彼女の微笑みが、引きつるのが解った。 目は辛うじて細めたままにしていたが、口元が奇妙に歪んで頬は不自然に吊り上がり、明らかに動揺していた。 発熱とは違った原因で頬の色は白くなり、僅かに後退った。その反応だけでも、証拠としては充分過ぎるほどだ。 ラミアンは戦意にも似た思いを抱き、彼女と向き合った。妻の形をしている別の女を、威嚇するように見据える。 「君は、ジョーではないのだね?」 「何を言っているの、ラミアン」 ジョセフィーヌはなんでもないことのように振る舞おうとしたが、語尾は震え、上擦っていた。 「私は私よ。私以外の誰だとでも言うの?」 「そうだな。色々と考えつくぜ」 ギルディオスは人差し指を立て、ジョセフィーヌを指した。 「キースが演じていた、人当たりが良くて優しい平凡な女を装った過激で残虐な共和国軍大佐サラ・ジョーンズか、或いはキース・ドラグーン本人とかな。もっとも、キース自体が死んじまったから、そのどちらでもないってぇのは解るが、お前にはそういう前科がある。だから、ラミアンがお前を疑っちまうのも無理ねぇのさ。もっとも、オレもちったぁ引っ掛かっちゃいたがな」 「少佐…」 ジョセフィーヌは口元を押さえ、目尻に涙を溜めた。 「違います、私はサラなんかじゃありません! 信じて下さい!」 「では、誰だと言い張るのだね。少なくとも、君は私の愛するジョーではないと思うのだがね」 ラミアンは一歩前に踏み出し、ジョセフィーヌとの間を詰めた。ジョセフィーヌは夫に駆け寄り、縋り付く。 「そんなわけないじゃない! 私は私よ、あなたの妻に決まっているじゃないの!」 「だとすれば、先程現れたジョーは誰なんだね? あれこそが、私の知るジョーではないのかね?」 「あれは熱でぼうっとしていたからよ! だから、前みたいな言動に戻ってしまっただけよ!」 ジョセフィーヌは涙を散らしながら、ラミアンへ迫る。 「どうしてそんなことを言うの? ラミアンは今の私が嫌いなの? ねえ、どうして?」 「ヴィクトリアはどう思う?」 ジョセフィーヌを眺めていたギルディオスがヴィクトリアに向くと、ヴィクトリアは白墨を動かした。 『違うとしか思えないのだわ』 「違うわけがないじゃないの。だって、私は私一人だけなのよ?」 ジョセフィーヌは涙を拭うと、ヴィクトリアに言った。ヴィクトリアは、ちらりと彼女を見やってから続けた。 『味が違うのだわ』 「何の…」 ジョセフィーヌは、表情を強張らせた。ヴィクトリアは、淡々と切り返す。 『全てが違うのだわ。あなたがそうなる前に作っていたスープの味も、パンの硬さも、ジャムの甘さも、紅茶の濃さも、肉の焼き加減も、香辛料の量も、塩辛さも、何もかもが違っていてよ。あなたとの付き合いが短い私でも気付くのだから、誰も気付かないわけがないのだわ。あなたは一体誰なのかしら?』 「だから、私は私に決まっているじゃないの!」 『だったら、ムキにならないほうが良くってよ。尚更、胡散臭くなるだけなのだわ』 「何よ…何なのよ…」 怯えたジョセフィーヌは、後退った。今し方まで家族同然に扱っていた少女を、異物を見るような目で見ている。 助けを乞うような眼差しをラミアンとギルディオスに向けるも、二人から返ってきた視線はひどく冷淡なものだった。 すると、食堂の扉が軋みながら開いた。三人が向くと、扉を開けた張本人の黒竜族の医師は、三人を見渡した。 「皆の衆、彼女をあまりいじめないでやりたまえ」 「ファイド先生」 ラミアンがファイドに向くと、ファイドはジョセフィーヌに歩み寄った。 「あの時、ラミアンはゼレイブにいなかったからな。夫と言えど、妻の異変の切っ掛けを全て把握出来るわけがないのだよ。安易に決め付けるのは危険だと思い、敢えて診断を先延ばしにしていたが、今度のことで確証が持てた。急激に人格が成長する事例はないわけではないが、考えてみればそちらの結論の方が余程自然だ。むしろ、そうである可能性の方が高い。ラミアン、君の思い描いたことは間違っておらんぞ」 「では、やはり…」 ラミアンは、苦々しげに唇を曲げている妻を見やった。ファイドは、俯いたジョセフィーヌを見下ろす。 「そう。我々の知るジョーと、彼女は別人なのだよ。すなわち、二重人格ということになるのだよ」 ファイドは、ヴィクトリアに目を向けた。 「声と魔力が出なくなってしまったヴィクトリアと同じく、これも精神疾患の一種でね。私も話には聞いていたのだが、症例を見るのはこれが初めてなのだよ。これは私の想像に過ぎないのだが、恐らく、幼いままでは現実に耐え切れなくなったから、大人の人格を生み出したのではないだろうか」 「そうなのかい、ジョー」 ラミアンは妻に問うたが、ジョセフィーヌは黙り込んでいた。彼女に代わり、ファイドは続ける。 「ここのところ、悪いことが続きすぎたからなぁ。ゼレイブが襲撃され、子供達は攫われ、男達はブリガドーンへ赴いて戦うも、死人が出てしまった。それを、本来の人格、便宜上ジョーと呼称させてもらうが、ジョーは全て視ていたに違いない。彼女の予知能力は鋭敏でありながらも繊細で、異能力としての精度も高い。拙い言葉で私達に伝えてくれる予知は、その中でもまだ良い未来だったのだろう。だが、ジョー自身はそうもいかなかった。次から次へと現れる悪い未来や恐ろしい結末や絶望に満ちた光景を矢継ぎ早に頭の中に流し込まれ、どんな出来事であっても視なければならない。その苛烈な予知を全て受け止めてしまわないために、ジョーの精神年齢は幼児のままで止まっているが、それでも限界があったのだろう。そこへ来て、突然の襲撃でゼレイブが破壊され、愛するラミアンとブラッドが魔導兵器三人衆と連合軍と戦わねばならなくなってしまった。その際にジョーが視た未来は、余程良くなかったのだろう。未来に対する不安とゼレイブと家族に対する思いが募りに募った挙げ句に、厳しい現実から逃れるために新たな人格が生み出された、というところだろう。だが、それだけでは人格は分裂しない。キースに憑依されてサラ・ジョーンズとして振る舞っていたという下地があるからこそ、容易く別人格が出来上がってしまったのだろうな」 「では、君の名は」 ラミアンは、改めて妻に向き直った。妻はしばらく目線を彷徨わせていたが、小声で答えた。 「…ジョセフィーヌよ。確かに私は、あなたの知るジョーとは違うわ」 「なぜ、今までそれを教えてくれなかったのかね」 「教えても、きっと信じてくれないと思っていたのよ。それに、知らないなら知らないで、いいとも思ったの」 ジョセフィーヌは、喉の奥から言葉を絞り出した。 「その方が、誰にとってもいいはずだから」 「そうかもしれんな」 愛する女とは同じ顔でありながら全く別の表情を浮かべる女を見つめ、ラミアンは沈痛に呟いた。 「君がジョーであるのならば、それはとても素晴らしく、幸せなことだと思う。その卓越した能力故に己の心を戒めて雛鳥のままで生き続け、その背から生える穢れなき翼を広げることすら出来なかった彼女がようやく巣立ち、広い視野を得て、無限の世界へと飛び立ったのだから。しかし、真実はそうではなかったのだな。君は君であり、ジョーはジョーだったとは」 「ほら、やっぱり」 ジョセフィーヌは両手で顔を覆い、崩れ落ちた。 「あなたの世界に、私は存在すらしていないのよ。だから、私のことなんて、知らないままの方が良かったのよ」 「すまない」 ラミアンは妻の傍らに膝を付き、肩を抱いた。 「君がジョーの一部だと言うのなら、君もまたジョーであることには違いない。だとすれば、君も私の妻であることに変わりない。多少時間は掛かるかもしれんが、君を愛すると誓おう。君が私を愛しているのならば、私は君の思いに応えねばならない。それが、夫というものではないだろうか」 腕の中の妻は、嗚咽を押し殺していた。細かな震えと苦しげな呼吸が間近から聞こえ、胸部装甲で涙が弾けた。 妻の異変に気付けなかったことは、一生の不覚だ。せめてもの贖罪になれば、と抱き締める腕に力を込めていた。 だが、それだけで許してもらえるなどとは思っていない。これからは、時間を掛けてジョセフィーヌを愛していこう。 ジョーを愛した時とは勝手が違うかもしれないが、彼女もまた家族なのだ。家族なら、受け止めて愛するべきだ。 今までもそうしてきた。だから、これからもそうするだけだ。 真夜中の屋根の上は、先日積もった雪も相まって寒々しかった。 無数の星々に見下ろされながら、銀色の骸骨は佇んでいた。魔導金属糸製の銀のマントが、かすかに揺れた。 妻の内にもう一人の妻がいるのではないのか、との考えに至った時は、その考えを振り払いたくて仕方なかった。 そんなことがあっていいはずがない、あったとしても受け止められない、との冷ややかな思いが胸中を掠めた。 これまでも辛いことや苦しいことがあった。これ以上何かあってたまるものか、と心のどこかで考えていたらしい。 しかし、一度はジョーに戻ったにも関わらず、その事実を隠してジョーとして振る舞うジョセフィーヌが痛々しかった。 あくまでも妻は一人であり、ジョセフィーヌはジョーと同一の存在でなければならない、とでも思っているのだろう。 ファイドの話に寄れば、ジョーとジョセフィーヌの人格が入れ替わる切っ掛けは疲労から生じた発熱とのことだった。 その発熱の原因も、ジョーが苦しみのあまりにもう一人の自分を生み出した原因も、間違いなくラミアン自身だ。 考えてみれば、ジョーにはラミアンの我が侭ばかりを押し付けてきた。異能部隊基地から攫った時もそうだった。 ラミアンが勝手に幼子であったジョーに執着心と劣情を抱き、彼女の意志を確かめずにゼレイブへと連れ去った。 ブリガドーンでの戦いの際にも、ジョーが気を遣わせまいと作った笑顔を真っ向から信じて、戦いに出てしまった。 あの時、ラミアンは最も動いてはならない位置にいた。しかし、恋に溺れた息子への懸念から前線へ飛び出した。 その時は、そうするべきだと思っていた。しかし、改めて熟考すれば、そうするべきではなかったのかもしれない。 終わったことを悔いても仕方ないが、あの戦いに赴いたことでジョーの心を痛め付け、人格を分けたのは確かだ。 ラミアンは顔に被せている仮面を掴み、外した。狂気の笑みを貼り付けた薄っぺらい仮面に、己が映り込む。 仮面に覆い隠された素顔は、醜悪な髑髏だ。緑色の魔導鉱石の瞳が填った眼窩が、気味の悪さを引き立てる。 生前の顔が美しかったことを覚えているからこそ、隠していた。心の痛む日は、己の顔を直視出来ない時もある。 こうなったのは己の過ちが積み重なった結果なのだと解っているが、解っているからこそ目を逸らしてしまうのだ。 数え切れないほどの罪を背負い、償うことに賢明になりすぎたらしく、最も目を向けるべきものに向けなかった。 ふと、気配に気付いた。ラミアンは仮面を付けないまま振り返ると、いつのまにかギルディオスが立っていた。 よう、と親しげに片手を挙げたギルディオスは、軽快な足取りで屋根の上を歩いてラミアンの傍へとやってきた。 「屋根の上ってのは、考え事をするのには丁度いいな」 「そのようで」 ラミアンは仮面を付けるべきか僅かに迷ったが、付けずに言葉を返した。 「いつのまにか、私は驕っていたようです。ジョーを苦しめていたばかりか、その心を二つに裂いていたとは」 「これからじっくり付き合えばいいさ。ジョーとも、ジョセフィーヌとも」 「もちろんです。けれど、私は私が憎らしくてたまらない」 ラミアンは右手に力を込め、仮面を握り締めた。 「私が私の仮面を外せずにいたばかりか、ジョーにまで要らぬ仮面を与えていたとは。許し難いことです」 「だが、ジョセフィーヌはよ」 「ええ。彼女はジョーの仮面であると同時に、ジョーの盾なのです。故に、私は、彼女を愛さなくてはなりません」 「愛さなくては、か」 ギルディオスは寒さできんと張り詰めた星空を仰ぎ、夜風に赤い頭飾りをなびかせた。 「つうことは、ラミアンはジョセフィーヌの方を愛せる自信はねぇってことになっちまうな」 ギルディオスの核心を突く言葉に、ラミアンは言葉に詰まったが、小さく頷いた。 「恐らくは」 「無理もねぇよ。ジョセフィーヌに気を向けちまうと、ジョーに気が引けるもんなぁ」 浮気みてぇだもんな、とのギルディオスの軽口に、ラミアンはかすかに笑みを零した。 「そうかもしれませんね。同じ体であると言えど、ジョーとジョセフィーヌは全く別の女性なのですから」 「無理するんじゃねぇぞ、ラミアン」 ギルディオスがラミアンの肩を叩くと、ラミアンは力なく答えた。 「罪深いのは私であり、彼女ではありません。苦しむべきは、この穢れた吸血鬼だけなのです」 「そうかい」 ギルディオスはラミアンから離れると、腰を下ろして胡座を掻いた。 「ラミアン。お前は本当にいい奴だし、オレが知る中でもかなり優れた男だと思うし、惚れた女に弱ぇのは男なら仕方ねぇことだ。でもよ、お前は一体誰を守りてぇんだ?」 「どちらも守りたいのです。いけませんか」 ラミアンはギルディオスの傍らに立ち、切り返した。ギルディオスは大きな背を丸め、頬杖を付く。 「それ自体は悪いことじゃねぇさ。だが、オレの経験からすれば、守りたいものと守るべきものってのは必ずしも一致するわけじゃねぇ。守りたいから必ず守れるってわけでもねぇし、守らなければならないから絶対に守れるってわけでもねぇ。結局、どっちかしか守れねぇのさ。ブリガドーンでの戦いがそうだった。ゼレイブの連中を守るためには、連合軍の連中を殺すしかなかったんだ。だから、ラミアン。どっちを守りたいのか、ちゃんと決めておけよ。じゃねぇと、いざって時に躊躇っちまうからな」 「心得ておきます」 ラミアンは仮面を胸に当て、礼をした。ギルディオスは、暗闇の中でうっすらと輝く雪原へ目線を投げた。 「けど、それがまた難しいんだよな」 含みのある言い回しだったが、ラミアンは言及しなかった。狂気の笑みを貼り付けた仮面を、髑髏に被せる。 留め具に填め込んで固定させ、手を離した。狭まった視界から見える藍色の闇は深く、今の心境にも似ていた。 暗澹たる気持ちでいるのは、何も自分だけではない。その当人であるジョセフィーヌこそ、悩み苦しんでいる。 仮面を外させ、心を解き、寄り添ってこそ夫ではないか。ラミアンは己を叱責しつつも、静かに決意を固めた。 ジョセフィーヌと真っ向から向き合って、ジョーと同等に接しよう。どちらがどちらであっても、妻は妻なのだから。 ただ、少しばかり性格が違うだけだ。 幼き心を持つ女は、その幼さ故に己を分かつ。 狂気の笑みの仮面に素顔と弱さを隠した男は、女の仮面すら愛そうとする。 思い遣るからこそ心は揺れ動き、愛するからこそ己を偽ってしまう。 時に、欺瞞は愛に似るのである。 07 12/20 |