ドラゴンは滅びない




殺戮の腕、慈愛の手



 数日後。ルージュは、薪を拾い集めていた。
 大きなカゴを抱えて森を歩き、枯れ枝や焚き付けに使えそうな枯れ葉を拾ってはカゴに入れた。 季節はまだ秋ではない。頭上に広がる枝には青々とした葉が生い茂り、靴の下で潰れる雑草も瑞々しい。 けれど、その匂いは解らなかった。フィフィリアンヌに改造された際に取り戻した生身のような感覚は、触覚だけだ。 それ以外の感覚は、ほとんどないようなものだ。視覚と聴覚は元から鋭敏なのだが、嗅覚と味覚は死んでいる。 生きている頃は、どちらも鋭かった。吸血鬼は人よりも獣に近い種族なので、かすかな匂いも味も感じ取れた。 だが、今は何もない。何を口に含んでも石と砂の感触しかせず、何が近くにあっても匂いを感じることは出来ない。 全身にじっとりとまとわりつく空気の重たさと鉛色の曇り空のおかげで、雨が降りそうだと言うことは解っていた。 しかし、雨の匂いも湿気を帯びた土の匂いも感じられない。己が死者だということを、痛感せざるを得なかった。

「錆びると後で面倒だからな」

 ルージュは独り言を呟いてから、カゴの中を見下ろした。思ったほど薪は集まらず、カゴは軽かった。 だが、この体は雨には弱い。いくら人の姿を模しているとはいえ、関節と関節の繋ぎ目までは埋まっていない。 そこから内部に水が入り込み、万が一故障でも起こしたら後が大変だ。何せ、交換する部品は存在しないのだ。 ブリガドーンが現存していた時には、フィフィリアンヌが連合軍から奪い取った部品がちゃんと蓄えられていた。 だが、ブリガドーンが崩壊すると同時に海峡に散らばってしまい、今となってはどこにあるのかも解らなかった。 それを探しに行く気力もないし、見つけたところで使えるとも思えない。魔導金属も魔力がなければただの金属だ。 長時間海水に浸かり、或いは風雨に曝され、ひどく錆び付いて劣化しているだろう。これもまた、仕方ないことだ。
 雑草を掻き分けるように歩きながら、ルージュは人の気配を感じていた。それも一人だけではなく、複数だった。 雑草が伸び放題になっているにも関わらず、まるで音を立てずに移動し、ルージュの歩調に合わせて尾行してくる。 ルージュが歩調を緩めれば一旦止まり、歩調を早めれば僅かながら速度を増し、常に一定の間隔を空けていた。 彼らの気配に視線を向けないようにしながら、ルージュは歩いた。彼らとの付き合いも、もう五年になるだろう。
 ブラッドとルージュがゼレイブを出る少し前に、三人の子供達は国外退去処分を受けて共和国から出国した。 三人はそれぞれの親や友人の罪を被って処分を受けたので、牢獄に収監されていない罪人にも等しい。 三人の周囲には国際政府連盟と合衆国が派遣した監視役の諜報員が付き、魔法や異能力を使わないか監視している。
 それと時を同じくして、ブラッドとルージュにも同様の監視役の諜報員が付けられたらしく、人の気配が常にある。 相手も手慣れていて、振り向いた瞬間には姿が見えなくなる。時には完全に息を殺し、視線だけを注いでくる。 最初の頃は、物凄く気持ち悪かった。一挙手一投足が他人に見られているかと思うと、それだけで息苦しかった。 だが、そのうちに諦めた。気にしていてもどうにかなるわけではないし、こちらが隙を見せなければいいだけだ。 それに、見られているだけならまだマシだ。地下に閉じ込められて虐待されるわけでもないのだから。 ルージュがアルフォンス・エルブルスから受けた悪魔の所業に比べれば、監視されることなど痒くもない。 ルージュがそう言うと、ブラッドも同意してくれた。そして、耐えることに慣れると、彼らは生活の一部になった。
 だから、彼らに気を向けることもなく、ルージュは歩き続けた。今日は薪を探しすぎて、深入りしてしまった。 いつもは通らない場所を通りながら進んでいると、ふと、聴覚が音を拾った。森にそぐわない奇妙なものだ。 ルージュが足を止めると、彼らも足を止めた。薪の入ったカゴを置いて感覚を研ぎ澄まし、その音源を探った。 音に混じって、かすかな思念も感じる。言葉ではなく、感情だけが込められた思念が森の西側から流れてきた。

「お前は誰だ?」

 ルージュは顔を上げ、歩き出した。呼ばれているような気がしたからだ。

「言葉を使え、なぜ何も話さん」

 歩くに連れて、声量が増す。最初は動物か何かの鳴き声かと思ったが、これは明らかに人の泣き声だった。 思念も徐々に強くなり、音を引き上げるようにして感情も増していき、荒々しい感情がルージュの魂に流れ込んだ。 喩えようがないほど深い恐怖と絶望、そして飢えだった。ルージュはその声に導かれるまま、草むらを掻き分けた。

「あれは…」

 動物以外は立ち入らないであろう森の奥深くに、異様なものが転がされていた。薄布に包まれた赤子だった。 思念の主は、この赤子だったらしい。ルージュは赤子に近寄り、恐る恐る持ち上げたが、首がだらりと動いた。 まだ首も据わっていない、生後間もない子供だった。長時間放置されていたのか、小さな体は冷え切っていた。 その身に乱暴に巻き付けてある布は草の露を吸い込んで冷たく濡れていたので、ルージュは薄布を脱がした。

「なんだ、これは」

 赤子の両側頭部からは、見慣れぬものが生えていた。

「獣の耳か?」

 人間の耳に当たる部分から、オオカミのそれに似たものが一対生えており、表面には茶色い毛も生えていた。 よく見ると、丸く柔らかな尻の上からは尾も生えている。ルージュはエプロンを脱ぎ、赤子の体を包み込んだ。 抱き締めてみると、赤子の内側から魔力が溢れていた。だが、人のものではなく、明らかに魔物の魔力だった。 しかし、外見は人の子だ。獣の耳と尾さえ生えていなければ、どこにでもいる赤子だ。だからこそ、異様だった。 魔物族は、近代文明の発展と共に討伐されて生き残っていない。吸血鬼族も、ブラドール家で最後になるだろう。 人界に近い森に住んでいた魔物族は真っ先に討伐されてしまったので、ワーウルフが生きているわけがない。 だが、この耳と尾はワーウルフのそれに近かった。もしかすると、フィリオラのような先祖帰りなのかもしれない。 この赤子の両親のどちらかの先祖にワーウルフの血が混じっていて、何かの拍子でその血が目覚めたのだろう。 そして、この赤子に耳と尾が生えた。だから、捨てられたのだろう。だが、両親の判断も解らないこともなかった。 ブリガドーンの一件以降、魔法や異能力絡みに関する風当たりは強くなる一方なので、保身に走る気持ちも解る。

「そうか。お前も、親を知らないのか」

 ルージュは赤子の頭を持ち上げて胸に抱き、立ち上がった。

「私も同じだ」

 顔を上げ、家路を辿るべく歩み出そうとしたが、目の前に黒光りする銃身が突き出されて立ち止まった。 これまでずっと身を隠していた者達が、姿を現していた。薄い闇に満たされている森の空気が一変し、強張った。 戦闘服は連合軍のそれだったが、装備が違っていた。小銃の類は担いでおらず、一見しただけでは武装はない。 だが、袖の中や裾の内側に隠していた拳銃を抜き、一斉に構えていた。ルージュは赤子を抱き締め、守った。

「銃を向けるのは私だけにしろ。この子には向けるな」

「それを引き渡せ」

 兵士の一人が平坦な言葉を発し、手招きした。ルージュは、赤子を抱く腕に力を込める。

「理由を話せ」

「魔法禁止令に反する」

「たったそれだけの理由でか?」

「違反者は発見次第処分するのが我々の任務だ」

「この子が何をしたと言うんだ」

「何もしていない。だが、先のことは解らない」

「だったら、なぜ生かそうとは思わない」

「生かした末に起きたのが、先の騒動だ。それを忘れたとは言わせんぞ、吸血鬼が!」

「過去のことは、全て過ちだと認めよう。だが、この子はまだ何も」

 ルージュは不安を感じて泣き喚いている赤子を抱き、表情を強張らせた。

「撃て!」

 兵士の一人が命ずると、一斉に引き金が押し込まれた。途端に炸裂音が轟き、木々の枝から鳥が飛び立った。 ルージュは反射的に身を翻し、彼らに背を向けた。服を貫通して到達した弾丸は、肌に当たった途端に跳弾した。 硝煙臭い煙の中で身を起こすとぱらぱらと潰れた鉛玉が落ち、顔を上げると、今度は接近戦に持ち込もうとしてきた。 ルージュは力強く地面を蹴り上げ、跳ねた。推進翼は取り外したので飛行は出来ないが、跳ぶことなら出来る。 頭上にあった一際太い枝に着地し、更にその枝を蹴る。赤子を傷付けないように守りながら、森の中を跳んだ。 背後では部下に指示を飛ばす声が聞こえてきたが、ルージュを完全に見失ったのか、追っ手は来なかった。 それでも念には念を入れて、ルージュは久しく使っていなかった身体機能を発揮させて、彼らとの距離を開いた。
 腕の中の赤子が、ひどく熱かった。




 家に辿り着いたのは、日が暮れた後だった。
 ルージュは家の周りに監視役の兵士が一人もいないことを何度も確認した後、足音を殺して玄関に回った。 扉を開けようと手を伸ばした瞬間に内側から扉が開き、不安げな顔のブラッドが現れてルージュを引き込んだ。 ルージュは腕を引かれるまま家に入り、扉を閉めた。ブラッドはルージュを抱き締めようとして、その腕の中に気付いた。 弾薬と硝煙の匂いに混じって人でもなければ獣でもない匂いを放つ小さな赤子に、ブラッドは目を丸めた。

「ルージュ、それって」

「この子は森の中に捨てられていたんだ」

 ルージュはエプロンにくるまれた赤子を、ブラッドに差し出した。

「監視役の連中がこの子を殺そうとしたから、逃げていたんだ。帰りが遅くなったのはそのせいだ」

「これ、耳か?」

 ブラッドは赤子の側頭部から生えている耳を、そっとつまんだ。途端に赤子はぐずり、嫌がった。

「あ、ああ、悪い悪い。やっぱり、ちゃんと感覚があるんだな」

「ちなみに男の子だ。まだ首が据わっていないから、気を付けて持て」

 ルージュは、赤子をブラッドの腕に預けた。ブラッドは赤子の頭を支えてやりながら、抱き抱える。

「じゃあ、産まれたばかりってことじゃねぇかよ。なんてことしやがる」

「ブラッド。赤子は何を喰うんだ?」

「んー…。飴湯、とかかな。母乳があればそれに越したことはねぇんだろうけど…」

 ブラッドが申し訳なさそうに口籠もると、ルージュは笑んだ。

「それはもういいんだ。優先すべきはその子のことじゃないか」

「ああ、まぁな」

「飴湯はどれくらいの薄さと温度でいいんだ?」

「赤ん坊が飲むんだから、本当に薄くていいんだよ。前にリリが飲んでたやつを舐めたことあるんだけど、 普通の飴湯よりも大分薄かった。温度も人肌ぐらいだから、凄く温かったな。とりあえず、ルージュはこの子を 風呂に入れてやってくれ。こんなに冷えてちゃ風邪を引いちまうからな。飴湯はオレが作るからさ」

 ブラッドは、ルージュの腕に赤子を戻した。 

「後で飴湯の加減を教えてくれ。分量と温度さえ解れば、次からは私が作る」

 ルージュは赤子を慎重にソファーに寝かせると、袖をまくり上げた。

「だったら、まずは湯を沸かさないとな。風呂も飴湯と同じで、ぬるま湯でなければいけないんだろう?」

「うん、そっちも人肌ぐらいの温度だ。後は…なんだったかな」

 ブラッドは台所に向かいながら、不安げに呟いた。ルージュは、苦笑いする。

「今はお前しか頼れないんだ、もう少し自信を持ってくれ。そうでないと、私まで不安になるぞ」

「そんなこと言ったって、オレ、赤ん坊の世話なんてちゃんとしたことねぇんだもん。そりゃ、リリの小さい頃には 子守はしたけど、それぐらいなんだよ。こんなことなら、ちゃんと聞いておくんだったなぁ」

「そうだな、私もそう思う」

 ルージュは赤子に着せてやるものを探すべく、寝室に入った。タンスを開けるも、めぼしいものはなかった。 元々、服の数など数えるほどしかない。厚手で柔らかな布を取り出しながら、産着を仕立てることを考えていた。 自分の服を解いて作り、着せてやろう。布地さえ買えれば服などいくらでも作れるのだから、惜しむことはない。 布を掻き集めて居間に戻り、ソファーに寝かせた赤子の体の下に置いてやってから、今度は井戸へ向かった。 裏口を開けると、いつのまにか雨が降り出していた。外に出ている時でなくて良かった、とルージュは安堵した。 井戸に桶を落として水を掬い上げ、桶に移した。それを抱えて居間に戻り、大きな暖炉に掛けた鍋に流し込む。

「お前を煮るわけではないから、安心しろ」

 ルージュは赤子に言い聞かせながら、鍋の下に薪と焚き付けを入れて火を付けた。焚き付けが燃え、灰が散る。 湯が沸くのを待つ間、いつも洗濯に使っている平たい桶を先程汲んだ水で洗い流してから、居間に運んだ。 他に適当なものがないのだから、これを風呂桶に使うしかない。湯が沸きすぎた時のために、冷水も用意した。 ルージュは時々鍋の中に手を入れて温度を測りながら、赤子の様子を窺った。声は落ちたが、泣き続けている。

「もうしばらく待ってくれ、暖めてやるから」

 ルージュは赤子を抱き、あやした。加減は解らなかったが、ゆっくりと揺らしてやると次第に落ち着いてきた。 ぴんと伸びた茶色い耳を動かしながら、ルージュに小さな手を伸ばしてきた。指よりも細い尾も、動かしている。

「ルージュ、水飴ってどこだっけ?」

 ブラッドは苦笑いしつつ居間に戻ってきたが、ルージュの腕の中で声を上げている赤子を見、頬を緩めた。

「やっぱり、子供って可愛いな」

「水飴なら、戸棚の上から三番目の右側にある。それを使うといい」

 ルージュはブラッドに返してから、円らな瞳を輝かせる赤子を見下ろした。

「お前の言う通り、可愛いな」

 ルージュは赤子に指先を伸ばすと、小さな手に掴まれた。ルージュの指を引き寄せ、歯のない口でしゃぶる。

「すまない、私は乳は出ないんだ。だが、それでもいいと言うのなら、私はお前を育ててやりたいと思う」

「育ててやるに決まってんだろ。今日からお前は、うちの子だ」

 ブラッドはルージュを背後から抱き、赤子を見下ろした。ルージュは、横目にブラッドを見やる。

「いいのか、ブラッド?」

「放っておいたら、必ず誰かに殺されちまう。そうなるのはオレも嫌だし、ルージュも嫌だろ?」

「ああ、とても嫌だ」

「だから、うちの子にする。良い名前も思い付いたしな」

「どんな名前だ?」

 ルージュが尋ねると、ブラッドは赤子の柔らかな頬に触れた。

「ローガン・ギル・ブラドール。ローガンってのは、オレが子供の頃に読んだ本に出てきた英雄の名前だよ。 ローガンは、どんな困難にも挫けず、どんな障害にも負けず、どんな脅威にも怯まない、誇り高い男なんだ。 これから色々と大変なことがあるだろうけど、胸を張って生きていってほしい。ギルってのは、言わずもがなだ。 おっちゃんの名前、ちょっともらったぜ」

 ブラッドは虚空を見上げ、笑みを浮かべた。ルージュも、自然と笑みが浮かぶ。

「いい名だな」

「あ、やべ!」

 台所から異音が聞こえ、ブラッドは慌てて駆け戻った。かまどに掛けたポットから湯が溢れ、零れていた。 ルージュもはたと気付いて、名付けられたばかりの赤子を置いてから暖炉に向かうと、湯気が立ち上っていた。 水面に手を差し込むと、人肌よりも多少熱くなっていた。火掻き棒で薪を散らして火を弱め、湯を掬い上げた。 洗濯桶に流し込んでから、今度は水を入れて温度を調節した。温くもなく熱くもない、人肌程度の湯になった。 そこに赤子を浸してやり、静かに湯を掛けてやる。可愛らしい尻尾と耳も洗ってやり、土と砂に汚れた背中も洗った。
 ルージュの手の中で、赤子が声を上げていた。それが嬉しくてたまらず、胸の奥が締め付けられる。 同時に込み上げてきた罪悪感に負けそうになりながらも、赤子を暖めてやる。嬉しいが、嬉しすぎて苦しくなった。 かつて、あれほど人を殺した手なのに、今は捨て子を拾って風呂に入れている。こんな手でも、命を救えるのか。 涙が出そうなほどの愛おしさに、ルージュは目元を押さえた。子が孕めなくても、乳が出なくても、自分は女だ。 母親の顔を知らなくても、誰からも育てられた経験がなくても、死者であろうとも、人造魔導兵器に過ぎなくても。
 母になりたいと願ってしまう。





 


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