リチャードは、いい加減に疲れてきていた。 目の前には、大量の書類がある。あからさまなお役所仕事に辟易していたが、放り出すわけにはいかない。 それらの内容は、アルゼンタムの調査と身柄確保に関する国家警察への申請書と、今回の件の許可書だった。 どれもこれも必要だと解っているし、全て書いて通してもらわなければ、魔導師としての身動きは取れない。 だが、こうも書類まみれだと嫌になってくる。通してもらう書類、通さなければならない書類が残っている。 旧王都に戻ってくる前に溜め込んでしまった自分が悪いのだが、自分を責めたところで仕事が捗るわけではない。 リチャードは度の弱いメガネを外して折り畳み、書類の上に載せた。椅子に背を預けて足を組み、腕を組んだ。 そして、視線を持ち上げた。本棚の前でいそいそと動く姿があり、その背で二つに分けられた髪が揺れている。 エプロンドレスを着たフィリオラが、先日掃除をした際に、順番が乱れてしまった本の順番を整理していた。 いくつか本を取り出してから、その題名を確かめ、分類していく。うんと背伸びをして、上の段に押し込んでいる。 思い切り手を伸ばし、つま先立ちでかかとを目一杯高く上げている。苦労しながら、やっと上の段に本を入れた。 かかとを下ろしたフィリオラを眺めていたリチャードは、ふと、あることを思い出したので口に出してみた。 「そういえばさ、フィオちゃん」 フィリオラが振り向いたので、リチャードは彼女に笑ってみせる。 「昔、僕のお嫁さんになるって言ってなかったっけ?」 「え」 思い掛けないことに、フィリオラは両手が緩んだ。抱えていた数冊の本が滑り落ち、どさどさと床に落下する。 間を置いてから、思い出した。確かに、過去に言っていたことがある。四年ほど前に、この屋敷に来た時に。 屈んで本を拾い集め、腕の中に抱えながら、フィリオラは無性に懐かしい気分になって、表情を緩ませた。 「言ってましたねー、そういえば」 フィリオラはリチャードに向き直ると、気恥ずかしげにはにかんだ。 「魔法大学を卒業する時に、先生と離れちゃうのが嫌で」 「そう言ってもらえると、僕も嬉しいよ。それでなくても君は教え甲斐があったから」 「そうですかねぇ?」 「そうさ。教えた傍からどんどん覚えて、良い具合に応用してくるんだもんなぁ。おかげで、次の授業をどうするかを考えるのが大変だったんだから」 「あ、すいません」 「謝られる必要はないよ。褒めてるんだから」 リチャードは、本を両腕一杯に抱えて立ち上がったフィリオラを見、にんまりする。 「それで、君の弟子達はどうなんだい?」 「あー、はい。ブラッドさんはまるっきり筆記に興味がないんですけど、キャロルさんはあります」 フィリオラは本をテーブルに載せてから、対照的な二人の様子を話した。 「お二方はどちらも読み書きが完全ではなかったので、まずはそれから教えているんですが、それと平行して魔法文字も教えているんです。ブラッドさんはぐちゃぐちゃ文句を言ってばっかりで、目を離すとすぐにでも放り出しちゃいそうです。ですけど、キャロルさんは私が決めた枚数分だけ書いてきてくれます」 「なるほどなぁ」 リチャードは背もたれに体重を掛けて、軽く軋ませた。典型的な、教えやすい生徒と教えにくい生徒の構図だ。 ここで、教えやすい生徒に手を掛けてしまうと、教えにくい生徒が教師に気に掛けられていないと感じてしまう。 そして、結果として教えにくい方の生徒は勉強自体を嫌いになり、才能を埋もれさせてしまう場合が多い。 フィリオラがどういう判断をするのか、リチャードは楽しみに思いながら続きを待っていると、彼女は続けた。 「ですけど、覚えはブラッドさんの方が早いんです。キャロルさんが三回間違えてしまった魔法文字を、ブラッドさんは一回書いただけで覚えてしまったんです。けれど、丁寧さでは格段にキャロルさんの方が上です。魔法の確実性なら、彼女でしょうね。魔力の扱いも、すぐに上手くなると思います。けれど、キャロルさんはブラッドさんとは違って、勢いがないというか、慎重なんですよ。先生はご存知だと思いますけど」 キャロルさんの雇い主なんですし、とフィリオラはリチャードに向き直った。 「なので私は、ブラッドさんのやり方に、口を出さないようにしたいと思うんです。もちろん、教えて欲しいと頼まれた場所は教えますし、やれるだけのことはします。キャロルさんとブラッドさんは性格の根本から違いますから、二人に同じやり方を押し付けてしまうのは酷なだけだと思いまして」 言い終えてから、フィリオラは少し不安げな顔になり、両手を胸の前で組んだ。 「あ、あの。私は、それでいいと思ったんですけど、先生は…どう、思いますか?」 「素晴らしいよ。教壇に立ってもらいたいくらいだ」 リチャードが満足げに返すと、フィリオラはふにゃりと笑った。 「先生にそう言ってもらえると、ちょっと、安心しました」 「だが、問題はそこから先なんだ。君の言ったようなことを、実行出来ている教師は少ないんだよね」 腕を解いたリチャードは、とん、と机の端を叩いた。小さく、ため息を吐く。 「無論、彼らも彼らなりに努力をしている。だけどね、実際にその場に出ると、様々な制約があるんだよ。上からの指示とか学校そのものの基本理念とか、まぁ色々とね。ある種の理想論なんだね。君だって、これからそれを実行するとなれば苦労するのは間違いないだろうね。何事も、初志貫徹しようとすると必ず壁が出てきちゃうから」 ますます不安げになったフィリオラに、リチャードは笑む。 「けど、まぁ、フィオちゃんなら大丈夫だろうけどね。ふにゃふにゃ笑ってぐずぐず泣いて、なんとかしちゃいそうな気がしないでもないから」 「ふ、ふにゃ?」 「擬音だよ、擬音。君の表情の表現として、適当だと思ったんだよ」 リチャードは、細めていた瞼を広げた。普段はあまり見えない瞳が現れ、右隣の窓から差し込む日光で輝いた。 ツノの生えた少女は、自分の頬を引っ張ったりしている。どの辺りがふにゃなのか、確かめているようだった。 瞳孔が縦長気味の青い瞳は、既に彼から外れている。あらぬ方向を見つめ、しきりに顔をいじったりしている。 こういったフィリオラの幼さが、レオナルドは鼻に付いて仕方ないようだったが、リチャードは好きだった。 作っていない可愛らしさというか、飾り立てていないからだ。化粧もほとんどしないし、服もあまり着飾らない。 基本的には魔導師の衣装である魔導服かエプロンドレスで、礼装など大学の修了式後の夜会でしか見ていない。 着飾った姿が似合っていないわけではないし、むしろ、育ちの良さが滲み出ていて普段以上に可愛らしかった。 家柄も悪くないどころか、ストレインと言えば、貴族でありながらも努力を惜しまずに事業を発展させている家だ。 共和国内よりも国外での発展が目覚ましく、財政も中世の時代に比べて増強され、大学に出資出来るほどだ。 だがフィリオラは、魔法大学を卒業した後は全くと言っていいほど実家に頼らず、今日までやってきている。 魔導師免許試験のための資金だって自分で稼ぎ、合格後に共同住宅に引っ越して魔導師稼業を一人で始めた。 と言っても、ギルディオスが一緒であったから完全に一人というわけではないが、それでも立派なものだ。 元から才能があったのは確かだが、それでも、ここに至るまでは並大抵の努力では叶うことはないだろう。 しかし、フィリオラは決してそれをひけらかさない。なんでも、努力をしたと思っていないから、なのだそうだ。 フィリオラは、まだふにゃの意味を掴み切れていないのか、両頬を掴んで眉をひそめ、本気で悩んでいる。 その仕草を可愛いなぁと思いながら、リチャードは笑みを浮かべた。彼女を見ていると、自然と顔が緩む。 「フィオちゃん」 「はい?」 頬から両手を外したフィリオラは、リチャードに向いた。リチャードは、共同住宅の方向を指す。 「レオの様子はどうなんだい? 君の隣にぶち込んでから大分経つけど」 「相変わらずですよぉ」 フィリオラは口元を曲げ、むくれる。レオナルドの言動は、思い出すだけで不愉快だった。 「昨日の夜だって、私がブラッドさんとキャロルさんの師匠になったってことを教えたら、レオさんたらなんて言ったと思います? お前なんかに魔法を教わって大丈夫なのか、どうせろくなことにはなりはしない、兄貴に教えてもらう方がかなり確実で安全で有効だと思うが、って…」 「レオの言いそうなことだなぁ」 リチャードが可笑しげにすると、フィリオラは丸っこい頬を張る。 「笑い事じゃないですよ。そりゃ、レオさんの言うことにも一理ありますけど、だからって…」 「そうか。なら、まだ僕にも機会はあるわけだ」 「何がですか?」 リチャードは、むくれているフィリオラに、柔らかな笑顔を向けた。 「君が言ってくれた通り、君を僕のお嫁さんに出来るかってことさ」 しかめていた眉間が緩み、曲がっていた口元が直り、頬に朱が差してくる。フィリオラは、赤面し、俯いた。 鼓動が高まり、頬が熱いのが解る。そうして言葉にされると、久しく意識してなかったのに意識してしまう。 旧王都に帰ってきたリチャードと最初に会った時はなんともなかったのに、忘れていたはずだと思っていたのに。 きゅっとエプロンを握り、フィリオラは呼吸を整えた。鼓動を落ち着かせるために、息を詰めて唇を締める。 胸の奥を締め付ける淡い痛みが、過去に持っていた感情を呼び起こしてくる。それは、幼い頃の恋心だった。 「…あう」 照れくさくなってしまい、フィリオラは声を上擦らせた。リチャードは椅子から立ち上がり、彼女に歩み寄った。 「それで、今はどうなんだい? 四年前はギルディオスさんと僕を同じぐらい好きだ、って言ってくれたけど?」 身を縮めたフィリオラは、そっと目線を上げた。目の前にいるリチャードとの身長差は、昔よりも減っていた。 前は見上げなければならなかった顔も、多少上にある程度だ。彼との間の空間は、一歩分ぐらいしかない。 その距離の無さに戸惑いながらも、フィリオラは熱を持っている頬を押さえた。すっかり、真っ赤になっている。 「えと、その」 「僕としては、それ以上になってくれていると嬉しいんだけどね。もう、師弟関係じゃなくなったわけだし」 リチャードは身を屈め、フィリオラと目線を合わせる。 「大っぴらに手を出せるからね」 「ほんき、ですか」 困惑しながら、フィリオラはリチャードを見上げる。リチャードは、掴み所のない表情になる。 「さあ、どうだろうね」 そう言った彼は、真剣であるようにも笑っているようにも冗談めかしているようにも思え、真意は解らなかった。 動揺と高揚で混乱する思考の中、フィリオラは強引に唾を飲み下した。改めて見ると、レオナルドに良く似ていた。 兄弟であるから当然なのだが、輪郭や肩幅だけでなく声も少し似ている。レオナルドに、謝られた夜を思い出した。 無理に口付けられた時も、謝ってきた時も、どんな時であろうとも、レオナルドは力任せにフィリオラに接してくる。 だが、リチャードは違う。今だって距離を保っていて、手を伸ばせて触れられるはずなのに、何もしてこない。 先生は優しい。レオさんとは大違いだ。フィリオラはそれが嬉しくてならず、自然と顔が緩み、笑っていた。 リチャードはフィリオラの髪に触れると、軽く撫でた。様々な魔法を操ってきた手が、黒に近い緑髪を梳いていく。 「まぁ、今はさすがに何もしないし言わないけどね。忙しいだろうから」 フィリオラは、こくんと頷いた。髪を撫でてくれる手の感触も、ギルディオスのものとはまた違った心地良さがある。 激しかった鼓動は穏やかになり、代わりに胸を締め付ける感覚が強くなっている。この人が好きだ、と実感する。 リチャードに触れられる心地良さを味わいながらも、罪悪感もあった。キャロルの思いも、知っているのだから。 胸の痛みに、他の痛みも入り交じっていた。 翌日。フィリオラは、宿題を採点していた。 三○一号室の居間の食卓で、向かい合って座っていた。玄関側に座ったキャロルは、緊張した面持ちでいる。 フィリオラは、キャロルの答えた共和国語の文章と魔法文字の問題用紙を左右に並べ、無言で見つめていた。 彼女が使っている羽根ペンの先には、赤インクが染みている。それが、キャロルの書いた宿題の上で丸を書いた。 ブラッドは、既に採点を終えられた自分の宿題を目の前に広げていた。フィリオラの、手製の問題用紙だ。 修正だらけの紙を見下ろし、ブラッドはむくれていた。紙の右上には赤い文字で、四十三点、と走り書きがある。 百点満点中で、それだった。文章は誤字だらけの上に、魔法文字に至っては同じものを何度も間違えている。 内心でむかむかしながらも怒るわけにはいかず、ブラッドは口元をひん曲げていた。目線を上げ、二人を窺う。 フィリオラの横顔は、普段と少し違っていた。授業の際に生真面目なのはいつものことだが、様子が変だった。 いつもであれば、採点しながらキャロルに助言などをするのだが、今日に限って一言も喋っていないのだ。 ブラッドの時には、勉強だけでなく日常に関する小言まで言っていたので、不思議どころか奇妙ですらあった。 フィリオラは黙々と採点していたが、その手を止めた。最後に正解した数を数え、右上に合計点数を書いた。 「六十四点。前回よりは、共和国語の読解力も良くなってます。ただ、綴りの順番がちょっとあやふやですね」 と、フィリオラは赤インクで修正した部分を指先で示す。 「イルとスェーの順番が、よく逆になってますね。それさえ気を付ければ、もっと良くなると思いますよ」 「あ、ホントだ」 またやっちゃった、とでも言いたげにキャロルは肩を竦めた。フィリオラは宿題から目を上げ、彼女を窺った。 フィリオラらとキャロルがヴァトラスの屋敷で働く時間帯はほぼ同じであるため、今日もずっと顔を合わせている。 屋敷での彼女はぎこちないのだが、ここではそうでもない。弟子になって一週間ほど経過したので、慣れてきた。 最初はブラッドとも話さなかったのだが、ここ数日は多少は言葉を交わしているし、ギルディオスとも話している。 それ自体は良い傾向だし、仲が親密になればフィリオラとしても教えやすいが、あのことが引っかかっていた。 キャロルがリチャードを好いているのと同じように、フィリオラも、リチャードを師匠として以上に好いている。 師弟関係である以前に、友人関係の間にわだかまりを作りたくはないが、勝手に邪な感情が沸いてきそうだった。 フィリオラが押し黙っていると、ブラッドが上半身を傾けた。訝しげに眉根を歪めていて、真下から見上げてくる。 「フィオが黙ってるとさぁ、なんか変なんだけど」 「あ、いえ、ちょっと」 フィリオラが取り繕おうとすると、ブラッドは身を乗り出してくる。 「今日はレオさんに文句言われてないはずなんだけどなぁ。言われてないから調子狂ってるとか?」 「ち、違いますよ!」 フィリオラは首を横に振って否定してから、キャロルに向いた。フィリオラは、徐々に表情を曇らせる。 キャロルは、怪訝そうな目になる。フィリオラは少し目線を彷徨わせていたが、キャロルに戻した。 「あの、キャロルさん」 「はい」 キャロルは、素直にフィリオラの方に向いた。フィリオラは口籠もっていたが、言った。 「ちょっと、来てくれませんか」 フィリオラは手を挙げ、自分の寝室を指した。キャロルは訝しげにしていたが、次第に不安そうな顔になった。 咎められるのでは、責められるのではないか、と思ったらしかった。フィリオラは立ち上がり、手を横に振る。 「ああ、いえ、別にそういうんじゃなくってですね、ただ、ちょっとばかりお話を」 「ここで良くね?」 ブラッドがテーブルを数回叩くと、フィリオラは即座に言い返す。 「だっ、ダメなんです! こういうお話は、他の人がいちゃいけないんです!」 フィリオラはキャロルの手を取ると、寝室に引っ張っていった。そのまま二人は寝室に入り、扉が閉められた。 ブラッドは、また弾き出されたような気分になった。何の話をするつもりなのか、やけに気になって仕方なかった。 しばらく寝室の扉を見ていたが、目を逸らした。気にはなるが、あからさまに除け者にされてしまうと面白くない。 意地でも聞いてやるか、と内心で毒づき、ブラッドは舌打ちした。近頃、面白くないことばかりが続いている。 じりじりとした苛立ちが、腹の中に溜まっていた。 寝室の扉を閉じたフィリオラは、深く息を吐いた。 見慣れない部屋なので、キャロルはしきりに辺りを見回している。本の積み重なった床や、魔法道具の棚など。 日が傾いて弱まった日光が、周囲の高層建築の隙間から辛うじて差し込んでいたが、部屋の中は薄暗かった。 フィリオラは、キャロルに向いた。キャロルの肩の上で波打っている赤毛が、ほのかな光で縁取られていた。 緑色の瞳が、不安げに、そして困ったようにこちらを見ている。これから、更にその表情が曇ってしまうだろう。 フィリオラはちくりとした罪悪感を感じたが、仕方ないことなんだ、と思った。彼女とは、友人同士でいたい。 「あの、キャロルさん」 フィリオラは一度目線を下げたが、すぐに顔を上げてキャロルを見据えた。 「一つ、言っておきたいことがあるんです」 薄暗くとも、キャロルが身構えたのが解った。フィリオラは躊躇いそうになったが、続ける。 「私も」 「先生のこと、好きなんです」 「正確に、言いますとですね。私、先生のことを好きだったのを思い出して、だから、また」 フィリオラは、キャロルの表情を見ないようにした。どんな顔をしているか、考えただけで胸苦しかった。 「けど、その、キャロルさんを応援したいと思ったのは本当で、嘘じゃなくって、だけど、私も、その、やっぱり」 しどろもどろになったフィリオラは、先に泣いてしまいそうだった。キャロルは、竜の少女をじっと見つめていた。 信じられないし、信じたくないが、彼女は嘘を吐くような人間ではない。それは、少しの付き合いでも良く解る。 けれど。最初から、負けている。何もかも、彼女には負けている。立場だって魔力だって、全てに置いて完敗だ。 少しでもリチャードに近付きたいと思った。ほんの少しでいいから、間を狭めるための切っ掛けが欲しかった。 なのに。これでは、切っ掛けどころではない。悔しくて情けなくて、キャロルは俯いてしまい、肩を震わせた。 「わたし、だって」 リチャードは、初めて好きだと思った人だ。雇ってくれたばかりか、ただの小間使いを気遣ってくれる人だ。 あんなに優しい人と会ったのは、初めてだった。大きくて温かくて、ずっと近くにいたい、傍にいたいと思えてくる。 なのに。彼に、近付くことすら出来ないんだろうか。キャロルはどうしようもない絶望に襲われ、涙が溢れてきた。 だが、キャロルが涙を拭うよりも先に、フィリオラが泣き出していた。しゃくり上げ、拳を握り、項垂れている。 「でっ、ですけどね、ほんとうに、本当にキャロルさんの気持ちが叶えばいいなぁって思うんです!」 フィリオラは、ぐいっと手の甲で涙を拭う。 「矛盾してるかもしれないけど、そう思うんです! 私も先生のことは好きだけど、なんですけどぉ」 目元を手の甲で押さえたフィリオラは、唇を噛む。 「ご、ごめんなさい。わたし、あなたを傷付けるつもりなんてなかったんです。本当なんです。ですけど、そうだとしたら謝ります。ただ、私も先生のことを好きなことを、知っていてもらわなきゃいけないと思って、そうしなきゃ、明日からどんな顔をしてキャロルさんと会えばいいんだろうとか、先生とどう接したらいいのかとか、考えちゃうと思うんです。そっ、そしたら、勉強を教えるどころじゃなくなっちゃうし、そんなことでキャロルさんとケンカなんてしたくないし、それに、わたし、キャロルさんともっと仲良くなりたいんです。だ、だから…」 ぐずぐずに泣きじゃくるフィリオラに、キャロルは泣くのを忘れてしまった。まさか、謝られるとは思わなかった。 「…なんで、フィリオラさんが謝るんですか?」 「だ、だって、悪いじゃないですかぁ。なんか、なんか、とっても嫌なことをしているみたいでぇ」 涙を顎に伝わせながら、フィリオラはキャロルを見下ろす。 「だけど、好きなのは、どうしようもないから、けど、ほんとに」 「ありがとうございます」 泣くに泣けなくなったキャロルは、少し笑ってしまった。あまりにも必死なフィリオラが、どこか可笑しく思えた。 フィリオラは服の袖で涙の大半を拭ってから、一度瞬きした。不思議そうな顔で、きょとんとしている。 「どうして、キャロルさんがお礼を言うんですか?」 「だって、てっきり諦めろーとか言われると思っちゃったから」 「言うわけないじゃないですか。先生は誰のものでもないですし、私に人の気持ちをどうこうする権利はありません」 フィリオラは、きっぱりと言い切った。キャロルは内心で、敵わないや、と思ったが安心の方が先に立っていた。 少し滲んでいた涙を目元から拭き取ってから、フィリオラに向き直る。強烈な西日が、二人の影を濃くしていた。 「それじゃ、私は、これからも頑張ります。頑張って、少しでもリチャードさんに近付きたいと思います」 「私だって、頑張りますよ? もっともっと、先生のお役に立ちたいんですから」 互いに意気込んだ二人は、どちらからともなく笑い出した。何が可笑しいのか解らないが、肩を震わせて笑った。 ひとしきり笑い転げてから、キャロルはフィリオラとの間を詰めた。急に、竜の少女が近くなった気がした。 「あの、良かったら、リチャードさんがフィリオラさんの先生だった頃のことを教えてもらえませんか?」 「いいですよ。その代わり、キャロルさんも教えて下さいね。最近の先生は、どんなお菓子が好きかってことを」 「だったら、今度一緒に作りましょうか。お屋敷のお台所で」 「あ、いいですね! やりましょうやりましょう!」 キャロルの提案にフィリオラが歓声を上げたので、キャロルは嬉しくなって頷いた。 「はい!」 そのまま、二人は夜になるまで話し込んだ。数年前のリチャードのことを、そして、現在のリチャードのことを。 他にも、互いの好きなものや紅茶の飲み方、近頃流行の髪の結い方などの様々な事柄を止めどなく喋り続けた。 そのうちにフィリオラとキャロルの涙もすっかり乾いてしまい、寝室からは楽しげな少女達の笑い声が響いていた。 一人、居間に取り残されているブラッドが心底いじけてしまっていることなど、彼女達は知る由もなかった。 恋の話題には、少女達を夢中にさせてしまう魔力があるのだ。 一人の男に向かうのは、二人の少女の淡き思い。 それぞれに、好きであるからこそ、互いに譲ることは出来ない。 二人の少女のどちらが、一人の男の心を捉えるかということは。 今はまだ、誰にも解らないのである。 05 11/24 |