少し冷めた紅茶と甘ったるい焼き菓子を口にしながら、三人は話し込んだ。 最初は遠方の街で教職に就いているリリの話だったが、徐々に話題がずれていってサミュエルばかりになった。 でなければ、ダンの話だった。仔ネコの頃に拾われたダンは、後から現れたサミュエルを弟だと思っているらしい。 そのため、ダンは泣いてばかりいるサミュエルに鳴き声を浴びせたり、尻尾であやしたりと構っているのだそうだ。 だが、当のサミュエルにはダンが何をしたいのか解らないので、尻尾を引っ張られたり銜えられたりしてしまうそうだ。 そのたびにダンはサミュエルから逃げるが、サミュエルはおもちゃを手放したくないのでぐずり出すらしい。 ダンがこの夫婦に飼われ始めたのは、三年前のことだった。雨の降る夜、鳴き声が庭先から聞こえたのだという。 様子を見にロイズが庭に出ると、びしょびしょに濡れて萎んでいる小さな黒い固まりが、必死に声を上げていた。 泥まみれで痩せこけていて、寒さでぶるぶると震えていた。ロイズが手を伸ばすも、警戒して毛を逆立てた。 近寄ればその都度後退し、爪まで出す始末だった。だが、このまま放っておけない、とロイズは彼を抱き上げた。 当然仔ネコは抵抗してじたばたと暴れたが、成人男性の腕力に敵うはずもなく、そのまま二階へと連れて行かれた。 ヴィクトリアは雨に濡れて汚れ切った仔ネコを抱えて戻った夫に心底呆れた顔をしたが、湯を沸かしてくれた。 寝入る直前だったので、火を落とした暖炉にも再び火を入れ、ぬるま湯を入れた桶の中で仔ネコを綺麗に洗った。 その間も、仔ネコは必死に抵抗した。ロイズの手に牙を立てたり、力一杯引っ掻いたり、後ろ足で蹴り飛ばした。 洗い終わる頃には、ロイズの手は傷だらけになった。暖炉の前に布を敷いたカゴを置くと、仔ネコは入ってくれた。 鼻を鳴らして匂いを嗅いでいたが、特に害はないと解ると前足を折り畳んで座り、そのうちに眠り込んでしまった。 その後、十数日間は二人のことを警戒して過ごしていたが、敵ではないと解ると気を許してくれるようになった。 そして、ダンは二人に懐き、家族の一員になった。サミュエルが産まれるのは、それから二年半後のことである。 目を離しておくのは不安だ、ということでサミュエルは居間のゆりかごに寝かせられ、すやすやと眠っていた。 ようやく落ち着きを取り戻したフリューゲルは、時折首をかしげながら、興味深げにサミュエルを覗き込んでいた。 「ウィータもこんな感じだったけど、ちょっと違うんだぞこの野郎」 フリューゲルはサミュエルを指し、リリに向いた。三杯目の紅茶を傾けつつ、リリは言った。 「そりゃそうだよ。ウィータはリチャード叔父さんとキャロル叔母さんの子供で、サムはロイとヴィクトリア 姉ちゃんの子供なんだから、違っていて当然だよ」 「ゼレイブを出て今年で十六年になるから、ウィータも丁度十六歳か。随分大きくなったんだろうな」 年頃だな、とロイズが付け加えると、ヴィクトリアは頷いた。 「ええ、違いないのだわ」 「ギルバートにも会いたいなぁ、もう十四歳になるんだよね。お父さん似かな、それともお母さんかなぁ」 リリは焼き菓子を囓っていたが、それを嚥下し、少し声を落とした。 「いつになったら、私達はゼレイブに帰れるんだろうね」 「私達は帰れないのではないのだわ。ただ、帰らないだけなのだわ」 ヴィクトリアは紅茶に何杯も砂糖を入れ、丁寧に掻き回した。 「そう思えばよくってよ、リリ」 「うん、そうなんだけどね」 リリは目を伏せ、ティーカップの内側で揺れる琥珀色の波紋を見つめた。 「私の夢は先生になることだけど、本当はもっと先があるの。先生になって、ゼレイブの近くにでも学校を建てて、 私達みたいな子供を受け入れて育てるの。きっと、ブリガドーンが壊れた余波で色んなところに影響が出ている はずだから、私達みたいな子供がまた産まれていてもおかしくない。その子達が殺されたり虐げられたりする前に、 助けたい。だけど、今のままじゃ無理なんだよね。帰れないことには、何一つ始まらないから」 「歳を取れば取るほど、現実ってのが解ってきて嫌になるよ」 ロイズはティーカップを揺らし、底に溜まった溶け残りの砂糖を混ぜた。 「だけど、それは必要なことなんだ」 「ギルディオスの結論もファイドの答えも、どちらも間違ってなどいないのだわ」 ヴィクトリアはティーカップを置き、頬杖を付いた。 「私達が生きるためには、力を殺すか己を殺すかのどちらかを選ぶ必要があるのだわ。その実例として、 異能部隊があるのだわ。異能部隊は力を生かす代わりに個人としての意志を押し潰し、ただの道具に成り下がって しまったのだわ。もう一つの実例は、他でもない私達なのだわ。命を奪われない代わりに己の力を操る自由を奪われ、 俗人と化して生きている。けれど、それは私達本来の姿ではないわ。去勢された獅子、とでも言うべきかしら」 「でも、私達の力が危ないことも確かなんだよね。難しいなぁ」 リリは頭痛を堪えるかのように、こめかみを押さえた。 「平和的なのは後者だけど、有益なのは前者なんだよ」 ロイズは紅茶を飲み干すと、腕を組んだ。 「異能部隊の例もあるけど、僕達の力は匙加減さえ間違えなければ、極めて利便性の高い手段なんだ。 それこそ、近代兵器なんかよりも遙かに勝っている。問題があるとすれば、その能力や魔法には使用者の 人格が顕著に影響するってことだ。かといって、キース・ドラグーンとやらみたいに脳改造手術をして異能者を 単なる兵器にするわけにもいかないし、それだと本末転倒だ。有効な方法としては規律の取れた組織を 組み上げて異能者や魔導師を統率する、なんだけど、それも一度転けているしなぁ。それも、あのフィルさんが 束ねていた魔導師協会が」 「私達が市民権を得るために有効な手段の一つとしては社会奉仕活動があるけど、何を奉仕すればいいんだか」 リリの呟きに、ヴィクトリアが面倒そうに返した。 「安易に正義の味方になんてなろうと思わない方がよくってよ。あなたが出来ることなんて放火ぐらいだもの」 「そっ、それぐらい解ってるってば!」 妙に狼狽えたリリに、ロイズは怪訝な顔をする。 「なりたいのか、正義の味方とやらに」 「そりゃあ、まぁ、私の力が誰かの役に立てれば嬉しいなーっていつも思っているけど」 リリは照れくさいのか、前髪をいじった。 「だからといって、程度の低い正義感を私達に押し付けないでくれるかしら? 私達は私達で忙しいのだわ」 ヴィクトリアの冷淡な言葉に、リリはむくれた。 「ヴィクトリア姉ちゃんとロイが育児に忙しいことぐらい、ちゃんと解ってますってば」 「けど、リリの意見にも一理ある。正義の味方は置いておくけどね」 ロイズは背もたれに体重を預け、長い足を組んだ。 「僕らが有害ではなく有益な存在であると示していかないことには、活路は拓けない」 「竜の女に頼り切るのも悪くはないけれど、それでは同じことの繰り返しになるかもしれないのだわ」 ヴィクトリアは細い指先に、しなやかな黒髪を絡めた。 「フィル婆ちゃんのことを信じていないわけじゃないけど、何もしないままでいたくないもんね」 リリが頷くと、その足元の影から這い出したフリューゲルは低く笑った。 「くけけけけけけけけけけけ。トカゲ女の言いなりになってばっかりだと、マジつまんないんだぞこの野郎」 「だったら、あなた、何か良い考えがあって?」 ヴィクトリアは期待の欠片もしていない目で、フリューゲルを見下ろした。フリューゲルは、ぐいっと首を曲げる。 「お前らがないんだったら、オレ様が思い付くわけがないんだぞこの野郎」 「正論だ」 ロイズは可笑しげに笑い、立ち上がった。 「そろそろお昼だし、適当に何か作るよ。ヴィクトリアはもうしばらく休んでいて」 「あら、それぐらいなら出来るのだわ。心配されなくてもよくってよ」 椅子から立ち上がろうとしたヴィクトリアを、ロイズは制した。 「そう言ってぶっ倒れたのはどこの誰だよ。僕がやるから」 「あれは産後すぐだったからで、今はなんともないのだわ。台所をあなたに任せると、とても不安なのよ」 「僕だって、一家の稼ぎ頭に寝込まれちゃ困る」 ロイズはヴィクトリアを振り切って、台所に入った。ヴィクトリアは仕方なく座り直し、夫の背に言葉を投げた。 「この前みたいに、野菜ばかりにしないでちょうだい。身が持たなくってよ」 「仰せのままに、女王様」 ロイズは冗談混じりに返しつつ、台所の戸棚を開けた。使い込まれた鍋を取り出してから、野菜をカゴから取る。 手早く皮を剥いて刻んでいくロイズの手付きは慣れていて、ヴィクトリアは安心しきった眼差しで夫を見つめていた。 先程のやり取りといいなんといい、いかにも夫婦らしい。リリはその関係に羨望を感じつつ、二人を眺めた。 今も昔もフリューゲルを愛していることに変わりないので、年頃になっても人間の夫を娶るつもりは毛頭なかった。 学生時代には言い寄られたこともあったが、自分自身でも驚くほど心が動かず、男女交際をしたことはなかった。 それでも、暖かな家庭に対する憧れはある。母親のように大きな愛情で我が子を包み、育てたいと思う時もある。 だが、やはり人間の男と付き合う気は微塵もない。子供は欲しいと思うが、そのためだけに交わるのは良くない。 せめてフリューゲルが生身だったら魔物の子が、と考えた時もないわけではなかったが、人道的にはよろしくない。 竜族の血が流れているとはいえ、リリは肉体的にも精神的にも人間なので、魔物の子を産んだら戦慄するだろう。 フリューゲルが生身だったら良かったのに、と思う反面で、致命的な過ちを犯さずに済んだという安堵もあった。 けれど、自分の家族を持ちたい気持ちはある。リリは紅茶を啜りながら悩んでいたが、ロイズが声を掛けてきた。 「リリ、ちょっといいか?」 「あ、うん?」 ティーカップを置いてリリが返事をすると、ロイズはマッチ箱を振り、中身が空であることを示した。 「今朝使った分が最後だったらしくて、もうないんだ。だから、かまどの火を付けてくれないか」 「それぐらいなら、きっと見つからないしね」 リリは薄手のカーテンを掛けられている窓を見やってから、台所に入り、かまどの前にやってきた。 「それ、ちょうだい」 リリがロイズに手を差し出すと、ロイズはリリの手にマッチの空箱を置いた。 「偽装工作でもするつもり?」 「正解。万が一ってこともあるじゃない。それに、このままじゃお昼を食いっぱぐれちゃうからね」 リリは薪の木ぎれを拾ってから、マッチの空箱からマッチを取り出すような仕草をすると、それを壁で擦り上げた。 擦り上げて壁から離れた瞬間に木ぎれの先端を睨んで念力発火能力を放ったが、火の粉の一つも散らなかった。 リリとロイズが顔を見合わせると、唐突にサミュエルが泣き出した。リリの影の中で、フリューゲルが仰け反った。 「なんだ、なんだ、なんだってんだこの野郎ー!」 「あら、どうしたの?」 ヴィクトリアはゆりかごから我が子を抱き上げ、軽く揺らした。 「変ね。おむつも濡れていないし、寝て起きたばかりだから機嫌も良いはずなのに」 「腹が空いたんじゃないのか?」 「いいえ、泣き方が違うわ。それに、この感覚は…」 ヴィクトリアは腕の中で泣き喚くサミュエルを見下ろし、眉根を顰めた。すると今度は、フリューゲルが倒れた。 がしゃん、と激しい金属音を立てて床に突っ伏したフリューゲルは、翼の生えた長い腕をだらりと投げ出していた。 リリは慌ててフリューゲルを起こすも、赤い瞳からは光が失せていた。影の中に戻そうとしたが、戻らなかった。 普段は水のように柔らかな影の異空間が凍り付いたように固まって、押しても引いてもフリューゲルは動かない。 「どうしよう、ねえロイ、どうしよう!」 動転するリリに、ロイズはリリの傍に屈んで彼女の影に手を当てた。 「とりあえず、影の中にさえ戻してやれば、なんとか」 強引だが、影の異空間を外側から開くしかない。ロイズは魔力を高めて異能力を放ったが、何も起きなかった。 「あ、あれ?」 確かに、異能力を操って空間を歪めたはずなのに。ロイズが目を丸めると、サミュエルの泣き方が激しくなった。 ヴィクトリアは息子をあやしながら、その胸元に手を翳した。発達すらしていない魔力中枢に、魔力が滾っていた。 「魔力測定器、持ってきなさい!」 ヴィクトリアが声を張ると、ロイズは寝室へと駆け込んだ。 「ああ、そう言うだろうと思ったよ!」 居間に戻ってきたロイズの手には、懐中時計に似た外見だが全く別の機械、魔力測定器が握られていた。 それを手渡された妻は、魔力測定器を息子に向けた。小さな体で必死に泣く赤子の上で、長い針が動いていく。 リリは倒れたままのフリューゲルを引きずってヴィクトリアの元に近付き、魔力測定器の文字盤を覗き込んだ。 ロイズもまた覗き込んでいたが、針は止まった。五十三。だが、再び針は動き出し、泣き声に合わせて上下した。 「どういうこと?」 リリがヴィクトリアに問うと、ヴィクトリアはしばらく考え込んでいたが口を開いた。 「この魔力の変動類型には、少し覚えがあるのだわ。そうね、言うならばブリガドーン崩壊直後の魔力波に 近いものがあるわ。といっても、あれほどの威力ではないし、サムの放っている魔力が届く範囲もこの部屋ぐらい なのだわ。けれど、問題はその方向性と作用ね。リリ、もう一度炎を放ってみなさい」 「どこに?」 「そうね、暖炉の中にでも。出力は抑えた方が良いと思うのだわ」 ヴィクトリアに命じられ、リリは疑問に思いながら暖炉を見据えた。 「じゃあ、一発」 燃え残りの薪に向け、念力で成した炎を放った。はずだったが、感覚を貫かれるような感覚に襲われ、よろけた。 サミュエルの泣き声が強まったのと、ほぼ同時だった。リリはたたらを踏み、テーブルに手を付いて体を支える。 「何、今の…」 炎に発現しようとした魔力そのものが、それを上回る出力の魔力で相殺された。先程の衝撃はそれに違いない。 鈍い頭痛と衝撃の余韻を堪えながら、サミュエルを見下ろした。相殺してきた魔力の主は、間違いなくこの赤子だ。 だが、正確に相殺してきたわけではない。周辺に現れた魔力の固まり目掛けてぶつけた、というようなものだった。 だから、相殺の余波が出てしまい、リリの感覚に衝撃が訪れたのだろう。これもまた、異能力の一種だろう。 「そういうことだったのね」 リリの様子を観察していたヴィクトリアは、サミュエルの上から魔力測定器を外した。 「この子は、力を持っていないのではないのだわ。私達が力を使わなかったから、打ち消すための力を放つ 機会がなかっただけなのだわ。今の実験で大体のことは掴めたわ。要するに、サムは本能的に指向性魔力波を放って、 他人の放った異能力や魔法の類を相殺することが出来るのだわ。言うならば、魔力無効化能力ね」 「つまり、異能力や魔法で攻撃されない限り、発揮出来ない力か。斬り掛かられなければ、盾は使えないもんな」 ロイズは妻の説明に納得しつつ、リリの足元で気絶したままのフリューゲルを見下ろした。 「となると、フリューゲルが卒倒したのにも説明が付くな。あの収穫祭のスモウの時に、フィオ小母さんが 強烈な魔力封じを掛けたドヒョウに入った時と同じ状態になっちまったんだな。前回も今回も魔力そのものを 封じられたんだから、魔力が原動力の魔導兵器が活動出来るわけがない」 「だったら、早くサムを泣き止ませなきゃ。じゃないと、フリューゲルが…」 リリは、気絶しているフリューゲルを抱き起こした。ヴィクトリアは魔力測定器を夫に渡し、両腕で息子を抱いた。 「この子が泣き出したのも、リリが念力発火能力を使ったからなのでしょうね。突然現れた強い魔力に驚いて、 本能的に応戦してしまったに違いないのだわ。早く泣き止ませないと、この子も疲れてしまうのだわ」 「とりあえず、マッチでも買ってくるよ。このままじゃ、昼飯を作るに作れないからな」 ロイズは寝室に戻って財布をポケットに押し込み、階段に向かった。ヴィクトリアは、その背に命じた。 「ついでに、腸詰めも買ってきなさい。塩漬け肉ばかりで飽き飽きしているのだわ」 「いい加減にしろ、女王様」 ロイズは苦々しげに言い返したが、裏口から出ていった。ヴィクトリアは息子をあやしながら、くすりと笑う。 リリは頭に残る重みと痛みは大分抜けてきたが、本調子とは言えないので、椅子に座って落ち着くのを待った。 サミュエルは涙を滲ませながら泣き喚いていたが、次第に弱まってきた。こちらもまた、落ち着いてきたようだ。 赤子の泣き声と騒動に怯えたのか、ダンは棚の影に隠れていたが、そっと様子を窺いながら歩み寄ってきた。 ヴィクトリアの膝に乗ろうとして首を伸ばしたが、サミュエルがいるので渋々引き下がり、リリに近付いてきた。 リリが膝の上を示すと、ダンは身軽に跳ねて飛び乗った。リリの膝の上を嗅ぎ回っていたが、くるりと丸まった。 滑らかな光沢を持った黒い固まりと化したダンを撫でながら、リリは頬を緩めた。ダンは、低く喉を鳴らしている。 ヴィクトリアの歌う子守歌が部屋を満たし、リリはダンの丸まった背を撫でながら、家族に思いを馳せた。 最愛の両親、顔も見たことのない弟、辛い運命を背負った従姉妹とその母親。会いたくても、決して会えない。 普段は会いたいと思わないようにしているが、こうして温かな家族に触れてしまうと、途端に切なさが込み上げる。 大丈夫、まだ誰も死んだわけではないのだから。リリはそう思いながら、ヴィクトリアの優しい子守歌に聴き入った。 夢を追って突っ走っている間は忘れられるが、立ち止まった時は現実を思い知る。だが、悲しむ理由はない。 この現実は、過去の自分が選んだ未来なのだから。 08 1/23 |