ドラゴンは眠らない




豪雨



アルゼンタムは、逃げていた。


自由の利かない手足に、雨水が滴る。先日砕けたままの歯車が、腹の中でがちゃがちゃと揺れてうるさかった。
無数の雨粒が全身を叩き、生温い春の雨が関節に染み入ってくる。石畳を蹴るが、跳ね上がることは出来ない。
不自由で仕方ないが、動けるだけでもありがたかった。背後からは、警察官と思しき足音が追いかけてくる。
目の部分が濡れて視界が霞み、雨に煙る街並みが良く見えない。昼間だとは思うが、夜のような暗さがあった。
この天気では、空を飛ぶことは叶わないだろう。魔力だけは全身に漲っているが、風がなければ飛べないのだ。
仮面の口元からは、雨の筋に混じって赤い筋が垂れていた。看守の警察官を一人殺し、なんとか喰ってきた。
だが、逃げられなかった。鉄格子を指の刃で切って看守に飛び掛かり、切って喰ったが、後が続かない。
普段であれば軽々と飛び越えられた壁も乗り越えられず、体に力が入らず、超人的な敏捷性は失われていた。
故に、逃げていた。警察署から出来るだけ遠ざかるため、細い路地を選んで、ひたすらに雨の中を走っていた。
飢えはなかった。一人とはいえ人を喰ったので、腹の中に溜まった大量の血が、ちゃぽちゃぽと動いている。
色彩のない壁の間を擦り抜けながら、どこへ向かうか考えた。どこへ逃げるべきか、思考を巡らせていた。
グレイス・ルーの城。黒幕の手中。だが、そのどちらにも行きたくなかった。無性に、逃げ出したかった。
本能は、やけに落ち着いていた。フィリオラからもらった魔力が残留しているおかげで、値が安定している。
これが上か下かのどちらかに振り切れれば、また本能が漲ってくるのは予想出来た。それが、常だったからだ。
恐らく、それがグレイス・ルーの作った仕掛けなのだ。飢えれば喰い、喰い過ぎればまた飢えるような仕組みを。
どんな構造かは想像も付かなかったが、上手く考えたな、とは思った。どちらに転んでも、束縛出来るのだから。
アルゼンタムは歩調を緩めると、路地の壁に背を当てた。荒げている息を整えて、周囲の様子をじっと窺った。
足音は、聞こえてこなかった。警察官達の怒声も聞こえなくなっているので、無事に彼らを撒けたようだった。
熱を帯びた胸の魔導鉱石が、淡い緑の光を発していた。それを仮面に浴びながら、アルゼンタムは空を仰いだ。
鉛色の分厚い雲に、支配された空だった。今の自分に似ているな、と感じて、内心で自虐的に笑っていた。
逃げる先はない。逃げた先では支配が待っている。行く末も、見えることがない。未来など、どこにもない。
あるのは狂気を伴った強烈な飢えと、それによる苦しみと、グレイスと黒幕の彼による徹底した支配のみ。
帰りたい。だが、どこへ。記憶を辿ろうとしても蓋がされていて、ある一定の部分から先は少しも見えなかった。
仮面の目元に溜まった雨水が、涙のように流れていた。アルゼンタムは仮面を鷲掴みにすると、項垂れた。

「オイラァー…」

甲高い声が、自分でも物悲しかった。

「誰ナンダァーヨォー…」

機械人形は俯き、動きを止めた。泣こうにも泣き方が全く思い出せず、知っているのは狂った笑い方だけだった。
気の触れた笑い声を腹の底から出して、食欲を満たすことしか知らない。それ以外には、戦うことしか出来ない。
グレイスの作ったただの人形のはずなのに、なぜ、こうして思い悩む。自分は、完全なる機械ではないのか。
機械ではないなら、帰る場所があるのだろうか。もしもその場所があるとしたら、一体どこなのだろうか。
どこであれ、なんであれ、帰りたかった。




眠ったかもしれないし、眠らなかったかもしれない。
アルゼンタムは追っ手がいないことを確かめながら、足を引き摺って歩いていた。当てもなく、彷徨っていた。
大雨に包まれた旧王都は人出がなく、大通りに出ることさえしなければ、誰にも見つかる心配はなかった。
それをありがたく思いながら、ずるずると進んだ。気付けば、旧王都を囲む城壁まで来ていて、その外へ出た。
雨のない門の下を抜けて出ると、その向こうには工場街が建ち並んでいた。だが、どの煙突も煙が出ていない。
休日らしい、と解ったが、日にちの感覚がないので何曜日は解らなかった。知識も、記憶と共に封じられていた。
工場街。ここに関しては、記憶はある。灰色の長方形の箱を見据えながら、アルゼンタムは、また歩き出した。
いくつも並んだ工場街に添って伸びる道に、妙な形の足跡を残しながら進んだ。そして、外れまでやってきた。
工場街の外れには、焼け落ちた廃工場があった。屋根が燃え落ちていて、建物から離れた塀まで黒く焦げている。
それを見、アルゼンタムはほんの少し安堵した。ここで、彼に出会った。ギルディオスと、初めて戦ったのだ。
アルゼンタムが、彼の部下であった人間達を捌いて喰った後に、ギルディオスは現れ、銃口を向けてきた。
そして、戦った。だが、実にあっさりと負けてしまった。ギルディオスとは、実力と経験に差があり過ぎるのだ。
性能の上では、アルゼンタムの方が格段に上だ。機械仕掛けで腕力も増強しているし、武器も最初から手にある。
わざわざ武器を取る間を作らずに済むし、防御として魔導金属糸製のマントも羽織っている。だが、経験がない。
ギルディオスは、それをすぐに見抜いた。急所ばかりを攻めるので、それ以外を攻めることを知らなかった。
胸や首、腹などを狙ってばかりなので懐に隙が出来やすいし、足元が弱いことも今になっては自覚していた。
両手足が細長い不自然な体形なのに、腹には機械が詰まっていて重たいので、足元を崩されれば転んでしまう。
おまけに、跳躍ばかりするので腰を据えていない。それでは、いくら攻撃しても決定的な打撃は生まれない。
負けて当然だ、とアルゼンタムは自嘲した。瞬発力がどれだけあろうとも、隙があればやられてしまうのだ。
機械仕掛けの体を生かし切れていない自分が情けなくなりながら、泥の足跡を引き摺って、廃工場に近付いた。
壊れた鉄格子の門と焼け焦げた塀の前までやってくると、足を止めた。焼け落ちた廃工場は、雨に打たれていた。
崩れた壁の下にはレンガの破片が散らばり、足の踏み場もなかった。アルゼンタムは、ぎい、と門を押し開けた。
数歩進んでから、立ち止まった。崩壊した壁の内側に、同じように雨に打たれている銀色の影が座っていた。
歌劇場を襲ったあの日、求めていた姿だった。トサカに似た赤い頭飾りはしとどに濡れて、兜に貼り付いていた。
身の丈ほどもあるバスタードソードを背負い、腰に提げたホルスターに魔導拳銃を差した、大柄な甲冑がいた。

「ギィールディーオスゥー…」

アルゼンタムは、嬉しくなった。彼と戦う羽目になるかもしれないと思ったが、また会えた喜びが先立った。
瓦礫に座っていた甲冑は、おう、と友人に挨拶するような声で返した。組んでいた足に肘を載せ、頬杖を付く。

「久し振りだな、アルゼンタム」

「オイラァー、待ってたァーノォーカァー?」

期待してはいないが、言うだけ言ってみた。アルゼンタムの言葉に、まさか、とギルディオスは笑う。

「お前が来るって知っていたら、もうちょいしっかりしてるぜ。今は、戦う気なんて起きねぇや」

ギルディオスは、煤けた床の先にヘルムを向けた。その一部には、何かが焼けた痕跡がありありと残っていた。
そこは、アルゼンタムが彼の部下達を捌き、喰らった場所だった。焦げ付いた血の痕が、未だに視認出来る。
ギルディオスは、ヘルムの隙間に溜まった雨水をマスクに伝わせながら、雨空を見上げ、寂しげに呟いた。

「オレはな、雨が降らないと泣けねぇんだ。あいつらが死んだことを悲しむには、天の助けが入り用なのさ」

ひっきりなしに降り注ぐ雨粒が、流線形の隙間が上下に二つ空いたヘルムを叩き、その端に溜まって膨らんだ。
それが、落ちてきた雨粒に砕かれて流れ出す。幾筋もの涙を、雨で出来た涙を流しながら、戦士は声を落とした。

「だからよ、雨の日は墓参りばっかりさ。兄貴の墓、メアリーの墓、ランスの墓、オレの墓、部下達の死に場所」

甲冑の静かな声が、機械人形に染み渡ってくる。

「他にも、色々ある。この体は便利だが、泣きたい時に泣けねぇってのは辛ぇもんがあるんだぜ」

ギルディオスは、内心で目を細めた。

「だからオレは、雨が好きだ。好きなだけ、泣かせてくれるからよ」

アルゼンタムは、彼に倣って雨空を見上げた。すると、吊り上がった目の端に溜まっていた水が傾き、滑り落ちた。
警察署に拘留されている間に、薄汚れてしまった仮面に水の筋が付く。砂埃が流され、銀色が艶やかになる。
確かに、似ていた。仮面の上を水が流れていく感触は、頬に涙を伝わせた時の感触に近しいものがあった。
ああ、泣けている。アルゼンタムはそれがまた嬉しくて、笑い出しそうになったが、甲高い笑い声は出なかった。
笑い出すよりも先に、悲しくなっていたからだ。疑似であろうとも涙を流せているせいか、切なくてたまらない。
逃げたところで、自由は得られない。強烈な飢えを癒しても、また飢えが襲ってくる。欲望に、苛まれてしまう。
逃げられないなら、帰る場所がないなら、いっそのこと滅びてしまいたい。いや、滅びてしまえばいいのだ。
アルゼンタムは、ぎち、と首を動かした。涙を流し続けているギルディオスに仮面を向けると、笑い声を発した。

「うけけけけけけけけ」

戦えば、滅びることが出来る。アルゼンタムは水の溜まった床を蹴り、一気にギルディオスとの間を詰めた。

「イィヤッホォオオオオオオオオオ!」

ギルディオスは、すぐに意識を戻した。剣を抜く間はなかったが、それでも立ち上がって姿勢を整えた。
両手を広げて掴み掛かってきたアルゼンタムは、ギルディオスの両腕を押さえるように握り、壁に押し付けた。
がしゃっ、と双方の装甲がぶつかり合う。甲冑を押さえ付けた機械人形は、動きの悪い首をぐりっと捻った。

「セェーッカクあんたと会ったンダァー、アァーソバナキャーアァ勿体ネェーダァーロォー?」

「…本気か?」

ギルディオスは両腕を握るアルゼンタムの手から、力を感じていなかった。掴んでいるだけで、握り締めない。
先程飛び掛かってきた際の速度も、格段に落ちている。見るからに、損傷で運動機能を失っているのが解る。
そんな状態のアルゼンタムと戦ったとしても、ギルディオスが一方的に打ち倒して破壊してしまうだけだろう。
ギルディオスは力任せに腕を上げ、ごしゃっ、と機械人形の腹に拳を打ち込んだ。手応えは、前より軽かった。

「まともにオレが相手をしたら、お前は間違いなく鉄屑になっちまうぜ?」

「ハッハッハァーン」

今の衝撃で、数個の歯車がずれた気がする。アルゼンタムはそれを感じながらも、仮面を突き出して笑う。

「オイラァあんたと戦いテェーンダァー! 戦って戦って戦い抜くンダァヨォオオオオオ!」

「オレは、お前と戦いたくねぇ」

ギルディオスは、声を落とした。まともに戦闘能力を持っていない相手を、いたぶるのは好きではないのだ。
直後、胸元に強い衝撃が来た。見ると、アルゼンタムが仮面の顔をギルディオスの胸倉に叩き込んでいた。
ギルディオスが少しよろけると、アルゼンタムは両腕を彼の腕から放し、びょんびょんと跳ねて後退する。

「アァーソンデクゥレヨォオオオオオオ!」

泥水を跳ね飛ばすように蹴って飛び出したアルゼンタムは、片手を真正面に突き出した。

「ギルディオスゥウウウウウウウウッ!」

「がっ」

その手が、ギルディオスの頭を掴んだ。アルゼンタムの体重で勢い良く倒され、背中を泥溜まりに引き摺った。
赤いマントが汚れ、鞘が水溜まりに沈んだ。倒れた甲冑の上に跨った骸骨は、彼の頭部を床に叩き付ける。

「ナァオイナァオイナァナァナァ!」

再び、叩き付ける。ごっ、と鈍い金属音が響く。

「タァノムゼェ、ギルディオスゥウウウウウウウ!」

彼の手はアルゼンタムの腕を掴んでいたが、拘束は緩かった。アルゼンタムは、それに苛立った。

「オイラを、オイラヲォオオオオオオッ!」

ギルディオスの頭部を投げ付けるように放すと、アルゼンタムは屈み、甲冑の胸倉に拳を叩き込む。


「殺してクゥレヨォオオオオオオ!」


絶叫は、掠れていた。アルゼンタムはギルディオスを殴り付けた拳をそのままに、仮面の下で歯を食い縛る。
なぜ、彼は戦ってくれない。宿敵であるグレイスの道具なのだから、彼にとっても敵なのではないのか。
ならば、なぜ倒そうとしない。明らかに、彼にとっては有利な状況のはずなのに、破壊しようとしてこない。
破壊して欲しい。逃げられないのだから、滅びるしか自由を得る道はない。アルゼンタムは、雨空に猛った。

「オォ願イダァアアアアアアッ!」

雨水の涙が、狂った笑いを浮かべる仮面を清めていく。

「オイラは誰ダァアアアアアッ!」

ずっと煩悶していたことを、言葉にする。

「オイラは何なんだァアアアアアッ!」

胸に填め込まれた緑色の魔導鉱石の底で、魂が脈打っている。

「オイラは、オイラはぁ、オイラはナァアアアアア!」

人形は、最大の疑問を吐き出した。



「アァルゼンタムじゃネェエエエエエエッ!」



自分が誰か解らないのは、自分が自分でないと感じるのは、元よりこの名で生きていたからではないからだ。
その違和感が、苦しみを作り出す。ただの人形ではないから、利用され続けていることに疑問を感じてしまう。
だが、本来の己が何かが解らない。だから余計に苦しみは増大し、違和感が膨れ上がり、絶望を感じるのだ。
完全なる無機物であったなら、完全なる人形であったなら、使われ続けることに喜びを覚えるはずだというのに。
それを感じないのだから、自分は無機ではない。しかし、肉体は有機ではない。どちらでもない、曖昧な存在だ。
誰でもいい。なんでもいい。教えて欲しくてたまらなかった。本当の自分の名を、本当に自分があるべき場所を。
アルゼンタムは、肩を上下させていた。ぼたぼたと仮面の目元から滴り落ちた雨水が、甲冑の胸を叩いている。

「ナァ、オゥイー…」

「アルゼンタム」

ギルディオスは、上半身を起こした。目の前の機械人形は、泣いている。

「お前は」

「イカれちまいソウナンダァーヨォー、コォーノマンマジャアーナァー…」

うかかかかかか、とアルゼンタムは乾いた笑い声を漏らした。

「マァー、モォートからイカれてんだぁケードナァー…」

ギルディオスはアルゼンタムの足の下から出ると、真下から見上げた。濡れた仮面に、泥まみれの甲冑が映る。
笑った表情の仮面の奧で、人を喰らうための歯が硬く噛み締められている。ぎざぎざの、獣じみた歯だった。
骸骨の胸にある魔導鉱石は、ぼんやりと淡い光を放っていた。ギルディオスは、アルゼンタムの仮面を見据える。

「オレは、お前の正体を知ってるかもしれねぇ」

アルゼンタムは、少し顔を上げた。ギルディオスは頷く。

「かもしれないってだけで、確証はない。だが、そうかもしれねぇって思えて仕方ねぇんだ」

「オイラの、正体ィイイー?」

アルゼンタムは、裏返った声を少し落ち着けた。そうだ、とギルディオスは強く言った。

「ここで、お前が殺したオレの部下達がいただろう。あいつらの魂は、お前に殺されるより前に抜かれていたんだ。お前は、その中の一人かもしれねぇ」

「ナンデェー、ンーナコトォー…」

アルゼンタムは、蓋をされていない部分の記憶を呼び起こした。廃工場で戦った時に、彼らは確かに動いていた。
動きも機敏で、八人もいたために全員を殺すのに手間取ってしまったほどだ。だが、思い出してみると異様だ。
誰一人として言葉を発しなかったし、生きたまま腹を切り裂いても、悲鳴はおろか呻き声一つ上がらなかった。
目も、虚ろだったかもしれない。アルゼンタムがそれらを思い起こしていると、ギルディオスは立ち上がった。

「軍の仕業だ。あいつらは死んだ後も、魔法で体を無理矢理生かされて、生体魔導兵器にされていたんだ」

「超絶エグイゼェー」

「ああ、えぐい。魂も、魔導鉱石に押し込められて保管されちまってるしな。血も涙もないぜ」

と、ギルディオスが吐き捨てると、アルゼンタムは恐る恐る胸の魔導鉱石に触れた。

「ソーレジャアー、オイラは軍人だったのカァモシィレネェーってコォートカァー?」

「そうだ。だが、お前自身は、自分が誰か覚えてねぇんだな?」

「オゥイエー」

こっくりと頷いたアルゼンタムに、ギルディオスは片手を差し伸べてきた。

「だったら、可能性はまるでねぇわけじゃねぇだろう?」

アルゼンタムは、甲冑を見つめていた。本当に、彼の部下であったとしたならば、どれだけいいだろうか。
記憶に蓋をされている理由も、そこにあるのかもしれない。ますます、己の過去が知りたくなってきた。
するとギルディオスは、アルゼンタムの胸の魔導鉱石に手を当てた。銀色の指先が、繋ぎ目に押し込まれる。

「ちょーっと我慢しろよ?」

「アイデェエエエエエエッ!」

突然、魂を込めた魔導鉱石を引っ張られたアルゼンタムは、その強い痛みに耐えかねて思い切り絶叫した。
機械の体と魔導鉱石を繋げていたネジが強引に引かれ、装甲との接続が歪んでくる。かなり、強引だ。
魔導鉱石が機械の体から離れ始めると、徐々に激痛が和らいだ。アルゼンタムは、絶叫を少しだけ弱めた。
ギルディオスは渾身の力で、魔導鉱石を引っ張った。石と機構との接続が外れ、機械人形は後方に倒れた。
泥水の中に背中から転げたアルゼンタムは、動かなかった。魔導鉱石の失せた胸の窪みに、雨粒が降り注ぐ。
ギルディオスは、手の中にある緑色の魔導鉱石を目線まで持ち上げた。手のひらに、じわりと熱が伝わった。

「大丈夫か?」

「ギ、ギィー、ギィリギリチョンパァー…」

力のない声で、緑色の魔導鉱石は返した。ギルディオスはそれに安心し、握り締めていた手を緩める。

「喋れるんなら平気そうだな。んじゃ、お前の体を壊しに掛かるぜ」

「ブッ壊しチィーマウノカァー?」

「壊さねぇと、色々と不都合だろ。オレにとっても、お前にとってもな」

こん、とギルディオスは魂の入った緑色の魔導鉱石を小突いた。アゥオ、と仰け反ったような声がする。

「ダァーケド、気分はヨォークナイゼェエエエエエ?」

「そう言うなよ。これもお前の未来のためだ」

なんてな、とギルディオスは肩を竦めてから魔導拳銃を抜き、緑色の魔導鉱石をホルスターの底に押し込めた。
魔導拳銃をベルトの間にねじ込み、背中の鞘からバスタードソードを抜いた。滑らかな刃を、雨粒が濡らす。
倒れて身動きしない銀色の骸骨に歩み寄ると、その仮面に手を掛けた。内側に付いた止め金を、ぱちんと外す。
そして、仮面を外させた。仮面の下には、人間の頭蓋骨に酷似した顔があり、窪んだ目には緑の瞳が填っている。
魂を納めた石と同じく緑色の魔導鉱石は、湿気を帯びて輝いていた。金属の歯は、ぎざぎざに波打っている。
人を喰ってきたのか、その歯は赤黒く汚れていた。ギルディオスは内心で顔を歪めたが、声には出さなかった。
バスタードソードの刃を、胸装甲の脇にある繋ぎ目を思しき隙間に挟み、ぐいっと捻るようにして開いた。
がこっ、と少しばかり隙間が出来、薄目の装甲の胸が浮く。肩の付け根も同時に外れ、歯車と軸が抜け落ちた。
隙間に指を差し込んで、ぎいっと開いた。胸装甲を外して脇に置くと、その下の腹部装甲も同じように外した。
歪みのある装甲を外された機械人形は、壊れた機構が露わになった。歯車のいくつかは、歯が砕けている。
軸も曲がっているし、手足を動かすことは出来ても、動力を確実に伝えることは出来なくなっているようだった。
複雑に噛み合った歯車の中心、胸の真ん中に、子供の頭ほどはありそうな大きさの澄んだ魔導鉱石があった。
青緑色の魔導鉱石には、魔法陣が彫られていた。ギルディオスは太い指をその文字に当ててなぞり、読んだ。

「えーとぉー、ああ、こいつは魔力吸引の魔法だな。そうか、こいつでお前は魔力を喰えてたんだな」

ギルディオスは壊れた歯車を外して、その魔導鉱石を取り出し、裏返した。裏にも、魔法陣があった。

「うげ! なんだこりゃ!」

「ドォーシタンダァーヨォー?」

腰から、アルゼンタムが話し掛けた。ギルディオスは巨大な魔導鉱石を抱えたまま、首を横に振る。

「こんなんにされてちゃ、お前がいくら喰っても満たされなくて当然だ。魔力吸引の魔法で吸い取った魔力が、全部他の場所に転送されるようになってやがる。相変わらず、えっげつねぇことしやがるぜ、グレイスの野郎はよ」

ギルディオスは魔導鉱石を足元に置くと、背筋を伸ばし、バスタードソードを高々と構えた。

「アルゼンタム。今、楽にしてやらぁ!」

ギルディオスは、剣を振り下ろした。何度も何度も、分解された銀色の骸骨に叩き付け、魔導鉱石を砕く。
外して置いていた装甲も斬り付けてから蹴散らし、歯車も辺りに飛ばし、戦闘後のような痕跡を作る。
アルゼンタムはホルスターの中から、自分の肉体である機械人形が破壊される光景を、じっと見ていた。
けたたましい金属音が繰り返し響き、薄暗い空を映した水溜まりに金属片が散る。不思議と、清々しかった。
銀色の骸骨から外された仮面は、一人、笑っていた。その顔に似合う声を放つ主を失って、沈黙していた。
雨は、まだ降り続いていた。




雨音のする窓際で、彼は座っていた。
両手に持ったティーカップが温かく、柔らかな湯気を昇らせている。街は、雨と霧に包まれて静まっている。
その音に混じって、あの男の声がしていた。だらしなく椅子に座ったグレイスは、ティーカップを揺らした。

「これで、駒の配置は済んだってことか」

「全く、彼らしいよ。こうも思い通りに動いてくれると、気持ち良くて仕方ない」

彼は紅茶に口を付け、ゆっくりと飲んだ。グレイスは残っていた紅茶を飲み干すと、テーブルに寄り掛かる。

「それがギルディオス・ヴァトラスのいいところでもあり、悪いところだよ。ま、そこが好きなんだけど」

「だけど、これで魔力の供給がなくなってしまったわけか。そちらに不都合が出るかい?」

彼は、少し首をかしげた。グレイスは白い器に盛ってあるクッキーを数個掴み取り、口に放り込む。

「いや、別に。人間の血肉もその魔力も、せっかくだからもらってただけで、本当はそんなに入り用じゃないんだよ。まぁ、城にどっちゃり残っている人間の魔力は、レベッカの修繕に使うけどな」

「おや。それじゃ、アルゼンタムは働き損じゃないか」

彼は、肩を竦めてみせる。グレイスはクッキーを噛み砕いて飲み込むと、にやりとする。

「アルっちは別に働いてねぇだろ。オレが煽りに煽った本能のままに動いて、喰い散らかしてたんだから」

「まぁ、それもそうだね」

彼は笑うと、窓から外を眺めた。ギルディオス・ヴァトラスによって、アルゼンタムが破壊されて二日経った。
連続殺人魔導兵器が打ち倒されたということで、旧王都の人々は喜んでいる。目に見える脅威が失せたからだ。
愚かしいことだと思う。あれは、生き物の本能を引き出したものだから、人間の中にも潜んでいる衝動だ。
あれは機械人形だから、とも言われそうだが、彼は元々機械人形ではない。血の通った、生き物だった。
アルゼンタムの殺しは決して快楽殺人などではなく、強烈な飢えを満たすために狩りを繰り返していただけだ。
人が、そうならないという根拠はどこにある。人間こそが、もっとも欲望に充ち満ちた生き物ではないか。
本当に静寂を手に入れたいなら、同族を皆殺ししてしまえばいいのに。彼はそう思いながら、唇の端を上向けた。

「楽しそうだねぇ」

グレイスは、またクッキーを食べていた。彼はグレイスに目を向け、微笑んだ。

「あなたほどじゃないよ。僕の計画の進み具合を一番楽しんでいるのは、あなたじゃないか」

「まぁな。これからどうなっていくかと思うと、ぞくぞくしちゃうぜ」

グレイスは子供のように笑い、紅茶のお代わりをティーカップに注いだ。彼は、灰色の男から目を外した。
彼を、別にこの場に呼んだ覚えはない。だがグレイスは、至極当然のようにやってきて勝手に寛いでいる。
それが少々癪に障ったが、表情には出さずにいた。グレイスとの関係は、良好でなくてはならないのだ。

「なぁ」

不意に話し掛けられた彼は、グレイスに向いた。

「なんだい」

「お前ってさ、結局のところ、ギルディオス・ヴァトラスは好きなの、嫌いなの?」

興味深げなグレイスに、彼は少し迷ってから、答えた。

「どちらでもないね。フィフィリアンヌ・ドラグーンよりは、好きかもしれないけれど」

「オレは二人とも好きだけどな。遊び甲斐があるから」

グレイスは、二杯目の紅茶をぐいっと傾けた。酒でも飲むかのように、喉を鳴らして一気に飲み干してしまう。
彼は手の中で冷めつつある紅茶を、見下ろした。澄んだ琥珀色に波紋が広がり、水面に顔が映り込んでいた。
その顔を見つめ、悦に浸っていた。この姿でいれば、何事も上手く行く。誰にも、何も悟られずに進められる。
望んでいる未来は、求めている世界は、必ず手に入るはずだ。彼は微笑みながら、メガネをちゃきりと直した。
雨音は、優しい音楽のようだった。




機械人形は鋼の肉体を失い、一時の安らぎを得る。
だが。疑問の答えは、そして、帰る場所は、未だに知り得ぬまま。
いつの日か、狂気の機械人形が、その全てを知り得る時が来たならば。

機械人形に、真の自由が訪れるのである。






05 12/18