ドラゴンは滅びない




烈火



 ギルディオスは、熱していた。


 魂が、鋼の肉体が、剣が、全てが熱い。ぎちぎちと激しく噛み合う刃を押し込みながら、足を力一杯踏ん張った。
足の下で石が割れ、砕け散った。目の前で右腕の主砲を押し出そうとしている彼女は、銀色の唇を歪めていた。
煙が立ち上る。うっすらとした灰色が視界の隅を掠めながら流れていく。その煙は、体のそこかしこから出ている。
 ぎち、と踏み込んでいる足に力を込めた。攻撃の出力では彼女の方が上かもしれないが、馬力では負けない。
バスタードソードを支えている手首を、僅かに曲げた。そして腰を据えて前に身を乗り出し、肘まで一気に曲げる。

「てめぇの」

 ギルディオスはバスタードソードを捻って突き出すと、ルージュの首根に差し込んだ。

「負けだあっ!」

 それを、躊躇いなく力強く薙ぎ払う。赤い瞳が大きく見開いた次の瞬間、ルージュの重たい体は石畳を抉った。
焼き菓子でも砕くかのように簡単に石畳が壊れ、下の土が露出する。ギルディオスは、肩を大きく上下させる。
背後を窺うと、禁書を固く抱き締めたヴィクトリアは敵意と殺意を丸出しにした目をルージュをきつく睨んでいた。
 ギルディオスは頭から石畳に突っ込んだルージュの手前に立つと、その目の前に鋭利な切っ先を突き付けた。
彼女の表情は、ほとんど変わっていなかった。渾身の打撃を受けたはずだが、首にも顔にも傷は付いていない。
陰りのない銀色の肌は、ギルディオスの姿を映し込むほど滑らかだ。余程良い魔導金属を使っているのだろう。

「確かに」

 ルージュは左腕を上げ、副砲をギルディオスの顔面に突き付けた。

「だが、お前の勝ちでもない」

「そいつは、どうだかな」

 ギルディオスはルージュの副砲を左手で掴み、関節とは逆方向に捻った。ぎぎぎぎ、と金属が鈍く軋み始める。
熱は止まらない。左手を通じて流れ出した熱がルージュにまで伝わったのか、彼女は一瞬だけ口元を歪めた。
 発端は、前回と同じだ。魔導師協会支部があった街を訪れた三人が禁書を奪おうとした際に、彼女が現れた。
今回の禁書は前よりも遥かに簡単な場所である書庫の中にあり、ヴィクトリアは書庫の封印の魔法を解除した。
床から天井までびっちりと詰め込まれた本の中から禁書だけを抜き出し、外へ出たところ、ルージュが現れた。
 その時ルージュは面倒そうに、またか、と言い捨てたがヴィクトリアも負けずに、またあなたね、と毒突いた。
ヴィクトリアは四冊もある禁書を抱えて戦おうとしたので、ギルディオスはそれを遮るために剣を抜いたのだった。
 そして、ルージュと戦っていた。砲撃主体型の彼女の攻撃力は凄まじいが、懐に入ってしまえば簡単だった。
両腕の長い砲が邪魔をして、近接戦闘には向いていないらしい。そこをギルディオスは突き、押したのだった。
 左腕の肘と二の腕を繋ぐ関節がねじ曲がっていくと、さすがにルージュも痛むのか唇から呻きが零れている。

「離せ」

「お前が何の目的で禁書を集めてるのか教えてくれるっつーんなら、考えてやらないでもねぇ」

 彼女の左腕は完全に逆に曲がり、関節部分の繋ぎ目と軸が露出していたが、ギルディオスは手を緩めない。

「他にも色々と聞きてぇことがある。まず、お前は誰に造られたんだ? ついでに誰かに殺されたのか?」

 ルージュは牙の生えた歯で唇を噛んでいたが、口を開いた。

「答える義理はない」

 ルージュは砕けた石畳につま先を埋めながら、立ち上がった。ギルディオスが身構えると、彼女は身を捻った。
左腕の関節を中心にして、鋼鉄の肢体がしなやかに躍動する。上半身が反らされ、長い足が視界の前を過ぎる。
それが、一回転した。左腕と上腕を繋いでいる関節部が回転と共にねじ切れていったかと思うと、へし折れた。
関節が折れた瞬間、ルージュは顔をしかめたが一瞬に過ぎなかった。更にもう一回転身を捻り、間隔を開ける。
 ギルディオスの手元には、折れた部分から火花の散る彼女の左腕が残されていた。ルージュは、自切したのだ。
ルージュの体から離れた左腕は単なる鉄塊に過ぎないので、急に重量が肩に訪れた。それは、予想以上だった。
左腕一本でこれなら主砲はどれくらいなんだよ、と思わないでもないが、今はそんなことを考えている暇はない。
 ギルディオスはその左腕を背後に放り投げると、バスタードソードを構えた。その先に立つ女は、平然としている。
痛覚がない、というわけではないのだろうが、なかなか思い切った行動だった。女にしては、根性が座っている。
ギルディオスは内心で感心しつつ、ルージュを見据えた。ルージュは左腕を気にすることもなく、視線を返してきた。

「気が済んだか? ならば、退かせてもらおう。副砲を失ってしまっては、私の攻撃力は半減するからな」

「ん、なんだ。結構、あっさりしてんだな」

 ギルディオスが意外に思うと、ルージュは背中に付いた推進翼から青白い炎を出し、浮上した。

「禁書を奪還する機会は、何も今だけとは限らない。効率を重視したまでだ」

 ルージュは視線を逸らすと、銀色の長い髪をなびかせながら背を向けた。舞い上がり、夜空に吸い込まれる。
その後ろ姿を見送り、ギルディオスは深く息を吐いた。全身に籠もっていた熱が徐々に収まり、空気に奪われる。
 あの傷でも眉一つ動かさないとは、強い女だ。そういう女はギルディオスの好みだが、敵にすると面倒な相手だ。
振り返ると、ヴィクトリアが凄い目をしてルージュの左腕を踏んづけていた。きっと、後であの斧で殴るのだろう。
その光景を想像したギルディオスは心底げんなりしたが、バスタードソードを背中に載せている鞘の中に戻した。
 ヴィクトリアを左脇に抱えたついでにルージュの左腕も持ち、だん、と崩れた石畳を踏み切って飛び上がった。
すぐ脇でヴィクトリアの小さな悲鳴が聞こえ、風を切る音が耳元でする。魔導師協会跡地の瓦礫が、遠ざかる。
姿勢を前に傾けて、手近な家の屋根に飛び降りた。足の裏を屋根に擦り付けて勢いを殺し、その上に止まった。

「おーおー、お出でなすった」

 ギルディオスの眼下には、魔導師協会跡地に集まってきた連合軍の姿が見えた。今回もまた、人数が多い。
ランプを持った兵士達が歩き回り、小銃を構える音がする。連合軍は、しきりに何かを探しているようだった。
 この光景は、最早恒例のものだった。ルージュ、或いはフリューゲル、もしくはラオフーとの戦闘も同じである。
ヴィクトリアが禁書を奪おうとすると、必ず三人のうちの誰か一人が現れて禁書を奪おうとするので戦闘が始まる。
必ず戦う必要があるというわけでもないのだが、ヴィクトリアに急かされてしまうのと、彼らから襲ってくるからだ。
襲われれば、応戦しなければならない。よって、ギルディオスは不本意ではあったが剣を振るう羽目になっていた。
そして、前後に必ず連合軍が現れるのだ。ギルディオスらか、ルージュらを逮捕しようとしているのかもしれない。
だが、連合軍に目を付けられる前に立ち去って街から離れるので、連合軍の目的が何なのかは把握していない。

「いい加減に離してほしいのだわ」

 ギルディオスの左脇で、ヴィクトリアが拗ねた。細い腕に分厚い本を四冊も抱えているので、重たそうだった。

「ああ、悪ぃ」

 ギルディオスは少女を屋根に下ろし、立たせた。ヴィクトリアは本を抱え直し、ギルディオスを見上げた。

「どうせなら、あの女を殺せば良かったのだわ。なぜ逃がしたりするの?」

「いや、殺せねぇよ、あいつは」

「だけど、腕は取ったわ。それに、あの女の弱点は露出しているじゃない。そこを叩けば済む話じゃなくて?」

 ヴィクトリアは、甲冑の左手に握られているルージュの左腕を見やった。ギルディオスは、大きな肩を竦める。 

「何度か斬り付けてみたんだが、全然歯が立たねぇんだ。どうやら、普通の魔導鉱石じゃなさそうだぜ」

「面白くなくってよ」

 ヴィクトリアは唇を尖らせ、頬を張る。ギルディオスは、空いている右手でヴィクトリアの頭を押さえた。

「そう言うな。あんなのと何度もぶつかって生きてるだけでもいいってもんだ、伯爵んところに帰るぞ」

「つまらないわ。けれど、そうね、あの雑魚共を吹き飛ばせば少しは気が紛れるのだわ」

 ヴィクトリアは禁書を抱えていた手を外し、掲げた。だが、その手はギルディオスの手に遮られた。

「やめとけ。無駄に死人を増やしてどうする。退く時は退くんだ、ヴィクトリア」

「いちいちうるさくってよ」

 不満そうだったが、ヴィクトリアは手を下げた。いい子だ、とギルディオスは頷いてから彼女をまた脇に抱えた。
両足に力を込めて、レンガ造りの屋根を踏み付けた。膝に力が伝わり背中が伸び、夜空に向かって跳び上がる。
背中に担いだバスタードソードが揺れ、腰までのマントがはためき、赤い頭飾りがなびいて視界の隅を掠める。
 宙に留まれる時間はない。ある程度の高さまで上昇したら、推進装置も滑空用の翼もないので落ちるだけだ。
ほんの僅かな浮遊感はすぐに去り、足は地面へと向かう。姿勢を傾けていると、次の屋根が足元に見えてきた。
その上に落下し、がちゃっ、とレンガを踏み砕きながら着地する。それを何度も繰り返して、街外れに向かった。
 空に近付いた瞬間に目に入る光景は、美しかった。昔と変わらぬ光を放つ星々が、闇色の世界に散っている。
ギルディオスは十二回目の着地と跳躍を行い、着地の拍子にずり落ちてしまいそうになった少女を抱え直した。
十三回目の屋根の上に落下し、再び足に力を込めようとした。だが、一瞬、力が上手く足に伝わらなかった。
 過熱しすぎたからか、それともルージュと戦ったからか。その疑念を振り払うために力を込め、再び跳んだ。
少し、休む必要はある。この体は疲労は知らないが、魂は人間なのでそちらが消耗しているのかもしれない。
 星空に見下ろされながら、ギルディオスは跳び続けた。




 夜明け近くなって、ギルディオスは目を覚ました。
 昨夜は夜通しで蒸気自動車を走らせ続けたので多少疲弊していたが、頭が冴えているので眠りは浅かった。
人目に付かないように森の中に蒸気自動車を隠したので、黒い車体には朝露に濡れた葉が貼り付いていた。
 ギルディオスは運転席から体を起こし、首を曲げた。後部座席では、眠ったはずのヴィクトリアが起きていた。
ヴィクトリアは後部座席に仰向けになっているが目は開いており、昨夜奪取した禁書を熱心に読み耽っていた。

「なんだ、起きてたのかよ」

 ギルディオスが声を掛けると、ヴィクトリアは活字を辿っていた目線を甲冑に向けた。

「これ、変だわ」

「何が」

「だって、これは魔導書ではないのだわ。ほら」

 ヴィクトリアは毛布をまくりながら起き上がると、今し方読んでいた本をギルディオスに差し出した。

「ん」

 ギルディオスは本を受け取ると、表紙を見た。中世時代の文字で、王国民間伝承譚、と題名が印刷されている。
著者名は、デイビット・バレット。見覚えのある名に無性に懐かしくなって、ギルディオスは内心で顔を綻ばせた。

「なんだ、デイブの本かよ」

「何、知っているの?」

 ヴィクトリアは身を乗り出し、運転席の背もたれに腕を乗せた。ギルディオスは、古い字体のページをめくる。

「まぁな、古い知り合いだ。グレイスの野郎の腹違いの兄貴で、ルーの正当継承者だった奴なんだけど、色々あって幽霊になってフィルの城に居着いていた野郎なんだ。その辺の詳しい事情は、グレイスかフィルにでも聞いてくれ。オレから説明するよりも一万倍ぐらい解りやすいから。伯爵の奴、喜ぶだろうぜ。なんたって、デイブは伯爵の最初で最後の友達だからな」

「そうね、喜んでいたわ。私の耳元でそのデイビット・バレットを徹底的に賛辞したかと思ったら頭ごなしに罵倒したりするものだから、何度殺してやろうかと思ったか解らなくってよ」

 ヴィクトリアは恨みの籠もった眼差しを、後部座席に転がしているフラスコに向けた。ギルディオスは苦笑した。

「あー、そうか、だから起きてたんだな?」

「そうよ。あなたは珍しく深く眠っていたようだから、気付いていなかったみたいだけど」

 ヴィクトリアは苛立ってはいたが眠たげで、目はとろんとしていた。ギルディオスは、ページをめくっていく。

「ま、オレも結構来てたからな。そういう時もある。いやー懐かしいな、王国の昔話ばっかりだぜ」

「私は知らないものが多かったわ」

「だろうぜ」

 ギルディオスは運転席にもたれかかり、文字を追った。デイビットの飾り気のない文章は、なかなか読みやすい。
ギルディオスの知っている昔話も多く、それに関連した己の子供の頃の記憶や息子が幼い頃の記憶も蘇ってくる。
この話はやけに怖かった、この話でランスは泣いた、この話は作り話じゃなかった、などといくらでも思い出す。
 その中の一つに、目が止まった。彼方より現れし空中庭園、という幻想的な話だが、作中の単語が気になった。
話の内容は、王国内の北部地方の伝承で、百年に一度空から現れる庭園には精霊王がいるというものだった。
精霊王は空から人間を観察していて、善行を重ねれば幸運を、悪行を重ねれば不運を下すのだと書かれている。
肝心なのはその精霊王でも、精霊王を守護する精霊達でもなく、空中庭園の名だった。空中庭園、ブリガドーン。

「ブリガドーン?」

 ギルディオスは、思わず体を起こした。ヴィクトリアも顔を前に出し、そのページを覗き込む。

「あら、本当ね。ブリガドーンだわ。きっとそれが、あの山の名前の元に違いないわ」

「昔話が元ネタなんて、なんか気ぃ抜けるな」

 ギルディオスが少し笑うと、ヴィクトリアは唇に指先を添えた。

「けれど、あなたはどうしてそれを知らなかったの? この本が出版された年代に生きていたのに知らないなんて、不思議だわ」

「昔のオレは剣の修練ばっかりやっててよ、字もろくに読めねぇくらい馬鹿だったから、本なんてまるで読まなかったんだ。だから、知ってるわけがねぇんだよ」

 ギルディオスは、ブリガドーンの話に目を通した。古の精霊王。空に浮かぶ庭園。人を見守る、人でない者達。
それに平行して、魔物のはびこる日常、魔導師が繁栄した国、魔法が暮らしを成り立てていた時代が見えてくる。
ついこの間までの世界にいたはずなのに、随分と遠くに感じる。魂が締め付けられそうなほどに、寂しくなった。

「ちょいと、体動かしてくらぁ」

 ギルディオスは本を閉じてヴィクトリアに渡すと、剣を担いで運転席から下りた。

「あら、そう?」

 ヴィクトリアは本を受け取ると、後部座席に戻った。ギルディオスは枯れ枝や雑草を踏み分け、道に出た。

「おう。日が昇ったら帰ってくるからいい子にしてるんだぞ、ヴィクトリア」

「いちいち子供扱いしないでくれる? 不愉快なのだわ」

 ヴィクトリアは少しむっとしたようだったが、ギルディオスはそれに背を向けて真っ白な朝靄の中へと駆け出した。
雑草を踏み潰すと朝露が弾け、湿った土につま先がめり込む。森の傍に続く荒れ果てた道を、真っ直ぐに進む。
 体は軽い。どこまでも走っていける。がしゃがしゃと甲冑が擦れ合う音が耳障りだが、心地良い音でもあった。
甲高い鳥の声が木々の間から聞こえ、ギルディオスの姿に反応した鳥が枝から飛び上がって羽ばたいていった。
 森と街道が繋がる辺りで足を止めて、振り返った。重たい霧が足元に垂れ込め、全身にまとわりついている。
息は荒がないはずだが、整えていた。生前の感覚は未だにそこかしこに残っていて、現れるたびに変な気になる。
なんとなく笑いたい気分になりながら、背中からバスタードソードを抜いた。いつものように掲げ、いつものように。
 だが、腕の動きが鈍い。昨日感じた足の反応の遅さと同じように腕もまた、魂からの意思を遅れて受け止めた。
まるで他人の体だ、と思った瞬間に可笑しくなった。そもそも、この体は仮初めのものであって本物ではないのに。
自分は、当に死んだ。兄に魔法で操られた剣に腹を貫かれて、兄への恨みと家族への思いを抱きながら果てた。
だから、今更何を思う。ギルディオスは自嘲気味に笑みを零しながら、分厚く長い刃で白い霧を切り裂いていった。
 ぶぅん、と空気が唸る。緩やかな風が割られ、雑草が切られ、青臭い匂いと朝露が飛び散って装甲を叩いた。
だがやはり、動きが鈍かった。足元も両腕も、ギルディオスが思った瞬間から一拍遅れている。何かがおかしい。

「オレも、とうとう焼きが回ったか?」

 ギルディオスは剣先を地面に突き立て、胸元に手を当てた。

「まぁ、あれだけ熱くなってりゃあな」

 いつかは訪れることだと、心の片隅で覚悟していたことだった。しかし、現実になって現れると畏怖すら湧いた。
一度失った命だ。フィフィリアンヌの魔法で繋ぎ止められていただけなのだから、いつか朽ちるのが世界の定めだ。
 滅びないものはない。死なない命はない。長らくこの世で長らえていると、それが世界の理なのだと身に染みる。
共和国戦争だけでなく、竜族と帝国が繰り広げた黒竜戦争やその前後の戦争も経験していると、特にそう思えた。
生物は脆い。それは人間だけではない。生き物の中では最強である竜族でさえも、種族としての滅びを向かえた。
他人の体を得てまで生き延びたキースでさえも最終的には死んだのだから、誰も死から逃れることは出来ない。
いずれ、自分は死ぬのだ。漠然とした、だが明確な確信をした。ギルディオスは地面から剣を引き抜き、構えた。

「まぁ、いいさ」

 畏怖と共に、ほんの少しの安堵が胸中に広がった。

「覚悟なんて、当の昔に出来てらぁな」

 バスタードソードの刃に映り込んでいる無機質な己の顔が、どうしようもなく愛おしく、どうしようもなく悲しかった。
遠い昔に戦死した、妻の姿が脳裏に蘇る。傭兵の仕事の最中、戦闘中にまともに攻撃を腹に喰らってしまった。
その時、ギルディオスは妻メアリーのすぐ傍で戦っていた。すぐにメアリーを貫いた敵を斬ったが、既に遅かった。
妻は強い剣士だったが、相手が悪かった。馬上からの槍の一撃を背に受けてしまっては、一溜まりもなかった。
 メアリーが死していく様は、良く覚えている。腹を貫いた槍を引き抜いて戦場から連れ出したが、無駄だった。
素人目に見ても、致命傷だった。戦場から離れた物陰に連れ込んで、冷たくなっていく彼女を抱き締めてやった。
それぐらいしか、してやれることはなかった。最後の瞬間まで傍に寄り添い、愛情を伝えるだけで精一杯だった。
 顔色の解りづらい褐色の頬が青ざめていき、形の良い唇からは血が溢れ、足元には生温い水溜まりが出来る。
ギルディオスを愛おしげに見つめていた鳶色の瞳からは焦点が失せ、剣を操っていた手から力が抜けていった。
 今でも、夢に見る。初めて愛した女であり、最高の戦友であった彼女は、あの瞬間にこの世から消え去った。
彼女が死した時には、己の無力さを呪った。盾になると約束したはずなのに、愛する妻を守ってやれなかった。
死ぬべきは死した自分なのだと思っても、彼女は死んでしまった。メアリーは冷たく硬くなり、ただの骸と化した。
 今度こそ、死ぬべきだ。妻を、息子を、兄を、妹を、仲間を、友人を、部下を差し置いて自分だけが生き延びる。
だから、自分が死ぬべき時が来たら真っ向から受け入れてしまおう。そうでなければ、彼らに申し訳が立たない。

「なぁ」

 誰に語り掛けるわけでもなく、ギルディオスは呟いた。

「死んだら、あいつらに会えるかな?」

 一人だけ、この世に置き去りだ。大切な人や愛する人は黄泉へと旅立ったのに、未だに取り残されている。

「会えるものなら、会いてぇよ」

 ぎち、とバスタードソードの柄を握り直し、前に振り翳した。

「頼むぜ、ヴァルハラの戦女神さん。オレは、あんたのことだけは信じてんだからよ」

 剣を振るう。空気を砕く。霧を吹き飛ばす。力強く踏み込んで、鉄塊も同然の分厚い剣を振るい、虚空と戦った。
 燃え盛っている炎は、いつか消える運命にある。その勢いが激しければ激しいほど、尽きる時は早まるのだ。
何度も剣を振るっているうちに、体と魂の間合いが追い付いてきた。だが気を抜けば、やはり手足が遅れて動く。
今はまだなんともないが、そのうちにこの遅れが段々と長くなり、いつしか鋼の体を全く動かせなくなるだろう。
 その時がいつなのかは解らないが、まだ少し先であるような気がする。その方が、いいような、悪いような。
先延ばしになればなるほど覚悟は深まるが、それに比例して畏怖も深くなり、死に向かう恐怖が強くなってしまう。
戦士としては死ぬ時は潔く死んでしまいたいと思うが、自分もやはり人間なので無様に藻掻き足掻くかもしれない。
ひどく格好悪いが、それはそれで自分らしいな、とも思った。ギルディオス・ヴァトラスとは、愚かな男だからだ。
死に損なって現世に長らえ続け、己の信念に意固地になって周りが全く見えなくなるくらいに、頭の回転が鈍い。
愚かならば愚かなりの、死に様というものもあるだろう。ギルディオスは次第に薄らいできた朝靄を、切り捨てた。
 森の東側から、白い朝日が昇り始めている。藍色の夜空を朝焼けに塗り替えながら、ゆっくりと姿を現してくる。
相変わらず、朝はいかなる存在にも等しく訪れる。新たな命を芽吹かせた木々だけでなく、朽ち往く命も照らす。
 ギルディオスはバスタードソードを肩に担ぐと、胸に手を当てた。魔導鉱石の中に収めた魂が、少し熱していた。
この熱が消えた時に、自分は死すのだ。ギルディオスは胸に当てた手を握り締め、肩を僅かに震わせて俯いた。
 泣いているのか、笑っているのか、自分でもよく解らなかった。




 五百年の時を長らえし、死人の重剣士。
 時と共に積み重なった業と別れが、熱き魂を締め上げる。
 その肉体が鋼であろうとも、滅びからは決して逃れられない。

 命ある者は、必ず死す運命にあるのである。






07 3/18