リリは、お使いに出ていた。 母親が作った料理を伯父夫婦とブラドール一家へお裾分けするため、大きなバスケットを持って歩いていた。 料理と器を含めた重さは子供の腕には辛いものだったが、無理をせずに休み休み歩いていけば持って行ける。 隣には、同じくバスケットを持たされているロイズが歩いていたが、ロイズでもやはり重たいらしく辛そうだった。 二人の周囲をフリューゲルがぐるぐると飛び回っているが、その手には何も持っておらず彼だけが手ぶらだった。 だが、フリューゲルに頼ってはいけないと母親から言い聞かせられているので、リリは重さを堪えながら進んだ。 ロイズの首には、フローレンスの形見の魔導鉱石と似ているが、それよりも一回り大きい石が下がっていた。 それは、先日のラオフーとの戦闘でまたもや激しく損傷してしまったヴェイパーの魂が入った魔導鉱石であった。 ヴェイパーの機体はピーターに修理されているが、かなりひどい損傷なので、修理が終わるのは当分先だった。 なのでロイズは、機体が直るまでの間ヴェイパーを一人きりにさせてはいけないと、肌身離さず持ち歩いていた。 「うはあ…」 痺れに似た疲れが両腕に溜まってしまい、堪えきれなくなったリリはバスケットを地面に下ろした。 「なんか、伯父さんちが遠くなった気がするう」 リリは顔を動かし、ゼレイブの南側にぽつんと一軒だけ建っている、リチャード夫妻の住んでいる家に向いた。 昔からあった家なのでリリの家よりも少々大きめで、古びた厚い壁には季節と共に枯れたツタが這い回っている。 他の家よりも離れた場所にあるとはいえゼレイブの敷地内なので、のんびり歩いていっても時間は掛からない。 だが、今は重たい荷物がある。それも、絶対に乱暴に扱いたくない母親の料理なので、余計に気を遣ってしまう。 お使いはそれほど急ぎの用事ではなかったが、なるべく早く終わらせて皆と一緒に遊びに出てしまいたかった。 今日は勉強も訓練もない休みの日だ、と朝食の最中にフィリオラから言われたので四人とも楽しみにしていた。 どんなことをして遊ぼう、どこまで行こう、とリリとロイズとフリューゲルとヴェイパーは浮かれながら話し合った。 その話し合いはまだ決着していないが、そんなことは遊びながら決めればいい。何しろ、時間はいくらでもある。 だが、仕事を終わらせなければ自由にはならない。リリは再びバスケットを持ち上げたが、やはり重たかった。 「この中身って、なんだっけ?」 ずしりと重たいバスケットを肩に担ぎながら、ロイズはげんなりと呟いた。 「リチャード伯父さんのところのは、えーと、リンゴのパイと、パンと、魚の酢漬けと、後はなんだっけ…」 リリは母親の料理の豊富さを多少恨めしく思いながら、バスケットを見下ろした。 「一食分って感じだね」 ロイズが歩き出したので、リリもそれに続いた。 「うん。キャロル伯母さん、お腹が大きくなって家事が大変だから、お母さんがたまに作ってあげているの」 「ああ、そういうこと」 納得してロイズが頷くと、その胸元に下げられた魔導鉱石からヴェイパーが声を発した。 「お腹が大きくなると大変だもんね。フローレンスもそうだった」 「くけけけけけけけけけけけけけけけ! 人間って面倒だな、女って大変だなこの野郎ー!」 フリューゲルは甲高く笑いながら下降し、二人の前に現れた。 「とにかく、早く行こう。この次はお屋敷にも行かないとなんだから」 リリはバスケットを引き摺らないように気を付けながら、前進した。フリューゲルは、屋敷の方向を見る。 「けど、屋敷は逆方向だぜ? なんだったら、ベツコードーした方が良かったんじゃねぇのかこの野郎?」 「え?」 リリが目を丸くすると、フリューゲルは宙に浮いたまま足を組んだ。 「オレ様達も、連合軍とドンパチする時はそうしてたんだぞこの野郎。吸血鬼女がな、オレ様は東でネコジジィは西で自分は北だ、とか言ってきたんだ。そうやって動くと仕事が手っ取り早く終わって、禁書だって一杯回収出来てたんだぞこの野郎」 「う、うあー!」 フリューゲルに言われて初めて気付いたリリは、無性に悔しくなって喚いた。 「馬鹿馬鹿、私の馬鹿ぁー!」 「なんて基本的なことを忘れていたんだろう…」 ロイズもまたフリューゲルに言われるまで気付かなかったので、なんだか情けなくなった。 「あ、でも、今気付いたんだからいいじゃない! それだけでもまだマシだよ!」 二人を励ますように、ヴェイパーが青い光を放つ。訳が解らずに、フリューゲルは首を曲げる。 「なんだ? オレ様、そんなに凄いこと言ったのかこの野郎?」 「凄いっていうか、今日だけはフリューゲルの方が賢かった」 ロイズはバスケットを重みで痺れてしまいそうな右肩から下ろし、まだ疲れていない左肩に担ぎ直した。 「じゃ、僕はお屋敷の方に行ってくるから、リリはそのままリチャード小父さんの家に行ってね」 「うん、解った。で、今日は何をして遊ぶ?」 「とりあえず、山に行こうよ。何をするかはそっちで決めよう。じゃ、僕達は山の方で待っているから」 ロイズが北側の山を指したので、リリは頷いた。 「うん!」 リリが手を振ると、ロイズも後ろ手に手を振って返した。リリもバスケットを持ち直し、伯父夫婦の家へ向かう。 フリューゲルはロイズから褒められたことが嬉しいのか、くるくると身軽に回転しながらリリの周りを飛んでいた。 近頃は冬の気配が大きくなり、吹き付ける風は冷え切っていたので、リリは厚手の上着を着込まされていた。 だが、歩くに連れて暑くなってきて汗ばんですらいたが、脱いでしまうと寒い上に荷物になるので脱げなかった。 振り返ると、ロイズの姿はもう遠くなっていた。ブラドール家の屋敷への道を、しっかりとした足取りで歩いている。 その後ろ姿に、リリはなんとなく安心した。彼の心の傷は治りきっていないかもしれないが、もう大丈夫だろう。 ラオフーとの戦闘後に同じ異能部隊隊員であるアンソニーが、仲間を裏切り、殺させていた事実が判明した。 そして、ラオフーによってロイズの母親であるフローレンスが殺されていたことも解り、ロイズはひどく苦しんだ。 アンソニーへの殺害衝動に駆られたロイズは激しく荒れたが、レオナルドとフィリオラらのおかげで落ち着いた。 リリはフリューゲルと共に兄夫婦の家に預けられていたのでその光景は見ていないが、大体は把握している。 ロイズの苦しみは、リリの苦しみよりも遥かに重たく辛い。リリが同じ状況になったら、耐え切れるとは思えない。 だが、ロイズは踏ん張って再び立ち上がった。異能部隊の隊長として、裏切り者のアンソニーへ処分も下した。 アンソニーは処刑される代わりに、追放された。ゼレイブに立ち入ることも、異能部隊に関わることも禁じられた。 それでこの事態が収束したわけではないが、一区切りは付き、ロイズも踏ん切りを付けてまた日常に戻ってきた。 この一件は、ロイズの中では一生終わらないだろう。戦闘に勝ったとしても、戦いが終わるわけではないのだ。 しかし、区切りを付ける必要はある。終わらないなら終わらないなりに受け入れて、前を向いて進むしかない。 「早く行こうぜー、リリぃー」 フリューゲルに急かされて、リリは頷いた。 「そうだね。キャロル伯母さんも待っているしね」 リリは砂利の転がる道に苦労しながら、前進した。いつもの数倍の時間を掛け、ようやく伯父の家に着いた。 その頃には、リリは疲れ切っていた。バスケットを玄関先に置いて、ぜいぜいと息を荒げて上着の襟元を緩めた。 そうでもしないと、暑くて息苦しい。力を入れると熱が過剰に生じてしまうのは、念力発火能力者の悪いクセだ。 フリューゲルは苦しげなリリの様子を見ていたが、このままでは仕事が終わらないと思い、扉を乱暴に叩いた。 リリが汗を拭って顔を上げるよりも先に、扉が内側から開けられた。顔を出したのは、妻のキャロルだった。 暖炉に火を入れているのか、家の中から漏れてきた空気は暖かい。キャロルの体型は、随分変わっていた。 以前に比べると顔付きも体型も丸くなり、下腹部の膨らみもかなり大きくなっていて、歩くのも大変そうだった。 「あら、フリューゲル」 キャロルは先に目に入ってきたフリューゲルを見てから、ぐったりしているリリに声を掛けた。 「どうしたの、リリちゃん。なんだか大変そうだけど」 「オスソワケだってんだよこの野郎ー!」 フリューゲルは己を鼓舞するように、両腕と共に翼を広げた。キャロルは、リリの傍のバスケットに気付いた。 「フィリオラさんからね」 「はい、そうです」 リリは呼吸を整えてから、キャロルを見上げた。 「えっと、結構重たいんで、気を付けて下さいね」 「見れば解るわ。ご苦労様、リリちゃん」 キャロルが微笑むと、フリューゲルはひょいとバスケットを持ち上げてキャロルに渡した。 「ん」 「フリューゲルもありがとう」 キャロルは受け取ったバスケットを持って中に下がると、テーブルに置いてから、また戻ってきた。 「良かったら、中で休んでいく?」 「…ちょっとだけ」 ロイズを待たせたくなかったが、疲れには勝てず、リリは答えた。キャロルは、中を示して入るように促した。 「じゃ、どうぞ」 「オレ様も?」 自分を指差したフリューゲルに、キャロルは鋼鉄の鳥人の身の丈と玄関の高さを目測し、比べた。 「そうね。うちだったら入れるかも」 「わーいわーいわーい!」 フリューゲルは妙にはしゃぎながら、リリに続いて家に入り、扉を閉めた。 「お邪魔します」 「おじゃましまぁーす!」 挨拶をしたリリの真似をして、フリューゲルは高らかに叫んだ。その様子に、キャロルは可笑しげに笑う。 「はい、いらっしゃい」 キャロルは慎重な足取りで歩いて居間に戻ると、赤々とした火の入っている暖炉に近いソファーに腰掛けた。 リリはその向かい側に座り、フリューゲルはリリの後ろに立った。座れないこともないが、邪魔になるからである。 改めて見ると、キャロルの下腹部は本当に大きくなっていた。フリューゲルも興味はあるらしく、じっと見ている。 二人の視線に、キャロルは恥じらって頬を赤らめ、大きく迫り出た腹部を確かめるように優しい手付きで撫でた。 「産まれるまでは、もう少しってところね。女の子かなって思ったけど、こんなに大きいなら男の子かもね」 「どうやって出てくるんだ?」 興味津々のフリューゲルは、リリの座るソファーの手もたれに手を付き、身を乗り出してくる。 「そりゃあ…作ったところから出てくるのよ」 キャロルは言いづらそうに、言葉を濁した。 「それってどこだ?」 フリューゲルは、ぐりっと首を曲げる。キャロルは、曖昧に笑う。 「大人になれば解るわよ、きっと」 キャロルの表情は、ゼレイブに来た頃とは明らかに違っていた。子供の目にも、はっきりとその変化が解った。 どことなく不安げだった眼差しも芯を持ち、元々優しかった言葉遣いは更に柔らかくなり、母親らしくなっている。 お母さんになるってこういうことなんだ、とリリは思った。子供を産むのは大変だが、とても素晴らしいことなのだ。 「また触ってもいいですか?」 リリが立ち上がると、キャロルは手招いた。 「ええ、いいわよ」 リリはキャロルに近付くと、彼女の下腹部に触れた。服の厚い布越しでも解るほどに、大きく張り詰めていた。 すると、中で胎児が急に動いた。リリが驚いて手を下げると、キャロルは愛おしげに目を細めて下腹部を撫でた。 「最近、よく動くのよねぇ。元気で何よりだわ」 「なぁなぁなぁ、オレ様もいいか? どんなのだ? どんなのが入ってんだこの野郎?」 フリューゲルがリリの後ろから手を伸ばしてきたので、リリはフリューゲルに強く言い聞かせた。 「乱暴にしちゃダメだからね、そっとだよ、すごーくそっとだからね!」 「おう!」 フリューゲルは力強く返事をしてから、リリの言われた通りに力を抜いてからキャロルの下腹部に手を当てた。 腹部に触れた手のひらには、体温が伝わってくる。かすかだが、その中に何者かが宿っている気配が感じられた。 魂らしき反応も魔力らしき反応も薄いが、確かに在る。その事実に、フリューゲルはやたらめったらに感激した。 「なんか凄いな! 凄いな、凄いな、凄いなー!」 「うん、凄いよね! 産まれたら、すぐに会いに来ますね!」 リリはフリューゲルに釣られて感激しつつ、キャロルを見上げた。 「もちろん来てちょうだい。リリちゃんの従兄弟になるんだから。産まれたら、うちの子と仲良くしてあげてね」 キャロルは、リリのネッカチーフに包まれた頭を撫でた。リリは、大きく頷く。 「うん!」 「くけけけけけけけけけけけけっ! オレ様も遊んでやるぜこの野郎!」 「そうね、フリューゲルもね」 キャロルがフリューゲルに手を伸ばすと、フリューゲルが頭を下げてきたので、その頭部装甲を撫でた。 「そろそろ行こうか、フリューゲル。ロイとヴェイパーを待たせちゃってるかも」 リリが言うと、フリューゲルはキャロルにひとしきり撫でられてから体を起こした。 「おう!」 「それじゃ、キャロル伯母さん。行ってきまーす」 リリがフリューゲルを伴って玄関に向かうと、キャロルは手を振った。 「行ってらっしゃい。暗くならないうちにおうちに帰ってね」 「はーい」 家の外へ出てから返事をしたリリは、お邪魔しました、とフリューゲルと一緒に頭を下げてから駆け出した。 お使いが終わったのでいいだろう、ということで、駆けている途中でフリューゲルがリリをひょいっと持ち上げた。 リリはフリューゲルの背に乗せられたので、フリューゲルの首筋に腕を回してしがみつき、落ちないようにした。 フリューゲルはかなり速度を抑えて飛んでいたが、それでもリリにとっては速く、目を開けているのが辛かった。 だが、この方が手っ取り早い。リリはようやく遊べるのだとわくわくしながら、ブラドール家の屋敷の上を過ぎた。 直線上に、北側の山へと向かう道が伸びる。その先には、ロイズと思しき小柄な人影ともう一つの影があった。 リリが目を凝らすよりも先に、フリューゲルが反応した。お、と少し嬉しそうな声を出し、フリューゲルは下降した。 くるりと旋回して高度を落としたフリューゲルは、リリを落とさないように前傾姿勢になって、足を地面に擦った。 ざざざざざざっ、と摩擦と共に砂埃を巻き上げたフリューゲルは、身を屈めてリリを下ろしてから立ち上がった。 待ち侘びていたらしい表情のロイズの隣には、布にくるまれた斧を携えている黒髪の少女、ヴィクトリアがいた。 健康状態は大分良くなってきたらしく、頬の丸みと顔色は戻っており、長い黒髪もしっとりとした艶を帯びていた。 「ヴィクトリアじゃねぇか、どうしたんだこの野郎ー!」 フリューゲルはヴィクトリアに挑むかのように、右の人差し指で彼女を指した。 『なんとなく』 ヴィクトリアは脇に抱えていた石盤に白墨を滑らせ、素っ気なく答えた。ロイズは右手を挙げ、ヴィクトリアを示す。 「退屈なんだってさ。でも、少佐と一緒にいるのも飽きたんだって」 「いいよ、ヴィクトリア姉ちゃんも一緒に遊ぼう」 リリが笑うと、ヴィクトリアは石盤から目を上げた。 『あなた方では、私の相手に相応しくなくってよ。私の斧と張り合えるのは、そこの鳥ぐらいなのだわ』 「ヴィクトリア姉ちゃん、相変わらずきっついなぁ…」 リリは笑みを歪めたが、それでも嬉しかった。ヴィクトリアが表に出てきてくれるなど、以前は考えられなかった。 一日の大半を睡眠に費やし、起きたとしてもろくに食事も摂らず、ギルディオスらに憎悪をぶつけて荒れていた。 目の前で両親を殺害されたために引き裂かれてしまった心は、そのまま壊れてしまうものだとばかり思っていた。 だが、ヴィクトリアに変化が訪れた。ただの気紛れだったのかもしれないが、フリューゲルが彼女に興味を示した。 リリも多少戸惑ったが、暴れられることに浮かれるフリューゲルを押さえ付けてしまうのはさすがに酷だと思った。 フリューゲルは強大な破壊力を持った魔導兵器だが、体に漲る破壊力を押さえて制御する術をあまり知らない。 だから、力を持て余した末に破壊をされては困る。せっかく皆と仲良くなったのだから、また嫌われてほしくない。 そう思ったリリは、フリューゲルをヴィクトリアの元へ送り出すことにした。少しだけ妬けたが、それは我慢した。 憎悪故の破壊衝動を滾らせるヴィクトリアと、兵器故の体の疼きを堪えられないフリューゲルは意外に合った。 声と共に魔力を失い、魔法を使えなくなってしまっても、ヴィクトリアの体には長年の暗殺術が染み着いている。 また、フリューゲルも我流ではあったが近接戦闘を行えるので、両者は思い切り戦っても遜色がなかったのだ。 二人の勝負は五分五分で、それは常にお互いが少しずつ進歩しているからなのだが、追い越すことはなかった。 時に勝ち、時に負け、時に引き分ける。全身を使う激しい運動と感情の起伏が、彼女の凍えた心を溶かした。 そしていつのまにか、ヴィクトリアは自然と外へ出るようになり、食事もまともに摂り、他者と関わるようになった。 まだ言葉も魔法も戻らないが、事態は好転した。この調子で行けば、いつか必ずヴィクトリアは元に戻るだろう。 「じゃ、行こう?」 リリが手を伸ばすと、ロイズは少々躊躇いながらも手を伸ばして握った。 「うん」 ロイズの手は冷えていたが、リリの手の温度が高いので程なくして温まった。 「僕の体も、早く元に戻らないかなぁ。動けないのって、退屈なんだよね」 不満げにヴェイパーが漏らしたので、リリはロイズの胸元の魔導鉱石を指先で突いた。 「大丈夫だよ、すぐに治るって。ね、ロイ?」 「ラミアン小父さんも修理を手伝ってくれているみたいだし、部品もいいから、前よりも早く治るよ」 ロイズが胸元を見下ろすと、ヴェイパーは魔導鉱石から発する光量を強めた。 「ラオフーには色々と言いたいことがあるけど、魔導兵器の体をこの世に置いていってくれたことには感謝しないとね。彼がいてくれなかったら、僕は壊れたままになっていただろうから」 「くけけけけけけけけけけけ! いけ好かねぇネコジジィだったが、一つぐらいは役に立ったってことだこの野郎!」 フリューゲルは浮かび上がると、親指を立てて山を指した。 「じゃ、オレ様は先に行っているからな! すぐに来いよ、リリ!」 「あんまり遠くに行かないでね。追いかけるのが大変だから」 リリが言い終えるよりも先に、フリューゲルは上昇して飛び去ってしまった。あっという間に、その姿は小さくなる。 全くもう、とリリは唇を尖らせたが、怒ったわけではない。フリューゲルの行動の早さが、少しだけ羨ましいだけだ。 リリは左手をエプロンで拭ってから、ヴィクトリアに差し出した。期待はしないが、出してみるだけでも違うだろう。 ヴィクトリアは肩から提げているカバンに石盤と白墨を入れ、視線を彷徨わせながらおずおずと手を伸ばしてきた。 リリの手のひらにヴィクトリアの華奢でひんやりとした指先が触れたので、リリはすぐさま彼女の手を握り締めた。 ロイズはなんだか不本意そうだったが文句を言わなかったので了承だと判断し、リリは二人を引いて歩き出した。 二人の手から伝わってくる温度は柔らかく、心地良かった。リリの内から生じる、荒々しい炎の力とは大違いだ。 それだけのことなのに、リリは嬉しくなった。この手を離すまいと思いながら二人を見上げると、もっと嬉しくなる。 ブリガドーンでの戦いで、三人は多くのものを失った。失ったものは決して戻ってこないが、得たものもあった。 リリとロイズにも乗り越えるべき困難が訪れ、挫けそうになったが、家族や皆の支えで立ち上がることが出来た。 ヴィクトリアにも、いずれ困難が訪れるだろう。大した力にはなれないかもしれないだろうが、全力で支えてやろう。 彼女はそう思っていないかもしれないが、リリにはロイズと同等の大事な友達であり、また姉のような存在なのだ。 リリが笑いかけると、ヴィクトリアは躊躇いがちに目線を向けた。次にロイズに向くと、ロイズは笑顔を返してきた。 少しずつではあったが、三人の関係は進歩している。リリは浮かれながら、フリューゲルの待つ山へと向かった。 風は冷たいが、両手は素晴らしく温かかった。 辛く、苦しい時は過ぎ去り、穏やかな時間が戻る。 幼き心に刻まれた傷は消えずとも、優しさが痛みを和らげる。 淡き繋がりはいつしか確かな絆となり、人ならざる子らを結び付けた。 平穏とは、常に手の届く場所にあるのである。 07 9/14 |