ジョセフィーヌは、落ち着かなかった。 原因は解っている。だが、それに気を向けると余計に焦燥感が増してしまいそうなので、気を逸らしていた。 屋敷の部屋の中でも広い食堂では、家族と同居人達が朝食を摂っていた。だが、話し声は前より少なかった。 言葉を失っているヴィクトリアが静かなのは当然だが、一番喋るブラッドが黙っているのが最大の要因だった。 ブラッドが喋らないので会話らしい会話が始まらないため、食事を摂らないラミアンは退屈そうに足を組んでいる。 ヴィクトリアの隣に座っているギルディオスも、珍しく黙っている。そんな彼らの視線は、一点に向けられていた。 武器を備えた両腕を精一杯縮め、ルージュが食卓に座っていた。同居して数日が過ぎたが、まだ不慣れだ。 魔導兵器の身なので食事を摂れないため、余計に居心地が悪いのか、時折視線を彷徨わせながら俯いている。 「ヴィクトリア」 ようやく、ギルディオスが口を開いた。すると、スープを飲んでいたヴィクトリアが手を止めた。 「ルージュとやり合ってみたか?」 ヴィクトリアはナプキンで口元を拭ってから、手元に置いてあった石盤に白墨を滑らせた。 『まだなのだわ』 「そりゃまたどうしてだ? お前に丁度いい対戦相手だと思ったんだがな」 『今、あれとやり合ったところで歯応えがないのだわ。それでは、体力を無駄にするだけなのだわ』 「そいつぁ違いねぇ」 ギルディオスがけらけらと笑うと、ヴィクトリアはルージュを一瞥した。 『ここまで堕落してしまうと、興味は失せてしまうのだわ』 「堕落、なのか?」 ヴィクトリアの書いた文章を読み、ルージュは小さく呟いた。ヴィクトリアは、こつこつと白墨を動かす。 『明らかに堕落なのだわ。以前のあなたであれば、こんな場所に顔を出すことなんてなかったのだわ。精神年齢の極めて低い半吸血鬼になんて、目もくれなかったのだわ。今の私は一切魔法が使えないのだから、出会い頭に光線で貫くぐらいはしていたはずだわ』 「確かに私とお前は何度か交戦したが、それはお前が襲い掛かってきたからであって、私の本意ではない」 『その割には、連合軍を紙屑のように吹っ飛ばしていたわ』 「調子に乗っていたことは否めないが、前の機体は砲撃主体だったせいか出力過多で、絞るのが難しかったんだ」 ヴィクトリアは布を取り出すと、一旦石盤を拭いて文字を消してから更に書いた。 『あなたの砲撃は荒々しいだけで気品の欠片もなかったけれど、威力だけはなかなかのものだったわ。高温で焼き尽くされて黒く焦げた兵服と皮膚が絡み合ってずり落ち、でろでろに溶けた脂肪と縮れた筋肉の隙間から折れた骨が垣間見え、角膜が真っ白に煮えた眼球が沸騰した血溜まりに転げ落ちる様は、それなりに楽しくてよ』 「食欲失せるなぁー…」 ヴィクトリアの書いた文字を読んだブラッドは、頬を引きつらせる。 『あら。これでも手加減していてよ』 澄ました顔で、ヴィクトリアは返した。すると、ギルディオスはヴィクトリアの石盤をひょいと取り上げた。 「続きは後でな」 ヴィクトリアは石盤を取り戻そうと背伸びをしたが、ギルディオスはかなり高く掲げたので、手は届かなかった。 不満げにむくれたヴィクトリアは、恨めしげに石盤を睨んでいたが、仕方なく途中まで食べていた朝食に戻った。 ヴィクトリアが食事中にこういった生臭い話を始めるのは、今日に限ったことではなく、割と頻繁にあることだった。 彼女が元気を取り戻してきたのはいいことだが、グレイスとロザリア譲りの性癖まで復活したのは良くなかった。 幼い頃から暗殺術と呪術を叩き込まれ、自身も父親と共に暗殺や殺戮を手掛けているので、血生臭い話を好む。 昔は暗殺者であったラミアンや戦闘経験が豊富なギルディオスは免疫があるが、ブラッドとジョセフィーヌは別だ。 吸血行為と殺人は全く別物なので、ブラッドが青い顔をしたのは一度や二度ではなく、ジョセフィーヌもそうだった。 「もう少し話題を選ばないか」 慣れてはいるが朝っぱらから聞く話ではない、と思ったので、ルージュも苦い顔をした。 「鮮血の滴るような語らいならば、常々私と語り合っているではないか。それで満足して頂けないのかね?」 ラミアンが両手を上向けると、ヴィクトリアは不満極まりない表情のまま、ぷいっと顔を背けた。 「やれやれ」 ギルディオスはヴィクトリアの我が侭さに辟易しつつも、食卓を見渡した。白衣の黒竜が見当たらない。 「ファイドはどうした?」 「ファイド先生なら、朝一番にキャロルの元へ行きましたわ、少佐」 ジョセフィーヌがすかさず答えると、ギルディオスは顔を上げる。 「産気付いたのか?」 「いえ、産まれるのはもう少し先ですわ。私の予知でもそう見えております。ですが、未来は確定されているわけではありませんし、未来を変える要素はどこにでも転がっていますから、些細なことで結末は変わってしまいます。ですから、診察の頻度を上げているのですわ。臨月ですし、もしも何かがあったら大変ですもの」 ジョセフィーヌは、ギルディオスに向き直る。ギルディオスは、がりがりとヘルムを引っ掻いた。 「ああ、解った解った。オレも後で様子を見てみるさ。まあ、何の役にも立てねぇけどな」 「でも、湯沸かしぐらいなら出来るんじゃね?」 ブラッドはパンの欠片を口に放り込むと、飲み下した。ギルディオスは、手を横に振る。 「ああいうのは女の仕事だ。オレも昔にランスが産まれたところを見ちゃいるんだが、ありゃあどうにもダメだ。戦闘中の流血とか痛みだったらいくらでも我慢出来るんだが、出産は別物なんだよ。全く、女ってのは偉いぜ。赤ん坊を十ヶ月も腹の中で育てて、死ぬほど痛い思いをして外に出してやるんだからよ」 「解って下さって嬉しいですわ、少佐」 ジョセフィーヌはギルディオスに微笑んでから、ちらりとルージュを見やった。ルージュは、素早く目線を逸らした。 無表情を装っているが、その眼差しには僅かな劣等感が含まれている。それが、少しだけ焦燥感を紛らわせた。 ラミアンから聞いている限りでは、吸血鬼族とは孤独な種族だ。同族同士でも滅多に交わらず、子供も産まない。 ブラッドの話とルージュの態度から察するに、ルージュは異性と交際するのは初めてなのだと容易に想像が付く。 だから、生前は経産婦どころか性交の経験もない処女だったに違いない。人を喰らう吸血鬼にしては珍しいが。 ラミアンも、生身であった頃は血の飢えを満たすために様々な女性を口説き落とし、喰らい、抱いていたと言う。 無論、子供を孕ませたのはジョセフィーヌだけだが、その話を聞いた時には多少なりとも複雑な気持ちになった。 だが、それは遠い昔のことであり、ラミアンもジョセフィーヌもちゃんと割り切っているので話題に出すことはない。 焦燥に代わって、陰険な優越感が起きた。女にもなっていない女に、何を感じていたのだろうと馬鹿らしくなる。 今のところ、この家の中では自分の方が有利だ。立場的にも経験的にも勝っているのだから、恐れる理由はない。 一足先に食べ終えたヴィクトリアは三枚の皿を積み重ねると、椅子から降りて皿を持ち、台所へと運んでいった。 続いてブラッドも食べ終え、最後にジョセフィーヌが食べ終えた。質素だが、量だけは多いので時間が掛かるのだ。 息子が自分の皿を運び、食堂へ戻ってきたところで、ジョセフィーヌは立ち上がった。食後の紅茶を淹れるためだ。 「お茶、淹れてくるわ」 「それでは、私も」 手伝おう、と言おうとしたルージュの言葉を遮るように、ジョセフィーヌはルージュへ笑んだ。 「手伝って下さらなくて結構よ。どうせ、大したことではないわ」 「そうか…」 多少残念そうにしながら、ルージュは引き下がって座り直した。ジョセフィーヌは笑顔のまま、台所に向かった。 洗い場に置いた水桶の中には、三人分の食器が積み重ねられている。ポットの中には、既に湯が沸いている。 だが、ポットに触れてみると少しばかり冷めていたので、ジョセフィーヌは手を翳して非常に簡単な魔法を唱えた。 直後、ポットの内側でごぼごぼと大きな気泡が沸き上がり、注ぎ口と蓋の隙間から真っ白い蒸気が噴き出した。 綿を入れた厚手の手袋を填めてポットの取っ手を掴み、こちらも先に用意しておいたティーポットへと注ぎ込んだ。 盆の上に三つのティーカップを並べながら、ジョセフィーヌが食堂の様子を窺うと、ちらほらと会話が聞こえてくる。 だが、ルージュの声は少ない。ブラッドに話し掛けられても、言葉少なに答えるだけで長く話すことはなかった。 体を傾げて息子を見やると、ルージュと向かい合っているブラッドの顔付きはいやに緩んでいて、だらしなかった。 ほんの数年前まで小さかったのに。少し前まではジョセフィーヌに甘えてばかりいたのに。それが、こうなるとは。 息子の成長を素直に喜びたい気持ちもあったのだが、それより先に訳の解らない淀んだ不快感が沸き上がった。 凄まじく、面白くない。 朝食を終えた後は、仕事が始まる。 ラミアンは冬場に使う薪を蓄えるために山へと向かい、ブラッドもその手伝いをするために父親と共に出掛けた。 ギルディオスは先程述べた通りにキャロルの元へ向かったが、彼と入れ違う形で診察を終えたファイドが戻った。 工房でヴェイパーの部品を調整しているうちに徹夜してしまったピーターは、屋敷に戻ってすぐに自室で寝入った。 朝食を終えると同時に石盤を取り戻したヴィクトリアはラミアンから借りた書庫の鍵を回しながら、自室へと戻った。 ラミアンの蔵書の魔導書は灰色の城にある魔導書とは大分毛色が違うので、ヴィクトリアの興味を惹いたのだ。 近頃、ヴィクトリアは再び魔法の勉強を始めていた。割り当てられた仕事である薪割りもこなしながら、励んでいる。 といっても、そこはヴィクトリアなので純粋な知識欲からとは思えなかったが、何かに夢中になるのは良い傾向だ。 魔法の勉強に集中しているおかげか、斧を振り回して暴れる回数も減ったが、フリューゲルだけは不満げだった。 存分に暴れられる相手が大人しくなってしまったのがつまらないらしく、無意味に騒いでいる姿を何度も目にした。 ジョセフィーヌは、まずは洗濯物を片付けてしまおうと思い、洗濯物の入ったカゴを抱えて勝手口から外へ出た。 庭に出ると、所在なさげなルージュがいた。何をしていいのか今一つ解らないらしく、困った顔で辺りを見ている。 「あら」 ジョセフィーヌが足を止めると、ルージュはジョセフィーヌに向いた。 「すまない。私は、この屋敷で何をしたらいいのかが解らないんだ」 「仕事がないならお探しなさい。いくらでもあるわ」 ジョセフィーヌは庭の隅に作られている石組みの井戸へ近付くと、その傍の洗濯桶へ汚れた衣類を放り込んだ。 「だが、それが解らないから聞いているんじゃないか」 ジョセフィーヌの冷淡な物言いに、ルージュは少しむっとした。ジョセフィーヌは、立てかけていた洗濯板を取る。 「これだけ広い屋敷だと、やることはいくらでもあるわ。探す必要もないくらいよ」 ジョセフィーヌはルージュから目を外すと、井戸に吊されている滑車を回して水桶を出し、洗濯桶に水を注いだ。 居場所など作ってやるものか。夫と息子が認めた女と言えども、ジョセフィーヌが受け入れたというわけではない。 いや、ブラッドが認めたからこそ、受け入れたくない。どれほど強い女であろうとも、それだけでは何の意味もない。 つい先日まで敵だったのだから、信用していいはずがない。なのに信用してしまうとは、ギルディオスも夫も甘い。 アンソニーの一件のように、いつ誰に裏切られるかなど解らないのだから、用心しておくに越したことはないのだ。 「あなた、何のためにいるの?」 ジョセフィーヌが嘲笑混じりに言うと、ルージュは口元を歪めた。 「何が言いたい」 「あら、聞いた通りの言葉よ。戦力増強のため、なんて答えは答えにはならないわ。それはラミアンや少佐があなたに付けてくれた付加価値と言うには軽すぎるくらい軽い価値であって、あなた自身の価値ではないもの。それとも何かしら、ここへ来れば一日中あの子の傍にいられるとでも思っていたの? だとしたら見当違いよ。あの子はうちで一番の働き手だし、子供達の遊び相手でもあるんだから、ゼレイブの中では最も忙しいのよ。あなたなんかを一日中構っていられるほど、暇じゃないのよ。そんなに暇だったら、フリューゲルを相手にして戦闘訓練でもなさっていればいいわ。元々は仲間だったんですもの」 「醜悪だな」 不意に、ルージュが笑った。その硬質な笑みに、ジョセフィーヌは眉をひそめた。 「何よ」 「私がブラッドの関心を集めていることが、そんなにも気に食わないのか? 私は母親という生き物がどんなものかを知っていないから、さぞ素晴らしいものかと少しは期待していたんだが、この屋敷に来た時から敵意を剥き出しにされては期待もへったくれもない。だが、いい機会じゃないか。ブラッドは当に自立している、だからお前も自立するべきだ。まず手始めに、私に対して嫉妬するのを止めることだな」 辛辣な文句を饒舌に連ねたルージュに、ジョセフィーヌは眉根を曲げた。 「あなた、今までネコを被っていたのね? 食卓ではあんなにも大人しかったくせに、本性は薄汚いのね」 「私は兵器だ。そして女だ。己を装い、感情を殺し、言葉を偽ることなど、造作もないことだ」 「あらそう、大した兵器ね。だったら、ブラッドに見せているしおらしい姿も偽ったものってことね」 「偽装ではないが、ほんの少しは計算している部分もある。百分の一程度だがな」 「それだけあれば充分よ。ブラッドをたらし込んだぐらいで、いい気にならないでほしいわね」 ジョセフィーヌがルージュに詰め寄ると、ルージュはジョセフィーヌを見下ろした。 「そんなに文句を言うのであれば、お得意の予知で私とブラッドが接する機会を潰しておけば良かったではないか。異能力者の割に、異能力の使い方がなっていないんじゃないのか?」 「したわよ。でも、その頃の私はあっちの私だったのよ。だから、上手く行かなかったのよ」 後悔するって言ったじゃないの、とジョセフィーヌは悔しげに唸ったので、ルージュは一笑した。 「筋金入りの溺愛ぶりだな。お前も親なら、息子の成長を素直に喜べないのか?」 「手塩に掛けて育てた一人息子よ、そう簡単にあなたなんかに渡してたまるものですか。あなたが普通の人間か、或いは生身の吸血鬼族だったら少しは考えてやったかもしれないけれど、そのどちらでもないじゃない。どこの馬の骨とも付かない魂を入れられた連合軍製の人造魔導兵器を喜んで受け入れる方が、どうかしているわ」 「フリューゲルの事例があるだろうに」 「あれはフィリオラが特殊だからよ。あの子はとても頭が良いのに、変なところが能天気なのよ。たまにだけど、本気で頭が煮えていないか心配になる時があるわ」 「あからさまにえげつないことを言っているな」 「私も女ですもの。ネコの皮ぐらい、いくらでも被れるわ」 「そうでなければ、張り合いがない」 ルージュは薄い唇を広げ、鋭い牙を覗かせた。ジョセフィーヌは、栗色の髪を掻き上げる。 「あら、私もよ」 二人はしばらく睨み合っていたが、互いに背を向けた。ジョセフィーヌは洗濯物を洗い始め、ルージュは去った。 だが、庭全体に張り詰めていた異様な緊迫感は残っていた。敵意と敵意をぶつけ合った後の空気は、刺々しい。 図らずもこの一部始終を見てしまったのは、ブラドール家の傍へ通りかかってしまったロイズとヴェイパーだった。 ロイズもヴェイパーも、ジョセフィーヌは気品と優しさを兼ね備えた女性だとばかり思っていたので、怯えてしまった。 ルージュの性格が冷静にして過激であることは知っていたが、その下には更なる過激さが隠れていたようだった。 ロイズとヴェイパーは無言になり、早足でブラドール家から立ち去った。そうでもしなければ、耐え切れなかった。 このことは誰にも話さないことにしよう、と二人は思念を交わし合って約束をした。当然ながら、二人とも同意した。 口外したら、二人のどちらかに殺されそうな気がしたからだ。 07 9/24 |