世界は丸い。 遥かな高みから見下ろさなければ、決して気付かないことだ。果てのない地平線も水平線も、丸みを帯びている。 下から見上げれば起伏の激しい地形も、上から見れば大した差はない。海に散らばる島々も、おもちゃのようだ。 今までは平坦だと思っていた地平線はかすかに曲線を描いており、その東側からは白い閃光が溢れ出していた。 その光は、広大という言葉では表しきれないほど巨大な大陸に朝をもたらし、まばらに残雪がある平原を染めた。 視界に入る全てのものが白み、光り輝く。太陽は世界を塗り潰していた夜に差し込み、地上を暖かく包み込んだ。 「ああ、いい景色だ」 彼の横顔は、清々しい。 「つい十数年前まで、この景色は我々だけのものだった。だが、昨今では近代技術が発展し、複葉機や飛行船が空へと進出するようになった。それは嬉しいことでもあるが、少しだけ残念でもある。解るかね」 ギルディオスは彼を見上げながら、毒突いた。 「解るようで解らねぇよ」 「おや、それは意外だ。君になら、理解されそうなものだと思っていたのだがね」 逆光の中に立っていた男は振り返り、荒々しく吹き付ける潮風で裾を翻した。 「君が眠らないのは、予想の範疇だ。だから、特に驚くこともない。重傷を負った患者はいくら魔法を使おうとも傷の治りが遅いように、限界まで疲弊した魂や魔力中枢には魔法は行き渡りづらいのだよ。今回、私が用いた魔法は、どちらかと言えば呪術に近い魔法でね。魂に直接働きかけ、深層心理を探り出し、意識を深く深く沈み込ませる魔法なのだよ。魔法陣もちゃんと組んだが、かなり広範囲に描いたのでさすがの彼らも気付かなかったようだ。いや、気付いていたとしても、怪しまなかっただろう。私の存在は彼らの内では平等であり、また中立だった。君も、少し前まではそう思ってくれていたようだがね」 「まぁな。ルージュから事の真相を聞くまでは、オレもあんたを信用していたぜ」 「疑う余地もなければ、事を起こす動機も見当たらない、とでも思っていたのかね?」 「悔しいが、そんなところだ」 「それは嬉しい言葉だ。私という存在は君らにとっていかに無害だったか、そして無色だったがよく解るよ」 「だが、これからはきっちり認識を改めるさ。いい奴ほど腹の底が読めねぇ、ってのはいつものことのはずだったんだが、オレもガタが来ちまったせいか大分勘が鈍っちまったぜ。ああ、全く、メアリーに笑われらぁな」 「それはありがたいね。もう手遅れだが」 「そいつはどうだろうな。ここにいるのは、オレだけじゃねぇんだぜ?」 「君以外の皆は、恐らく目覚めないだろう。現実と見紛うばかりの明晰夢に浸り、惰眠を貪っているのだからね。手に握り締めた傍から滑り落ちた幸せに縋って、在りもしない理想の世界を漂っている。だが、それは彼らへの餞別なのだよ。苛烈な現実を生きてきたのだから、せめて死する時ぐらいは甘い夢を見させてやりたくてね。君はそれを偽善と笑うだろうし、彼女も自己満足だと貶すだろう。だが、これが私の出した答えなのだよ」 「答え、ねぇ」 ギルディオスは視線を強め、彼を凝視した。潮風で盛大にはためく白衣の背を破り、黒い翼が突き出ていた。 あまり整えられていない黒髪からは二本のツノが伸び、両耳は尖り、浅黒い肌なので赤い瞳は特に目を引いた。 その瞳は縦長で、爬虫類じみている。彫りは深いものの目鼻立ちが地味なので、印象に残る顔付きではない。 だが、彼の表情は以前までのそれとは大きく違っていた。穏やかな笑みには鋭さが混じり、口調には重みがある。 普段は押し殺していたであろう威圧的な気配も、無遠慮に放っている。彼が古い竜であると、今一度思い知る。 ファイド・ドラグリク。竜族の生き残りの一人であり、現存する竜族の中では最も旧くから生きてきた男だった。 竜族だけでなく、魔物や人間に精通した医師だ。多少底の知れない部分はあるものの、基本的には温厚だった。 いや、温厚なのだと思い込んでいた。昔は、フィフィリアンヌが冷酷なばかりの人格だと思い込んでいたように。 「ギルディオス。君は、なぜ体が動くうちに私へ手を下さなかったのかね?」 ファイドはギルディオスに向き、訝しげに顎をさする。その視線の先には、手足を失った甲冑が転がっていた。 数々の戦いを経てきた証である細かな傷が付いた銀色の腕が、肩の付け根から外され、手首も抜かれていた。 指は全て付いているものの、魂が弱り切っているせいでそこまで意志を送れず、ただの古びた金属と化していた。 足も同じで、足の付け根から甲冑が抜かれて膝が外されていた。それらは、胴体を中心にして散らばっていた。 首と胴体は繋げてあるのは、最後の温情か、或いは無敵の重剣士の滑稽な姿を楽しむために残したのだろう。 まるで、死体を解体されたかのような光景だった。バスタードソードは傍らに転がっているが、抜けるわけがない。 ファイドの仕業だった。ファイドはブラドール家の玄関先に現れ、階段を下りていたギルディオスに魔法を放った。 ただの衝撃波だと思って受け流そうとしたが、どうやら意志の結合を弱める魔法を込めた魔力波だったらしい。 その魔法により、ギルディオスは辛うじて繋ぎ止めていた腕や足の部品がばらばらに抜け、行動不能に陥った。 これでは、最後の一撃どころか拳すらも与えられない。ファイドは、ギルディオスの行動など読んでいたのだろう。 その上、ギルディオスはファイドの魔法でゼレイブの中央に転送され、屋敷の者達からも引き離されてしまった。 アレクセイとエカテリーナとの戦いで余力をほとんど使い果たしてしまったのだから、考えることはただ一つだ。 そんなもの、ファイドでなくても読めるだろう。ギルディオスも、今度ばかりは自分の考えの浅さに腹が立ってきた。 「オレらしくもねぇことだが、あんたの隙を窺っていたんだよ。さすがにオレもガタが来ているからな。だが、ちぃと手遅れだったらしい。情けねぇ話だが、今のオレはあんたをぶった切れそうもねぇ。歯痒いったらありゃしねぇぜ。それにしても、あんたの仕掛けは周到だぜ。あんた自身が動かなくたって、物事が運ぶように出来ていた。違うか?」 ギルディオスが返すと、ファイドは唇の端を歪めた。 「ご明察だ、ギルディオス。君は、君自身が思っているほど愚かではないと私が保証しよう」 「あんたとも付き合いが長ぇからな。多少は解るさ。あんたこそ、どうしてオレに止めを刺さねぇんだ?」 「君はこれまでの出来事を目にしてきた存在だ。だから、今度も最後まで見る義務があるのだよ」 「見るだけで済むと思うのか?」 「思うとも。今の君に、何が出来るというのかね?」 ファイドの視線が、ばらばらに分解された甲冑を睨め回す。ギルディオスは、その視線を見返す。 「やろうと思えば、なんだって出来るんだよ」 「いい言葉だ。なんとも君らしい」 「こんなものを造れるってことは、ブリガドーンを造ったのもあんただってことか? フィルは天然モノだと言っていたが、本当はそうじゃねぇのか?」 ギルディオスは、ぐるりと周囲を見回した。ゼレイブの手狭な敷地の全てが、見事な円形に切り取られていた。 ブラドール家の屋敷を中心にして、北側に位置する山のふもとと村と平原の境目までの土地が円に入っていた。 高みから見下ろせば、巨大な円形のテーブルの上に家々を配置したような具合だ。かなり大掛かりな魔法だ。 その縁は、刃物で切られたかのように綺麗に均されている。円の先には、見覚えのある島と大陸が広がっていた。 初夏に起きた戦いで完膚なきまでに破壊された基地の残骸が残る、かつての共和国首都が存在していた島だ。 そして、その本土である大陸だ。つまり、ゼレイブを切り出した円形の地面は、あの海峡の上に浮かんでいる。 すなわち、二つ目のブリガドーンというわけである。これは、ファイドが竜であるからこそ出来た大規模な魔法だ。 海峡には、リチャードが強烈な魔法で破壊したブリガドーンの残骸である巨大な岩石が、ごろごろ転がっている。 そのいずれもが尖っており、巨大な土槍が無数にそびえていると言ってもいい。落ちれば、ひとたまりもない。 これだけで、ファイドの目的は充分察せた。ギルディオスは最早苛立ちを隠すこともせずに、乱暴に言い放った。 「ゼレイブを海に落として、皆殺しにしようって腹か」 「簡潔に言い表せばそうなる。何、効率を重視したまでだよ」 「だから、皆を眠らせておいたんだな」 「そういうことだ。彼らは人であるが、人ではない存在だ。ブリガドーンの残骸が放つ荒々しい魔力の中であっても、魔法や異能力を使用出来てしまう。そうなれば、私が考案した最も効率の良い作戦が乱されてしまうからね。最後の最後で邪魔をされてしまって、計略を頓挫した実例はいくつも見てきた。だから、不安要素はすべて排除した上で行動を取ることに決めたのだよ」 「だったら、その計算はずれているぜ。まだあいつが残っているじゃねぇか」 「そうとも。我が一族の生き残りであり、人でもなければ竜でもない異形の生物であり、冷酷でありながら心優しいという矛盾を孕んだ魂を持つ彼女がこの世に存在している。かつて、我が一族が栄えていた頃は同族殺しは大罪であった。しかし、それは血の繋がりに最も重きを置く閉鎖的な社会が存在していたからこそ成立していた罪なのであり、竜族が滅び、その社会が潰えた今となっては、罪を犯したとしてもその罪を裁く者はどこにもいない。人を殺すのは人であるように、竜を殺すのも竜なのだよ」 「あの女は、あんたなんぞに殺されるようなタマじゃねぇと思うがな」 「確かに、経験から行けば、彼女の方が多少なりとも有利だ。しかし、それは大した問題ではない。君は殺傷行為と戦闘行為を同一視しているから、そのような感覚に捉えられるのだ。血の通った生物から命を奪う方法で最も簡単なのは、その血を抜いてしまえばいいのだよ。または、脳髄や心臓といった重要な器官を一撃で破壊してしまえばいい。わざわざ魔法で攻撃したとしても、彼女ならば受け流せてしまうからね。それに、魔法による攻撃は見せ掛けに過ぎない。本当に重要なのは魔法の威力ではなく、いかに急所を攻められるか、ということなのだよ」 「まあ、そりゃそうだが」 「詰まるところ、我々は頑丈そうに見えて脆いのだよ。魔法文化の土壌を失ってしまえば、我々の持ち得ている力はいかに優れていようとも脅威であり恐怖にしかならないのだよ。どれほど難解な魔法文字を読み、どれほど高度な魔法を扱い、どれほど素晴らしい魔導兵器を造り上げ、どれほど凄まじい威力を持った魔法を操ろうとも、羨望や尊敬の眼差しを浴びる日は二度と戻ってこない。もっとも、そんな陳腐なものを得るために魔法の中で生きてきたわけではないがね」 ファイドは手のひらを挙げ、その上に小さな炎を成したが、潮風ですぐに掻き消された。 「我々が生きられる世界は、とても狭い。それは精神的なものではなく、物理的にもそうだと言える。まず、魔導鉱石という鉱物が採掘可能な鉱脈が存在している大陸はこの大陸だけであり、大国と睨み合っている合衆国があるもう一方の大陸にはそんなものは存在していないのだよ。似たような効力を持つ鉱石はないわけではなかったが、魔導鉱石ほど純度が高く出力の強い魔力を宿した鉱石は見当たらなかった。また、我々のような特殊な能力を持った生物も探してみたが、人も動物もほとんどが力を持っていなかった。稀に異能力を宿した人や動物もいたが、それは単なる突然変異で寿命も短ければ生殖機能も不充分だった。魔法を使って命を長らえさせても、せいぜい数年しか生き延びなかった。それ以前に、魔力に対する適応能力が極めて低かったのだ。多量の魔力を与えても魔力中枢がないために魔力を蓄積出来ず、魂はあるのだが我々の持つ魂とは少々具合が違っているために、思念の伝わりも悪かった。生物的構造は酷似しているのだが、根本的な部分に相違があるのだよ」 「そいつぁ知らなかったぜ」 「人ならざる者であれば、この事実は知っておくべきだ。更に付け加えれば、我々の絶対数に対してそうした生物の絶対数は遥かに上なのだよ。桁で言えば、十何桁ほど上の数がいるのだよ。それに比べて、我々は少数だ。つまりは、我々はこの世界における異物と言ってもいい」 「ああ、そうかもしれねぇな」 ギルディオスは、内心で顔を歪めた。短い返事を返しているだけなのに、力が削げていく。 「では、先程の問いに答えるとしよう。ブリガドーンは彼女の言う通り、自然に出来たものだ。だが、あれを発見した際に、私と彼女で少しばかり手を加えておいたのだよ。残り少なくなった魔力と魔導鉱石をどれだけ採取出来るのか、という実験を行うためにね。その時に施した魔法の正体は、ブリガドーンの核と言える魔導球体なのだが、あれも当初はあんな大きさではなかった。ブリガドーン自体も両腕を回せば抱えられるほどの大きさであったので、手のひら大の大きさの魔導鉱石を仕込んだのだよ。だが、時間が経つに連れてブリガドーンはあらゆる場所から魔導鉱石を転送させて合体し、自己増殖をしていった。挙げ句の果てに、核であった魔導鉱石も増殖させて拡張していたのだが、このままではブリガドーン本体と核の魔力の均衡が崩れてしまうとのことで、私と彼女で再度魔法を施したのだ。それが、君達がブリガドーンでの戦いで目撃した魔導球体の正体なのだよ」 「フィルの目的は禁書を集めて海に隠すことだったが、あんたの目的は別にある」 「もちろんだとも。私がブリガドーンに手を付けた目的は、その力を利用するためにある。魔法文化と我々の社会の終末を彩るかのように、限られた魔力を掻き集めてくれたブリガドーンから溢れ出している過剰な魔力を無駄にすることは出来なかったからね。私は、その膨大な魔力を魔法を用いる手術で利用させてもらったのだよ。彼女は己の手駒である魔導兵器三人衆を稼動させ、生かすために使っていたが、私も己の手駒を操るために使ったのだよ。形は少々違うが、やることは同じなのだ」 だが、とファイドは物悲しげに言葉を切った。 「彼女は、私の考えを理解してくれなかったようだよ。彼女ならば解ってくれると思っていたのだが」 「フィルだけじゃねぇよ。オレも、あんたの考えは解らねぇ」 「君や他の面々に解ってもらおうとは、最初から思っておらんよ。いや、解ってくれという方が無理なのだ」 「解ってほしいと思ってねぇからだろうが」 「ふむ、そういう捉え方もあるな」 そう言ってから、ファイドは顔を上げた。 「やあ、来たね」 ファイドの視線の先は、朝焼けに染まる空だった。ギルディオスもその方向を見たが、視界は薄く霞んでいた。 すると、二人の見上げている部分の空が歪んだ。空の一部を掴んで捻じ曲げるかのように、朝焼けが変形した。 その中心が開くと、黒衣に身を包んだ少女が現れた。着地すると、肩に乗っていた白ネコが身軽に飛び降りた。 少女は先の尖った鍔の広い黒い帽子と同じく黒の外套を着込んでおり、小柄な体をすっぽりと覆い隠していた。 海上から吹き上がった風が、宙に浮かぶ異物を包み込み、通り抜けた。その際に、少女の外套は大きく広がる。 潮風で軽く浮き上がった帽子の鍔を抑えていたが、指先で持ち上げた。きつく吊り上がった目が、二人を見る。 「久しいな」 少女、フィフィリアンヌが先に声を出すと、その腰に下げられたフラスコの中で伯爵が蠢いた。 「しばらくぶりであるぞ、ファイド」 「ちゅうわけで、旦那。あっしの仕事は、これで全部終わりっちゅうことでやんすねぇ」 フィフィリアンヌの足元にいたヴィンセントは、二股に分かれた尾を上げてゆらゆらと揺らした。 「ですが、こんな場所にいたんじゃあっしはどうにも動けやせんので、事の終わりまでしかと見させて頂きやすぜ」 「構わんよ、ヴィンセント。君にはその権利がある」 ファイドが頷くと、ヴィンセントは深々と頭を下げた。 「そんなら、お言葉に甘えさせて頂きやしょう」 フィフィリアンヌはファイドから目を外し、その足元に転がっているくたびれた甲冑の手足と胴体を見下ろした。 腰にぶら下げたフラスコの中で、伯爵がため息に似た気泡を吐き出した。後悔とも諦めとも取れる態度だった。 一目見て、状況は理解出来た。ギルディオスは力尽きたから戦わなくなったのではなく、機会を窺っていたのだ。 純血の竜族であるファイドと真っ向から戦うことは、魂が弱り始めていたギルディオスではかなり厳しいことだった。 いくら人ならざる腕力と身体能力を備えた重剣士と言えど、その力が届くのはバスタードソードの長さと同等だ。 ファイドが元の姿に戻って暴れでもすれば、ギルディオスであろうとも一切勝ち目はなく、無様に敗北するだけだ。 一瞬の隙を狙う、という彼の目論見は悪くない。だが、良くはない。それだけで勝てるほど、竜は甘くないのだ。 手足を外されているギルディオスの姿を見た途端に、どんな言葉よりも的確に、辛辣に現実が突き付けられた。 今の今まで目を逸らしていたが、もう逃れられない。どれほど距離を開けようとも、残酷な事実は変わらなかった。 だが、ここで崩れては情けないにも程がある。フィフィリアンヌは薄い唇を引き締めてから、ファイドを見据えた。 「ファイド。貴様は思い上がっておる」 「それは君も当て嵌まるとも、フィフィリアンヌ。君の出した答えも、正しいわけではないのだよ」 ファイドは散歩をするような穏やかな足取りで歩き出し、竜の少女へ近付いた。 「少なくとも、私は私の答えを信じている」 「私も私の答えを信じておる。だからこそ、貴様とは手を切ったのだ」 フィフィリアンヌが眉を吊り上げると、ファイドはからからと笑った。 「そう怒らないでくれたまえ、フィフィリアンヌ。さしも君でも、凶相では美しくないぞ」 「口先で褒め称えられた程度で、私が心を変えるとでも思ったのか。浅はかな男だ」 「ああ、君らしいねぇ」 ファイドは喉の奥でくつくつと笑っていたが、表情を消した。 「だが、これで、君の出した答えの結果は解っただろう。彼らを生かしておいても、何ら事態は好転しないのだよ」 「そうやもしれんな。だが、貴様の答えでは何一つ解決せん。それだけは紛うことなき事実だ」 「解決させる気など、毛頭ない。根源から潰えない限り、終わりなど訪れないのだよ」 言い終えぬうちに、ファイドは身を翻した。白衣の裾と大きな黒い翼が広がり、凍えた風を孕んで丸く膨らんだ。 「ええ。終わりませんわ」 翻った白衣の陰から人影が現れ、潮風の間から女の声が聞こえた。彼女はギルディオスらへ、品良く一礼した。 甲冑の体でも解るほど寒々としているにも関わらず、彼女は上着を着ておらず、エプロンドレスをなびかせていた。 清らかな朝日が、その両手に握られているものを輝かせた。ブラドール家の居間に飾られていたレイピアだった。 「終わらないから、終わらせるんです」 女は、ギルディオスの傍で足を止めた。 「おはようございます、少佐」 「ジョセフィーヌ、だな?」 ギルディオスが聞き返すと、ジョセフィーヌは素直に答えた。 「はい、そうです」 「そうか、ファイドの魔法で眠っちまっているのは、ジョーの方なんだな? だから、お前は起きていられるんだな」 ギルディオスが言うと、ジョセフィーヌはうっすらと笑んだ。 「ええ。あれは今、どうしようもないぐらい幼い夢を見ておりますわ。ですから、この私は完全なる私です。これこそが本来の私であり、私が私として在るべき姿なのですわ」 「お前、それをどうするつもりだ?」 ギルディオスがレイピアを顎で示すと、ジョセフィーヌは僅かに眉を歪めたが笑顔は消さなかった。 「決まっていますわ。在るべき未来を作るために使うんです」 ジョセフィーヌはギルディオスを一瞥すると、仮面を顔に貼り付けたような笑みを浮かべたまま、歩いていった。 その先には、フィフィリアンヌが立っていた。フィフィリアンヌは動じることもなく、剣を携えた女を鋭く睨み付ける。 「貴様は何者だ」 「そういえば、初対面でしたわね。ジョセフィーヌと申します。この体の本来の持ち主ですわ」 ジョセフィーヌはレイピアの切っ先を上げ、少女の平たい胸元に据えた。 「おい、何しやがんだよ!」 ギルディオスが動揺して声を上げると、フィフィリアンヌはギルディオスを制した。 「黙っておれ。こんなもの、どうにでもなる」 「けどよ!」 「やかましい」 フィフィリアンヌは素っ気なく返し、鋭利な切っ先を突きつけるジョセフィーヌを見上げた。 「貴様如きが、私を殺せると思うな」 フィフィリアンヌは魔力を高めながら、ジョセフィーヌへ手を差し出した。すると、その手に白いものが絡み付いた。 それは、長く伸ばされたヴィンセントの尾だった。白ネコは見る見るうちに体が膨み、大柄な獣人へと変化した。 ヴィンセントは素早い身のこなしでフィフィリアンヌの背後に回り、爪の生えた毛むくじゃらの手でその顔を掴んだ。 「貴様っ」 「さあ、やっておくんなせぇ。あんたの未来を勝ち得るためでごぜぇやすよ」 ヴィンセントはフィフィリアンヌの細い顎を押さえ、太い爪先を白い頬へ食い込ませ、幾筋もの血を滴らせた。 「ごめんなさい、フィフィリアンヌさん」 ジョセフィーヌは暗い欲求に高揚した笑みのまま、レイピアを竜の少女の胸に突き立てた。 「…かっ」 黒い外套とローブを着た胸元に、細身の刃が飲み込まれる。苦痛を押し殺した喘ぎが、白い喉から零れ出た。 ぼたぼたと散った赤い滴が、フィフィリアンヌのつま先を濡らす。背中から飛び出した刃が、外套を破っていた。 「心臓を貫かれちまっては、さしもの竜も形無しでやんすねぇ」 ヴィンセントはフィフィリアンヌの顎から手を放すと、身を下げた。 「さぞかし痛ぇんでしょうが、事が終わるまでのちぃとの辛抱でごぜぇやす」 「全ては、未来のためですわ」 ジョセフィーヌは腰を捻り、フィフィリアンヌの薄い胸から剣を引き抜いた。途端に、出血が増して地面を汚した。 フィフィリアンヌは痛みと出血で膝を折り、崩れ落ちた。伯爵が彼女に声を掛けるも、返事は返ってこなかった。 普段なら即座に働く再生能力が、まるで働かない。魔力を呼び起こそうにも、胸に開いた穴から血と共に抜ける。 痛みのあまりに咳き込むと、血混じりの胃液が戻ってきた。その胃液と血の混じった飛沫が、甲冑に降り注いだ。 「フィル!」 ギルディオスは、内心で目を見張る。フィフィリアンヌは汚れた口元を拭い、掠れた声で叫んだ。 「ファイド。貴様、何をした!」 「何、至極簡単な魔法だとも。説明するまでもないほどのものだ」 ファイドはフィフィリアンヌの前にやってくると、膝を付いて目線を合わせた。 「最後の最後で、君に動かれては困るのだよ。君に確実に死んでもらうためには、これも必要なことなのだよ。たっぷりと血を抜いて意識を落とし、弱らせてからではないと、君の首は落とせないだろうからね」 ファイドは人差し指をフィフィリアンヌの首へ添え、ついっと横に滑らせた。 「手術の中でも、切断は得意でね。昔のよしみだ、傷口は綺麗に仕上げてみせるとも」 「貴様、それでも、医者か」 「君にだけは言われたくないね、フィフィリアンヌよ」 ファイドは立ち上がり、フィフィリアンヌから離れた。フィフィリアンヌは自身の血溜まりに突っ伏し、低く呻く。 「愚か者共が…」 「愚かなのは君達の方ではないか、フィフィリアンヌよ」 黒き竜は、至極満足げに笑った。ギルディオスは歯噛みし、這いずろうとしたが肘と膝がないので無理だった。 胸部と腹部の装甲を捩って少しずつ動き、フィフィリアンヌに向かおうとすると、ヴィンセントの足が降ってきた。 激しく地面に叩き付けられ、全身の装甲が震える。ヴィンセントの足を払おうとするが、逆に踏み躙られてしまう。 頭上では、三人が笑っている。それぞれの思いを含めた、愉悦の声だ。それが耳障りで、神経を逆立ててくる。 だが、耳を塞ぐことすら出来ない。胸を貫かれて苦しむ竜の少女へ手を伸ばすことも、抱き起こすことも出来ない。 なぜ、肝心なときに戦えないのだ。何のために剣を持ち、何のために今まで踏ん張って生きていたのだろうか。 歯痒い。情けない。腹立たしい。苛立たしい。疎ましい。忍び寄る死の気配に勝てない自分が、腹の底から憎い。 ここで立ち上がらなければ、戦士ではない。 世界の異物に君臨するのは、黒き竜。 眠れ。人ならざる愚者達よ。朽ちよ。死した戦士よ。滅べ。竜の女よ。 在るべき未来はただ一つ。そして、訪れる結末もただ一つ。 それこそが、黒き竜の願いなのである。 07 11/3 |