あらゆる命は、海へと至る。 古びた城に、扉を叩く音が木霊した。 鉱石ランプの光で照らされたページを捲る手を止めて、目を上げた。何かの気配が、寝室の扉の前にあった。 魔力の大きさからして、魔物だった。下半身を覆っていた掛け布団を払い、肩掛けを羽織って、ベッドから降りた。 ベッドの傍に並べた靴を履き、枕元から鉱石ランプを手に取り、億劫に思いながらも叩かれ続ける扉へ向かった。 スイセンの浮き彫りが彫られた分厚い扉に手を掛け、引いた。軋みながら開いた扉の先には、小さなものがいた。 深い闇に支配された廊下に、夜に全く馴染まない白い生き物が座っていた。二本の尾を持つ、魔性のネコだった。 「夜分遅くに申し訳ございやせん」 丁寧に頭を下げた白ネコは、扉を開けた竜の少女を仰ぎ見た。 「あの御方が、竜の姉御をお招きしておりやす」 「そうか」 フィフィリアンヌは、冷ややかを通り越して無関心だった。ヴィンセントは、不満げに尾を振る。 「相変わらずでごぜぇやすねぇ。もう少し、動揺なさったらどうですかい?」 「いずれ訪れることであったのだ。今更、驚くほどのものでもなかろうて」 フィフィリアンヌの幼いながらも張りのある声はよく通り、冷え切った廊下に反響した。 「奴はどこにいる」 「へえ」 ヴィンセントは、フィフィリアンヌの刃にも似た眼差しを見返した。 「ブリガドーンでお待ちでやんす」 「下らん真似を」 フィフィリアンヌはその言葉にも眉一つ動かさず、寝室に身を戻した。 「伯爵」 名を呼ばれ、机の上のワイングラスがごとりと動いた。その中で、赤紫の粘液がごぶりと泡を吐く。 「貴君如きに言われずとも、既に感じておるのである。我が輩はこの世の何よりも優れた存在なのであるからして、あのような異物を感知せぬわけがないのである」 「スライムの旦那がおられるんでしたらあっしが案内するまでもねぇですが、それではあっしの立場がありやせん」 ヴィンセントは腰を上げ、足音を立てずに寝室に入ってきた。 「あっしはお二人をブリガドーンへ導くために、差し向けられたんでやんすからねぇ」 「勝手にしろ」 フィフィリアンヌは素っ気無く言い捨てると、何の躊躇いもなく寝巻きを脱ぎ捨てて、闇色のローブに袖を通した。 細い腰をベルトで縛り、フラスコを下げるための金具をベルトに付け、使い古した皮製の長靴を両足に履いた。 フィフィリアンヌは癖のない長い髪を手早く櫛で梳き、首の後ろで一括りに縛ると、やはり闇色の外套を羽織った。 それらと同じ色の先の尖った鍔の広い帽子を被ってツノを隠せば身支度が終わり、竜の魔女が出来上がった。 伯爵もワイングラスを揺らして机の上に倒すと、にゅるりと机の上を這いずりながらフラスコへ向かい、昇った。 球体の中へつるりと滑り込んだスライムは、細長く伸ばした触手でコルク栓を引き摺り込むと、器用に栓をした。 フィフィリアンヌは長靴の底で床を鳴らしながら机に近付き、フラスコを取ってベルトの金具に挟み、腰に下げた。 「あれはどうしている」 フィフィリアンヌの問いに、ヴィンセントは語尾を弱めた。 「甲冑の旦那でごぜぇやしたら、最近はとんと大人しくなっちまいましてねぇ。ありゃあ、もうそろそろ…」 「そんなことだろうと思っておったわ」 フィフィリアンヌは僅かに声を落としたが、表情には出さなかった。伯爵は、フラスコの中で触手を振った。 「それもまた運命なのであるからして、抗うことすら許されぬことなのである」 「ならば、目的は大いに変わる」 フィフィリアンヌは外套の裾を翻し、ヴィンセントに向いた。 「私達は貴様らに従って動くわけではない。あのニワトリ頭の死に目に会うために、赴くだけに過ぎん」 「あんれまぁ。そいつぁ、またどうしてでやんすかい? なんでも同じだと思いやすがねぇ」 ヴィンセントがにやけながらフィフィリアンヌに近付くと、フィフィリアンヌは腕を組んだ。 「貴様と奴の目論見など、私を動かすだけの動機にはならん。私が動く時は、私が並々ならぬ興味を抱いた場合と凪いだ魂を揺さぶるほどの出来事が起きた場合だけであり、この場合は不本意ながら後者に当たる。だが、貴様と奴の目論見など前者どころか何にも当て嵌まらん」 「ひどい言われ様でごぜぇやすねぇ」 ヴィンセントは少々不満げに、ヒゲを動かした。 「事実を述べておるまでだ」 フィフィリアンヌは言い捨てると、伯爵はぐにゅりと柔らかな身を捩る。 「して、貴君がこの場にいるということは、あの愚かなる男は判断すら下さなかったということであるな」 「どうもそのようで。あっしはてっきり、甲冑の旦那に殺されるんだとばっかり思っちょったんですがねぇ」 こうして生き延びておりやす、とヴィンセントはひょいと首を竦めた。 「きっと、それが甲冑の旦那の出した答えなんでごぜぇやしょう」 「つまらん」 フィフィリアンヌは、眉根を歪めた。 「最後の最後で力尽きおったか」 「はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは。相変わらず、あれは役に立つようで立たぬ男なのである」 伯爵は高笑いし、ぶるぶると身を震わせた。フィフィリアンヌはヴィンセントの首根っこをつまみ、持ち上げる。 「ブリガドーンはどこにある、教えろ」 「お安い御用でさぁ」 ヴィンセントはにいっと笑うと、藍色の闇に支配された外界に目線を投げた。 「あの御方がおられやす新たなブリガドーンは、まあ、前とまるっきり同じ場所でやんすよ」 「ならば、赴くまでだ」 「もっとも、無駄な足掻きでしょうがねぇ。何をしようが、今更手遅れなんでやんすから」 嫌みったらしく口元を緩めたヴィンセントを肩に乗せ、フィフィリアンヌはその眉間を弾いた。 「それを決めるのは貴様ではない、この私だ」 フィフィリアンヌは目を伏せ、魔力を高めた。足元から熱い風が巻き起こり、部屋中に満ちた冷気が乱された。 外套とローブが揺れ動き、埃が巻き上げられる。フィフィリアンヌは感覚を研ぎ澄ませ、空間制御に集中した。 ヴィンセントが示し、伯爵が感知した場所に移動先の空間軸を固定出来るように、魔力出力を細かく計算する。 魔法陣はおろか魔法文字すら使わずに魔力を制御したフィフィリアンヌは、空間移動魔法を成し、発動させた。 程なくして、足元の空間が歪んだ。石組みの床に現れた空間の穴からは、潮の匂いがする夜風が吹き込んだ。 ゆらりと床が揺らぎ、空間の洞穴に吸い込まれる。今し方まで感じていた、寝室の埃っぽい空気から一変した。 潮の匂いが鼻を突き、肌を刺すように冷たい強烈な風が全身に打ち付けてきて、外套とローブが激しく乱された。 フィフィリアンヌは帽子を押さえて背中から翼を出し、広げた。風を孕んだ翼は、小さな体を容易く持ち上げた。 落下していた体が空中に留まると、視界が開けてきた。目を凝らすと、藍色の闇の中には大陸が沈んでいた。 その先には、島が見える。足元を見下ろすと、数多の命を飲み込んだ海峡が、冬の風を受けて荒れ狂っていた。 そして、大陸と島の狭間に、世界の異物が浮かんでいた。 全身に、湿った土を詰められたかのようだ。 指先を動かしてみるもその反応は鈍く、数秒の間を置いてから、円筒を連ねた銀色の指はゆっくりと開いた。 腕を上げてみるだけでも、肩と言わず体全体を使わなければ動かせなかった。それだけでも、相当力を使った。 体を起こすと、潤滑油を差し忘れたために腰と背中の関節が軋んだ。視界も悪く、自分の手すらもぼやけている。 耳に入る音も、水を通したかのように濁っていた。声を出すのも億劫で、薄暗い天井を見上げる他はなかった。 恐らく、これが老いなのだろう。生前はそれを経験する前に死んでしまったので、少しばかり新鮮に感じていた。 だが、いいものではなかった。この間までは思いのままに動かせていた甲冑の体が、まるで他人のもののようだ。 いや、元々この体は自分の体ではない。親友、マーク・スラウに買い付けてもらった装備品の一つに過ぎない。 だから、今感じている重量が本来の重さだ。生前も死後も力だけは有り余っていたので、感じなかっただけだ。 改めて感じた甲冑の重量は、相当なものだった。近接戦闘用なので装甲も分厚く、関節にも隙間が少なかった。 本来は王国軍の騎兵用甲冑を払い下げたものなので、装甲の質は良かった。だが、動きは決して良くなかった。 槍を用いて馬上で戦う騎兵の戦法と、バスタードソードを力任せに振り回す重剣士の戦法は根本から違っている。 だから、使い勝手が悪いのは当たり前で合うわけがないのだ。しかし、今まではそれを押し切って動かせていた。 動かせるのが当然で、動かせないわけがなかった。生前は相応の筋力を持ち、死後も魔力を得ていたからだ。 だが、今はどうだ。魂が衰えるに連れて全身に満ちていた魔力が零れ落ちるように抜け、ほとんど残っていない。 それを押し止められないかと思った時もあったし、新たな魔力を注いでくれと他の者達に願い出そうにもなった。 じわじわと忍び寄る死への恐怖が萎びた魂を締め付けて、絶望に苛まれ、声を殺して泣いた時すらあったほどだ。 あれほどの人数を殺し、愛する者達が逝く姿を何度も見守ってきたというのに、我が身に降りかかると恐ろしい。 なんて弱いのだろう。厳つい甲冑の中に押し込めていた魂と、魔導鉱石の奥底に隠していた本心はとても矮小だ。 けれど、その弱さを目の当たりにしていると、少しだけ気分が和らいだ。生きていた頃のことを思い出すからだ。 最良の戦友にして最愛なる妻。天賦の才を持った精霊魔導師の息子。その幼馴染にして恋人でもある修道士。 東方の血を引く盗賊崩れの親友。一時、記憶の中から消え失せてしまった愛する妹。そして、片割れである兄。 彼らは皆、死んでいった。戦いで、病で、魔法で、己の意思で、次々に天上へと旅立ち、大地へと還っていった。 天上に行ったとしても、会えないかもしれない。だが、死してしまえば、彼らと同じ世界を見ることは出来るのだ。 「さあて」 一度死んで、蘇り、充分に生きた。 「もう一頑張り、するかねぇ」 これまでずっと、愛する者達のために戦ってきた。迷わずに剣を振るい、己の信じている正しさを貫いてきた。 だが、戦い続ければ続けるほどにその裏で傷付く者は増え、正しいと信じていたことが間違っている時もあった。 それでもなんとか踏ん張ってきたが、もう踏ん張りも効かなくなってきた。今日を逃せば、二度と戦えないだろう。 甘き死に心が揺れたのは、連合軍の脱走兵であるジム・マクファーレンを目の前で殺されてしまった時だった。 彼を生かしてやるつもりだった。争いの続く共和国内でも生き延びられるように、手を尽くしてやるつもりだった。 だが、その思いを少しも果たせぬまま、ジム・マクファーレンは生体魔導兵器によって命を刈り取られてしまった。 生きようとしている男の一人すら守れなくなるほど、魂が弱り切っていた。それが、どうしようもなく情けなかった。 次に、ブリガドーンの一件である。己の生まれを憎み、抗うために戦い抜いたグレイスが呆気なく死んだからだ。 グレイス・ルーは、心から嫌いな男だった。だが、その類い希なる魔法の才能には感服し、敬意すら抱いていた。 今まで、グレイスは失敗しなかった。どんなに無茶な作戦も成功させ、己の欲望を満たしては楽しげに笑っていた。 だから、今度も成功するとばかり思っていた。しかし、グレイスとその妻と傀儡は殺され、一人娘が取り残された。 それと同じくして、ようやく戦い以外の道を見出した元部下、ダニエル・ファイガーが愛する息子を守って戦死した。 明日を見据えて生きようとする者達が、次々に死んでいく。戦えば戦うほどに、愛する者達が命を落としていく。 それらのなんと空しいことか。死ぬべきではなかった者の墓を立てた時の悔しさに、魂が押し潰されそうだった。 死ねば、戦うこともなくなる。そう思っただけで、暗澹としていた心中に柔らかな春風が吹き込んでくるようだった。 けれど、まだ死ねない。やるべきことが残されている。最後の最後まで、鋼の相棒を振り上げて戦い抜かなくては。 「悪ぃ、ヴィクトリア」 ぎ、と首を動かし、ベッドの上で規則正しい寝息を立てている少女を見やった。 「せっかくお前が大人になったのに、これ以上は付き合ってられねぇんだ。すまねぇな」 子供達が大きくなっていく様を見守れないことだけは、心残りだった。だが、彼らなら自分の足で歩いていける。 ヴィクトリアも、リリも、ロイズも、ブラッドも。身に余る力に振り回されずに、溺れずに、前を向いて進めるだろう。 「お前も、今までありがとな」 傍らに立てかけてあるバスタードソードの鞘を、慈しむように撫でる。 「かなりひでぇ使い方をしてきたが、よく持ち堪えてくれたぜ。お前も、立派な戦士だ」 物言わぬ古びた剣は、どことなく安らいでいるように見えた。 「それじゃ、もう一仕事頼むぜ」 鞘の先で床を突き、足元のおぼつかない体を支えた。その重みで鞘が鈍く軋み、ヒビが走った。 「ああ、悪ぃ。そっちの方は、もうダメだったのか」 鞘の表面に広がるヒビを労わってから、上体を起こした。 「だが、後少しなんだ。そう、いい子だ」 そして、足を進める。 「なあ、おい?」 鞘が床を叩き、重たい両足が床に擦れる。壁に手を付きながら進み、扉に手を掛けて開いた。 「あいつらの顔も見ておきてぇところだが、あんまり贅沢は言えねぇか。あいつの城じゃなくて、ここに居座ったのは他でもねぇオレ自身だからな」 扉から出て廊下に入り、背中で扉を閉めた。その時、派手な音がしたが、ヴィクトリアが起きた気配はなかった。 廊下もしんと静まり返り、足元には重たい冷気が流れている。剣を杖代わりにして、壁伝いに歩いて進んでいく。 窓に手を当て、立ち止まった。見慣れたゼレイブの景色もこれで見納めなのかと思うと、感慨深いものがあった。 戦乱から離れて暮らした日々は、とても楽しかった。どうということのない時間は、切なくなるほど愛おしかった。 残雪の残る丘陵、春の息吹が現れ始めた広大な平原、何度も釣りをした湖、土の肥えた畑、牧場が、そこに。 「…あ?」 無い。 「なんだよ、これ…」 何一つ、景色がない。古びた窓の外に目を凝らすも、その先にあるはずの山々や平原が消え失せていた。 「こいつぁ、どういうことだ?」 混乱しながら視線を動かすと、闇の中に家々があるのは見えたが、その先にあるであろう地平線が切れている。 まるで、地図の上から刃物で断ち切ったかのようだった。急いで窓を開けたが、力がないので半分しか開かない。 全部開けられるほどの余裕もなかったので、その隙間から顔を出した。吹き付けてくる風の匂いが、違っていた。 硝煙と煙の匂いこそ混じっていなかったが、あの時の匂いに似ている。忘れもしない、ブリガドーンでの戦いに。 「まさか」 そんなことが、あるわけがない。 「だが、そんな」 外へ出れば全てが明らかになる。そう思い、出来るだけ急いで足を前に進めるも、もどかしいほど鈍かった。 精一杯の速度で階段を下り、正面玄関に向かう。途中、足元が崩れ、階段を踏み外して転げ落ちてしまった。 激しい物音が屋敷全体に響いたが、それだけだった。誰の声もしない。ここにいる面々にしては、妙な反応だ。 この屋敷に住まう者達は、いずれも勘が鋭い。あれほど大きな物音がすれば、一人ぐらいは目を覚ますはずだ。 息を殺して、扉を開け放つ音や廊下を駆ける音を待った。だが、どれほど待とうとも物音一つ聞こえなかった。 胸中に、ざらついた不安が広がっていく。拭いがたい奇妙な違和感が足元から這い上がり、背筋を逆立ててくる。 階段の途中で横たわっているバスタードソードを拾い、それを支えにして立ち上がったギルディオスは戦慄いた。 「おい…なんだよ、なんなんだよ」 声を張ろうとも、どこからも反応は返ってこない。 「なあ、おい!」 不安に震える問い掛けは、天井の深い闇に吸い込まれていく。 「何が、どうなってやがるんだ」 段を確かめるようにつま先で踏み締め、かかとを下ろす。駆け下りたいところだが、落ちたら体がばらけてしまう。 力が失せている今、関節の接続も緩くなっている。以前のような感覚で動いてしまうと、手足がすぐ外れてしまう。 幅広く長い階段の三分の二程度まで降りた時、両開きの古びた扉の外側に足音が止まったため、顔を上げた。 扉は独りでに動き出し、いつになく悠長に開いていく。柔らかな朝日が差し込み、薄い人影が足元まで伸びてきた。 「おはよう、ギルディオス」 見知った者が、そこにいた。 07 10/30 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