ドラゴンは滅びない




運命共同体




 フリューゲルは、荒れていた。


 腹の底を掻き回されるような不快感と神経を逆撫でするような焦燥が全身を駆け巡り、落ち着かなかった。 気晴らしにと空へと飛び出してみたものの、全く気が晴れない。それどころか、苛立ちは増していくばかりだ。 大好きなリリに対しても苛立ちを抱きそうになり、そんな自分が嫌になる。だが、感情の捌け口が見つからない。 思い悩んでいるためか、先程から同じところをぐるぐると旋回していた。だから、目にする景色は変わらない。 魔法によって成された蜃気楼に覆い尽くされ、世俗から隔絶された、人ならざる者達が息を潜めて暮らす街。 だが、その景色から彼女が消えてしまう。それを考えただけで、体中の関節が軋むほどの激情に焦がされる。

「あぁーっもうっ!」

 苛立ち紛れに喚いたフリューゲルは、でたらめに手足を振り回した。

「なんでこうなっちまうんだよ! どうしてリリがいなくなっちまうんだよ!」

 自分の声すらも耳障りに感じ、フリューゲルは咆哮に近い叫声を放った。

「訳解んねぇんだよこの野郎ー!」

 二週間前、国際政府連盟の使者がゼレイブを訪れた。ヴィンセントではなく、礼服に身を固めた人間の男だった。 魂があるはずなのに生体魔導兵器のように感情を出さない男で、無機質に、無感情に、淡々と言葉を連ねた。 国際政府連盟はゼレイブに住まう人ならざる者達を特一級危険指定人物からは除外したが、警戒は続けている。 ゼレイブの周辺にも監視役が何人も配置されていて、一旦ゼレイブの外へ出てしまえば視線が次々に注がれる。 そのことに皆が納得しているわけではないが、あれほどの大事を起こしたので危険視されるのは仕方なかった。
 使者の男は、それに関連する話を運んできた。国際政府連盟は、特に危険な三人へ国外退去処分を下した。 その三人とは、心身共に発展途上である子供、ヴィクトリア、ロイズ、そしてフリューゲルの主であるリリだった。 彼らが現時点で操っている魔法や異能力でも充分出力が高いが、成長するに従って更に強力になることだろう。 そして、事実上連合軍に両親を殺されたヴィクトリアとロイズが、軍に反乱を起こすのではないかと危惧されていた。 当然、大人達は反論した。危険だと思うならば尚更外へ出さない方がいい、と言ったが、聞き入れられなかった。 中でも、特一級危険指定犯罪者の一人娘であるヴィクトリアが危険視されており、新政府が国民と認めなかった。 グレイス・ルーの起こした数々の犯罪とこれまでの経緯があるため、新政府は受け入れるわけにいかなかった。 ブリガドーンや戦時中の特務部隊や異能部隊の件は未だにしこりを残しており、民衆は魔法を拒絶していた。 連合軍と国際政府連盟の手で造られた新政府が国民感情を掴むためにも、魔法を排除することは必要だった。 それでなくても、数年前まで敵対していた連合軍の支配下に置かれた共和国国民は反政府感情を抱いていた。 言ってしまえば、ヴィクトリアは新政府が国民感情を掌握するための人身御供として選ばれたようなものである。 ロイズとリリまでも国外退去処分を下すのは、ゼレイブに対する牽制と政府側の人質にするためだったのだろう。 連合軍も、ブリガドーンでの戦いでただやられていたわけではない。いかに人外でも子供には弱いと知ったのだ。
 その話を聞かされた時、当初は三人とも難色を示した。だが、退去処分の期日が近付くに連れて覚悟を決めた。 ヴィクトリアは新しい世界で生きていくときっぱりと言い切り、ロイズも共和国以外の世界を見てみたいと言った。 リリもまた、仕方ないことだと言った。両親や皆と別れるのはとても寂しいが二人がいるから大丈夫、とも言った。 子供達の気丈な態度に、大人達も次第に氷解した。だが、フリューゲルだけはどうしても納得することが出来ない。

「こんちくしょー!」

 感情と共に高揚した魔力を解き放ち、上空へ光弾を投げ飛ばした。頭上の雲が抉れ、吹き飛んだ。

「嫌いだ、嫌いだあっ、連合軍なんて、政府なんて!」

 両手の三本指の手をぎりぎりと握り締め、喚き散らす。

「リリはオレ様のなんだ! なのに、なのに、なんで外に出ろなんて言いやがるんだこの野郎ー!」

 どれだけ叫んでも、苛立ちは収まらなかった。もう一度光弾を放り投げようとした時、目の前に影が滑り込んだ。 直後、眉間に砲口が突き出された。驚いて顔を上げると、機械仕掛けの女が視界に入った。ルージュだった。

「邪魔するな、ルージュ! オレ様はなあ、超絶怒ってんだぞこの野郎ー!」

 フリューゲルは両腕を振り上げてルージュに掴みかかったが、ルージュは左腕の砲身だけで受け止めた。

「魔力を浪費するなと日頃からあれほど言っているではないか、馬鹿鳥が! お前が暴れれば暴れるほど、 お前の主に負荷が掛かるということを忘れたとは言わせないぞ」

「あ…」

 その言葉で我に返ったフリューゲルは、ルージュの砲身から手を外し、後退した。

「ごめん…」

「謝るなら、リリに謝れ。お前が荒れる気持ちも解るが、だからといって安易に力を使うな」

 ルージュは、すかさずフリューゲルの喉元に砲口を押し当ててきた。

「いい加減に大人になれ、フリューゲル。お前がカゴの外の世界を知ったように、ゼレイブを離れることは お前の主にも必要なことなんだ。ファイドの一件で、お前であろうともそれぐらいは学んだだろう」

「だけどよ、だからって」

 反論しようと身を乗り出したフリューゲルを、ルージュはそれ以上の力で押さえ込んだ。

「聞き分けろ、フリューゲル! お前は己の立場を弁えろ! お前はリリ・ヴァトラスの膝下に下った 一介の契約獣であり、それ以上でもそれ以下でもない!」

「じゃあ、ルージュはいいって思うのかよ! 連合軍と政府の好き勝手にされちまっていいわけねぇだろうが!」

 ルージュの強い語気に煽られ、フリューゲルはいきり立った。

「ヴィクトリアはそうじゃねぇけど、リリもロイズもちっとも悪いことなんてしてねぇんだぞこの野郎! だから、 こんなのはおかしいんだぞこの野郎! だって、ゼレイブも共和国もリリのおうちなんだぞ! なのに、いきなり 他の国へ出ていけなんて変なんだぞ! 訳解らねぇってんだよこの野郎ー!」

「だが、私達はそれだけのことをしたんだ。それを、忘れたとは言わせんぞ」

 ルージュの砲口が下がり、フリューゲルの魔導鉱石に当てられた。砲口の奥底から、魔力充填の熱が零れる。

「リリは誰一人殺していないかもしれないが、その下僕であるお前はどれだけの人間を殺したと思っている。 私も、数え切れないほどの人間を殺してきた。殺すべきではない人間までもを殺し、屍を積み重ねた頂の上で 偽物の命を抱き、無様に生き恥を曝している。解体処分を下されなかっただけ、まだいいと思え。本来であれば、 私達はとっくの昔にただの鉄屑に戻っているはずなんだ。そんな私とお前を、ゼレイブに住まう者達は拾い上げ、 人並みの幸せと居場所を与えてくれた。だが、その弊害で、本来なら罪を被るべきではない子供らに処分を下された。 恐らくこれは、私達を生かした分のしわ寄せなんだ。だから、お前はそれを甘んじて受け止めるべきだ。リリの幸せを 本当に願うなら、連合軍にも政府にも抗うな。生きてさえいれば、未来などいくらでも拓けるのだから」

「そんなこと、オレ様だって…」

 フリューゲルは項垂れ、広げていた銀翼を萎れさせた。生きるためには抗わないことも必要だと解っている。 外の世界を見ることも、新しい場所で生きることも、知らないことを知ることも、リリのためになるのだと解っている。 けれど、理解したくなかった。異国に旅立ってしまったら、リリはフリューゲルの知るリリではなくなってしまう。 フリューゲルはリリを心から愛しているし、リリもフリューゲルを愛しているが、離れてしまえば必ず何かが変わる。 子供の成長は早い。リリに生きるようになったのは数ヶ月前からだが、たったそれだけの時間で彼女は成長した。 知識も増えて語彙も広がり、初めて出会った頃に比べれば格段に成長している。だからこそ、恐ろしくなっていた。 離れている間に、リリが大人になるのが怖い。フリューゲルを置いて、大きくなっていくのがひどく寂しい。

「訳解んねぇんだよぅ…」

 フリューゲルは震える両手で頭を抱え、声を詰まらせた。

「リリがいなくなっちまうのはすっげぇ寂しいけど、それよりもずっと怖いんだよぉ…」

「気を静めろ、フリューゲル」

 ルージュは砲口を下ろすと、フリューゲルの震える肩に手を添えた。その手から感じた温度で、胸が鈍く痛んだ。 ルージュから優しくされたことによる戸惑いと、それ以上の寂しさと恐怖に苛まれ、フリューゲルは細く泣いた。 背中に回された腕は硬くて砲を備えていたが、不思議と温かかった。抱き締められた胸の中も、心地良かった。 情けないとは思ったが、我慢出来なかった。フリューゲルはルージュに縋り付いて、涙は出なかったが号泣した。 こんなに悲しい気持ちになったのは、初めてだった。ブリガドーンでの戦いで感じた、死の恐怖よりも苦しかった。
 寂しくて寂しくて、魂が押し潰されそうだった。




 彼から伝わる苦悩が、独りでに涙を溢れさせた。
 きつく噛み締めた奥歯も意志に反して震え出し、喉の奥は痛いほど引きつり、胸には鈍い痛みが広がった。 ゼレイブの上空から聞こえる子供じみた泣き声が、心を痛め付ける。押さえようと思っても、涙が止まらなかった。 力一杯抱き締めたクッションには涙の染みがいくつも出来て、抱き締めている腕は力を入れすぎて震えていた。 これでいいんだ。それでいいと決めたのは自分なのだから、悲しむことなんてない。苦しむ意味なんてない。 なのに、苦しくて切なくて寂しくてたまらなかった。必死に押さえ込んでも、気付けば嗚咽が喉から零れ出ていた。
 不意に、扉が軽く叩かれた。リリが曖昧な返事を返すと、心配げな顔をした母親が部屋の中に入ってきた。 フィリオラはベッドの上で身を固くしているリリに近付くと、ベッドに腰を下ろして、娘の髪を丁寧に撫で付けてきた。

「リリ」

「だ、だって、それでいいって、本当に思ったんだもん」

 リリはクッションに顔を埋め、不明瞭な声で呟いた。

「ヴィクトリア姉ちゃんだけが余所の国に行くのは、寂しすぎるんだもん。それに、私も、他の国に行ってみたいって 思ったんだもん。それに、フリューゲルとは、一生会えなくなるわけじゃ、ないんだもん…」

「ええ、そうですね。ヴィクトリアさん一人では、色々と心配ですもんね」

 フィリオラはリリを背後からクッションごと抱き締め、その髪に頬を寄せた。

「いい子ですね、リリ。あなたは偉いわ、本当に」

「だって、そうしなきゃ、いけないんだもん」

 リリはクッションから顔を上げ、涙の筋が頬に付いた顔を母親に向けた。

「でも、でも、すっごく苦しいの」

「そんなにフリューゲルが好きなんですか?」

「うん。大好き。少しだって離れたくないし、ずっと一緒に暮らして、遊んで、お勉強して、お話ししていたいの」

 リリはクッションを離すと、母親のエプロンに縋り付いた。

「今だって、行けるなら空に飛び出したい。フリューゲルのところまで行って、抱っこしてあげたい」

「だったら、どうして行かないんですか?」

「だって、行ったら、もっと苦しくなっちゃうから」

 リリは背を丸め、わなわなと肩を震わせる。

「ずっと一緒にいたいけど、もう一緒にはいられないんだもん。だから、少しでも慣れなきゃいけないんだもん」

「リリ」

 フィリオラはリリの背を、ゆっくりとさすった。リリは頭を抱え、引きつった声で叫んだ。

「でも、やっぱり苦しいよ! 一緒にいたい、離れたくなんてない、だってフリューゲルが大好きなんだもん!」

「フリューゲルを愛しているんですね」

「大好き。お父さんとお母さんと同じぐらい、大好き」

「一つだけですが、リリとフリューゲルが一緒にいられる方法があります」

 フィリオラの穏やかな言葉に、リリは涙を溜めた目を大きく見開いた。

「…え?」

「ですが、その方法を使うと、リリには辛いかもしれません。それでもいいのなら、その方法を使いますか?」

 フィリオラはリリの小さな手に手を重ね、その目を見据えた。

「リリにとっても、負担になるかもしれません。その方法に使う魔法は、リリの魔力供給がなければ成立しない 魔法だからです。それに、私の方法が上手くいったとしても、連合軍と政府の方に納得して頂かなければ一緒には いられません。ですから、全てが上手くいくとは限りません。本当にそれでもいいと言うのなら、私は手を尽くします」

 母親の眼差しは暖かくもあったが、真剣だった。リリは迷わず首を縦に振った。

「お願い、お母さん。フリューゲルと一緒にいられるなら、私、どんなことだって我慢出来るから!」

「では、まず最初はお父さんの説得から始めましょうか」

 フィリオラはエプロンのポケットから取り出したハンカチでリリの頬を拭ってから、扉に向いた。

「ね、レオさん?」

 リリが目を丸くしていると、扉がかすかに軋んで開いた。その隙間から、ばつが悪そうに父親が顔を覗かせた。 フィリオラは可笑しいのか、くすくすと笑みを零している。レオナルドは目を逸らしつつも、娘の部屋に入ってきた。

「説得も何も、オレが反対出来る余地なんて欠片もないだろうが」

「あれだけ好きだと言われてしまいましたからねぇ。これで反対しちゃったら、レオさんは悪魔ですもんね」

 したり顔の妻に、レオナルドは不愉快げに眉根を寄せた。

「フィリオラ、それが解っていてオレを廊下に立たせたんだな? 確かにオレはあの鳥野郎が未だに好きに なれんが、だからといってリリを利用することはないだろうが。おかげで怒る気にもなれん」

「じゃ、フリューゲルがリリと一緒に行ってもいいんですね?」

「行くな、といっても強行するだろうな。今のお前なら」

 可愛くなくなりやがって、と毒突いたレオナルドに、フィリオラはにんまりした。

「人の恋路を邪魔したら、馬に蹴られて地獄に落ちますからね」

「お父さん…」

 両親の会話を窺っていたリリは、おずおずと父親を見上げた。レオナルドはため息を吐き、渋々言った。

「あの鳥野郎はどうしようもない馬鹿でいけ好かないが、リリがそこまで言うならまあ仕方ない。それに、 今回は事情も事情だからな。一人ぐらいはまともに戦える奴が付いていないと、正直不安だということもある。 だから、今回だけはリリと一緒に行くことを許可してやる。だが、その前にこれだけは約束してくれ」

「何を?」

 リリがきょとんとすると、レオナルドは言いづらそうに目線を逸らしていたが、娘に向けた。

「その、なんだ。出発する前に、一緒に寝てくれないか」

「うん!」

 リリは大きく頷き、笑んだ。レオナルドは照れくさくて仕方ないらしく、顔を背ける。

「まあ、リリがいいなら、それで良いが」

「なんだったら、今日の夜から一緒に寝ますか? あ、でも、レオさんかリリが転げ落ちちゃいますかね?」

 二人で寝るとベッドも狭いですから、とフィリオラが言うと、レオナルドは気恥ずかしげに顔をしかめた。

「お前のとくっつければそれでいいだろう!」

「でも、それじゃリリとレオさんの蜜月を邪魔しちゃいませんか?」

「フィリオラ、お前は寂しくないのか?」

 フィリオラの質問をはぐらかすためにレオナルドが切り返すと、フィリオラは少し眉を下げた。

「それは確かに寂しいですけど、それ以上に嬉しいんです。リリも大きくなったんだなぁって」

「産まれた時は、腕に収まるくらい小さかったのにな」

 感慨深げに漏らしたレオナルドはリリの隣に腰掛け、娘の小さな体を抱き締めた。

「リリ。あの野郎を連れて行くことは、お前自身が決めたことだ。いくら親だからといって、それを引き留める 権利はない。もしもあの野郎が間違いを犯しそうになったら、全力で止めろ。もう二度と、奴の手を血で汚させるな。 オレはまだ不本意だが、フリューゲルもうちの家族の一員だ。ただの兵器でもなければ、魔物でもない。あの野郎が リリを守ってくれるように、リリもあの野郎を守ってやれ。それが出来るのは、リリだけだ」

「誰かを好きになることは、とても尊いことです。ですが、それを貫くのは簡単なことではありません」

 フィリオラはレオナルドと目を合わせて微笑んでから、父親に抱き締められた娘の手を握った。

「けれど、自分の気持ちを信じ抜いて貫いた先には、必ず素敵なことが待っています。私とレオさんに とっての素敵なことが、リリ、あなたなんです。あなたが私達の手を離れて広い世界へ羽ばたいていくのは ちょっと寂しいですが、とても喜ばしいことなんです。だから、私は悲しくなんてありません。心の底から嬉しいんです」

 フィリオラは目元に滲んだ涙を力任せに拭うと、レオナルドの腕ごとリリを抱き締めた。

「いってらっしゃい、リリ。あなたの世界は、これから始まるんですから」

 レオナルドはリリを抱き締めていた腕を緩めると、フィリオラの肩に回した。夫の肩に顔を埋め、妻は泣いた。 先程までの明るい笑顔を浮かべたまま、ぼろぼろと涙を落とした。その肩を軽く叩きながら、レオナルドは笑った。 寂しさに胸が締め付けられたが、悲しくはない。フィリオラの言葉通り、娘の成長が感じられたのが嬉しかった。 泣くまいと思っていたが、フィリオラに釣られて泣きそうだった。だが、ここは堪えなければ父親の威厳が保てない。
 ふと気付くと、上空の泣き声が消えていた。リリの感情が伝わったらしく、フリューゲルも大人しくなったようだ。 リリもそれに気付いたが、顔を上げられなかった。両親の体温を感じていたら、無性に甘えたくなったからだった。 両親とも離れてしまうのだから、当分の間甘えられなくなる。だから、今日ぐらいは徹底的に甘えてもいいだろう。
 明日からは、もう少し大人になるために。







08 1/6