ドラゴンは滅びない




羽化




 ヴィクトリアは、体調が思わしくなかった。


 目が覚めた時から頭が重く、下腹部にも痛みがあった。だが、悪い物を食べた覚えも体を冷やした覚えもない。
原因は何だろうと考えたが特に思い当たらなかったので、そのうちに治るだろうと思いながら、上半身を起こした。
ギルディオスは、もう部屋にはいなかった。近頃はギルディオスも安心したのか、付きっ切りではなくなっていた。
ヴィクトリアも、以前に比べれば心は落ち着いている。両親が殺された苦しみは消えないが、痛みは薄らいだ。
ブリガドーンでの戦いの直後は押し潰されそうなほど苦しかったが、時間が立つにつれて少しずつ弱まってきた。
それが、両親に対して申し訳ないと思う時もあった。だが、いつまでも苦しみの最中にいたのでは何も始まらない。
 窓から差し込んだ朝日が机を照らし、書きかけの石盤と魔導書を白く光らせる。魔法の勉強も日々進んでいる。
父親から教わらなかった類の魔法や、まだ覚えていなかった魔法文字や歴史を学んでいくのは少し楽しかった。
どうしても解らない時はラミアンやフィリオラから教えてもらうと、自分だけでは理解出来ない部分も理解出来た。
 今日はどこまで勉強しよう。ヴィクトリアはそんなことを考えながら、着替えようと厚手の寝間着に手を掛けた。
両袖から腕を抜いてから寝間着をたくし上げ、脱ごうとしたが手を止めた。見慣れぬ色が、下着に付着していた。
冬場なので長めの白い下着に目立つ赤が染み、太股の間から伝い落ちている。ヴィクトリアは、目を丸くした。
 見た瞬間に、それが血だと解った。だが、ケガもしていないのに、どうしてこんなところから血が出てくるのだ。
なぜ、どうして、とヴィクトリアが動揺していると廊下の外で足音が止まって扉が叩かれた。ギルディオスだった。

「そろそろ起きろ、ヴィクトリア。また朝飯を食いっぱぐれちまうぜ」

 どうしよう、どうしよう、とヴィクトリアは狼狽えながらも石盤を手にしたが、書くよりも早く扉が開かれてしまった。
ギルディオスは部屋に入ったが、ヴィクトリアの股間から伝う血に気付くと、あ、と小さく声を漏らして身を下げた。

「ああ、そうか。ちょっと待て、ジョセフィーヌを呼んでくる」

 大したことじゃねぇからな、とギルディオスはヴィクトリアの頭にぽんと手を置いてから、扉を閉めて立ち去った。
ギルディオスはこれが何なのか知っているようだが、教えてくれなかった。一人にされると、ひどく心細くなった。
間近から感じられる血の匂いに、具合の悪さも相まって吐き気がする。血を見るのは慣れているはずなのに。
不安でたまらなくなり、ヴィクトリアはしゃがみ込んだ。誰でもいいから縋り付きたいが、ギルディオスはいない。
目線を動かすと、ベッドの枕元にある母親の手製のぬいぐるみと父親の血痕が付いた丸メガネが目に付いた。
 お父様。お母様。レベッカ姉様。私、死んでしまうのかしら。ヴィクトリアは、ぬいぐるみとメガネを抱き締めた。
下半身には怠さと共に鈍痛が起き、頭痛も増している。立ち上がろうとしたが、目眩がしてまた座り込んでしまう。
 私は何か悪いことでもしたのかしら。ああ、沢山してきたわ。だから、きっとこれは罰なのね。お仕置きなのだわ。
ヴィクトリアは心中で様々な言葉を繰り返しながら、クマのぬいぐるみに顔を当てた。中には、母親の拳銃がある。
その硬い感触を確かめながら、ヴィクトリアは奥歯を噛み締めた。やっと薄らいだはずの寂しさが、蘇ってくる。
一番不安な時に、一番頼りたい人は傍にいない。恐怖を訴えたい相手はいない。泣き付きたい相手もいない。
 泣かない、と唇を噛んでも、込み上がるものは止められなかった。溢れ出た滴が、ぬいぐるみに吸い取られる。
声の出ない喉を引きつらせ、背を丸めた。こんなことで、とは思ったが、寂しくて悲しくて切なくて堪えられなかった。
 灰色の城と、家族の元に帰りたい。




 痛みと不安は、消えなかった。
 ギルディオスに代わって来たジョセフィーヌはヴィクトリアを着替えさせると、綿を入れた布を股間に当てさせた。
これが何なのかと問うと、これで血を吸い取るのだという。汚れたらその都度交換して自分で洗え、とも言われた。
自分のことなのだから自分で出来るようにならないと後で苦労する、と言われ、ヴィクトリアは仕方なしに頷いた。
ジョーのもう一人の人格であると判明してから、ジョセフィーヌは以前よりも少しだけ態度がきつくなってしまった。
先日までの穏やかで優しいジョセフィーヌは演技も混じっていたのだそうで、それを続けるのは辛いのだそうだ。
次から次へと変貌するジョセフィーヌに戸惑っているのはヴィクトリアだけではないが、それには慣れるしかない。
 朝食を終えてしばらくすると、ギルディオスがヴィクトリアの変化を伝えてくれたらしく、フィリオラが屋敷を訪れた。
フィリオラはいつもと変わらぬ優しい笑顔を浮かべ、ヴィクトリアの鈍く痛む腰に手を当て、さすって暖めてくれた。
彼女に促されるまま、ヴィクトリアは自室に戻った。フィリオラは、お茶を入れてきますね、と、一旦部屋を出た。
一人部屋に残されたヴィクトリアは、椅子に腰掛けていた。ベッドのシーツにも血が染みたので、交換してある。
程なくして、フィリオラは盆を手にして戻ってきた。湯気の上るティーポットとカップが二つに、焼き菓子があった。
 フィリオラは盆をテーブルに置き、慣れた手付きで紅茶を注いだ。ヴィクトリアの分には、暖めた牛乳も入れた。
フィリオラはヴィクトリアにティーカップを手渡してから、自分の分も取ると、手近な椅子を引き寄せて腰掛けた。

「大丈夫ですよ、ヴィクトリアさん。これは、女性であれば必ず訪れる変化ですから」

『あなたは、これが何か解るの?』

 ヴィクトリアが石盤に文字を書いて返すと、フィリオラは微笑んだ。

「ええ。月の障りです。簡単に言えば、ヴィクトリアさんが大人になったということです」

『大人?』

「はい。その血は経血と言いまして、要するに赤ん坊の元になる養分なんです」

 フィリオラはティーカップを置くと、自分自身の下腹部に手を当てた。

「丁度この辺りに子供が出来る場所があるんですけど、子供が出来ないとその中に溜まっていたものが出てくるんです。その周期は大体一ヶ月ぐらいなんですが、ヴィクトリアさんは始まったばかりですから当分安定しないでしょうけど、それほど気にしないでも大丈夫ですよ。そのうち落ち着いてきますから」

『一ヶ月ごとに一度なの?』

「そうですよ。私もリリを産む前はそりゃあもうひどく痛みましたけど、リリを産んでからはすっかり楽になりましたよ。この痛みは個人差があるみたいなんですけど、キャロルさんは少ししか痛まなかったそうですし、ジョセフィーヌさんなんて気にもならなかったんだそうですが、ヴィクトリアさんは痛いみたいですね。私もそうでしたから、よく解りますよ。これの時期が近付いてくると、もう気が滅入っちゃって」

『今は平気なの?』

「ちょっと腰が重たいなーとか、頭がふらふらするなーって思う時はありますけど、若い時ほどじゃないですね。子供を産んでしまえば楽になるっていうのは、本当ですね」

 フィリオラは、胸の前で両手を組む。

「おめでとうございます、ヴィクトリアさん」

 何を言われたのか解らず、ヴィクトリアはきょとんとした。フィリオラは、ヴィクトリアの肩に手を置く。

「子供が出来るようになったということは、大人に近付いたってことなんですよ。手足もまだ伸びるでしょうし、体付きが丸くなるのはこれからですから、ちゃんとした大人の体になるまではまだ時間が掛かりますけどね」

『私は、大人になるの?』

「はい」

 フィリオラが頷いたが、ヴィクトリアはちっとも喜べなかった。痛いし、苦しいし、重たいしで、何も良くなかった。
早く大人になりたかったはずなのに、大人に近付くと物悲しくなる。まだ子供でいたい、との思いが胸を掠めた。
 大人になればなるほど、両親と過ごした日々が遠ざかる。体が成長すると、時間が過ぎたことを嫌でも味わう。
両親がいた時間が、どんどん過去になってしまう。優しくも残酷な両親と異形の姉との日常が、押しやられていく。
大人になんてなりたくない。大人になってしまえば、グレイスとロザリアの娘ではなくなってしまうような気がする。

『大人になんて、なりたくない』

 先程書いた文字を塗り潰すように、ヴィクトリアは白墨を動かした。

『そんなの、嫌』

「ですけどね、ヴィクトリアさん」

 フィリオラは、ヴィクトリアの白墨を握る右手に手を添える。

「いつまでも子供ではいられないんですよ。皆、いずれ大人になります」

 嫌、嫌、とヴィクトリアが首を横に振ると、フィリオラはヴィクトリアを抱き締めてきた。

「大丈夫、大丈夫」

 ヴィクトリアは身を捩ったが、フィリオラの腕は緩まない。フィリオラの胸は柔らかく、心地良い暖かさがあった。
鼻先を掠める匂いは違っていたが、暖かさはロザリアのそれとよく似ていた。訳もなく苦しくなって、喉が詰まった。
フィリオラはヴィクトリアを宥めるため、何度となく撫でてきた。朝にあれほど泣いたのに、まだ涙が出てきそうだ。

「大人になれば、色々なことが変わります。子供が出来るようになるのも、その中の一つです」

 フィリオラは我が子にするように、ヴィクトリアの髪に頬を寄せた。

「親としては寂しいところもありますけど、でも、大人になるのは喜ばしいことなんですよ。あんなに小さくて触るのも怖いくらいだったのに、病気をしたこともあったのに、ちゃんと立派に育ってくれただけで涙が出そうなほど嬉しいんですよ。ヴィクトリアさんもちょっと落ち込んでいた時期はありましたけど、今はリリ達と外で遊べるぐらい元気になりましたし、魔法の勉強も頑張っていますし、お屋敷のお手伝いもするようになりました。小父様の言うことも聞くようになりましたし、フリューゲルと戦っている様を見ていると体付きも前よりしっかりしてきたことが解るようになりました。そうやって、毎日毎日色々なことを積み重ねて人は大人になるんですよ。月の障りが始まったのだって、特別なことではないんですよ。ヴィクトリアさんが大人になる時が来たからこそ、始まったんです」

 フィリオラは、ヴィクトリアに微笑みかけた。

「きっと、グレイスさんとロザリアさんは喜ばれていますよ。私だって嬉しいんですから」

 ね、と一際優しい声を掛けられた瞬間、ヴィクトリアは何かが崩れた。そんなわけがない、と叫ぶつもりで泣いた。
フィリオラに縋って服を握り締め、幼子のように涙を流した。音ではなく掠れた吐息しか出ない喉で、精一杯喚く。

『お父様とお母様は、喜んで下さるの?』

 ヴィクトリアは石盤を手繰り寄せて震える字を書くと、フィリオラはハンカチでヴィクトリアの頬を拭った。

「ええ、もちろん。グレイスさんはああいう方ですからちょっとごねるかもしれませんけど、きっと」

 ヴィクトリアは、枕元に戻した両親の遺品に振り返った。ぬいぐるみも拳銃もメガネも、無機物らしく黙していた。
真昼の日差しに照らされて白く光るひび割れたレンズの奥からは、灰色の眼差しが注がれているような気がした。
拳銃もまた、黒い銃身に白い光を撥ねていた。その冷たさは母親の性格を思い出させ、胸が締め付けられる。
 お父様。お母様。ヴィクトリアが泣きじゃくっていると、フィリオラは穏やかな言葉を繰り返しながら背をさすった。
その手の温かさで、また涙が溢れて仕方なかった。大人になんてなりたくない。でも、大人になってしまったのだ。
 もう、子供ではいられないのか。




 ひどく懐かしい声が聞こえた。
 二度と聞けない声。二度と触れてもらえない手。二度と会えない人。会いたくて会いたくてたまらなかった人達。
産まれて間もない幼子を抱いている父親の足元に、メイドの恰好をした石人形が微笑みながら寄り添っている。

「この子が大きくなったら、オレ達はどうしているんだろうな」

「そうね。その頃には、色々と変わっていると思うわ」

「その頃には、オレも呪術師なんて廃業しているかもしれねぇなぁ」

「あら、どうして?」

「だって、悪いじゃねぇか。オレらの子は毎日を必死に生きているってぇのに、オレは楽しいことや面白いことだけをして生きているってのはさ。それに、子供を抱く手ぐらいは綺麗にしていたいしよ」

「あなたにしては珍しい言葉ね」

「オレもそう思うよ。でも、生きるための手段としての呪術と暗殺術は教えるけどな。せっかく手塩に掛けて育てた娘が簡単に殺されちまったりしたら、それこそ死んでも死にきれねぇから」

「それがいいわ。私も、銃の扱いはきちんと教えてやるつもりよ。他のことは教えられないから」

「ああ、それがいいぜ。それ以外はてんでダメだもんなぁ、お前は」

「悪かったわね。それぐらいしか出来なくて」

「いいじゃねぇか、射撃以外はさっぱりだってところもお前の魅力なんだから。んで、この子の名前、どうする?」

「あなたは何かいい考えでもあるの?」

「そうだな…。ヴィクトリア、ってのはどうだ。何事にも挫けず、全てに勝ち、進めるように」

「いいわね、ヴィクトリアって。素敵な名前だわ。品行方正、眉目秀麗、文武両道、かつ残虐非道に育つわ、きっと。だって、私達の子ですもの」

「そりゃ違いねぇ!」

 とても誇らしげに幼子を掲げながらその名を叫んだ父親に、少女の如き石人形は嬉しそうに手を叩いている。

「そうですねー。だってー、御主人様と奥様の血を受け継いだんですからー、凄くなるのが当然ですー」

「当たり前だろうが! オレ達の娘なんだぜ、凄くないわけがねぇだろうが!」

「でも、そこまで凄い子に育てるには、私達も頑張らないといけないってことを忘れちゃいけないわ」

 恥ずかしくなるほど浮かれている父親の姿を見、ベッドに横たわっている母親はやや呆れつつも笑っている。
 父親の底抜けに明るい笑顔も、母親の満ち足りた表情も、姉の嬉しそうな姿も、きらきらと眩しく輝いて見えた。
夢だと解っていても、幸せだった。これは自分が作り出した想像の情景で、現実でも何でもないと理解していた。
 手を伸ばしても、届かない。そこにいるはずの両親も姉も幼い自分も、手を伸ばした傍から擦り抜けてしまう。
だから、伸ばしていた手を下げた。どれほど手を伸ばしたところで、失われたものが戻ることなどないのだから。
寂しさは変わらない。切なさも変わらない。けれど、この手は温かく、心臓は熱く、全身には両親の血が波打つ。
 愛する家族は、いつも傍にいる。




 枕に涙が染みた感触で、目を覚ました。
 泣きながら目を覚ますなんて情けない、と思いつつ、ヴィクトリアは起きた。すると、下腹部から異物感が流れた。
痛みは今日も薄れていなかったが、昨日よりはまともだった。魔法薬と食事のおかげで、目眩は落ち着いていた。
眠る前に当てた綿入りの布も変えなくては。肌に触れる感触はじっとりと重たく、相当な量の経血を吸ったようだ。
今日もまた大人しくしているしかない。頭がふらつくのであまり集中出来ないだろうが、読書か勉強をしていよう。
 ヴィクトリアはベッドから降りて、寝間着を脱いだ。昨日のことがあるので、いつになく慎重に下半身を見やった。
今日は大丈夫そうだ。ほっとしながら、ヴィクトリアは保温用に腰に巻いていた布を外してから、服を手に取った。
経血が染み出しても見えづらいように、と色の濃いエプロンドレスを選んだ。まだ慣れないので、不安要素は多い。
だが、段々慣れていくしかない。ヴィクトリアは着替えを終えてから机に向かって、鏡に掛けていた布を外した。
鏡の中には、寝起きと貧血で冴えない顔をした少女が映っていた。髪が寝乱れているので、櫛を通して直した。
何度も手間を掛けて梳いていくと、あらぬ方向に跳ねていた毛先が元に戻る。顔も洗って、涙の跡も流さなくては。
 どちらかというと父親似で量が多めの長い黒髪をいじっていると、ふと思い立ち、結び紐を引き出しから出した。
首の後ろで髪を三本に分けて指に挟み、順番に絡ませて編んでいった。編んでいくうちに、背中の中程を過ぎた。
いつのまにか、随分と髪が伸びていたようだ。腰の上近くまで編み上げた太い三つ編みの先を、結び紐で結んだ。
その上にリボンを結ぶと、体裁は整った。顔の脇に落ちてくる前髪を耳元に掛けてから、鏡に布を被せて立った。
すると、扉が叩かれ、ギルディオスが顔を覗かせた。よう、と片手を挙げて挨拶してから部屋の中に入ってきた。

「おはよう、ヴィクトリア。よく眠れたか?」

 ギルディオスはヴィクトリアの背後にやってくると、編んだばかりの三つ編みをひょいと持ち上げた。

「お、上手いこと出来たじゃねぇか。色といい太さといい、グレイスの野郎にそっくりだ。やっぱり親子だな」

 ギルディオスはやけに感心しながら、ヴィクトリアの三つ編みをしげしげと眺めている。

「けど、こんなに髪が伸びちまうと邪魔じゃねぇのか? ちょっとぐらい切っちまったらどうだ?」

「邪魔ではなくってよ。編んで丸めてまとめればいいだけのことだわ」

 石盤を引き寄せながら、ヴィクトリアは自然と口を動かしていた。すると、ギルディオスが動きを止めた。

「…へ?」

「何よ」

 ヴィクトリアは石盤にその言葉を書きながら、むっとしてギルディオスを見上げた。

「あのさ、お前」

 ギルディオスはヴィクトリアの三つ編みの先で、ヴィクトリアを示した。ヴィクトリアは、三つ編みを奪い返す。

「だから、何なのよ」

「いや、自分で気付いてねぇの?」

「だから!」

 むきになって声を荒げ、ヴィクトリアは徐々に目を見開いた。耳の奥に、久しく聞いていなかった音が残響する。
ギルディオスは、何度も頷いている。ヴィクトリアは自身の喉に手を当てて、目の前のギルディオスを凝視する。

「あなた、私の声が聞こえるの?」

「ああ、聞こえる聞こえる! もっと喋ってみろ、ヴィクトリア!」

「本当に? 嘘じゃないわよね?」

「嘘なんか吐くもんか! お前の声はオレにちゃあんと届いてらぁな、ヴィクトリア!」

「嘘だったら承知しなくってよ、ギルディオス」

「だからオレを信じろっての! ほら見ろ、治ったじゃねぇか! 偉いぞ、ヴィクトリア!」

 ギルディオスはヴィクトリアを抱き上げようとしたが、ヴィクトリアの現状を思い出して手を止め、引き下がった。

「あ、今はまずいか…」

「下手なことをすれば、流血沙汰になるのは間違いないのだわ」

「だよな、うん。じゃ、また今度な。それで、魔力の方はどうなんだ?」

 ギルディオスは机の下で埃を被っていた鉱石ランプを取ると、埃を払ってからヴィクトリアに渡した。

「それはまだ解らないわ」

 ヴィクトリアは沈黙している鉱石ランプを手に取り、息を詰めた。久しく使っていなかった感覚を、呼び起こした。
胸の奥で沈黙している魔力中枢を感じ、力を求める。心臓が締め上げられるような感覚が起き、手から流れ出す。
その勢いは絞れず、ほとんど制御出来ぬまま体外へ放出され、手のひらから溢れた魔力が鉱石ランプに入った。
鉱石ランプは光を帯びた途端、暴れ出した。勢い良く吹っ飛んだ鉱石ランプは壁に激突し、ガラスが砕け散った。

「魔力も戻ったみてぇだな。まあ、ちょいとばかり勘を取り戻さなきゃならねぇだろうが、お前なら大丈夫だ」

 ギルディオスはとても嬉しそうに、ヴィクトリアの髪を乱した。ヴィクトリアはむくれ、その手を払う。

「整えたばかりなのに、何をするのよ」

「いいじゃねぇか、こういう時ぐらい」

 ギルディオスは内心で頬を緩めながら、ガラス片の散らばる床に転げた魔導鉱石が放つ、強い光を見つめた。
ヴィクトリアはむくれながらも、鉱石ランプの光を見た。魔法とは言い難い魔力の奔流でも、魔力は魔力だった。

「本当に良かったな、ヴィクトリア」

 ギルディオスに肩を叩かれ、ヴィクトリアは小さく頷いた。

「ええ」

 喉から出た自分自身の声がちゃんと聞こえる。また魔法が使える。それだけなのに、嬉しさが込み上げてくる。
その嬉しさを持て余してしまい、ヴィクトリアはギルディオスに向いた。ギルディオスに頷かれ、頬が勝手に緩んだ。
見えないはずの彼の笑顔が見えるようで、いつのまにか微笑みかけていた。頭を抱えられて、抱き寄せられる。
愛おしげに頭を撫でられると、仕草も何もかも違うのに父親のことを思い出して、ヴィクトリアは胸の奥が詰まった。

「ありがとう、ギルディオス」

 無意識のうちに、言葉が出ていた。ギルディオスは、心底嬉しそうに声色を緩める。

「おう、いいってことよ」

 ヴィクトリアは彼への感謝と照れで頬をうっすらと染めながら、俯いた。笑顔を見せるのも恥ずかしくなってくる。
けれど、嬉しくて嬉しくてどうしようもない。迷った挙げ句、ヴィクトリアは肩を抱くギルディオスの手に手を重ねた。
手のひらに硬く冷ややかな感触が広がり、指の太さと手の厚さが解る。ヴィクトリアの手の倍はありそうだった。
ギルディオスと軽く触れ合っているだけなのに、不思議と気持ちが安らぎ、昨日までの不安は溶けていくようだ。
 これからは、もう大丈夫だ。心も体も元に戻ったのだから、怖いものはない。だから、生きていこうと強く思った。
家族もそれを願っているはずだ。いつまでも同じところに立ち止まったままでいたら、三人はきっと悲しむだろう。
背伸びをして覗き込んでいた世界に一歩ずつ近付いているのだから、地面を踏み締め、前を向いていかなくては。
 それこそが、両親の喜びとなる。




 凍て付いた闇に沈んでいた魂は、緩やかに融解する。
 優しく甘い過去の記憶がいかに素晴らしくとも、いずれ前を向く日が来る。
 地に足を付け、背筋を伸ばし、目を上げ、日々を懸命に生きているからこそ。

 人は、大人になれるのである。






07 10/15