凍て付く風が、容赦なく吹き下ろしてくる。 襟を立てて襟巻きを巻いて手袋を填めて防寒着を重ね着していても、冷気は体の隅々まで忍び込んできた。 指先とつま先は氷のように冷え切り、頬は強張り、体の節々には寒さによる疲労が蓄積して重たくなっている。 どこを歩いているのか、自分でもよく解らなかった。ただ、居ても立ってもいられなくなって屋敷を飛び出した。 お茶会と皆との会話を楽しみ尽くしたジョーが眠ってしまうと、ジョセフィーヌは必然的に表層意識に現れた。 だが、その頃にはお茶会はすっかり終わっていた。皆は家に帰り、食堂には楽しい宴の痕跡だけが残っていた。 大皿に山盛りにされていた菓子は食べ尽くされ、取って置きの紅茶は全て出涸らしになり、明るい会話も消えた。 ジョセフィーヌに任されたのは、後片付けだけだった。自分が作ったはずの菓子は、一つも食べられなかった。 皆と話したいこともあった。もっと親しくなりたかった。仲良くなって、上辺だけの付き合いから前進したかった。 お茶会を提案したのは、他でもないジョセフィーヌだった。なのに、ジョーに何もかもを奪い取られてしまった。 いつもそうだ。いつもいつも、悪いところや嫌なところだけを任されて、楽しいところは何一つとして味わえない。 そもそも、ジョセフィーヌとはそのための人格だ。ジョーが出来ないことをするために生まれた、大人のジョーだ。 だから、ジョーありきで自分が成り立っていると解っていても、悲しいことは悲しいし、辛いことは当然辛かった。 大事にされるのは、いつもジョー。愛されるのもいつもジョー。優しくされるのもいつもジョー。笑うのもジョー。 楽しむのもジョー。ラミアンに構ってもらえるのも、ブラッドに愛されているのも、ギルディオスが褒めてくれるのも。 その代わり、ジョセフィーヌは誰からも愛されない。ジョーが言えないことを言って、出来ないことをするからだ。 ジョーは他人を責めない。だが、ジョセフィーヌは責める。ジョーには裏表がない。だが、ジョセフィーヌにはある。 ジョーは息子の恋人に嫉妬しない。だが、ジョセフィーヌは嫉妬する。それでは、愛されなくて当たり前ではないか。 強張った顎を噛み締め、肩を怒らせた。雪がちらつく夜空を見上げると、目元から涙の粒が零れ落ちていった。 今の心のように冷え切った頬の上に、ひどく熱いものが伝った。ジョーは良く泣くが、自分はあまり泣かなかった。 大人だから、泣けなかった。泣きたいと思っても、理性が邪魔をした。苦しいことも、我慢出来てしまったからだ。 ルージュとの一件の際には抑えが効かなくなって泣き喚いたが、あんなにも激しく泣いたのはあの時だけだった。 それからはずっと、我慢のし通しだった。それもまた自分に与えられた役割だと知っていたから、そうしていた。 だが、もう限界だった。どれだけ辛いことを我慢しても、結局良いところは全てジョーが持っていてしまうのだから。 肌に触れる空気が変わり、ほんの少しだけ気温が下がった。ラミアンの魔力の蜃気楼から、出てしまったらしい。 これで、外へ出たことがラミアンに知られてしまった。探し出してほしい気もしたが、探してほしくない気もしていた。 ラミアンが心配しているのはジョーだけだ。ジョセフィーヌのことなど、ラミアンは欠片も愛してくれていないのだ。 ジョーが死ねば、ラミアンだけでなく皆がジョセフィーヌを更に嫌うだろう。それでもいいから、殺したいとも思った。 だが、きっと死ねない。ジョセフィーヌが予知した近未来では、ジョセフィーヌが死ぬような未来は一つもなかった。 ジョーが視たと思しき遠未来でも、ジョセフィーヌはしぶとく生きていた。ジョーの中で、無様に長らえ続けていた。 けれど、未来は未来だ。変わらないし、変えられない。変わる未来もあるが、変わらない未来の方がずっと多い。 その証拠に、ダニエルは死んだ。グレイスも死んだ。ロザリアも死んだ。レベッカも死んだ。そして、彼も死ぬ。 しかし、ジョーもジョセフィーヌも死ねない。この苦しみはまだ終わらないのだ。そう思うだけで、絶望に襲われる。 「…ぅぐ」 喉の奥から嗚咽が漏れると、心を戒めていた緊張の糸が切れ、ジョセフィーヌは雪原に座り込んだ。 「なんで、いつも、私は」 未来は、いかなる者にも等しく与えられる。この体が持ち得ている力は、無限の未来を垣間見るだけでしかない。 未来が視えたところで、変えられるとは限らない。この先訪れる不幸が解ってしまうのは、苦痛でしかなかった。 確かに、ジョセフィーヌが表に現れたことで未来は少しだけ変わった。だが、ジョセフィーヌの未来は変わらない。 いずれ、ジョセフィーヌは主人格のジョーと一体化して消えてしまう。仮初めの人格でしかないから、長持ちしない。 元より、ジョーは己の力で現実に抗っていた。いつまでも子供でいることで、苛烈な未来と現実を受け流していた。 だから、ジョセフィーヌが生まれなくてもよかったのだ。不要な存在だ。異物だ。出来物だ。屑だ。ただの邪魔者だ。 「ぅ、ぁ、ああああっ!」 そんなこと、最初から解り切っている。 「ああ、あああああ、ぃやぁああああああ!」 サラ・ジョーンズの性格を模して振る舞えば、受け入れられるのではと愚かな考えを抱いていた。 「嫌ぁ、いやあっ!」 ジョーだと言い張り続けていれば、ゼレイブに馴染むと思っていた。 「いやあああぁ!」 だが、無理をすればするほど、ジョーとジョセフィーヌに対する温度差が感じられて息苦しくなった。 「あ、ぐ、うぁあああ…」 だが、限界が来て、ブラッドと恋仲になったルージュへ敵対心を抱いた末に感情を爆発させ、愚行に走った。 「嫌ぁ…」 頭を抱えて背を丸めたジョセフィーヌは、ぼたぼたと涙を落とした。寒さとおぞましさで、歯の根が合わなかった。 ここに生きる皆なら、受け入れてくれるものだと漠然と信じていた。だが、最後の部分で受け入れられなかった。 無理をすればするほどに、皆との距離が開いていく。ただ、ジョーのように好かれたいと思っていただけなのに。 皆のことは、ジョーと同じように、いや、それ以上に好きだ。魂の奥底にいた頃から、ずっと好意を抱いていた。 顔を合わせて言葉を交わし、笑い合うことをずっと楽しみにしていた。憧れを抱いて、外の世界を見続けていた。 なのに、上手くいかない。ジョーと自分を切り離せたらまだ割り切れるのに、ジョーは自分であり自分はジョーだ。 死んだところで、切り離せないだろう。打ちひしがれたジョセフィーヌは倒れ込むと、雪に顔を埋めて泣き続けた。 さく、さく、と新雪が踏まれ、かすかな音を立てる。それは人の足音よりも遙かに軽く、気配もやたらと小さかった。 それに気付いたジョセフィーヌが目を上げると、うっすらと白い光を放つ雪原に負けぬほど白いものが立っていた。 「お困りのようでごぜぇやすねぇ」 訛りが強い言葉が、冷え切った耳に届いた。 「お初にお目に掛かりやす、予知の御夫人。ヴィンセントでごぜぇやす」 尾が二股に分かれた白ネコは、深々と頭を下げてきた。ジョセフィーヌは、ゆっくりと体を起こした。 「あなたは、あの人の駒ね?」 「へぇ、そうでごぜぇやす」 「でも、あの二人が倒されたんだから、あなたはもう私達には用はないはずよ」 「あのお二方がやられちまったのは残念でやんすが、それはそれっちゅうことなんでやんすよ。あのお二方はよっく働いてくれやしたが、所詮はあっしと同じ駒でやんすからねぇ。やられたっちゅうことは、その時点で駒としての役割を全うしたっちゅうことでごぜぇやす。それに、あっしはあのお二方のことをそんなに知っちゃいやせんでしたから、大した思い入れもねぇんでさぁ。それに、ここへ来たのは他でもねぇ用事があるからでごぜぇやして」 「あなたの用事って、一体何なの?」 「そりゃあ決まっちょりやすぜ。予知の御夫人にお会いするためでごぜぇやす」 ヴィンセントの態度は丁寧だが、それ故に胡散臭かった。ジョセフィーヌは汚れた頬を拭い、立ち上がった。 「ジョーなら、当分は出てこないわ。悪いけど、私は帰らせてもらうわ」 「おおっと、お待ちなせぇ」 ヴィンセントは素早く動いてジョセフィーヌの先に立ちはだかると、二本の尾をぴんと立てた。 「あっしの用事ってぇのは、そっちのジョーさんではなくて、今のあんたのことでさぁ」 「嘘よ。私のことなんて、誰も必要としていないのだから」 「嘘なんかじゃあございやせん。あっしはちゃあんと仰せ付かっているからこそ、会いに来たんでさぁ」 「仰せ付かって、って」 「その辺の事情については、あっしよりも予知の御夫人の方がよっく御存知じゃあねぇですかい?」 「だけど…」 ジョセフィーヌは予知を思い出していたが、困惑した。この出来事が繋がる未来が、あるというのか。 「これは、分岐の一つなのね? でも、私が分岐に至る未来は視えていなかったはずなのに…」 「視えた未来だけが全てじゃあございやせんぜ」 「ええ、それは承知しているわ。予知したからと言って、その全てが未来として訪れるわけではないことぐらい、経験で知っているわ。だけど、こんな分岐が繋がる未来なんて…」 「その分岐の先にある未来は、視えておるんですかい?」 「視えているのは、本当に少しだけよ。不確定要素が多すぎて、言葉にするだけで変わるほど不安定な未来よ」 「では、その不安定な未来に至る分岐をどうにかしちまえば、未来はどうにでも出来るっちゅうことでやんすねぇ」 「だけど、そんなことをしたら」 ジョセフィーヌはその考えの恐ろしさに、言葉を詰まらせた。下手なことをすれば、訪れるべき未来が崩壊する。 未来は、過去があるからこそ生まれる。過去を成しているものを壊せば未来は変わるが、同時に歪んでしまう。 だから、そんなことをしてはならない。ジョセフィーヌが目を伏せていると、ヴィンセントはするりと擦り寄ってきた。 「望まぬ未来しか視えないっちゅうんなら、望む未来が視えるようにすりゃあええじゃございやせんか」 ヴィンセントの声音は綿のように柔らかく、並べる言葉は蜜のように甘い。 「未来が視えちょるんでやしたら、簡単なことじゃありやせんか。それなのに何もせずに、望まぬ未来が訪れるのをただ待ち受けているっちゅうんはちょいとおかしいんじゃないんで? 御夫人もれっきとした人間なんでやんすから、腹の底から欲が湧いてきてもちっともおかしくありやせんぜ。あっちの御夫人は好き勝手にやっておられるんでやんすから、こっちの御夫人もたまにはお好きにやりゃあええんですよ」 「私の、望む未来」 ジョセフィーヌは、冷え切った指先を握り締めた。ヴィンセントは、更に耳障りの良い言葉を連ねる。 「そうでやんす。あんたはこれまで日の目を見られなかったんでやんすから、少しぐらいはいい目を見てもええじゃありやせんか。誰も責めたりしやせんよ。幸せになりたいっちゅうのは、決して間違ったことじゃないんでやんすから」 望む未来。ジョーが消え、ジョセフィーヌがこの体を支配し、ラミアンと愛を交わし合い、家族と生きる未来。 「あの御方でごぜぇやしたら、きっと願いを叶えてくれるでしょうや。あの御方にゃあ、それが出来ますぜ」 ジョーだけが消える未来。有り得ないからこそ、望んでしまう未来。 「あっしは嘘だけは吐かねぇ主義でしてねぇ。信じる価値はありやすぜ」 それこそが嘘だ。甘言だ。だが、ジョセフィーヌの心中は激しく揺れ動く。 「その未来を手に入れたければ、あの御方に付くことでごぜぇやす。虎の御隠居が敗れ、接触感応の旦那も死に、生体魔導兵器のお二方が滅びた今、あの御方の配下はあっしだけとなっちまいやしてねぇ。心許ないっちゅうか、物寂しいってぇのもありやすがね。是非とも、予知の御夫人にはこちら側に来てもらいてぇんでさぁ」 「けれど」 それは、皆への裏切りだ。ジョセフィーヌが返答を躊躇っていると、ヴィンセントは飛び跳ねて肩に乗ってきた。 「遠慮するこたぁねぇでやんすよ。ゼレイブに集まった連中は、どいつもこいつも自分とその身内の幸せしか考えてねぇ連中なんでやんすよ。だから、連中が御夫人を責められるわけがありやせん。きっと、吸血鬼の旦那だって」 ヴィンセントはジョセフィーヌの耳元へ口を寄せると、一際甘く囁いた。 「許してくれると思いやすぜ?」 ジョセフィーヌの心は、傾き、崩れ、落ちた。他の皆もしてきたことだ。だから、自分が求めて何が悪いのだ。 求めてもいいのなら、求めてしまおう。叶わないとばかり思っていた願いを、未来を変えることで現実にしよう。 きっと、上手く出来るはずだ。何がどうなるのかを知り得ているのだから、どこを変えるべきかも知り得ている。 それを見逃さずに動けば、全てが思い通りになる。ジョセフィーヌの胸中に、どろりと淀んだ欲望が流れ込んだ。 「そうよ、そうよね?」 ラミアンなら、きっと。 「許して、くれるわよね?」 愛してくれているなら、許してくれる。ジョーなど足元にも及ばないほど、夫を深く愛しているのだから。 「ねえ、ヴィンセント」 ジョセフィーヌは泣き腫らした目を上げ、傍らの白ネコを見た。 「あなたの御主人の元へ連れていって」 「そう言ってくれると思いやして、ここへお招きしておりやすよ」 お出でなすった、とヴィンセントは顔を上げた。ジョセフィーヌがその視線を辿ると、雪原に人影が立っていた。 薄い月明かりに縁取られた影が、ジョセフィーヌを見つめている。輪郭しか見えないが、背格好で誰かは解る。 見慣れた体格だった。ジョセフィーヌは予知で既に知っていたために驚くことはなく、逆に安堵感さえ覚えていた。 この人なら、きっとなんとかしてくれる。無条件の信頼と共に際限なく期待感が沸き上がり、なんだか嬉しくなる。 ヴィンセントはジョセフィーヌの肩から降りると、うやうやしく頭を下げた。影の主は雪を踏み締め、やってくる。 ジョセフィーヌは胸の高鳴りを感じながら、待ち受けた。その者は柔らかな笑顔を浮かべ、手を差し伸べてきた。 「私の願いを、叶えて下さるの?」 ジョセフィーヌが問うと、その者ははっきりと肯定の言葉を述べた。 「さあ、お手を」 ヴィンセントが促したので、ジョセフィーヌはその者の手へ己の手を伸ばした。 「約束よ」 その者は頷き、重ねられたジョセフィーヌの手を握り締めた。ジョセフィーヌは、寒さで青ざめた頬に色を戻す。 「私の、私だけの、未来…」 この人の手の中には、望む未来へ繋がる糸が握られている。ジョセフィーヌは縋り付くように、手の力を強めた。 痛いくらいに握り合うと、鼓動は更に高鳴った。緊張と高揚が心臓を暴れさせ、歓喜が凍えた心を溶かしていった。 「お寒うごぜぇやす。そろそろお帰り下せぇ」 ヴィンセントはゼレイブの方向を顎で示すと、その者は手を緩めて離してしまった。 「あっ」 急に手を離されて不安になったジョセフィーヌが手を伸ばすと、その者はジョセフィーヌを制して背を向けた。 ヴィンセントも頭を下げ、ジョセフィーヌの元から立ち去った。その者は歩き出したが、数歩先で消え失せた。 それと同時に、二人の足跡も消えてしまった。一人、取り残されたジョセフィーヌは、無性に寂しくなってきた。 だが、これは夢ではない。その証拠に、手には握り合った感触が残っているし、交わした言葉も覚えている。 ヴィンセントの言うとおり、屋敷に帰らなければ。ジョセフィーヌは体を反転させて、ゼレイブへと向き直った。 ゼレイブと平原の境目付近に、鉱石ランプを下げた者が立っていた。青白い光で、銀色の手足が輝いている。 ラミアンだった。彼はジョセフィーヌの姿を見つけると、安堵したように肩を落としてから、高々と飛び跳ねた。 魔導金属糸製の銀色のマントをはためかせながら降下してきた銀色の骸骨は、ジョセフィーヌの傍に着地した。 その際に、雪が僅かに舞い上がった。ラミアンは、狂気の笑みを貼り付けている仮面をジョセフィーヌに向ける。 「ジョセフィーヌ。さあ、我が家へ帰ろうではないか」 「何も言わないの?」 ジョセフィーヌが俯くと、ラミアンは鉱石ランプを持っていない方の手を差し出してきた。 「こうして見つかったのだから、君を責める意味などない。夜の散歩は、私も好いているのでね」 「ええ、そうね」 ジョセフィーヌは笑みを作り、その爪の長い金属製の手に手を重ねた。ラミアンは、柔らかく手を握ってくれた。 この手が自分だけのものになる。ジョーのものでもなく、他の誰でもなく、ジョセフィーヌだけのラミアンになるのだ。 夫の愛を一身に受けるのもジョーではなく、ジョセフィーヌになる。それを思い描いただけで、胸が一杯になった。 仮面ではない、本物の人格になれる。一人の人間として、ラミアンの妻として、生きていくことが出来るようになる。 ずっと、形のない存在だった。自己を認識する自我と記憶を持ち得ているものの、それはジョーの記憶だった。 自我もまた、ジョーの心を通してしか認識出来なかった。ジョーありきの世界でしか、生きられないと思っていた。 あの未来を回避することが、自分の使命なのだと信じていた。あの未来は間違った未来なのだと思い込んでいた。 しかし、そうではなかった。本当に間違っていたのは、己の願いを押し殺して臨む未来を遠ざけていた自分だった。 だが、これからは違う。あの人に従いさえすれば、願いは叶えられる。分岐を曲げてしまえば、未来は変えられる。 思いのままに。 一つの体に、二つの魂は収まりきらない。 明るい笑顔を振りまく幼子の陰で、彼女は人知れず苦しみを重ねてきた。 その苦しみに気付き、差し伸べられた手は、深き闇より伸びるものであった。 黒き手に囚われた器無き魂は、深淵に誘われるのである。 07 11/7 |