。でも、フローレンスが生きていた頃だったら、彼女の高感度の精神感応能力を使って連合軍兵士から情報を引き出せたはずだ。行く先々で連合軍とやり合っていたなら、そういう機会はいくらでもあったはずだ。何かの切っ掛けでブリガドーンにグレイスさんが関わっていることを知ったかもしれないし、そのことを知ることによってルーロン・ルーが実在しないという情報の欠片ぐらいは見つけられかもしれない。常人よりも遥かに有利に、魔導師よりも遥かに効率的に、人外よりも統率の取れた行動が取れるのが異能部隊の素晴らしいところだ。なのに、ダニーさんはそれらの利点を殺した末に、仲間の九割以上を戦闘などで失い、挙げ句の果てには愛妻まで死なせてしまった。だが、それでもダニーさんは止まらなかった。僕だったら、妻が命を落とした時点で目を覚ますだろうけどね。けれど、ダニーさんは目を覚まそうとせずに進み続け、ブリガドーンで戦うまで気付こうとしなかった。僕なんかよりもちゃんと現実を見据えられるはずのダニーさんにしては、ちょっとどころかかなりおかしい。一体、何がダニーさんをそうさせてしまったのか、僕なりに色々と考えてみた」 リチャードは頭の中身を整理するように、だらだらと考えを述べた。 「部下が指揮官を信頼するのは、指揮官が部下を信頼してくれているからだ。ブリガドーンでの戦いで、僕は初めて部隊らしい部隊で戦ってみたけど、つくづくそう思ったね。部隊を成しているのは個人だけど、部隊は一つの生き物のようなもので、言ってしまえば運命共同体だ。隊長は、その運命と共に、部下の命も握り締めている。だからこそ揺らがずに、迷わずに、確実に勝てる方向を選んで進む義務がある。生粋の軍人であるダニーさんが、それを忘れていたはずがない。なのに、ダニーさんは仲間を死なせる方向へばかり進んでいた。僕が思うに、どこかで情報が食い違ったんじゃないだろうか。ここに来るまでの道だって、右に行けば距離が短いけど荒れている道があって左に行けば距離は長いけどきちんとした道があったように、ちょっとした違いで行く先は大分変わる。そうやって分かれ道に行き当たるたびに、荒れた道ばかりを選ばせて危ない方向に進ませることは出来ないわけじゃない。何度も何度もそれを繰り返せば、いつしかそれは当たり前のこととなって、危ない道を選ばなければ利益は生まれない、なんて考えになるだろう。それが出来るのは、部隊を動かす最大の材料にして指揮官の心を実に簡単に揺さぶるもの、情報を操作出来る立ち位置にいる人物だ。フローレンスが亡くなってからは、唯一の精神感応系能力の持ち主である君がその役割を任された。いや、その前からそうだったはずだ。君は異能部隊でも割と古株だし、ダニーさんとも付き合いが長かったから全面的に信用されていただろうしね。君の言葉を疑う理由なんて、どこにもない。増して、接触感応能力者が読んだ情報だ、その情報が嘘かなんて疑うわけがないんだ。どこへ行っても連合軍ばかりで敵だらけの状態だったら、尚更信頼するだろうしね。その弛まぬ信頼に付け込み、真実の中に一つまみの嘘を混ぜて毎日のように含ませれば、いつしかその毒のような嘘は全身に回る。そうなってしまえば、後は簡単だ。真実に限りなく近い嘘で、指揮官を操れるようになっているだろう」 木箱の壁の向こう側で、す、と浅く息が吸われた。 「何が言いたいんですか」 「君は嘘を吐いている」 リチャードは上半身を起こすと、背を丸めて頬杖を付いた。 「君が異能部隊を裏切ったところで利点があるようには思えないけど、そこまでするからにはきっと何かしらの理由があるんだろうね。これは僕の想像に過ぎないと前置きしておくけど、フローレンスを殺したのは本当は君なんじゃないのか? ヴェイパーとギルディオスさんの話に寄ればフローレンスに手を掛けたのはラオフーらしいけど、どうもしっくり来ない。ラオフーが無差別に殺した中に彼女がいたんだとしたら、君達が被害を被っていないわけがない。子供のロイズは真っ先に死んでいるだろうし、君みたいな精神感応系の異能力者だってピートみたいな念動能力者に比べればかなり殺されやすいはずなのにまだ生きている。となれば、ラオフーがフローレンスを狙って殺したって方向性も出てくるけど、ラオフーが彼女を殺す利点もなければ理由も見当たらない。だから、フローレンスとラオフーを繋げるものがなければならない。そこで浮上したのが、ダニーさんを裏切っているかもしれない君の存在だ。ラオフーも、最終的にはフィルさんを裏切ったしね。裏切り者同士だから、ってだけで君達二人を繋げるのはかなり強引だけど、ここ最近の出来事に全く繋がりがないとは思えないんだよね。ブリガドーンだって、結局僕達はグレイスさんとフィルさんに振り回されていただけだった。敵だと思っていた双方が実は手を組んでいて、僕達はその組まれた手の上で踊らされていた単なる駒だった。でも、駒を差している手は一つじゃない気がするんだ。どうも、腑に落ちない点が多いからね」 「仮に、オレが嘘を吐いていたとしましょう。ですが、どこに嘘があるんですか? オレは、嘘なんて一つも」 「どうして、ルーロン・ルーがいると知っていたんだい?」 リチャードは、叩き付けるように強く言い放った。木箱の壁の向こうで、アンソニーが身を起こした。 「当たり前じゃないですか。それがオレ達の本来の任務なんですから、知らないわけがないじゃないですか」 「ルーロン・ルーがこの世に存在しない架空の存在である以上、ルーロン・ルーが存在しているという事実を知れるわけがないんだよ。仮にグレイスさんの傀儡であるレベッカが演じていたルーロン・ルーの存在を知ることが出来たとしても、そのためにまずブリガドーンへ行かなきゃならないはずなんだ。けれど、強烈な魔力を発しているせいで周囲の空間が絶え間なく歪んでいるブリガドーンへ行くには、魔導兵器三人衆のような高出力の機動力か、竜族のような強靱さがなければ無理だ。万が一、君が接触感応能力以外の異能力を持っていたとしても無理だね。行けるわけがない。瞬間移動能力も空間の歪みで制御が狂うだろうし、ダニーさんのような強力な念動力も膨大な魔力に打ち消されてしまうだけだ。ロイズみたいな空間湾曲能力や空間移動魔法を使ったとしても、ブリガドーンの魔力に干渉されてしまうから魔法が成功する確率は低い。その上、君が魔法を使ったところを見たことがない。きちんとした魔力測定はしていないから曖昧だけど、僕の勘だと君の魔力数値は四十前後ぐらいしかないように思えるんだ。空間移動魔法を成し上げるには、最低でも六十近い魔力出力が必要なんだよね。仮に魔力増幅の魔法を使ったり魔導鉱石を使ったとしても、二十前後の魔力数値の差は簡単に埋まるものじゃない。つまり、君は物理的に絶対に手に入れられるはずのない情報を得て、ダニーさんに伝えて意のままに操っていたということになる。その情報が嘘じゃなかったら、なんだって言うんだい?」 矢継ぎ早にリチャードが喋る間、アンソニーは何も言わなかった。リチャードは、やや語気を強めた。 「アンソニー。君の目的は一体なんだい? 君はラオフーの仲間なのかい? それとも、君とラオフーを繋げている第三者がいるのかい?」 「それは全て、あなたの妄想です。だから、答えられるわけがありませんよ」 アンソニーの声色は平坦で落ち着いていたが、感情を押し殺しているようにも思えた。 「そうかい」 リチャードは、後部座席に再び寝転がった。 「僕も嘘は腐るほど吐いてきたよ。子供の頃から口だけは達者だったから、レオをやり込めて遊んだり、無意味に高圧的な教師を言い負かしてみたり、知識が足りないくせに調子付いているヘボな魔導師を叩きのめしてみたり、色々とやったよ。嘘ってのは便利で使い勝手がいいけど、諸刃の刃でもある。切れ味があまり良すぎると、自分に跳ね返ってくると凄く痛いんだよね。だから、使いどころはちゃんと選ばなきゃならない。危ない橋を渡る時なら、特に気を付けるべきだ。些細な嘘であっても、辻褄が合わなくなっちゃうからね。僕みたいな偏屈な人間が、その綻びを見つけ出しちゃうかもしれないし」 でも、とリチャードは自嘲した。 「出来れば、嘘なんて吐きたくないんだけどね。嘘でやり込めてばっかりだと、やっぱり気分が良くないよ。僕だって元々は真っ当な道を歩いていた人間だから、良心は残っている。生きるためには仕方ないんだとか、堕ちるところまで堕ちたんだから何を今更、とか思うけど、ダメな時もある。つまり、僕が何を言いたいかというとだね」 「嘘は良くない、とでも?」 アンソニーの声色は先程と変わらなかったが、僅かに語尾が上擦っていた。 「まあ、そんなところだね。嘘なんてものはね、泥水みたいなものだよ。水は水でも、飲めば飲むほど腹の中に泥が溜まって血が濁って魂が汚くなる水なんだ。でも、一度でも始めると引っ込みが付かなくなって、やめられなくなる。他の人には、飲んでいるのは泥水なんかじゃなくて上等のワインだと言い張っているから、飲むのを止めたら怪しまれるからだ。でも、一口飲むたびに舌にはざらざらした砂が貼り付いて、喉は土で痛んで、胃の中はずっしり重たい土という名の罪悪感が溜まっていく。そうなっちゃうと、本当に上等なワインを飲んでも泥の味しかしなくなる。だけど、泥水を飲んでいる最中は、そんなにひどいことになっているなんて気付かないんだ。自分自身にも、嘘を吐いているからね」 リチャードは、こん、と軽く木箱を小突いた。 「中途半端な嘘は、身を滅ぼすだけだよ」 だが、アンソニーは答えなかった。リチャードは目を閉じたが、長く喋っていたために眠気が遠のいてしまった。 高ぶった神経が静まるまで、起きているしかない。左手を目の前に掲げると、薬指に填めた結婚指輪をなぞった。 これを守るために、どれほどの嘘を吐いたか。キャロルには嘘を吐きたくないが、やむを得ず吐いたこともあった。 リチャードが何をしようとも、どれだけの人間を殺そうとも、いつも変わらぬ笑顔で迎えてくれるのは彼女だけだ。 キャロルの手は産まれてくる我が子を抱くためにあるが、リチャードの手は、その手の代わりに汚れるためにある。 リチャードは、今頃はゼレイブの自宅で眠っているであろうキャロルに思いを馳せながら、結婚指輪に口付けた。 帰るべき場所があり、守るべきものがあり、愛すべき人がいる。ただ、それを守る方法が他人と少し違うだけだ。 汚れ切った手でも、届く限りは守りたい。 安息の地を離れ、慣れぬ相手と二人きり。 通ずるものは何もなく、言葉も心も噛み合わないまま。 死体を積み上げた血塗られた道を進みながら、腹の底を探り合う。 その中には、粘ついた泥が溜まっているのである。 07 8/31 |