ドラゴンは滅びない




雪片




 ルージュは、高速で飛行していた。


 日の高いうちから空を飛ぶのは、妙な気分だった。夜の生き物である吸血鬼には、やはり昼は似合わない。
自身の加速と共に威力が増した風は冷たく、肌を切り付けてきたが、魔導金属製の肌ではくすぐったいだけだ。
頭上の雲行きは怪しく、空には鉛色の重たい雲がたれ込めている。この様子では、雪が降り出すかもしれない。
 連なっていた山々が途切れ、平野が現れる。戦火で壊れた線路が枯れた大地を這い、朽ちた街へ伸びていた。
中世時代から存在する高い塀と堀に守られて、かつては労働者が溢れていたであろう工場街に囲まれていた。
それは、旧王都だった。これまでにも何度となく目にしている場所だったが、そのたびに胸の痛みに襲われた。
ゼレイブに住まう者達のほとんどはこの街での暮らしを経験しており、ブラッドも十歳から十一歳までを過ごした。
逢い引きの際に、ブラッドが旧王都の話をしてくれたことがあったが、言葉の端々から楽しかったのだと解った。
母親の顔も知らず、父親を何者かに殺されてしまった少年が、怪しげな手紙を頼りに向かった先が旧王都だ。
そこでブラッドは、フィリオラやギルディオスといった者達と出会い、騒々しいながらも満ち足りた日々を過ごした。
ブラッドがギルディオスを敬愛する理由には、少年時代の経験がある。少年には、甲冑は物凄い存在だったのだ。
純血の吸血鬼であるラミアンよりも古い時代から生き、巨大な剣を振るって、激しい戦いを幾度も切り抜けてきた。
それが、少年にとって魅力的でないわけがない。だが、先日、ブラッドはそのギルディオスに刃向かって戦った。
それも、ルージュを守るためだけに。余程の決意を据えなければ、ギルディオスと戦うことは出来なかっただろう。
その事実を知ったので、改めてブラッドに愛されている自分が誇らしくなった。たまには、守られるのも悪くない。
 人目に付くのは良くない、とルージュは旧王都の手前でぐんと高度を上げてから、竜の城へと飛んでいった。
廃墟と化した旧王都にも、住み着いている人間はいる。以前は気にしなかったが、最近は人目を避けていた。
せっかく、連合軍と戦わずに済むようになったのだから、ここで下手に見つかって攻撃されては元も子もない。
 背の高い針葉樹が並ぶ深い森の上を通り過ぎると、寒々とした空を映し込んだ湖と古びた城が唐突に現れた。
これが、竜の城である。ルージュは窓辺にフィフィリアンヌの姿を探したが、見つからなかったので高度を下げた。
背部の推進翼を切って浮遊魔法も解除し、正面玄関前の階段に着地した。正面玄関の扉は、閉ざされていた。
その扉を開けるべく階段を上ったが、気配を感じて足を止めた。振り返ると、いつのまにか城の主が立っていた。

「風音が変わったから外へ来てみたが、やはり貴様か。妙な時間に戻ってきたものだな」

 フィフィリアンヌは脇に古びた本を抱え、空を仰いだ。

「まだ朝ではないか」

「いや、もう昼過ぎだと思うが」

 ルージュは鉛色の雲から垣間見える日光で、太陽の位置を確かめた。フィフィリアンヌは、腰に手を当てる。

「私が目を覚ましたのはつい先程だ。だから、私にとってはまだ朝なのだ」

「なんだそれは」

 ルージュが変な顔をすると、フィフィリアンヌの腰に提げられたフラスコの中で伯爵が泡を吐いた。

「はっはっはっはっはっはっはっはっはっは。付き合い切れぬのであれば、無視してしまうのが一番であるぞ」

「して、貴様は報告に来たのではあるまい。最後の定期報告は、ほんの三日前にしたばかりだからな」

 伯爵の言葉を完全に無視したフィフィリアンヌが言うと、伯爵はぐにゅりと身を捩った。

「こっ、これ! 無視すべきは貴君の下劣で下品で下等な言葉なのであって、我が輩の素晴らしくも麗しい言葉は」

「黙れ」

 フィフィリアンヌが拳でフラスコを叩くと、その中で伯爵の柔らかな体が飛び跳ね、球体と化した。

「お、おおおおう…」

「何かをしたようだが、伯爵は大丈夫なのか?」

 多少心配になったルージュがフィフィリアンヌの腰を指すと、フィフィリアンヌは無表情に返した。

「少し魔力を抜いてやっただけだ。この程度で死ぬのであれば、私は微塵も苦労せんわ。して、先程の続きだが」

「あ、ああ」

 ルージュは先日のことを話そうとしたが、やはり躊躇いがあった。だが、意を決し、口を開いた。

「先に謝っておく。すまない、フィフィリアンヌ。お前の考えを、ギルディオス・ヴァトラスに話してしまった」

「その割には、貴様は元気そうだが。ゼレイブ周辺でニワトリ頭に発見されて一戦交えた末、のではないのか?」

「そうだったらまだいいのだが、ギルディオスと戦ったのは、その」

「ブラッドか」

「そうだ。しかし、あの話をしたのはギルディオスだけだ。ブラッドもいたことにはいたんだが、気を失っていたから、恐らく聞こえていないだろう。ギルディオスは口外しないと誓ってくれたが、私の存在はヴェイパーとやらがラミアン・ブラドールに報告したために知られてしまった。ラミアンには私が生き延びた件にあなたが関わっていることを説明せざるを得なかった。それで、一通りを説明したんだが」

「まずは私の意見を仰げ、とラミアンにでも言われたのか?」

「よく解るな」

「あれは私の部下だったのだ、思考など手に取るように解るとも。して、貴様は何をどうしたいのだ?」

「ゼレイブに留まらせてくれ」

 ルージュは葛藤や躊躇いを振り払い、声を張った。

「これまでの恩は決して忘れない。命令も全うする。やるべきことは、最後までやり通す。だから、ブラッドの傍にいることだけを許してほしい。それだけで構わないんだ」

「貴様も堕ちるところまで堕ちたな」

 フィフィリアンヌは辟易したように呟いてから、ルージュを見上げた。

「その件については、しばらく考えさせてくれ」

「あ、すまん。つい、先走ってしまって」

「そうか…ニワトリ頭に話したか。この愚か者が」

 フィフィリアンヌはさも不快げに眉根を歪めていたが、ルージュを射抜くように見据えた。

「そうとなれば、私も駒を動かさねばなるまいて」

「詰めるのであるかね?」

 伯爵に問われ、フィフィリアンヌは返した。

「詰まっておるのはどちらも同じだ。問題は、そこからどう動くか、なのだ」

 フィフィリアンヌは嘆息してから、ルージュに問うた。

「ジョセフィーヌはどうしている」

「あ、ああ。前にも報告したとは思うが、知能が実年齢と同等に成長したままだ。それ以外は、特に変化はない」

「そうか」

 そう呟いてフィフィリアンヌは目を伏せていたが、間を置いてから顔を上げた。

「ならば、動かす駒は少ないな」

「なぜだ? 対処は迅速に行った方が良いのではないのか?」

 ルージュが訝ると、フィフィリアンヌは即座に言い返した。

「駒を動かし、詰めておるのはどちらも同じなのだ。あちらが動けばこちらも動かざるを得ないが、言ってしまえば、こちらが動かなければあちらは手詰まりになるということだ。しばらく詰めさせておいた方がいい」

「それもまた、なぜだ?」

「少しは自分で考えぬか」

 フィフィリアンヌは面倒そうに言い捨てると、ルージュの傍らを通り過ぎて扉の前に立ち、ぱちんと指を弾いた。
すると、扉の内側で錠が動き、錆びた蝶番を鳴らしながら独りでに開き、フィフィリアンヌは城の中へ入っていった。

「貴様も来い。しばらくあちらにいるのであれば、機体も調整しておかねばならんだろうが」

「いいのか?」

 ルージュはフィフィリアンヌの後に続き、薄暗い城に入って扉を閉めた。フィフィリアンヌは、足早に階段を登る。

「どうせ私も暇なのだ、ただの手慰みだ」

「恩に着る」

 ルージュはフィフィリアンヌから数段遅れて、末広がりの階段を上った。二人の足音が、冷たい石壁に反響する。
フィフィリアンヌは振り返ることもせずに、淡々と歩いていた。細長い廊下を通り、更に階段を上り、上階に向かう。
辿り着いた先は、フィフィリアンヌが書斎として使っている寝室だった。扉にはスイセンの浮き彫りが施されている。
ここでもまた、フィフィリアンヌは指を弾いた。がしゃり、と鍵が動く音がした後に、低く軋みながら厚い扉が開いた。
そのことに、ルージュはやや驚いていた。ルージュ以外は誰も訪れない城の中で、鍵を掛ける必要などあるのか。

「ヴィンセントが現れるやもしれぬのだ。掛けておいても無駄ではあるまい」

 ルージュの疑問を見透かしていたのか、フィフィリアンヌは素っ気なく言った。

「入れ」

「ああ、そうだな」

 ルージュは、フィフィリアンヌに促されるままに書斎へと足を踏み入れた。途端に、足の下で埃が舞い上がった。
書斎の中には、今までに片付けさせられた書庫となんら遜色がない量の本が積み重なり、白い埃を被っていた。
ベランダの付いた窓に背を向ける形で置かれている、大人が横たわれそうなほど大きな机に、少女は向かった。
腰に提げていたフラスコを真っ先に外すと、脇に抱えていた本を本の上に置き、ワインボトルとグラスを取った。
その二つを持ってきたフィフィリアンヌは、部屋の中心に並べてある使い込まれた革張りのソファーに腰掛けた。

「座るか?」

 フィフィリアンヌがワイングラスで向かい側のソファーを示したので、ルージュはきょとんとした。

「いいのか?」

「壊れたら貴様が直せ」

「いいと言うなら、座らせてもらうが」

 ルージュは躊躇いながらも、フィフィリアンヌの向かい側のソファーに体重を掛けないように気を配って座った。
魔導兵器の体重は、人間の体重など遥かに超えている。足を踏ん張っていても、尻の下から嫌な軋みがした。
念のためほんの少し浮遊魔法を使いながら、ルージュは真向かいに座ってワインを傾けている城の主を窺った。
ワインを流し込まずに味わいながら飲み下している竜の少女は、いつも通り無表情だったが、雰囲気が違った。
作り物じみた美しい顔立ちは、相変わらずほとんど動いていないので、どこがどう違うのかは上手く言い表せない。
だが、何かが違っていた。付き合いが浅いからルージュには掴みきれないが、ギルディオスなら解ることだろう。
 二杯目のワインを味わっていたフィフィリアンヌが、ふと目を上げた。振り返り、薄汚れた縦長の窓を見やった。
ルージュも釣られてそちらを見ると、窓の外を白いものが漂っていた。吹き付けられて窓に触れた途端、溶ける。

「底冷えするわけだな」

 フィフィリアンヌはグラスに残っていたワインを全て嚥下し、空のグラスをテーブルに置いた。

「他に言うべきことはあるか、ルージュ」

「ラオフーが死んだ」

「ほう」

 ルージュの簡潔な言葉に、フィフィリアンヌは吐息だけで返事をした。ルージュは続ける。

「ヴェイパーに魂を宿したロイズと交戦した末に、腹を貫かれて死んだのだそうだ」

「殺されるべき相手に殺されるべくして殺されたのだ、妥当な結末だ」

「その戦闘前後の情報もギルディオスから得てきたが」

「いや、いい。奴の背景も死に至るまでの経緯も知っておるからな、今更報告されるまでもない」

 フィフィリアンヌは背もたれに腕を載せて頬杖を付き、窓へ向いた。

「そうか、あの虎がやっと死んだか。私がラオフーの魂を見つけたのは、東竜都だったな。となれば、あれと戦ったのはウェイラン辺りか。そういえば、あの愚か者は母上の枕元で下らぬ自慢をしておったな。耳障りで下劣極まりない話ばかりだったから、その内容は欠片も頭に残らなかったが、少しぐらいは覚えておくべきだったやもしれんな。その中に、獣の王の生き様もあったやもしれぬのだから」

 幼くも美しい横顔に、似付かわしくない老いた表情が浮かぶ。

「あれが現世におるうちに、言葉を交わさなかったのが残念でならん。あのような派手な戦い方をしていてはいずれ死ぬとは思っておったが、こうも早く逝かれてしまうとつまらぬではないか。グレイスといい、なんといい、どうしてこうも容易く死んでいく。生きておるうちは散々死んでくれと願ったものだが、いざ死なれてしまうと物足りんな。このまま行けば、あれもいつか死ぬだろうな」

「それは違いないのである。この数年間、目に見えてあのニワトリ頭の活力は下がる一方なのである。あの馬鹿はそれを隠せていると思っているようであるが、我が輩達には隠せぬことなどないのである。純然たる魔性の存在である我が輩やこの冷血トカゲ女、人の身でありながら竜族に劣らぬ魔力を誇っておった腐れた呪術師ならまだしも、ニワトリ頭の魂は通常よりも多少丈夫ではあるがどこにでもある人間の魂に過ぎないのである。ここまで保ったことを褒めるべきなのであるからして、朽ちゆくことを嘆くべきではないのである」

 机の上に転がされたフラスコの中で、赤紫の粘液が触手を伸ばしてゆらりと振った。

「奴の命が消える前に事を終わらせてしまいたい気もするが、貴様のこともあるのでな」

 フィフィリアンヌは、ルージュへちらりと目線を投げた。ルージュは、少々苦い思いを感じた。

「ならば、優先すべきは私などではなく、そちらではないのか?」

「かもしれん。だが、あれが死ぬ様が想像出来んのだ。あのニワトリ頭の命の炎が弱まりつつあることを肌で感じていたにも関わらず、その事実を否定したくてならんのだ。ブリガドーンなんぞに籠もって貴様らをいじくり回していたのも、血迷った末にグレイスに手を貸してしまったのも、あれの魂が日に日に弱りつつあることを感じたくなかったからやもしれん。恐ろしく情けない話だがな」

 フィフィリアンヌはゆっくりと息を吐くと、窓の外でちらつく雪を見つめた。

「妄言だ。忘れてくれ」

「あなた方の関係が、私には未だに掴みきれない。深く信頼し合っているようでいて、確実に敵対するであろう状況を作り、顔を合わせれば罵倒してばかりだ。だが、あなた方三人はとても楽しそうだ。フィフィリアンヌ、あなたが一番そうなんだが、伯爵も、ギルディオスも、なぜ真っ向から好意を示さないんだ?」

 ルージュは、僅かに笑う。フィフィリアンヌは座り直し、黒いローブのスリットから伸びる細い足を組んだ。

「鬱陶しいからだ。顔を合わせるたびに好きだなんだのと言い合ってみろ、半日もせずに飽き飽きする」

「はっはっはっはっはっはっはっは。我が輩達の時間は人よりも遥かに長いが故に怠惰なのであるからして、変化と刺激があった方が良いのである」

 ぶるぶると身を震わせ、伯爵は高笑いする。

「これの言葉を借りるのはとてつもなく不本意だが、簡潔に言い表せばそういうことになる」

 三杯目のワインを注いだグラスを掲げ、フィフィリアンヌはフラスコを示す。ルージュは、なんとなく頬を緩めた。
つまり、フィフィリアンヌと伯爵とギルディオスは仲が良いからこそ仲違いするという、やけに面倒な関係なのだ。
一連の出来事で、ギルディオスに直接手出しをせずに手出ししてくるのを待っていたのも、そういうことなのだ。
仲が良いから引き込むのではなく、仲が良いからこそ爪弾きにして様子を見て、絡んできてくれたら手出しをする。
それもまた気遣いかもしれないが、いかんせん荒っぽい。羨ましいような、だがあまり羨ましくないような関係だ。
 しかし、その関係もギルディオスがいるからこそ成り立っている。だが、彼の命は削れ、終焉の時を待っている。
元々はただの人間でしかないギルディオスは、半竜半人のフィフィリアンヌとその血を受けた伯爵とは並べない。
フィフィリアンヌも長く生きてきたので人が終わる様は嫌になるほど見てきたはずだが、滅入っているようだった。
死を見ることに慣れていても、大切な者が朽ちていく様は物悲しくて当然だ。ルージュは、彼女に少し同情した。
だが、余計なことは言わない方がいい。同情したことを伝えても、爪の先にも引っ掛けられずに終わるだけだ。
フィフィリアンヌは気位も高ければ、それと等しく誇り高い竜族だ。色々な意味でルージュなど足元にも及ばない。
 だから、見ているだけで精一杯だ。







07 9/20