柔らかな風が、二人を包み込んでいた。 ゼレイブ全体を見下ろせる山頂へと駆け上ってきた風は初夏の気配を含み、草の青臭さが混じっていた。 手足に比べて硬度が低い銀色の翼が、少しだけ揺れた。空はどこまでも高く、地平線の先まで見通せそうだった。 だが、空とは裏腹に、傍らに立つ少女の表情は暗かった。山の頂上へ向かう最中も言葉が少なく、大人しかった。 リリは悲しげに目を伏せて、俯いていた。フリューゲルは腰を下ろしてリリの背後に座ると、リリを引き寄せた。 抵抗される前に膝の上に座らせると、背中から抱き締めてやった。主の小さな体は、呆気なく翼の中に収まった。 それでも、リリは目を伏せたままだった。フリューゲルはリリのかなり短いツノが生えている頭に、頬を擦り寄せた。 「リリ」 「フリューゲルは、本当にそれでいいの?」 リリは重たく口を開き、フリューゲルの手を握り締めた。 「ああ、いいんだ。オレ様は、リリとずうっと一緒にいたいんだ」 フリューゲルは、リリの傍に顔を突き出す。 「私も、フリューゲルと一緒にいたい。でも、フリューゲルばっかりが辛い思いをするのは嫌だよ」 「オレ様、ちっとも辛くなんてない」 「嘘を言わないで! フリューゲルが凄い速さで空を飛ぶのが大好きなこと、知っているもん! 改造しちゃったら、 もう速く飛べなくなっちゃうんでしょ? 飛べるけど、今までみたいなことは出来なくなっちゃうんでしょ?」 「うん。でも、それでもいいんだ」 「良くないよ!」 リリは頭を横に振ると、体を反転させてフリューゲルの首に腕を絡め、身を乗り出した。 「私だってフリューゲルとずっと一緒にいたいし、少しだって離れたくないよ! でも、そのためにフリューゲルだけが 我慢するなんて変だよ!」 「リリだって我慢してるんだぞ」 「私は大丈夫だよ。ヴィクトリア姉ちゃんとロイも一緒だし、行くって決めたのは私なんだから」 リリはフリューゲルと向き合い、潤んだ目で鋼鉄の鳥人の赤い瞳を見据えた。 「ちっとも辛くないんだよ、本当なんだからね? ちょっとだけ、本当にちょっとだけ、寂しいかもしれないけど」 「リリ、なんかレオナルドみたいだぞ。そういうの、イジッパリって言うんだよな」 「違う! 私は本当に大丈夫なの、意地っ張りなんかじゃないもん!」 リリはむきになって、フリューゲルに迫った。 「フリューゲルこそ、無理して私に付いてこようとしなくたっていいんだから! あんまり我が侭言うと、 私だって怒るんだからね! 嘘じゃないんだから!」 「リリ、オレ様のことが嫌いなのか?」 「そんなこと、あるわけないじゃない!」 「じゃあ、なんでオレ様を連れて行こうとしないんだ?」 「…好きだからだよ」 リリはフリューゲルの冷たい胸に額を押し当て、声を詰まらせた。 「好きだから、フリューゲルに辛い思いをしてほしくないんだよ。私はどんなことだって我慢するけど、 フリューゲルにはそんな思いをさせたくないの。お母さんとフィル婆ちゃんの考えも悪くないし、私も最初は そうするつもりだったよ。でも、フリューゲルが弱くならなきゃいけない、私の影の中にずっと隠れていなきゃいけない、 なんて、変だよ。フリューゲルはとってもいい子だよ。そりゃ、昔はちょっと悪いことをしたかもしれないけど、もう二度と 悪いことはしないのに。なのに、影の中に隠れていろだなんてひどいよ。政府の人達も、お母さんもフィル婆ちゃんも、 どうしてフリューゲルのことを信じてくれないの?」 「オレ様も同じだぞ、リリ。オレ様も、リリに泣いてほしくないんだ」 「でも…」 「リリが悲しむこともないし、リリが泣くこともないんだ。だって、オレ様が決めたことなんだぞこの野郎」 フリューゲルは声色を和らげ、ネッカチーフが巻かれた右手首をリリへと差し出す。 「リリをブリガドーンに連れて行ったのだって、オレ様が連れて行きたいと思ったから連れて行ったんだぞ。だから、 今度もそれと同じなんだぞこの野郎。リリが気にすることなんてないんだ」 「フリューゲル…」 リリの切なげ眼差しを受け、フリューゲルはにっと目を細めた。 「オレ様に必要なのは力なんかじゃなくて、リリなんだ」 「なんか、フリューゲルっぽくないなぁ…」 彼らしからぬ実直な言葉に、リリは頬を染めて目を逸らした。 「だっ、だけどな、本当にそう思ったんだぞこの野郎!」 釣られてフリューゲルも照れてしまい、照れ隠しに語気を荒げ、たまらなくなって顔を背けてしまった。 妙な気恥ずかしさが背筋を這い上がり、居たたまれなくなる。今になって、自分の言葉の気障さが鼻を突いた。 ラミアンじゃあるまいし、とは思うが、口に出してしまった言葉は取り消せない。しばらくの間、内心で身悶えた。 フリューゲルが恐る恐る様子を窺うと、リリもまた横目で窺っていた。その丸い頬は、いつになく赤らんでいた。 フリューゲルも感情の高揚から装甲が熱する感覚を感じつつも、気を取り直してリリと向き直り、目を合わせた。 だが、持たなかった。今まで感じたことのないほどの照れに襲われ、フリューゲルはぐいっと身を捻ってしまった。 リリが戸惑ったのが解ったが、どうにもならない。倒れ込むように地面に突っ伏して、フリューゲルは頭を抱えた。 「ど、どうしたの?」 困惑したリリに尋ねられ、フリューゲルはがんがんと地面に頭を叩き付けた。 「よく解んねぇー! でもなんかマジでハズいんだぞこの野郎ー!」 「まあ、私も、ちょっと格好付けすぎかなって思ったけど」 「うあーおーぁーう!」 訳の解らない声を上げたフリューゲルは草むらに頭を押し当て、身を縮めた。 「あ、でも、凄く嬉しかったよ! それは本当だよ!」 リリが困りながらも声を掛けると、フリューゲルは顔を横に捻って見上げてきた。 「本当なのかこの野郎」 「嘘なんか、言えないよ」 リリは照れ臭さに襲われ、両手で顔を覆って消え入りそうな声で呟いた。 「うん。オレ様も、リリには嘘なんか言えない」 多少落ち着いたので、フリューゲルは体を起こした。その頭には草の汁と泥が付き、装甲が汚れていた。 それに気付いたリリはエプロンから布を取り出し、フリューゲルの装甲を丹念に撫でて汚れを拭き取ってやった。 リリの手が離れてしまうのが急に名残惜しくなってしまい、フリューゲルは反射的にリリの細い腕を掴んでいた。 すると、リリは更に赤くなってしまった。指先に伝わる体温も普段より高めで、感情と共に炎の力も高ぶっていた。 それまでは、リリが照れる理由が今一つ理解出来なかった。だが、今となってはそれが理解出来て仕方なかった。 愛しい相手から真摯な眼差しを注がれたり、触れられたり、思いを伝えられたりすると、嬉しいのだが恥ずかしい。 これまではただ嬉しいだけだったのに、何かが違っている。全身がむず痒くなってしまうほどの照れに襲われる。 けれど、不思議と心地良い。フリューゲルはリリの腕を離し、リリの両肩を掴んで向き直らせ、真正面から見つめた。 「なあ、リリ」 「な、なあに?」 かなり照れているせいで、リリの声は上擦っていた。 「リリがたまにしてくるアレって、どういう意味があるんだ?」 「アレって?」 「アレだよ、アレ。オレ様のクチバシにリリが口を付けてくるアレだよ」 「あ、うぁ…」 リリは変な声を漏らし、口元を押さえて俯いた。自分の行為を思い出してしまい、ますます恥ずかしくなる。 「なあ、どういう意味があるんだ?」 フリューゲルが再度尋ねると、リリは細く答えた。 「えっと、アレはね、好きな人にしかしないことなの。だから、好き、ってことなの」 「そうか」 納得した様子のフリューゲルに、リリは少し安堵した。 「うん、そうだよ」 「じゃあ、オレ様もリリが好きだ!」 フリューゲルはリリを引き寄せ、その小さく愛らしい唇をマスクで塞いだ。んっと苦しげな吐息がマスクの下から 零れた。リリは相当驚いたらしく、固まってしまった。可愛らしい声と嬉しい言葉を紡いでくれる唇も好きだが、他も好きだ。 華奢な首筋にマスクを当て、折れてしまいそうなほど細い鎖骨と子供らしい薄さの胸元にもマスクを当てた。 「や、ぁ」 リリはフリューゲルを押し返そうとしたが、緊張と照れで腕に力が入らなかった。 「オレ様はリリの全部が好きなんだ。好きだからすることなら、するだけなんだ」 フリューゲルはリリを下にし、その上に覆い被さる。リリは身を固くしていたが、おずおずと見上げてきた。 「へ、変なところには、しないで」 「それってどこのことだ?」 「言わせないでよぉ…」 リリは僅かに声を震わせ、ぎゅっとスカートを握り締めた。フリューゲルは、リリの熱した頬にマスクを当てる。 「解った。リリが嫌っていうところにはしない」 「うん…」 リリはフリューゲルの首に腕を回し、頷いた。痛いほど鼓動が跳ね上がり、緊張で息が詰まってしまいそうだ。 ここから先の行為はさっぱり知らないが、こうすることは恥ずかしいことだということは、なんとなく解っていた。 当のフリューゲルはリリ以上に解っていないらしく、動物がじゃれるようにマスクや頭を擦り寄せるだけだった。 だが、それだけでも充分くすぐったかった。特別なことをされているわけでもないのに、体が火照ってしまった。 感情と共に高ぶりやすい念力発火能力の熱とはまた違った熱に襲われて、リリは頭だけでなく全身が茹だった。 フリューゲルは唇や真っ平らな胸だけではなく、筋肉の全く付いていない腕や足にもマスクを擦り寄せてきた。 スカートに頭を突っ込まれそうになった時にはさすがに抵抗したが、それ以外のことにはあまり抗わなかった。 フリューゲルが満足した後は、リリの番だった。一方的にされているばかりでは、申し訳ないと思ったからだ。 リリの愛情表現もフリューゲルと似たようなものだったが、二人揃ってそれから先を知らないので充分だった。 気持ちを満たし合った二人は、草の上に寝転がった。嬉しすぎて、恥ずかしすぎて、やけに疲れてしまった。 起き上がろうにも、力が入らない。いつもの疲労感とは違う甘く心地良い疲労感に包まれながら、微睡んでいた。 どちらからともなく身を寄せ合って、抱き合った。言葉にするのが億劫に思えるほど、相手が好きでたまらない。 腕の中で横たわる少女は、いつのまにか寝息を立てていた。可愛らしくも無防備な寝顔を見つめ、内心で笑った。 リリのためなら、喜んで身を捧げられる。少し前の自分だったら、そんなことを思うことすらしなかっただろう。 禁書回収作業をしていた頃は外界の開放感と己の力に酔い、己の力が何をもたらすのか、知ろうともしなかった。 破壊も殺戮も遊びと同じだった。魔力を放てば人間や地面が呆気なく吹き飛ぶ様が、面白くてたまらなかった。 だが、リリをブリガドーンへ攫い、禁書回収作業の延長でゼレイブを襲撃した際、怒り狂うフィリオラに襲われた。 その時に初めて知った。リリには両親と友人がいて、リリがいた場所には、リリを大事に思う人達がいたことを。 フリューゲルには何もなかった。だから、リリもそうなのだと思い込んでいて、リリをブリガドーンへ連れ去った。 けれど、そうではなかった。竜人へ変化したフィリオラの鬼気迫る絶叫と気迫は、未だに忘れることが出来ない。 ブリガドーンでの戦いの後にゼレイブで皆と暮らし始めると、ブリガドーンでの日々よりも楽しい日々が始まった。 友人も増えたが、それ以上にリリの笑顔が格段に増えた。リリが笑っているだけで、フリューゲルも嬉しくなった。 ギルディオスに命じられて一週間だけ家出をしたが、家出をしている間はずっとリリに会いたくて仕方なかった。 帰ってきた時にリリに出迎えられて、とても嬉しかった。ここが自分の居場所なのだと、生まれて初めて思った。 好きだと言われるたびに、好きになる。笑いかけられるたびに胸が一杯になり、気持ちが舞い上がってしまう。 名前を呼ぶだけで心が高揚して、触れ合えば触れ合うほど魂の奥が熱して、魂どころか体の隅々まで満ち足りる。 こんなに愛おしい者を悲しませるのが怖い。離れているうちに、その心までもが離れてしまったらとても恐ろしい。 リリとの絆を信用していないわけではないが、不安になる。不安になると、途方もなく愛おしさが込み上がる。 「リリ」 フリューゲルはリリの少々乱れた髪を撫でたが、リリは規則正しい寝息を立てており、反応しなかった。 「大好きだ」 寝入っているせいか少し緩んだリリの唇に、マスクを当てた。起こさないように気を付けながら、抱き締める。 物や人を壊すだけだった自分にも、守りたいと思えるものがある。だが、体に宿る力は守るための力ではない。 最初から、誰かを傷付けるための力だった。だから、その力を捨てなければ、リリの傍にはいられないのだ。 けれど、後悔など欠片もしていない。影の中であろうが何だろうが、リリの傍にいられる場所ならどこだっていい。 リリの居る場所が、フリューゲルの居場所なのだから。 それから、一ヶ月後。 三人の子供達と一体の魔導兵器は国際政府連盟と新政府から国外退去処分を下され、海を渡ることになった。 三人と一体が向かう国は、共和国から海を挟んだ先にある別の大陸にある広大な国土の発展途上国、合衆国だ。 大国とも浅からぬ関係があり、連合軍に兵器を売り渡した経緯もあるが、国際政府連盟には加入して日が浅い。 国際政府連盟への心証を良くするためと連合軍との結びつきを強めるため、三人と一体を受け入れたのだろう。 というようなことを、ヴィクトリアは相変わらずの冷ややかな口調で述べていたが、それもまた真実の一端だろう。 三人を始めとしたゼレイブの住人達は、共和国戦争を発端にした世界の渦に気付かぬうちに巻き込まれていた。 連合軍の思惑に流されていくのは面白くないが、殺されるよりは余程良い。生きられるだけ、まだマシだ。 連合軍と新政府は、フィフィリアンヌに押し切られるような形でフリューゲルの国外退去処分の同行を認めた。 リリとフリューゲルの共存関係や弱体化改造の成果だけでなく、様々な角度から攻められた末に陥落したのだ。 認めると同時に制約も増えたが、それもまたフィフィリアンヌが言いくるめたおかげで無難なものだけとなった。 ゼレイブを出て一週間半ほど経った後、ある港に辿り着いた。大国の企業が新造した大型客船が停泊していた。 巨大な煙突を備えている立派な蒸気船で、船の大きさに比例して乗客の数も多く、港は人間でごった返していた。 三人は国際政府連盟の使者に連れられて乗船し、主に中流階級の人間が利用する二等船室へと案内された。 内装はそれなりで広さも二等に相応しいものだったが、子供三人が利用するには充分豪華で広い部屋だった。 本来この部屋は二人部屋なので、ベッドは二台しかなかったが、大きいベッドだったので特に支障はなかった。 客室に入った三人は、出航を待っていた。港は見送る人々が大勢いたが、国外退去処分者には関係ない。 祭りか何かのように紙吹雪が舞い散り、歓声が沸き起こっている。円形の窓の外を見やり、ヴィクトリアは呟いた。 「そういえば、この船は処女航海だそうよ。道理で騒がしいのだわ」 「なるほど。お祝いってわけか」 円形の窓の傍に立っていたロイズが納得すると、ヴィクトリアはにたりと唇の端を持ち上げた。 「そうよ。処女喪失のね」 「つまんないことを言うなよ」 ロイズが呆れ半分に返すと、ヴィクトリアはクッションの柔らかなソファーに身を沈めて足を組んだ。 「これから数日間、いえ、数十年間は暇なのだわ。だから、あなた達の相手をするしかなくってよ」 「それはこっちのセリフだ。大体、元はと言えばヴィクトリアの罪状なんだからな」 僕らには関係ないはずなのに、とロイズがむくれると、ヴィクトリアは大人びた仕草で長い髪を払った。 「ブリガドーンに攫われた時から、私達の運命は定まっていてよ。今更文句を言っても、どうにもならないのだわ」 「そりゃそうだけどさ」 ロイズはヴィクトリアの相手をしたくないらしく、ベッドに腰掛けようとしたリリに向いた。 「リリ。フリューゲル、どうしている?」 「うん。大丈夫だよ」 リリが足元の影を見下ろすと、影がにゅるりと膨らみ、その中から銀色の頭が飛び出した。 「くけけけけけけけけけけけけけ! まだ船は出ねぇのかこの野郎ー!」 フリューゲルは板張りの床に手を付いて、水面のように波打っているリリの影の中からずるりと体を引き出した。 両足も引き抜くと、肩を回した。この客船に乗船するまでずっと影の中にいたので、少し関節が固まっていた。 屈伸もして背筋も伸ばして翼も大きく広げ、関節という関節を動かしていると、大量の人間の声が耳に入ってきた。 処女航海を祝う音楽や無数の紙吹雪がやけに気になってしまい、窓に近付こうとすると、突然リリが姿勢を崩した。 「ひゃっ!」 リリは足元を掬われて背中から転んでしまい、足が上がったせいでスカートが大きく広がってしまった。 「いきなり動かないでよぉ…」 「ごめん、リリ」 フリューゲルは申し訳なくなり、リリに近寄った。リリはスカートを直して立ち上がると、汚れた背中を払った。 「なんだか、私の足とフリューゲルの足を紐で結んであるみたい」 「似たようなものなのだわ。あなたの影の中に造り上げた異空間を彼の足元に繋げているのだから、その異空間と 現実空間の接点である影を上手く拡幅出来なければ引っ張られてしまうのだわ」 ヴィクトリアがリリの足元を指差すと、リリは眉を下げて片足を上げて影を見下ろした。 「こんなことなら、練習しておけば良かった」 「これから慣れていけばいいよ。魔力を魔法に変換するのは、魔力を異能力に変換するのとは加減が違うからね。 それに、あっちの国に行ったらフリューゲルを外に出す頻度は減るだろうし」 ロイズは、手近な椅子に腰掛けた。フリューゲルは両翼を大きく広げ、己を鼓舞する。 「でも、出る時は出てやるんだぞこの野郎! オレ様だって遊びたいんだぞこの野郎!」 「私達は遊びに行くわけではないのだわ。名目上は留学なのだから、その本分を果たす必要があってよ」 ヴィクトリアは革製のトランクから取り出したクマのぬいぐるみを膝の上に置き、撫でた。 「そうだよな、学校に行かなきゃならないんだもんな。行ったことないけど、まあ、頑張るしかないよな」 ロイズは、小さく肩を竦めた。リリはフリューゲルの傍に寄り添い、頬を緩める。 「私は楽しみだよ。同じ年の子が一杯いるなんて、凄く面白そうじゃない」 「全寮制というのは煩わしいけれど、監視下にあるのだから仕方ないのだわ」 ヴィクトリアはクマのぬいぐるみを撫でていたが、ふとその手を止め、リリとフリューゲルに目を向けた。 「ところで、あなた方の間に何かがあって? 心なしか雰囲気が変わっていてよ」 「え?」 思い掛けない言葉にリリがぎょっとすると、フリューゲルは嬉々として飛び跳ねた。 「うん、あのなー、オレ様はリリとな!」 「だっダメだって! あのことは絶対に話しちゃダメなんだから!」 慌てふためいてフリューゲルを押さえるリリに、ヴィクトリアはにやりと目を細めた。 「あら、そう。尚のこと聞きたくなったのだわ」 「どうしてこう、性格が悪いかな。普通、そういうことは聞かないでおくもんだろうが」 嘆かわしげにため息を零したロイズに、ヴィクトリアは取り澄ました。 「あなたも興味があるはずなのだわ。妙な意地を張るだけ損ではないのかしら」 「意地でもなんでもないよ。人として当たり前のことを言っただけじゃないか」 全く、とロイズが顔をしかめるも、ヴィクトリアは全く気にすることもなく、妖しげな笑みを浮かべた。 「それで、何があったのか聞かせて下さらない? 私、とても興味があるのだわ」 「別に何もないよぉ!」 リリは必死に否定するも、頬は勝手に紅潮した。その上、フリューゲルは話す気が満々で動きも大きくなり、 影の中に戻そうにも気が逸れてしまって異空間を上手く操作出来ない。なので、彼を押さえるしかなかった。 ロイズは手を出そうかどうしようかと迷っていたが、結局、事の次第を見守ることにしたらしく座ったままだった。 どうせなら助けてほしいと思わないでもなかったが、自分でなんとかしなければ、という思いも沸き上がった。 動揺と混乱で乱れた魔力をなんとか制御し、影の中の異空間を開いてフリューゲルを押さえ付け、中に戻した。 戸惑った様子で手を伸ばしてくるフリューゲルを影に押し込んでから、リリはヴィクトリアに向き直ってむくれた。 リリの強い態度に、ヴィクトリアは残念そうに首を竦めた。どうやら、聞き出すことを諦めてくれたようだった。 そのことに安堵しつつも、異空間を強引に操ったことで少々気疲れしてしまい、リリはベッドに寝転んだ。 リリは息苦しさに似た胸の痛みを感じ、胸を押さえた。フリューゲルとのあの一件以来、感じるようになった。 頬の火照りも熱が増し、苦しさも重たくなった。フリューゲルを好きだと思えば思うほど、重みも膨らんでくる。 けれど、抗いたいとは思わなかった。この痛みも苦しさもフリューゲルが傍にいるからだと思うと、嬉しくなる。 影の中の異空間から外界の様子を感じ、フリューゲルは残念に思っていた。あの一件は、とても嬉しかった。 リリのことがどれだけ好きなのかを示せる良い機会だと思ったのだが、リリにとっては恥ずかしいことのようだ。 フリューゲルはそう思わないのでリリの態度には納得行かなかったが、怒らせたくないので素直に引き下がった。 力ではなく幸せを選んだのだから、それを精一杯守っていくだけだ。そして、この熱い気持ちを大事にしていこう。 この気持ちの名は知っている。ゼレイブを出る前に、ルージュを強引に捕まえて手当たり次第に話したのだ。 誰かに吐き出さなければ落ち着けなかった。フリューゲルの話を聞き終えたルージュは一言、恋だな、と言った。 その名を聞いた時に、全てが腑に落ちた。友情よりも力強く不安定な感情を指す言葉に相応しいと思った。 リリは最初から特別な少女だった。だが、それがもっと特別になった。この世の何よりも、リリを愛おしいと思う。 その気持ちが、自分を、そして世界をも変えてくれた。 力を捨てた鋼の鳥は、異形の少女に命を捧ぐ。 凄まじき力を宿した兵器ではなく、一人の男として生きると誓った。 互いへの愛で固く結び付いた二人の心を解くものは、この世には存在しない。 二人の恋は、まだ始まったばかりなのである。 08 1/8 |