フィリオラは、眠たかった。 ソファーにだらしなく座り、うつらうつらと船を漕いでいる。薄手のコートを脱ぐことすらせず、着たままだった。 その隣で、ブラッドがネコのように丸まっていた。こちらは本当に眠り込んでいて、かなり深く熟睡していた。 火を入れた暖炉から流れてくる空気が暖かく、余計に眠気を誘っている。起きなきゃ、と思うが動けなかった。 なんとか目を半開きにしたが、すぐに閉じてしまう。こうなっている原因は、リチャードの助手となったせいだった。 僕は頭脳労働者だから、と全ての力仕事を二人に任せ、自分は綺麗に掃除された自室で書類仕事をしている。 結果、久々に体を使ったフィリオラと子供故に体力の続かないブラッドは、共に肉体の疲労でぐったりしていた。 これもいつものことだったが、慣れるまでの辛抱だった。慣れてしまえば体力が付いて、体が追い付いてくる。 だが、助手の仕事を始めて三日では慣れようがない。よって、フィリオラは、ブラッドの師匠になれていなかった。 帰ってきたら魔導師修業を始めさせようと思うのだが、家路を辿るうちに眠気が高まり、帰る頃にはかなり眠い。 自分自身の体力の無さを恨みながらも、甘美な眠りに引き摺り込まれそうで、フィリオラはかくんと頭を揺らした。 「おーじさーまー…」 返事はなかった。ギルディオスは、走り込みに行ってしまった。こうなると、日没になるまで彼は帰ってこない。 そのついでに買い物も頼めば良かった、と思ったが、今となっては手遅れだ。あり合わせで夕食を作るしかない。 そろそろチーズが切れそうだ、とか、卵の数はいくつだったっけ、と考えてはいたが、頭はまるで働かなかった。 いっそのこと眠ってしまおうか、という睡魔の誘惑に負けそうになりながらも必死に目を開けていると、音がした。 何回か、玄関の扉が叩かれた。フィリオラは力の抜けた声で、あいてますよぉー、と返事をすると、開かれた。 扉の隙間から顔を覗かせた少女は、緊張した面持ちで入ってきた。フィリオラの前にやってくると、声を上げた。 「あ、あの!」 「ふぇい」 「お願いがあるんですけど!」 「あう」 フィリオラが生返事をすると、波打った赤毛の少女は叫んだ。 「私、魔法使いになりたいんです!」 「あい」 反射的にそう答えてしまってから、あ、やばいかも、とフィリオラは頭の片隅で考えたが、もうダメだった。 最後に残されていた体力を使い果たし、ずぶずぶと深い眠りに沈んでいった。記憶も、この辺りで途切れた。 様々な記憶が混同し、ごちゃごちゃとしたおかしな夢を見た。だが、どんな内容だったかは覚えていなかった。 それほどまでに、眠たかった。 それから、およそ一時間後。 目を覚ましたフィリオラは、何度か瞬きした。傍らで丸まっているブラッドの手が、エプロンを握り締めている。 それを外させてから、ぐいっと両腕を突き上げた。背骨をばきぼきと鳴らしながら、声を漏らして伸びをする。 涙が滲むほどの欠伸をしてから、気付いた。畏まった態度で突っ立っている少女が、目の前にいることを。 フィリオラは目元を擦ってから、少女を見上げた。色の掠れたエプロンドレスを着ている、赤毛の少女だった。 彼女には、見覚えがあった。ヴァトラスの屋敷で昼間だけメイドをしている、この共同住宅の二階の住人だ。 少女は、つついたら倒れてしまいそうなほどに固まっていた。直立不動で、ぎゅっと唇を横一線に締めている。 「…あー、その」 フィリオラは回転の鈍い頭で、寝入る前の会話を思い出した。確か彼女は、魔法使いになりたい、と言っていた。 「わたし、まだ、お師匠さんにもなれていないんですけど」 赤毛の少女は緊張が解けないのか、答えなかった。フィリオラは、寝乱れた髪を撫で付ける。 「それに、その。私、弟子、取るの、ブラッドさんが初めてでして。人を教えるのはこれからなんですが」 フィリオラの声で、ブラッドは薄く瞼を開いた。少年は起き上がると、顎が外れそうなほどの欠伸をする。 「んー、なに?」 「んー、えー、弟子入りしたいそーです。あー、ちょっと待っていて下さいねー、目ぇ覚ましますから」 んー、とフィリオラは頭を振った。両手で頬を数回叩いてから、目を見開き、焦点を少女に合わせる。 「えと、なんとか覚めましたので、順序立てて説明して頂けますか?」 「せつめい、ですか」 途端に、少女は頬を紅潮させた。かなり気恥ずかしげに目線を彷徨わせているので、フィリオラは言い直した。 「あ、あの、言えないようなことでしたら構いませんから。とりあえず、お名前から聞かせて下さい」 「二○一号室の、キャロル・サンダースと申します!」 少女は、勢い良く頭を下げた。その声量に驚いたフィリオラは、半分身をずり下げる。 「えと、フィリオラ・ストレイン、と申します。んで、こっちのはブラッド・ブラドールさんです」 「知っています。サラさんから聞いていますので」 頭を上げた赤毛の少女、キャロルは、緑色の瞳でフィリオラを見下ろした。 「お願いします。私を、魔法使いにして下さい」 「えー。厳密に言いますと、魔導師ですね。更に厳密に言いますと、魔導師免許交付済魔導技術者、のことですね」 フィリオラは、よっこいせ、と立ち上がると薄手のコートを脱いでソファーに放り、エプロンを取って身に付けた。 「まずは座って下さい、キャロルさん。お茶でも淹れますので」 そのまま、フィリオラは台所に入っていった。棚からポットを取って紅茶の葉が詰まった瓶を出し、腕に抱えた。 軽い足音と食器の触れ合う音が聞こえ、戸棚を開け閉めしている。キャロルは、その様子をじっと見つめていた。 羨望と、期待と、他の感情の混じった眼差しだった。ブラッドはそれに気付いていたが、その感情が解らなかった。 未だ明瞭でない視界を澄ますために何度となく瞬きを繰り返しながら、沸き起こってきた欠伸を噛み殺した。 ぼんやりと霞んでいる思考の中で、オレって兄弟子ってことになるのかな、とブラッドは頭の隅で考えていた。 台所からは、パンケーキを焼く匂いが漂い始めていた。 火の消えた暖炉に火を入れ直してから、フィリオラは食卓に座った。 壁側に座るキャロルに、淹れたばかりの紅茶と焼き立てのパンケーキを出した。綺麗なキツネ色に焼けている。 湯気を昇らせるパンケーキには、とろりと黄色く溶けて崩れかけたバターと艶々と滴るハチミツが掛かっている。 自分の分の皿を引き寄せたブラッドは、フォークでパンケーキの表面を割り、半分に切ってから口に運んだ。 小麦の甘さと、バターとハチミツが混じった優しい味がした。だが、キャロルはパンケーキに手を付けていない。 ブラッドは口の中のものを飲み込んでから、まだ熱い紅茶を啜った。表情の硬いキャロルを見上げ、皿を指す。 「喰わねぇの? 冷めたら旨くないんだぜ、こういうのって」 「そうですよぉ。溶けてからもう一度固まったバターって、見た目も悪ければ風味も良くないんですから」 どうぞどうぞ、とフィリオラはキャロルに勧める。キャロルは、おずおずと目を上げる。 「いいん、ですか?」 「ええ、いいんですよ。私もお腹が空いていましたし、おやつには丁度良い時間帯ですから」 フィリオラが頷くと、キャロルはようやくフォークを手に取った。柔らかなパンケーキを四等分し、その一つを取る。 最初は端を囓っていたが、徐々に囓る量が増えてきた。あっという間に四分の一を食べ尽くし、残りに向かう。 キャロルは皿に載っていた二枚のパンケーキを食べ終え、からり、と皿にフォークを置いた。満足げに、息を吐く。 「おいしかったですか?」 フィリオラが尋ねると、キャロルは少し照れくさそうに頷いた。 「はい」 「なら、良かったです。お腹が一杯になれば、気持ちも落ち着きますからね」 フィリオラは自分の分のパンケーキをフォークで切り、六分の一を食べた。飲み込んでから、キャロルに言う。 「それで、キャロルさん。どうして、あなたは魔導師になりたいんですか?」 「オレは他にやることがないし、やってみたら面白いかもしれないからやってみるだけなんだけどさぁ」 やる気のないブラッドの言葉に、フィリオラはげんなりしてしまう。 「教える方のやる気を削ぐようなことを言わないで下さい。でもって、ブラッドさんじゃなくてキャロルさんに聞いているんですから勝手に答えないで下さいよ」 「私は、魔法を使えるようになりたいんです!」 キャロルは膝の上で拳を作ると、真剣な顔付きになった。 「魔導師になっても、馬鹿なまんまなのはいるけど」 と、ブラッドはフォークでフィリオラを示す。フィリオラは、はぁ、とため息を漏らす。 「だから、どうしてそこでそんなことを言うんですか。ていうか、人をそんなもので指しちゃダメです」 フィリオラは気を取り直してから、彼女に向いた。キャロルは真剣そのもので、意志の強い目がこちらを見ている。 一時の気の迷いや、単なる興味本位ではなさそうだ。少なくとも、ブラッドよりは遥かにやる気がありそうだった。 フィリオラは、記憶から魔導師修練教則書の内容を引き出した。昨夜のうちに、その上中下巻を読み切ったのだ。 その一節に、こうあった。魔導を扱うことを志す者が、全て善良でないという事柄は中世以前からの定説である。 よって魔導を志す者に高い魔力があろうとも、邪心が窺えた場合、師となる魔導師は適切な判断をすべきである。 魔導師は魔を導く者である。故に、邪なる心を高めさせてしまう場合もあるということを、常に心得ておくこと。 他にも様々な事柄が書いてあったが、真っ先に浮かんできたのはこれだった。だが、その心配はなさそうだった。 フィリオラは、キャロルの感情の波に己の感覚を添わせてみた。相手の心までは読めないが、感情だけなら解る。 邪心も功名心も野心も見えなかったが、代わりに何か、別の感情があった。ちくりとした、鋭さのある思いだ。 鋭利な針先にも似た、敵意のようでありながらも罪悪感を伴った感情だ。多少、形を掴みづらいものだった。 それが気になったが、フィリオラはこれ以上感覚を高めないことにした。相手の感情を読むのは、好きではない。 フィリオラは魔力と感覚を弱めてから、椅子から立ち上がった。自分の寝室を指しつつ、キャロルに振り向いた。 「では、ちょっと待ってて下さいね。準備をしますので」 キャロルが頷くよりも先に、フィリオラは背を向けた。小走りに寝室に入ると、背中で扉を閉めて肩を下ろす。 そっと深く息を吐いてから、眉をしかめた。あの感情の矛先が自分であることまで感じてしまうと、気分は悪い。 敵意とも違っているが、それに近いものがある。居心地が悪くなっていたが、ここで逃げられるはずはない。 キャロル自身はその感情に気付いていないようだし、それ以外に鋭さを持っている感情があるようには窺えない。 フィリオラは魔法道具を詰め込んだタンスの引き出しを開け、魔力測定器や魔導鉱石などを取り出し始めた。 釈然としなかったが、準備をしないわけにはいかない。それに、これだけのことで無下にすることは出来ない。 そんなことをしては、キャロルに悪いからだ。 パンケーキの皿が下げられたテーブルには、不思議なものが並べられた。 大振りの懐中時計に似ているが文字盤に短針のないものや、青い宝石で出来たブローチ、白い紙と羽根ペン。 そして、端切れで作られた小さなぬいぐるみが一つ、あった。フィリオラは、それらをテーブルに並べていった。 懐中時計に似たものを手にしたフィリオラは、文字盤をキャロルとブラッドに見せた。針が、独りでに動いている。 太さのある長い針は、歯車を噛み合う硬い音を発しながら、魔導鉱石の埋まる文字盤を一周する手前で止まった。 「これは魔力測定器と言いまして、読んで字の如く、魔力出力を計るための機械です」 魔力測定器の針の位置を戻してから、フィリオラは青い宝石のブローチを取る。 「これは、魔力の籠もった言葉を記憶するように加工した魔導鉱石です。使い方は、後で説明します」 でもって、とフィリオラは紙とペンを指す。 「これは普通の紙とペンです。ごくごく初歩の魔法を使ってもらうために必要なんです」 「じゃ、これは?」 ブラッドがぬいぐるみを指すと、それはですね、とフィリオラはぬいぐるみを手に取る。 「こうするんです」 フィリオラは、ウサギを模したぬいぐるみをテーブルに横たえた。人差し指を立てると、その回りにぐるりと巡らす。 その指をぬいぐるみの真上に出すと、前後左右に動かして六芒星を描いた。もう一度円を描き、とん、と小突く。 「彼の者に、我が力の漲りを与えたまえ」 ぬいぐるみの耳が、僅かに震えた。円筒形の布で出来た足が動き、綿の詰まった頭を起こし、両腕を突っ張った。 衣擦れの音をさせながら、白いウサギはのそりと起き上がった。短い足を出すと、頭を揺らしながら歩き始める。 ゆらり、ゆらり、と折れ曲がった長い耳を揺らがせながら、ぬいぐるみは音もなく二人の目の前を闊歩する。 魔力測定器の上を乗り越え、青い魔導鉱石のブローチを避け、紙とペンの傍を通過し、フィリオラの前に戻った。 再び、フィリオラはテーブルを小突いた。こん、と小さな音が響いたかと思うと、ぬいぐるみは倒れて転がった。 フィリオラはぬいぐるみを取り、魔力測定器の傍に座らせた。かちかちかち、と針が三目盛りほど動いた。 「とまぁ、こんな具合に、ですね」 「…今の、手品?」 ブラッドが目を丸くしていると、フィリオラは首を横に振る。 「いえいえ。これもれっきとした魔法です。魔力とは世界に存在するあらゆる物質に思いのままに作用を与えられる力なので、力の配分と操り方さえ覚えてしまえば、簡単に出来るんですよ」 フィリオラは、空中に六芒星を描いてみせる。 「魔法陣にも、ちゃあんと意味があるんですよ。二重の円は、物質と魔力に共通性を持たせるために必要な図式でして、その間に魔法文字で呪文を書くのは双方に確実な相互関係を持たせるためなんです。だから、魔法陣を描く時には、円を一つにして描いては絶対にいけません。調和が失われて、互いが互いに反発しあっちゃってえらいことになっちゃいますんで。そして六芒星は、六つの方向から魔力を戒めて、魔力と魔法文字に均衡を作るためにあるものなんですよ。どれを欠かしても、魔法は成立しないんです」 「なんか、難しいな」 ブラッドは手のひらを広げ、ぐっと握ってから開いた。そこには、光の球が生まれていた。 「こうやって外に出すだけじゃ、ダメなのか」 「ええ、ダメなんですよ。きちんと魔法陣で力の方向を整えてあげないと、魔力はただの力に過ぎないんです」 フィリオラは、ブラッドの手に浮かぶ光球を見下ろす。 「ですが魔法とすれば、使い方次第でどんな物質にも作用を与えられる手段になるんです。それがたとえ、鋼鉄や石であっても、炎や水であっても、この世界に存在する物質であれば変質させることが可能なんですよ」 「人間の体とか、空気とかも変えられちゃうんですか?」 興味深げに、キャロルがフィリオラに尋ねた。フィリオラは、んー、と少し唸る。 「人体、すなわち、有機生命体の肉体を変化させることは可能ですけど、空気はどうでしょうねぇー。風を作ることは出来ますが、あれはただ、魔力を空気に含ませて流れを生み出しているに過ぎませんし。突き詰めれば、空気そのものを変質させているわけではないのですから」 「なんか、頭痛くなりそうなんだけど」 手の上から光を消したブラッドは、難しげな言葉の数々に眉をしかめる。フィリオラは、楽しげに笑い返す。 「そうですかねー? 私はこういった話は、大好きですよ? 魔力と物質の関係性と物質への作用における力学の理論の話は面白いですし。あ、この辺からは物理学になっちゃうんですけどね、そこから派生してくる数学も緻密で繊細なところが好きなんですよねー」 途中から言葉の意味が解らなくなったのか、二人はきょとんとしている。フィリオラは、ちょっと不満げにする。 「まぁ、それはそれとしまして。まずは、魔力測定器を持って頂きます。お二人の魔力数値と出力を知っておかないと、こちらとしても何から教えたらいいのか解らないので」 ではブラッドさんから、とフィリオラはブラッドに向いた。ブラッドは魔力測定器を引き寄せると、両手で持った。 先程のパンケーキに近い大きさで、少年の成長途中の手には余る。文字盤には、魔導鉱石が填めてある。 青紫の魔導鉱石で出来た目盛りは、大きなものが十個あり、その間には分針に似た細い出っ張りが九個ある。 目盛りは、全部で百個あった。ブラッドは、かちかちと歯車を噛み合わせながら、独りでに動く針を見つめた。 三十、四十、五十。六十を過ぎた辺りから勢いが弱まり、止まった。六十二と六十三の間を、針先が指している。 ブラッドが文字盤をフィリオラに見せると、フィリオラは顎に手を添える。そのくらいですか、と文字盤を眺めた。 「数字としましては、六十二.三ぐらいですかね。吸血鬼の平均魔力数値は七十一前後なんですけど、ブラッドさんの年齢とハーフヴァンパイアだってことを差っ引けば妥当な数字ではないでしょうか」 「フィオはいくつぐらいなん?」 ブラッドは、何の気なしに訊いてみた。フィリオラは、九十二の目盛りを指す。 「大体、この辺りですね。竜に変化してしまったり変身した翌日は消耗が激しいので八十八ぐらいですね」 「それって凄ぇの?」 「普通の成人の平均値が三十から四十なので、凄いっちゃ凄いんじゃないんですか? 実感ありませんけど」 本当に実感がないのか、フィリオラはしれっと答えた。ブラッドの手から魔力測定器を取ると、針をゼロに戻す。 それを、キャロルに差し出した。キャロルは恐る恐る手を伸ばすと、魔力測定器を大事そうに両手で抱えた。 彼女は、文字盤を凝視した。のろのろと動き始めた針は、ブラッドの時よりも格段に遅く、目盛りを過ぎていく。 十、十五、二十、二十一、二十二、二十三。二十四を通り過ぎる手前で、針は止まり、それ以上進まなくなった。 キャロルがその数字に戸惑っていると、フィリオラは彼女の手元に顔を出し、魔力測定器の文字盤を見下ろす。 「二十三.九、いや、八ですね。ちょっと低めですかね」 キャロルは不安になったのか、徐々に表情を曇らせていく。フィリオラは、慌てて手を横に振る。 「あ、いえ、魔力の値なんて高けりゃいいってもんじゃないんですよ。要は、その魔力の使い方なんですから!」 「でも、オレの半分以下だろ?」 ブラッドが悪気なく言った言葉で、キャロルは肩を縮めた。今にも泣いてしまいそうな少女を、フィリオラは慰める。 「あ、ですけどね、最後に物を言うのは魔力を扱う才能なんですから、あんまり悲観しないで下さいよ!」 余計なこと言わないで下さい、とフィリオラはブラッドの額を小突いた。ブラッドは、叩かれた部分を押さえる。 ぶつことねーじゃん、と思いながらむくれたが、これ以上言うと、本当にキャロルが泣いてしまいそうなのでやめた。 唇を噛み締めて、眉間を寄せている。強気な表情が窺えていた緑の瞳も、今はすっかり潤んでしまっていた。 キャロルは手の甲で目元を擦ってから、一度、フィリオラを見上げた。フィリオラは、取り繕うように笑ってみせる。 「ですからね、キャロルさん」 「私、今まで勉強なんてしたことないんですけど、頑張ります。勉強すれば、魔法は使えるようになりますよね?」 キャロルの瞳が、真っ直ぐにフィリオラを捉えた。フィリオラはちょっと目を丸くしたが、ええ、と頷く。 「魔法は理論ですから。知識量と発想が何より大事だ、って先生も仰ってましたし」 「先生って、リチャードさんが、ですか?」 キャロルの声に、若干別の感情が混じった。フィリオラは、先程の視線に入っていたものだと同じだと感じた。 羨望と不安に、僅かばかりの嫉妬が滲んでいる。本人は意識していないらしいが、それでも出てしまっている。 途端に、フィリオラは納得が出来た。最初にキャロルが恥じらった理由も、ここまで必死になる理由も。 恐らくキャロルは、ヴァトラス屋敷の現在の主であり雇い主のリチャードに、密やかに焦がれているのであろう。 そして、魔法を通じて近付きたいのだ。魔法という媒介で、遠い位置にいるリチャードとの間を狭めたいのだ。 そのいじらしさに、フィリオラは胸の奥がきゅんとした。フィリオラはキャロルの両手を取ると、微笑みかける。 「大丈夫ですよ、キャロルさん! 頑張れば、なんだって結果になるんです!」 キャロルは、いきなりのことにきょとんとしていた。フィリオラは、にこにこと親しげにする。 「先生はレオさんと違って、とってもいい人ですから! きっと、キャロルさんの思いは叶いますよ!」 「どうして…それ…」 みるみるうちに赤くなったキャロルは、顔を逸らした。フィリオラは、きゅっと彼女の両手を握り締める。 「そりゃあ、だって。解りますよ、それぐらい」 ねぇ、とフィリオラに振られたが、ブラッドにはさっぱり解らなかった。なので、何も言うことが思い付かなかった。 キャロルが時折見せていた感情が嫉妬であるとは解ったが、なぜ、それをフィリオラに向けるかが解らないのだ。 フィリオラはリチャードと師弟関係だが、それ以上でもそれ以下でもないし、ギルディオスほどべったりしていない。 そんな関係のどの辺りに妬けるのか、まるで想像が出来なかった。女って解んねぇ、とブラッドは口の中で呟いた。 歓声を上げてはしゃぐフィリオラと、真っ赤になってしまったキャロルを眺め、ブラッドは内心で拗ねてしまった。 仲間はずれになったような、そんな気分だったのだ。 キャロルが落ち着いてから、魔法の素質を計る試験は再開された。 ブラッドとキャロルの二人は、フィリオラが書いた通りの魔法陣を紙に書いていた。二人は、何枚か失敗した。 手慣れた魔法文字と綺麗な円が描かれたフィリオラの手本をテーブルの真ん中に置き、羽根ペンを動かしていく。 普通の共和国語ですら読み書きが危ういキャロルにとっては、かなり辛かった。何度も何度も、見比べている。 ブラッドも文字は読めるが書けないタチだったので、やはり苦労していた。字を書くことすら、かなり久しかった。 六枚目の失敗作を押しやってから、ブラッドは二重の円を描いた。その間に、等間隔で魔法文字を書いていった。 丸の組み合わさった文字のベズ、三角に直線を重ねたようなエヴィン、波線が捻られているロロイ、などなど。 よくもまぁこんな面倒な文字を全部暗記してるもんだ、とブラッドは改めてフィリオラを認めつつも、言えなかった。 普段、馬鹿にしたような物言いをしているので、いざ褒めるとなると妙な気恥ずかしさがあって言いづらかった。 最後に六芒星を書き終えたキャロルは、そっとペン先を紙から外した。フィリオラは、その手元を覗き込む。 「あ、これなら大丈夫ですね。ジジナの角がきっちり曲がってますし、オヴォカの重なり具合も綺麗です」 と、フィリオラは星形のように角張っている魔法文字と、長方形がずれて重なった魔法文字を、交互に指した。 そして、フィリオラはブラッドの手元に目をやった。ブラッドは、斜めに歪んだ魔法文字を見下ろし、むくれる。 「どう見たって、オレのは大丈夫じゃないだろ」 「もう一枚描いてみて下さい。あと、円を書く時はペン先を離さずに腕全体で書いた方がいけますよ」 ぐるっとね、とフィリオラは腕を回してみせる。ブラッドは羽根ペンの先をインク壷に浸し、失敗作を押しやる。 新しい紙を手元に引き寄せ、彼女に言われた通りにぐるりと腕を回して円を描いてみると、歪みが少なかった。 フィリオラの書いた手本の、魔法文字とその位置をじっと見て覚えた。ブラッドは息を詰めると、書き始めた。 ジジナ、ロロイ、エヴィン、オヴォカ、レニ、ラー。今度は斜めになっておらず、とりあえず形になっていた。 内側の円の中心に、真っ直ぐに線を引く。円の中に三角を作ってから、その上に逆三角を重ねて六芒星にする。 最後の線を引いてから、ブラッドはゆっくりと息を吐いた。フィリオラは彼の魔法陣の出来を確かめ、頷く。 「そうですね。大体そんなもんですね。あ、ですけど」 フィリオラはキャロルの使い終えた羽根ペンを取ると、ブラッドの描いた六芒星の端を書き足し、隙間を詰める。 「六芒星の線はきっちり重ねて、隙間は空けないようにして下さい。空けちゃうと、魔力の均衡が弱まるので」 少しだけ書き足された魔法陣が、ブラッドの前に戻ってきた。フィリオラは体を起こすと、二人を見渡す。 「それでは、実践に行きましょうか。初歩の初歩の魔法を、使ってみましょう」 フィリオラは向かい合って座る二人の脇に立つと、手のひらを下に向けて差し出した。 「魔法陣の上に手を出して下さい。意識をそこに集中させて、魔法陣をじっと見て、魔力を高めて下さい」 ブラッドとキャロルはそれに従い、魔法陣の上に手を差し出した。ブラッドは魔力弾を作る要領で、魔力を高めた。 手のひらに熱が集まるのを感じながら、キャロルを上目に窺った。魔力を高めることに、慣れていないようだった。 目を閉じたり開いたりして、力を起こそうとしている。だが、彼女に魔力が湧いていないのは、ブラッドにも解った。 魔力が生じれば空気が変わるのだが、何も起きていない。今まで、一度も魔法を使ったことがないのだろう。 次第に困ってきた様子のキャロルに、フィリオラは顔を向けた。彼女を落ち着かせるため、優しい口調になる。 「大丈夫ですよ、キャロルさん。魔力は誰にだってあるんですから。私に続いて唱えて下さい」 フィリオラは深呼吸をしてから、静かに言葉を紡いだ。 「星より溢れし、空より注がれし輝きよ」 「星より溢れし、空より注がれし輝きよ」 フィリオラの声の次に、ブラッドとキャロルの声が重なって続く。 「大地を照らし、水を温ます慈しみよ」 「大地を照らし、水を温ます慈しみよ」 「我が手の下に」 「我が手の下に!」 フィリオラが語気を強めたので、二人も同じようにした。直後、強い輝きが手の下に生まれ、二人の影を消した。 突然のことに、キャロルは目を閉じてしまった。眩しさを堪えながら瞼をこじ開け、強い光の根源を見つめる。 キャロルの手と紙に描かれた拙い魔法陣の間の狭い空間に、小さな太陽にも似たものが、出来上がっていた。 光源は、二つあった。一つはキャロルの手の下で、もう一つはブラッドの手の下にあり、少し色が違っている。 キャロルのものは少しばかり赤味を帯びた西日に似ている光だが、ブラッドのものは限りなく日光に近い色だ。 「初歩の初歩。魔力を光とする魔法、です」 二人の生み出した光を浴びながら、フィリオラは説明する。 「これが、基礎の魔法です。一見すれば光を作ったように見えますが、実際は魔力を光として視認出来るように空気中に含まれる物質と調和させ、変化させたものなんですよ。つまりこの光は、あなた方の魔力が具現化した姿です。この魔力の方向を魔法陣と呪文で変えてやれば、炎とすることも、水とすることも、雷撃とすることも可能なんです。そして、その規模を広げたり出力を上げたり下げたりするのも適うんですよ」 「これが」 キャロルは、呆気に取られていた。手のひらに、光が発している温かさが伝わってくる。 「魔法なんですよ」 そう返してから、フィリオラは二人の手の上に自分の手を片方ずつ翳した。 「闇という名の平穏を」 途端に、光が失せた。光源が失せたことで目が眩み、キャロルは目を瞬かせたが、ブラッドは平然としていた。 「そうやって消せるんだ、これ」 「手のひらをぎゅっと握って、ってのがよくあるやり方なんですが、これが一番確実なので。半端に残ったりしたら、困っちゃいますから」 手を下げたフィリオラは、二人の描いた魔法陣を重ねて下げた。羽根ペンとインク壷も、テーブルの端に押しやる。 「眩しいもんな」 そう言いながら、ブラッドは手のひらを握ったり開いたりした。キャロルは、ほう、と息を漏らした。 「なんか、凄い…」 「これから、もっと凄いのが一杯出てきますから、楽しみにしていて下さいね」 フィリオラは青い魔導鉱石の填ったブローチを取ると、二人の間に置いた。 「では、最後に。これに魔力を注いで、私が吹き込んだ言葉を聞き、言って下さい。握って念じればいいんですよ」 キャロルは、そっと手を伸ばした。どうぞ、とフィリオラに言われたのでブローチを取り、手の中に握り締める。 深く呼吸を繰り返してから、手に意識を集中させる。光を発していた時に感じたような、柔らかな熱が起きてくる。 その熱が、次第に高まってきた。呼応するように手の中の石も熱し始め、意識の底に、フィリオラの声が響いた。 キャロルは、その言葉の情けなさに拍子抜けしてしまった。手を開いてからフィリオラを見上げ、小さく呟いた。 「えっと。レオさんの意地悪、って…」 「あ、え、ああ!」 キャロルの答えに、フィリオラは仰け反った。やりづらそうに、目線を彷徨わせる。 「あ、ああ、そうだったそうだったそうでしたぁー…。それ、この間、片付けをしている時に握ってたから、きっと、その時に…なんていうか、愚痴、が」 「んじゃ、次、オレね」 反応に困っているキャロルの手からブローチを取ったブラッドは、握って念じた。 「レオさんの馬鹿ー」 「あいやぁああん」 頭を抱え、フィリオラは項垂れてしまう。ブラッドは魔導鉱石のブローチを握ったまま、続ける。 「人のことを馬鹿馬鹿言う方が馬鹿なんですー、私が嫌いならどうして私の作ったお菓子を食べちゃうんですかー、鉱石弾を一個ダメにしたくらいで弁償なんて大人気ないですー、いつもいつもいつもいつも文句ばっかり言わないで下さいー、こっちだって言いたいことはあるんですからー」 ブラッドが棒読みで読み上げていくに連れ、フィリオラは肩を落としていった。そして、ぺたっと座り込んだ。 「あーうーあー…」 「レオさんに持って行っちゃおうかなー」 ブラッドがにたりとすると、フィリオラは慌てながら立ち上がる。 「だっ、ダメダメダメですってばぁダメに決まってるじゃないですかぁ!」 「冗談に決まってんだろ」 ブラッドは、ぽいっと魔導鉱石のブローチを投げた。それを受け取り、フィリオラはへたり込んでしまう。 「ブラッドさん、意地悪しないで下さいよぅ…」 泣き出してしまいたい気分になりながら、フィリオラはブローチを両手で包んだ。魔力を高め、石に集中させる。 鮮やかな青い輝きが指の間から滲み、すぐに消え失せた。これで、中に吹き込んだ言葉は完全に消された。 フィリオラは魔導鉱石のブローチをエプロンのポケットに押し込んでから、おずおずとした目で二人を見上げた。 からかえたことが楽しいのか、ブラッドはにやにやしている。キャロルは、困り果てた顔のフィリオラを見下ろす。 「あの、それで、フィリオラさん」 「ふぇい」 今にも泣いてしまいそうなフィリオラに、キャロルは慎重に尋ねた。 「それで、私は、どうなんでしょうか」 「えー、あー、はい。魔導師修練を受けるに値する魔力数値と出力がありましたので、問題はないかと」 目元を拭ってから、フィリオラは返した。 「ですので、キャロルさんも私の弟子になれますよ。ですけど、本当に、なるつもりですか?」 フィリオラはかなり不安げに眉を下げ、起伏の小さい胸の前で両手を組む。 「私、人を教えた経験なんて今まで一度だってありませんし、知識ばっかりはあるけど経験はまだまだ足りないし、失敗も多いですし、今だって…」 「構いません」 きっぱりと、キャロルは答えた。フィリオラは一度目線を泳がせたが、キャロルを見上げる。 「解りました。でしたら、私も、頑張ってみます」 「ありがとうございます」 深々と頭を下げたキャロルに、フィリオラはなんともいえない複雑な表情になり、変な笑いを作った。 「ええ、ああ、こちらこそ。ありがとうございます。また、明日いらしてください。誓約書とか作りますんで」 「はい。本当に、ありがとうございます!」 心底嬉しそうに笑んだキャロルは、くるっと背を向けた。意気揚々とした足取りで、扉を開けて出ていった。 フィリオラはその背に向けて力なく手を振っていたが、ぱたりと落とした。崩れ落ちるように、項垂れてしまう。 「ふ、増えちゃった…教え子、増えちゃったよぉ…」 「授業料ふんだくれば?」 ブラッドが素っ気なく言うと、フィリオラは首を左右に揺らす。 「でーきませんよぉー…そんなことー…。免停中なんですからー…」 「じゃ、なんで魔法の師匠にはなれるわけ? その辺、なんかおかしくね?」 「ええと…要するに、魔法でお金を稼いじゃいけない、って謹慎ですから、お金さえもらわなきゃ良いんです」 「つまり、オレらの先生をすることはタダ働きってわけか」 うわひでぇ、とブラッドは他人事のように漏らした。フィリオラは斜めによろけていき、壁に頭をぶつけた。 「そーなんですよー…。あー、もう」 フィリオラは強い不安を覚え、押し黙った。人を教えるということがどういうことなのか、何も知らないのに。 ブラッドとキャロルの魔力数値や素質を計る試験だって、前にリチャードから教えてもらった通りにしただけだ。 そこから先のことは何も知らないし、何をどうして魔法を教わってきたのかも、今となってはあやふやだった。 本当に、これから先はどうしていけばいいんだろう。止めどなく押し寄せてくる不安と戸惑いに、胃が痛みそうだ。 けれど。あんなに喜んでいるキャロルを追い返すのは悪いし、彼女の才能を引き出してやるべきかもしれない。 フィリオラはそんなことを考えながらも、徐々に痛みが生じてきた腹を手で押さえ、背を丸めて壁に寄り掛かった。 泣き声とも唸り声ともつかない脱力した声が、居間に広がった。 その夜。ギルディオスは、食卓に座っていた。 真向かいでは、フィリオラが大量の本に囲まれている。どれもこれも読み込まれた魔導書で、クセが付いている。 それをいくつも広げてはページを勢い良くめくり、様々なページを眺め回している。かなり、忙しそうだった。 ギルディオスは、何十冊もの本に押されてテーブルから落ちそうになっているランプを置き直してから、言った。 「それで、引き受けちまったのか」 「はーいー」 フィリオラは、広げた本の上にぱたりと倒れた。眉を下げ、口元を曲げる。 「だって、断れないじゃないですかぁ」 「んで。フィオ、お前は一体何をしてるんだ?」 「初歩の魔法を漁ってるんですよ。最近は、高位魔法ばっかり使っちゃってましたから」 フィリオラは起き上がると、あまり複雑でない魔法陣が描かれた本のページを見下ろした。 「だから、すっかり忘れちゃってて。もう一度、全部覚え直しですね。他にも、色々とやることはあるんですよ」 「オレは手伝わねぇぞ。全部、フィオの責任だからな」 「解ってますよぅ」 少し不満げにしながらも、フィリオラはまた別の本を広げた。魔法陣と魔法文字を指でなぞり、見つめている。 どの魔法を彼らに教えれば効果的なのか、どの魔法であれば彼らの力でも扱えるか、考えながら吟味している。 ギルディオスは、暖炉とランプの明かりを映して赤みを帯びたフィリオラの瞳を見ていたが、目線を外した。 窓の外には、藍色と青紫の混じった空が見える。日が暮れて間もないので、西には太陽の名残が僅かにある。 これから、フィリオラは大変だ。だが、こちらもこちらで大変だ。アルゼンタムを救う手立てを、思い付いていない。 それ以前に、彼と接触する方法が皆無だ。戦闘を吹っ掛けようにも神出鬼没だし、生身でないから喰いに来ない。 囮を使うなど以ての外だし、だからと言ってグレイスの城に乗り込むのも、好ましい手段だとは思えなかった。 さて、どうする。ギルディオスは頬杖を付き、思考に耽った。戦略を練る要領で、銀色の骸骨を救う方法を巡らす。 だが、そう簡単には、思い付くものでもなかった。 魔導を操る男に、恋焦がれる一人の少女。 彼女は吸血鬼の少年と共に、竜の末裔の弟子となった。 ほんの少しでも彼に近付くため、ほんの僅かでも距離を縮めるために。 彼女は、魔導師を志すのである。 05 11/23 |