それから半月後。思わぬ来客が、小さな家を訪れた。 ルージュは泣いてばかりいるローガンの世話に追われ、日々の買い物にも出掛けられない始末だった。 仕方ないので、ブラッドが休みの日にローガンを頼んで買い出しに出掛け、一週間分を買い込むようになった。 だから、今日もそんなものだった。昼夜を構わずに泣き出すローガンに、さすがのルージュも疲れていた。 生前は吸血鬼族で人造魔導兵器と言えど、赤子には敵わなかった。泣かれてしまえば、かかり切りになってしまう。 楽しいし幸せなのだが、それ以上に気疲れする。なので、ルージュはかなり強い眠気を感じていたので、ローガンを 横たえているソファーの向かい側に座って、腕に顔を埋めていた。浅い眠りに引きずり込まれそうになった時、 ローガンが泣き出した。今度は何だ、とルージュは渋々顔を上げた。おむつは代えたばかりで、飴湯も飲ませ、 やっと寝かし付けたばかりだ。なのに、こんなに早く起きてしまうなんて。 「どうした、ローガン」 ルージュは仕方なしに体を起こし、あの気配を感じ取った。玄関に向くと、古びた木製の扉が数回叩かれた。 「まさか…」 こんな時に、なぜ。ルージュは疑問を感じながらも、泣き喚くローガンを抱き上げてから玄関の扉を開けた。 そこには、魔女の如き格好をした少女が立っていた。黒いマントに黒い帽子を被り、黒いローブを着込んでいる。 先の尖った鍔の広い帽子が軽く上がり、赤い瞳が現れた。途端に、ローガンの泣き声は激しくなってしまった。 「気持ちは解るが、そんなに怯えないでくれ」 ルージュは困りながらも、必死にローガンをあやした。だが、ローガンが落ち着く様子はなく、泣き続けている。 「初対面で嫌われるとは、竜の姉御もなかなかのもんでやんすねぇ」 魔女の足元からにゅるりと現れた二本の尾を持つ白ネコ、ヴィンセントはにやけている。 「お久し振りでごぜぇやす、吸血鬼の姉御。あっしと姉御らは、その耳と尾の生えた赤ん坊を拝見しに来たんでさぁ」 「なるほど、貴様の情報通りだな、ヴィンセント」 魔女、フィフィリアンヌは黒い帽子を外し、二本のツノと緑髪を露わにした。 「外見から察するにこの赤子はワーウルフの血縁に違いないが、それにしては獣の匂いが薄すぎる。 おまけに乳臭さもほとんどない。生後数日で捨てられた、と思うべきか。となれば、貴様のような素人の世話では 数日もせずに命を落としているはずなのだが、しぶとく生きているとは正直意外だ。その赤子の生命力が余程強いか、 或いは貴様らが無意識に零している過剰な魔力を吸収して生命維持に用いているか、だが、恐らくは前者だろう。 魔力中枢の大きさも魔力出力も、未発達であることを考慮しても並みの魔物や異能者に比べて低すぎる。 外見こそ異形だが、中身は平凡な人間と遜色がないようだ。となれば、単なる突然変異である可能性も捨てきれないが、 だとすれば、その原因は決まり切っておる」 「ブリガドーン、か?」 フィフィリアンヌの言葉を聞き終えたルージュが呟くと、フィフィリアンヌは頷いた。 「私としては、ブリガドーンが破壊された衝撃で発生した魔力波の影響が今になって出てきた、という仮説を 立てている。私は穏便に事を済ませようと思っていたのに、リチャードの馬鹿が派手に破壊してくれたものだから、 予想外の結果が起きたところでなんら不思議はない」 「はっはっはっはっはっはっはっはっは。そもそも、あのように巨大な魔導鉱石の集積体を魔法で破壊すること 自体が非常識なのであるからして、あのニワトリ頭が率いていた寄せ集め戦闘部隊は判断を大いに間違えたのである。 トカゲ女は海へ隠すつもりでいたようであるが、その前にあの愚か者共は先走ったのであるからして、我が輩達には 何の不備はないということを先述しておくのである」 フィフィリアンヌの腰に下げられたフラスコの中で、伯爵がごぼりと泡を吐き出した。 「もしくは、そのブリガドーンが破壊された際に発生した魔力波を浴びた影響で、今までは表に出てこなかった 魔物の因子が表面化して先祖帰りしちまったのかもしれやせんねぇ」 ルージュの足元に擦り寄ってきたヴィンセントは、二本の尾をゆらりと振った。 「ひとまず、中へ。立ち話というのもなんだし、この子を泣き止ませなくては」 ルージュが中を示すと、フィフィリアンヌは躊躇いもなく踏み込んできた。 「言われずとも入るとも。私もゼレイブの外では魔法を使えぬ身だ、歩き通しで疲れてしまったのだ」 「そいでは、お言葉に甘えやして」 フィフィリアンヌに続いて、ヴィンセントも入ってきた。ルージュは扉を閉め、ローガンをソファーに寝かせた。 「フィフィリアンヌ。すまないが、紅茶を淹れてくる間、この子を見ていてくれ」 「いつから貴様は私に命令を下せる立場になったのだ」 そうは言いながらも、フィフィリアンヌは荷物を置いてマントを外し、横たえられた赤子の傍に腰を下ろした。 その際にフラスコを外してしまうと、ぞんさいに放り投げて床に転がした。伯爵の抗議が聞こえたが、無視している。 ヴィンセントも耳と尾の生えた赤子が気になるらしく、ソファーに前足を引っかけて体を伸ばし、覗き込んでいる。 台所に入ったルージュは、水を入れたポットをかまどに掛けて紅茶を淹れる準備をしながら、居間を横目に見た。 泣きじゃくっているローガンに、フィフィリアンヌはいつになく穏やかな表情と口調で語り掛けていた。 その内容は聞こえなかったが、言葉尻が優しいのは解る。人ならざる者達はどこかしら似た境遇にいるものだ。 フィフィリアンヌもローガンの身の上は他人事とは思えないのだろう。ルージュは、複雑な心境になってしまった。 差別や侮蔑を受けた過去があるからこそ、人ならざる者達に優しくなれるのは素晴らしいことではあるが切ない。 ティーポットに紅茶の茶葉を入れてから、ティーカップをフィフィリアンヌとヴィンセントの分である二客を用意した。 ヴィンセントが紅茶を飲むとは思いがたかったが、一応の礼儀だ。後は、伯爵のために料理用のワインを出した。 湯が沸いたので紅茶を二人分淹れ、作り置きの菓子を添えてワインと共に盆に載せ、ルージュは居間に戻った。 「いやいや、お気遣いなく」 ヴィンセントはローガンの元を離れると、紅茶と菓子とワインが並べられたテーブルにすとんと飛び乗った。 「ですが、出されたとあっちゃあ頂かないわけにはいきやせんねぇ」 「どっちなんだ、お前は」 ルージュは訝りつつも、ソファーに座った。フィフィリアンヌはローガンから離れてから、紅茶を取った。 「これの国の文化は、私でもどうも掴みきれん。だが、だからこそ、ラミアンを魅了してやまないのだろう。 スモウの一件以来、あれの東方かぶれはひどくなる一方でな。貴様らが屋敷を出ていって広くなった分、あれの 趣味の範囲が拡大しておるのだ。ブラドール家はあれで資産の多い一族であったからな、その金に物を言わせて つまらんものを輸入しておるのだ。ビョウブだのカケジクだのカタナだのキモノだのと、訳の解らんものが増えていきおる」 「そんなにひどいのか?」 ルージュは、曖昧な表情を浮かべた。スモウは知らないが、ラミアンが東方に執心していることは知っている。 「ひどいから、わざわざ報告してやっているのではないか。この私でさえ理解に苦しむ物品ばかりだが、幸いなのは 奴がその趣味を私を始めとしたゼレイブの住人に押し付けてこないことだな」 フィフィリアンヌは紅茶を啜り、その香りを味わってから嚥下した。 「茶葉は安物だが、淹れ方は悪くない」 「あなたに褒められるとは思ってもいなかった」 ルージュが目を丸めると、フィフィリアンヌは少々煩わしげに目を逸らした。 「私は正当な評価を下したまでに過ぎん」 「おお、なんということであるか! ルージュよ、貴君はこの冷血トカゲ女と差して変わらぬ性格の持ち主だと 思っておったが、これはなんと驚くべきことであろうか! 素晴らしき来客であり麗しき訪問者である我が輩を 最も良く持て成すとは、貴君は物事の本質を見極める心眼を備えておるようであるな!」 床の上でごとごとと揺れるフラスコを、ルージュは拾い上げてテーブルに置いた。 「何も出さないと後がうるさいから、出しただけだ。それに、このワインは市場で一番安かったものなのだが」 「それぐらい、匂いで解る。伯爵、耄碌したな」 フィフィリアンヌは熱い紅茶を傾けながら、にやりと目を細めた。コルク栓を押し抜き、伯爵は触手を振り回す。 「それは貴君が朝から我が輩に一滴たりとも水分を与えてくれぬからであるからして、我が輩は飢餓と乾燥の 危機に瀕しているのである! そのような劣悪な状態であれば、機械油の浮いた汚水であろうとも極上の美酒に なるのであるぞ! 貴君こそ、己の老化具合を棚に上げるでない!」 「忘れたのではない。思い出さなかっただけだ」 フィフィリアンヌは紅茶を飲みつつ、皿に盛ったクッキーを取り、囓った。 「こちらも悪くない」 「ブラッドが散々味見をしてくれるからな。彼がいなければ、私の料理など喰えたものではない」 ルージュは少し照れながら、答えた。ヴィンセントは小さな口で紅茶の湯気を吹いていたが、顔を背けた。 「もうちょいと冷ましておくんなせぇな、吸血鬼の姉御」 「そうか?」 ルージュは躊躇いもなくヴィンセントのティーカップに手を入れようとして、ヴィンセントは慌てて止めた。 「ああ、そういう意味じゃごぜぇやせんよ!」 「だが、放熱するには冷え切った金属が最適だぞ」 ルージュはヴィンセントの慌てぶりが可笑しくて、笑ってしまった。ヴィンセントは、恨めしげに紅茶を見つめる。 「猫舌ってぇのは、不便でやんすねぇ」 「それで、今日は何の用事で来たんだ?」 ルージュが問うと、フィフィリアンヌはティーカップを置き、すらりとした足を組んだ。 「言うまでもなかろう、ローガンの件についてだ。連合軍と国際政府連盟が手を出してくる前に、先手を打たねば」 「竜の姉御には、あっしが報告したんでさぁ。吸血鬼の姉御と旦那に貼り付いている連中の上司が、あっしの 御主人のいる委員会に報告しているのを聞きやしてねぇ」 ヴィンセントはそう言ってから紅茶に舌の先を付けたが、びくっと震えて退いた。 「ああ、まだダメでやんすねぇ!」 「このまま放っておけば、また良からぬことになる可能性が高いのであるからして、早急に行動すべきなのである」 フラスコを動かしてワイングラスの傍に添った伯爵は、ワインに触手を浸してじわじわと吸い上げていた。 「ブラッドの帰りはいつ頃だ」 フィフィリアンヌに尋ねられ、ルージュは返した。 「今日は忙しくなるから遅くなる、と言っていた。だから、日暮れた後になるだろう」 「私も私で忙しくてな。午後の列車で帰らねばならん、それまで待っておれんのだ」 フィフィリアンヌは目を伏せて考えていたが、目を上げた。 「仕方ない。特に込み入ったことは、貴様と話を付けよう。それ以外の事柄は、手紙でも使えばどうとでもなる」 「だが、それでは」 ルージュが戸惑うと、フィフィリアンヌは強かな眼差しで見上げてきた。 「貴様は五年も人の世に接してきたのだ、以前ほど視野も狭くあるまい。頭の出来は私が保証しよう。少々感情的で 精神的に打たれ弱い面があるが、判断力と思考力は申し分ない。ブラッドももう子供ではないのだ、貴様のことを 愛しているのだから信頼もしておるだろうて」 「私もブラッドもローガンと生きていきたいんだ!」 ルージュが立ち上がりかけると、フィフィリアンヌはそれを制した。 「だから、これからそれを話し合うのではないか。私とて、その赤子を死なせたいとは思っておらん」 「あ、ああ」 ルージュは座り直し、頷いた。フィフィリアンヌはソファーに背を預け、傍らのローガンを見下ろす。 「そうか、貴様の名はローガンというのか」 「ローガン・ギル・ブラドール、というんだ。ブラッドが付けたんだ」 「奴にしては、まともだな」 フィフィリアンヌはかすかに笑顔を浮かべたが、真顔に戻った。 「ローガンは赤子だが、だからといって母親を捜し出して突き返すのは危険極まりない。かといって、その辺りにある 貧弱な孤児院に放り込んだところで、いびり殺されるのが見えている。現時点で最良な選択肢は、このまま貴様らの 元で暮らすか、ゼレイブへ寄越すか、だが、間違いなく前者だろう。ローガンは貴様らに懐いておるようだし、貴様も あの若造も大事にしておるようだからな。引き離してしまうのは少々後味が悪い。それに、子が生きるために最も重要なのは 栄養もさることながら愛情だ。貴様の顔付きを見ていれば、どれほどこの子を思っているかすぐに解る。ゼレイブに 持ってきたところで、フィリオラはギルバートで手一杯で、キャロルもウィータに振り回されておる、この上で赤子など 加えては面倒なことになる。増して、ゼレイブの方が監視の目は厳しい。その目を少しでも外側へと向けさせ、分散させる ためにも、連中の不安要素は増やしておかねばならん」 「連合軍と国際政府連盟と新政府が、魔法関連の機密事項に割ける予算は限られてやすからねぇ。今でこそ 国際政府連盟の援助がありやすが、去年に比べればがくんと落ちておりやすから、十年前のように湯水の如く 使えねぇのが現状なんでさぁ。いずれ税金を増やして補填するつもりなんでしょうが、戦後のゴタゴタはまだそこかしこに 残っちょりやすし、増税増税と繰り返せば何が起きるか解ったもんじゃありやせん。かといって、軍費を削っては 元も子もありやせんし、敗戦国は他国からの援助なんてもらえるわけがありやせんし、もらったところで使い道は 限られてやすからねぇ。つまり、竜の姉御は、連中の財布の紐を締めさせたいんでやんすよ」 「他にも思惑はあるのであるが、最も重要なのはあくまでもローガンの命なのである。これから先も、ブリガドーンの 影響を受けた者達が生まれ出でるはずなのであるからして、ローガンには我が輩達のような存在を生かすための 開拓を行ってもらわねばならんのである。リリもロイズもヴィクトリアも海を渡って移住させられ、ウィータはこの世で 最も邪悪な男の娘であり、ギルバートは両親の血をほとんど継がなかったのであるからして、他に使い勝手の良い手駒が 見当たらないのである」 ヴィンセントの演説に続き、伯爵も長々と喋った。 「要するに、この子は普通に生かせばいいんだな?」 ルージュが言うと、フィフィリアンヌは頷いた。 「そうだ。そうでもしなくては、いつまでたっても埒が開かん。連合軍と国際政府連盟、そして新政府との膠着状態が 長引けば、またどこぞの異能者か何かが痺れを切らさんとも限らんのだ。私達に二度目はない。もう一度でも戦いを起こせば、 今度は躊躇いもなく屠られることだろう。そうなれば、全ては無駄になる。グレイスの怨念も、ギルディオスの遺志も、 リチャードの覚悟も、そして積み重ねてきた日々も、何もかもが原初の海に帰す。多少辛い役割かもしれんが、それでも 良いと言うのなら、私の策を話そう」 「腹を割かれ、手足を落とされ、陵辱され、飢餓と絶望の中で生き長らえること以上に辛いことがあるとは思えない。 そんなものは愚問だ」 ルージュが首を横に振ると、フィフィリアンヌは唇の端を僅かに上向けた。 「いい答えだ」 「それで、策というのは」 「ローガンの生き様を実験例とし、健全な生育状況を事細かに報告させるのだ。すなわち、ローガンは実地の実験体に させてしまうのだ。連中としても、我々の情報は欲しいだろう。ローガンを通じて、貴様ら吸血鬼族の情報も探り出したいはずだ。 隠すところは隠すが、出すところは出さねば信用されんからな」 「駆け引きの基本中の基本でやんすねぇ」 ヴィンセントは、ようやく冷めてきた紅茶をぴちゃぴちゃと舐めた。 「癪に障るが、時として敵に媚を売らねばならん時もあるということである。より良い共存関係を生み出すためには、 お互いを深く理解する必要があるのである。そのためにも、ローガンの存在は不可欠なのであるからして、貴君らも ローガンを平凡に育て上げるという大役があるのである」 ワインを一滴残らず吸収した伯爵は、水分を含んで艶やかになった触手を振り、しなやかに動かした。 ルージュは頬を緩ませかけたが、躊躇した。母になっても良いと言われると、逆に不安が湧き上がってしまった。 「この手が綺麗であれば、胸を張って喜んだんだろうが、私の手は血に汚れすぎている。それ以前に、 私はその罪を何一つ償っていない。だから、私は」 「貴様は既に裁かれておる。何も気に病む必要はない」 両手を握り締めて俯くルージュに、フィフィリアンヌはなんでもないことのように言い切った。 「だが…」 「貴様は二度も死したではないか。貴様は一度目の死で過去を断ち切り、二度目の死で迷いも邪念も断ち切った。 その証拠に、二度目の死以降は貴様は誰も殺しておらん。但し、アレクセイとエカテリーナは除くがな。あれは、 我らの目から見ても化け物だったのだ、殺されるべくして殺されたのだ」 「しかし、フィフィリアンヌ」 「迷うな、ルージュ。貴様が何をした身であろうと、どんな身であろうと、この子を抱き上げた時から貴様は この子の母であり全てなのだ。ローガンを生かし、慈しみ、育てたいと思うのなら、その無駄に巨大な胸を張れ。 そのうちに、貴様は母親になれる。女は子を産んだことで母になるのではない、子に育てられて女は母になるのだ」 フィフィリアンヌの平坦ながらも優しい言葉に、ルージュは顔を上げた。 「私も母親になれるか?」 「両腕こそ武器を帯びておるが、手は普通の女の手に過ぎん。だから、その子を抱いたのだろう?」 フィフィリアンヌはローガンを見下ろし、目を細めていた。ルージュはローガンを見つめ、自然と顔が綻んだ。 ヴィンセントは紅茶を飲んで満足したのか、口の周りを舐め回しており、伯爵も気が済んだのか気泡を吐いた。 ローガンは茶色い瞳で人ならざる者達を見回していたが、笑った。小さな声を上げ、手を挙げ、体を揺すった。 ルージュはローガンの前に膝を付くと、ぴんと尖った獣の耳を撫でてやり、その柔らかな頬に口付けた。 愛しい赤子は、儚くも暖かかった。 そして、その夜。 フィフィリアンヌらは先刻通りに昼過ぎには小さな家を後にしたが、彼女は様々なものを残してくれた。 乳児の世話の方法を書き記した帳面だけでなく、ローガンに合わせて簡単な魔法薬もいくつか調合してくれた。 フィフィリアンヌも赤子は嫌いではないらしく、ローガンを抱き上げてあやしたりもしたが、泣き出すだけだった。 魔物の血が現れたローガンにとっては、他の魔物族と同じく、竜族であるフィフィリアンヌは畏怖の対象なのだ。 火が付いたように泣かれるのでフィフィリアンヌは不愉快だったのか、赤子を相手にとつとつと語り掛けていた。 いつもの小難しい言い回しで、貴様を捕食する趣味はない、そもそもイヌは嫌いだ、私はむしろ味方なのだが、と。 あまりにも真面目に語り掛けるのでルージュは可笑しくなったが、ルージュが笑うよりも先に二人が笑い出した。 ヴィンセントは前足で顔を押さえてけたけたと笑い、伯爵に至ってはフラスコを激しく揺らして高笑いした。 フィフィリアンヌはローガンをルージュに預けると、おもむろに伯爵を蹴り飛ばし、ヴィンセントの眉間を弾いた。 途端に二人は黙ったが、フィフィリアンヌは無表情ながらも気恥ずかしげだった。自分でも可笑しかったらしい。 それがまた可笑しくて、ルージュは声を殺して笑った。なんでもない出来事だったが、不思議と心に残っていた。 ブラッドが帰ってきたのは、大分暗くなった頃だった。作業着は普段以上に汚れ、汗と砂埃にまみれていた。 相当疲れているはずなのに、少年のように目を輝かせて家に飛び込んでくると、真っ先にローガンを抱き上げた。 余程会いたかったのか、何度も何度も名前を呼んでいる。それが微笑ましくて、ルージュはしばらく傍観していた。 ブラッドにフィフィリアンヌらが訪問したこととその理由を話せたのは、夕食が終わってからのことだった。 ブラッドはフィフィリアンヌの示してきた策には渋い顔をしたが、ローガンを生かすためなら、と納得はしてくれた。 だが、全てを受け入れたわけではなかった。右も左も解らないローガンに人ならざる者達の未来を託すのだから。 それはあまりにも乱暴で無謀だ、とのブラッドの意見も尤もだった。しかし、フィフィリアンヌの考えも正しかった。 誰かが切り開かなければ、事態は進まない。込み入っていて根が深いのだから、停滞してしまったら面倒になる。 二人の意見は噛み合わなかった。寝床に入っても答えは出ず、今夜ばかりは甘い雰囲気にはならなかった。 ルージュはフィフィリアンヌの考えに全面的に賛成しているわけではないが、他に打開策があるとは思えなかった。 だから、結果的にフィフィリアンヌに賛成している形になっていたが、ブラッドは思惑が気に入らないようだった。 ブラッドもフィフィリアンヌの考え自体には肯定的だったが、ローガンに全てを背負わせる無責任さが嫌だった。 新しい世代に何もかもを押し付けるだけでは何も解決しない、それではむしろ悪化する、とブラッドは強く言った。 そのうちに二人とも語気が強くなり、言い争いになりかけた。すると、それを察知したのか、ローガンが泣き出した。 急拵えの子供用ベッドに寝かせられていたローガンは、盛大に泣いている。ルージュは、慌ててベッドから出た。 ぎゃあぎゃあと泣き喚いているローガンからは、不安な思念が放たれていた。息子を抱き上げ、ルージュは謝る。 「すまない、ローガン。不安にさせてしまったんだな」 ルージュはローガンを揺らしながら、眉を下げた。ブラッドは妻と息子に近寄ると、息子の頬を撫でた。 「ごめんな、ローガン。父ちゃんと母ちゃんは、お前が好きなんだ。だから、ちょっと真剣になりすぎちまったんだよ」 「ほら、もう泣き止んでくれ。私もブラッドも、怒っているわけではないのだから」 ルージュが柔らかく語り掛けるも、ローガンは泣き止まない。ブラッドは苦笑し、髪を乱した。 「この分だと、今夜は眠れそうにないな」 「夜こそが私達の本領ではないか。魔物なら魔物同士、付き合ってやるのが道理だ」 ルージュが茶化すと、ブラッドは肩を落とした。 「明日も早いんだけどなぁ、オレは。いくら吸血鬼ったって、ちゃんと寝なきゃ体は持たねぇんだよ」 「そうだな。お前にちゃんと稼いでもらわないと、この子を養えないものな」 ルージュは笑うと、ローガンを高く抱き上げた。 「さあ、笑ってくれ、ローガン」 小さな体から感情を吐き出すように泣き喚く赤子を見つめ、ルージュは胸が詰まり、泣きたい気分になった。 悲しいわけでもなければ、嬉しいわけでもなく、かといって辛いわけでもないという不思議な感情を感じていた。 自分の両手に体を支えられているだけの赤子は、手を離せばすぐにでも床に落ち、命も落としてしまうだろう。 泣き喚きながらも、その命をルージュに預け切っている。抱き締めれば甘え、飴湯を与えれば喜び、そして眠る。 ただ、それだけのことなのに、とても尊いことのように思えた。無条件で信頼されることが、こんなにも幸せとは。 無意識に、子守歌が口から出ていた。フィリオラかキャロルか、或いは顔も知らない母親の歌なのかもしれない。 ルージュ自身はあまり覚えのない歌だったのだが、鮮明に記憶していたらしく、淀みなく歌詞を紡いで歌った。 歌を歌うこと自体、滅多にしなかった。楽しいことだとも思わなかったし、歌いたいような歌もなかったからだった。 だが、今は幸せでたまらなかった。その気持ちを示してローガンに伝えるためにも、ルージュは歌い続けていた。 ほんの少しだけ、母親になれた気がした。 朽ちた命を現世に繋ぎ止めている女と、捨てられた命を握り締める異形の赤子。 両者は出会うべくして出会い、互いの歪んだ運命を繋ぎ合わせ、一つの家族と成った。 かつて、人の血を喰い散らかしていた唇は、優しき子守歌を紡ぎ出す。 穢れた腕であろうとも、命を愛し、慈しめるのである。 08 1/31 |