ドラゴンは眠らない




繋がる手、触れる心



レオナルドは、困っていた。


どうして、こんなことになっているのだろうか。真っ白く平坦な天井を見上げていたが、目を横に向けた。
体を丸めたフィリオラが、静かな寝息を立てている。小さな手は軽く握られていて、寝顔は穏やかだった。
レオナルドは、息を吐いた。朝日に照らされた高い天井を見据え、昨夜に何があったのか、頭の中で整理する。
昨日の夜、寝付いたはずのフィリオラがいきなり部屋にやってきた。ご丁寧に、自分の枕を抱えていた。
彼女はレオナルドに近付くなり、自分の部屋で寝るのが怖いと言い出した。何かと思えば、憑依されたらしい。
なんでも、彼女の部屋にいた浮遊霊が彼女に取り憑いて、なんとか引き剥がして逃げてきたとのことだった。
すぐに離れたのだから大したことはないだろうと言ったが、また取り憑かれたら嫌だ、と泣き出しそうだった。
他の者の部屋に行けばいい、とレオナルドは言ったがフィリオラは、廊下にも幽霊がいそうで怖い、と怯えていた。
泣かれたら困るので招き入れたが、すぐに後悔した。事もあろうにフィリオラは、一緒に寝たい、と言い出した。
フィリオラとしてはギルディオスが相手であるような感覚だったのだろうが、レオナルドは溜まったものではない。
憑依された疲れと恐怖ですぐに眠ってしまったフィリオラは、やはり可愛らしくて、何度触れようと思ったことか。
だが、少しでも触れてしまえば理性が決壊する。手を出してはいけない、と何度となく己に言い聞かせていた。
おかげでほとんど眠れず、頭が痛くなってしまった。レオナルドは額を押さえながら、恨みがましく彼女を睨む。

「お前のせいだぞ」

うにゃあ、と寝惚けた声を漏らしたフィリオラは、身を捩った。乱れた長い髪の間から、短いツノが見えている。
甘えたネコのような声をもう一度発した彼女は、仰向けになると、薄く目を開いた。眠たげに、目を擦る。
レオナルドは起き上がると身をずり下げ、出来るだけ距離を開けた。フィリオラは、のそりと起き上がった。

「朝ですかぁ」

フィリオラは、んー、と伸びをしてからレオナルドに向いた。

「おはようございます」

「お前なぁ、自分がどういう状況にいたか少しは考えてみろ!」

レオナルドは腕を組み、フィリオラを睨んだ。フィリオラは、眠たげに瞬きしている。

「ふぁい?」

「夜の夜中に、知り合いとはいえ男の部屋に来るのはどう考えても非常識かつ危険だろうが! いいか、男って奴はな、女と見れば見境なく手込めにする輩は少なくない。事実、そういった犯罪は後を絶たない! お前も見た目はガキだが一応は女だし十八だ、少しは警戒心を持て警戒心を!」

フィリオラはぼんやりしていたため、レオナルドの言っていることを理解するのに少しばかり時間が掛かった。
間を置いてから、フィリオラは情けなさそうに笑った。彼の言うことはもっともだが、昨夜は恐怖の方が強かった。

「ですけど、本当に怖かったんですもん」

「浮遊霊ぐらい吹き飛ばせ。お前なら簡単だろうが」

「吹き飛ばしたら可哀想じゃないですか。あの人、意識は薄かったですけどちゃんとあったんですから」

言い返してきたフィリオラに、レオナルドは少し呆れた。

「お人好しも大概にしろ。いつかそれで身を滅ぼすぞ、お前は」

「あの」

「なんだ」

レオナルドが不愉快げにすると、フィリオラは訝しげに眉を曲げる。

「どうしてレオさんは、私を名前で呼ばないんですか?」

レオナルドは答えようとしたが、詰まってしまった。考えてみればそうだが、名で呼ばないことに特に理由はない。
最初は嫌悪感からだったが、好意を抱くようになってからは完全な照れだ。照れくさいから、呼ばないだけだ。
下らないことだったが、照れてしまうのだから仕方ない。レオナルドが照れ隠しに顔をしかめると、彼女は呟く。

「名前も呼びたくないぐらい、嫌いなんですか?」

「いや、そういうわけでは」

「じゃ、何なんですか?」

ほっとしたような顔で、フィリオラは尋ねた。レオナルドは言い訳を考え始めたが、部屋の扉が数回叩かれた。
レオナルドが返事をすると、開かれた。扉の隙間から顔を覗かせた女性は、ベッドの上の二人を見比べた。

「あら」

「え、あ、ああ違うんですよ違うんですよお姉様!」

慌てながら、フィリオラは手を振り回した。真っ赤になりながら、女性とレオナルドを交互に見る。

「ええとですね、昨日の夜にですね、私、ちょっと取り憑かれちゃいまして、それで、怖いから、レオさんの」

「ごめんなさい。邪魔しちゃったかしら」

女性が申し訳なさそうに眉を下げたので、レオナルドは困りながら言い返した。

「妹の言い分を信じて下さいよ。嘘じゃないし、オレはこいつに何もしていない」

「でも、邪魔をしてしまったことには変わりないわ。朝ご飯が出来ているから、早く来てね、フィオ」

そう言い残し、女性は扉を閉めた。フィリオラは脱力したように肩を落とし、背中を丸める。

「…お姉様ったらぁ」

「さっさと部屋を出ろ。オレは着替える」

レオナルドが立ち上がったので、フィリオラも立ち上がった。自分の枕を抱えると、扉に向かって歩いていった。
扉を少し開いたが、手を止めた。フィリオラはレオナルドに振り返ると、気恥ずかしげにしながらも笑んだ。

「あの、レオさん。一緒に寝て下さって、どうもありがとうございました」

「さっさと行け」

「はーい」

フィリオラは扉を開けて廊下に出、ぱたんと扉を閉めた。その足音が遠ざかってから、レオナルドは髪を乱した。
彼女が傍からいなくなると安堵したが、同時に寂しくもなった。胸を締め付ける痛みが、ずきずきと響いてくる。
ああ、好きだ。あの女が愛おしくてたまらない。日を増す事にそれを実感して、どんどん惚れていくのが解る。
些細なことでも目について、僅かな表情の変化も見逃せなくて、気付いたら思考は彼女に支配されている。
完全に惚れている。レオナルドは寝間着を脱ぎ、近くの椅子に引っ掛けてあった服を取って着込んでいった。
襟をきっちり正してから、隣の壁に目をやった。フィリオラの名前をちゃんと呼んでやるべきだな、と思った。
だが、簡単に実行出来そうにはない。元々の性格が邪魔をする。しかし、呼べば、喜んでくれることだろう。
どちらを優先するべきかは、迷わなくとも解っていた。


部屋を出て廊下を抜けた先には、日当たりの良い広間があった。
半球状の屋根には、所々に美しい細工が施されており、填め込まれている無数のガラスが眩しく輝いていた。
ストレイン家の莫大な財力が、目に見えて現れている。レオナルドは光の溢れる天井を見上げ、立ち止まった。
とてもじゃないが、ここが首都だとは思えなかった。白亜の壁や円柱で組み上げられた室内は、別世界だった。
背の高い窓の向こうにある庭は手入れが行き届いていて、屋敷の白い壁に映えた鮮やかな花々が咲いていた。
立派な庭だったが、不思議なことにバラがなかった。こういった庭には必須のはずなので、少々違和感がある。
レオナルドは、広間の床を見下ろした。細かなタイルで、ストレイン家の家紋であるハヤブサが描かれていた。
ここは、ストレイン家の首都の別邸なのだ。四人は首都に到着した後、ストレイン家の者によって招かれた。
フィリオラが事前に連絡していたのかと思えばそうではなく、フィリオラが行くと他の者が伝えたらしかった。
フィリオラはそのことにあまりいい顔をしなかったが、拒否する理由もないので、四人は屋敷に連れられた。
首都にやってきてからの四日間は、レオナルドはフィリオラと共に、魔導師免許更新のための試験を受けた。
試験の手続きのために一日、筆記試験と実技試験に一日、結果発表に一日、免許更新に一日、という順番だ。
その結果は、二人とも筆記実技共にそれなりに良い成績で合格し、無事に魔導師免許を更新することが出来た。
その間、ブラッドはずっと放っておかれてしまったが、ギルディオスやフィリオラの姉が構ってくれていた。
今日はそのブラッドが出掛ける日で、少年はそれを楽しみにしている。食堂で、彼は今頃浮かれているだろう。
レオナルドが食堂へと繋がる廊下に向くと、背後の廊下からフィリオラが走ってきた。息を切らして、足を止める。

「レオさぁん。先、行っちゃわないで下さいよぉ」

「お前が遅いんだろうが」

レオナルドはフィリオラに背を向け、歩き出した。フィリオラはむっとしたが、その背に続く。

「やっぱり、お前、なんですねぇ」

レオナルドは言い返そうと思ったが、言い返す文句が出てこなかった。答えられないまま、足早に進んでいった。
簡素ながらも装飾の施された廊下を抜け、食堂に着いた。開かれた扉の奧では、テーブルに彼らが座っていた。
右側には、上機嫌な顔のブラッドが寝間着姿のままでおり、椅子が低いので本を数冊重ねた上に座っていた。
その隣には、ギルディオスが頬杖を付いて足を組んでいる。食べられないので、彼の前だけ食事が並んでいない。
左側には、先程の女性が座っていた。色の暗い茶色の髪を後頭部で簡単にまとめ、化粧気のない顔をしている。
目鼻立ちは整っているが、決してきつくはなく、穏やかだった。青い瞳は、フィリオラのそれと良く似ている。
派手ではないが品のある服装をしていて、耳や首には金の飾りがある。彼女は、フィリオラの五歳年上の姉だ。
女性、ルーシーはレオナルドとその背後のフィリオラに向いた。紅茶を傾けていたが、ティーカップを下ろす。

「ごめんなさいね、フィオ。起こすのが遅れて。お料理、冷めちゃったから作り直させる?」

「いいですよ、別に。私が起きるのが遅かっただけなんですから」

フィリオラは情けなさそうにすると、ルーシーは紅茶の残ったティーカップを軽く揺らす。

「レオナルドさんの部屋にいるって解っていたら、そちらに行ったんだけどね。知らなかったから」

「フィオ姉ちゃん、怖い夢でも見たん?」

パンを囓っていたブラッドは、フィリオラに目を向けた。フィリオラは苦笑する。

「当たらずも遠からずですね」

「大方、浮遊霊に取り憑かれでもしたんだろ。んで、レオの部屋に逃げた、と。そんなところだろうが」

ギルディオスはぎしりと首を動かし、レオナルドにヘルムを向ける。レオナルドは、顔を背ける。

「よくお解りで」

レオナルドはブラッドの隣に座ったが、フィリオラはルーシーの隣に座った。だが、向かい合うわけでもなかった。
フィリオラは自分の分の食事を見、げんなりしてしまった。手の込んだ料理は、姉は好きだが自分は好きでない。
この別邸で出されるものは特にそうで、水が悪いのか紅茶の味もどこか鈍い。それに、味付けが妙に濃いのだ。
恐らくはこの近辺で手に入る野菜の味が薄いからなのだろうが、香辛料も塩も多いため、きつい感じがした。
だが、出された料理に文句を言うのは作り手に悪いと思っているので、フィリオラは冷めたスープを掬った。
口に含むと、冷めているために一層塩を強く感じた。その塩のせいで他の味が消えているのが、惜しかった。
フィリオラは空腹に任せて食べていたが、あまり食べた気はしなかった。おいしくないと、食事は楽しくない。
ブラッドは普段通りに食べていて、レオナルドも平然としている。気にしているのは自分だけか、と思った。
フィリオラは冷めてしまった魚料理の上に手を翳し、二重丸と六芒星を空に描き、こん、と皿の縁を小突いた。
クリームソースを掛けられた魚は途端に温まり、ほわりと湯気を昇らせたので、フィリオラはその魚を崩す。
フォークで切り取った白身魚を食べていると、先に食べ終えたブラッドは、わくわくした顔で身を乗り出した。

「なぁなぁ、首都って旧王都よりも広いんだろ! なんか面白いもんあるのかな!」

「中心部なら、都市部らしい部分はあるだろう。だが、少しでも郊外に出ると軍事施設ばかりになる」

レオナルドはサラダを食べ終えると、他の料理の皿を取る。

「遊ぶなら、中央街から出ない方がいい。そこから先には軍人ばかりしかいないし、下手に妙なところに立ち入りでもしたら不法侵入で捕まるのがオチだ。まぁ、昔に比べたら区画整備が大分進んでいるから、軍と民間の住み分けも進んでいるはずだから、そう凄まじく道に迷いさえしなければ軍の領域を侵すこともないだろう」

「いやに詳しいね、レオさん」

ブラッドが感心すると、レオナルドは表側だけ食べた白身魚を裏返し、残っていた裏側をフォークで崩す。

「まぁな。昔、こっちにいたことがあるんだ」

「あ、じゃあ安心ですね!」

フィリオラはフォークを置いてレオナルドに向くと、両手を胸の前で重ねた。

「あの、レオさん。私とブラッドさんの案内、お願いしてもよろしいでしょうか?」

「なぜそうなる。オレはただ十何年も前の地理を知っているだけで、現在の首都の地理は知らんぞ」

「それでも、レオさんは方向感覚がしっかりしてるじゃないですか」

「まぁな。そう鋭い方でもないと思うが、迷いはしない」

「ですけど、私は方向音痴じゃないですか。それに、首都は旧王都よりもずっと広いじゃないですか。迷っちゃったりしたら、ほら、色々と大変じゃないですか」

「何が言いたい」

「ええと、ですね。レオさんも、一緒にお出掛けしませんか?」

フィリオラは困ったような、それでいて甘えるような表情になっていた。軽くかしげられた首が、少女らしかった。
レオナルドは、思わず目を逸らした。つまりそれは、一日中傍にいる、ということになるのではないだろうか。
ブラッドも一緒だから二人きりではないにせよ、そうであるには違いない。どれだけ神経が図太いんだ、と思った。
いや、考えようによっては、相手がレオナルドだからこそフィリオラは全く警戒心を抱いていない、とも取れる。
とすれば、やろうと思えば手ぐらいは握れるかもしれないわけで、とそこまで思考してレオナルドは意識を戻した。
フィリオラは、まじまじとレオナルドを見つめていた。体を前に傾けていて、答えるのを待っているようだった。

「あの」

「どうせオレも暇だ。付き合ってやるさ。それに、お前が道に迷いでもしたら後が面倒だ」

レオナルドはにやりとしながら、フィリオラを見返した。精一杯の虚勢を張る。

「どれだけ泣き喚くか、考えただけでうんざりするからな」

「迷子になったくらいで泣いたりしませんよ」

フィリオラはつんと顔を逸らし、姿勢を戻した。レオナルドはそれに安堵しながら、紅茶を飲み干した。

「さあて、どうかな。その歳になっても、たかが幽霊一匹で怖い怖いと人の部屋に乗り込んでくるぐらいだ、泣かないわけがないだろうが。まぁ、いざ迷ったとしたら、それぐらい騒いでいてくれた方が、オレとしては楽だがな。目標が解りやすくて見つけるのが簡単になる」

「だったら、意地でも迷子になりません! 何が何でもなりません!」

むきになったフィリオラを、レオナルドは嘲笑する。

「どうする気だ。お前は地図を見ていても左右を間違えるんだから、無理じゃないのか」

「迷子になるってことは、レオさんからはぐれちゃうってことになるわけですから、つまり、ずーっとレオさんと一緒にいればそれでいいんです! そうすれば、迷子にはなりません!」

「あ、それいい考えかも。レオさんは大変そうだけど」

ブラッドがけらけら笑うと、フィリオラは自慢気に起伏の少ない胸を張る。

「でしょー?」

「だが、お前は足が遅い。一緒に歩いていても、すぐにオレが先に行ってしまうぞ」

レオナルドが切り返すと、フィリオラはにんまりする。

「ですから、私がレオさんから離れなきゃいいんです。ずっと手を繋いでおけばいいと思います」

「うん、それがいいと思うぜ。ラッドを間に挟んで親子みたいにしときゃ、たぶんはぐれねぇぞ」

楽しげに、ギルディオスは笑った。ブラッドは残念そうに、傍らのギルディオスを見上げる。

「おっちゃん、やっぱ一緒に来ねぇの?」

「オレはちょいと野暮用があるんだよ。悪ぃな、ラッド。また今度にしようや」

ギルディオスは、ブラッドの頭をぽんぽんと軽く叩いた。ブラッドは、仕方なさそうに頷いた。

「ん」

「それじゃ、早く準備をしないといけませんね。私、荷物を作るのが遅いので」

ごちそうさまでした、とフィリオラは立ち上がると小走りに食堂から出ていった。ブラッドも、椅子から下りる。

「んじゃオレも。フィオ姉ちゃん、手伝ってこよ。マジでとろいんだもん」

二人が出ていくと、食堂は静まった。レオナルドは一通り食べ終えてしまってから、ルーシーに視線を合わせた。
朝方に見た親しげな表情はなく、妹の去った先を見つめていた。顔立ちは、フィリオラとは似ていなかった。
この屋敷に来た際にフィリオラから聞いた話では、ルーシーは母親似だが、フィリオラは誰にも似ていないらしい。
九歳年上の兄のミハエルは父親似だが、やはり似ていないのだそうで、親戚にも近しい者はいないとのことだ。
唯一似ていると思える血縁者は、先祖のフィフィリアンヌだけだそうだ。これも、竜の血のせいなのだろう。
ルーシーはなんともいえない複雑な表情を浮かべていたが、レオナルドの視線に気付き、微笑みかけてきた。

「ごめんなさいね。妹が、いつもお世話になってしまって」

「いいってことさ。レオも好きでやってんだから。な?」

ギルディオスが急に話を振ってきたので、レオナルドは反応に困って言葉を濁した。

「そうでも、ないが」

「けど、凄く勇気があると思いますわ。あの子と言い合うなんて」

ルーシーは、感心したような目をレオナルドに向ける。レオナルドは、その言い方が引っ掛かった。

「あなたは兄妹でしょう。それぐらい、どうってことないと思いますが。他人行儀に気を遣う相手でしょうか?」

「遣っちゃうんですよ、つい」

ルーシーは、情けなさそうな笑顔になる。その表情だけは、フィリオラとよく似ていた。

「あの子は、私達とは違いますから」

「怒らせるのが怖い、と?」

レオナルドが呟くと、ルーシーは小さく頷いた。フィリオラ自身が以前に、怒るのが怖くてならない、と言っていた。
それは、強烈な変化と同時に、周囲への影響を危惧したものだ。戦闘形態以上に、理性が飛んでしまうのだろう。
となれば、兄妹であるルーシーがそれを危ぶむのも当然で気を遣うのも解るが、怯えすぎているように思えた。
腫れ物というよりも、爆弾扱いだ。触れてしまいたくない、とでも言いたげな口振りがレオナルドの癪に障った。

「あいつは竜かもしれませんが、それ以前に人間ですよ。それほど恐れるようなものじゃない」

「レオナルドさんは、あの子の本性を知らないからそう言えるんですわ」

ルーシーはティーポットを取ると、自分のティーカップに注いだ。ことり、と白いティーポットを傍らに置く。

「フィオは、小さい頃に何度か竜に変化しましたわ。それが、どれだけ恐ろしかったことか…」

ルーシーは冷めた紅茶を少し飲んだが、ソーサーに戻す。

「何を言っても聞き入れないし、狂ったように暴れて庭も屋敷も壊しに壊してしまうんです。元に戻る時はいつもまちまちで、すぐに戻ることもあれば半日も竜の姿でいたままでいたこともありました。その間、私達は何も出来ませんでした。大御婆様が屋敷にやってきて下さって宥められることもありましたが、それは特にひどい場合だけで、変化してしまった時はあの子が元に戻るのを待つしかないんです。下手に手を出しても、攻撃されるだけですから」

彼女の沈痛な言葉を聞き流しながら、レオナルドは不思議と既視感を覚えた。この感じは、よく知っている。
思い起こさなくとも、思い出した。念力発火能力を持った子供、として大人から恐れられる時の雰囲気だ。
今となってはその大人達の気持ちは解るが、幼心には理解出来なかった。なぜそこまで怖がるのか、と。
力を押さえて振る舞っていても、同年代の子供達と遊んでいても、いつのまにか親達に遠ざけられてしまう。
ルーシーの怯えを宿した眼差しは、その時の親達のそれに良く似ていて、嫌悪感が沸き起こりそうになった。
なぜ、そこまで恐れる。人でない力があろうとも、フィリオラも、そしてレオナルドも人間には違いない。
レオナルドが口を開こうとすると、ギルディオスが振り向いた。滑らかな銀のヘルムに、二人が映り込む。

「だから、オレはストレインの傍にいるのさ」

ギルディオスの口調は穏やかで、苛立ち始めているレオナルドを宥めるかのようだった。

「フィオは人間だ。だが、それ以前に本物の竜なんだ。最近の竜の血の発現者は、変化の後の自己制御が上手く行かなくなっちまっててよ。フィオも努力してるんだが、それでもやっぱり制御が鈍って暴れちまうんだ。フィルの奴が言うには、肉体と魂にずれが生じてきているからなんだそうだ。体は竜なのに魂は人間だから、釣り合いが取れなくなっちまって、結果として肉体が持つ強ぇ力に振り回されちまうんだよ。フィオの霊媒もそのせいだ。肉体と魂にずれがあるせいで、幽霊なんざに取り憑かれちまうのさ」

銀色の太い指先が、こん、と魔導鉱石のある位置を小突いた。

「オレはな、フィオみてぇな輩の竜の血を押さえるために、ストレインの傍にいるんだよ。オレは魂を魔導鉱石に繋ぎ止めるときに、フィルから魔力をごっそりもらったおかげで、魔導鉱石と言わず体中に竜の魔力が染み付いている。つっても、本物の竜からしてみりゃ微々たるもんだし、魔法に変化させられるほど強ぇもんじゃねぇけど、それでも力は力だ。オレが傍にいるだけで、竜の血の発現者は大分落ち着くんだ。同族の気配がするからな」

ギルディオスは、内心で目を細めた。

「まぁ、それだけが理由じゃないんだがな。オレは、これを好きでやっているんだ。フィルとカインの子供らが残した子供らを、守ったり育てたりするのが大好きなんだよ。だからな、レオ。オレは別に、ストレインに、ドラグーンに使役されてるわけじゃねぇ。そりゃ確かに、最初はフィルに逆らえなかったから一緒にいたかもしれねぇけど、今は違うんだよ。そこんとこ、解ってくれや」

レオナルドは、反論出来なくなっていた。フィリオラを嫌っていた理由が、全てなくなってしまったからだった。
彼女を嫌っていたのは、ギルディオスを私物のように扱っていたからだ。だが、そうではないと彼自身が言った。
決して、ストレインがヴァトラスを蹂躙しているわけでもなく、ドラグーンがヴァトラスを敷いているわけでもない。
レオナルドは、これでますますあいつの名前を呼ばなきゃならないな、と思った。もう、嫌う理由はないのだから。
だが、踏ん切りが付けられるだろうか。悩もうとしたが、思考を止めた。廊下から、足音が聞こえてきたからだ。
視線を開け放たれた扉に向けると、気恥ずかしげな顔のフィリオラが、黒の上下を着たブラッドと共に立っていた。
フィリオラは、珍しく色の明るい服を着ていた。淡い桃色の柔らかそうなワンピースを着て、はにかんでいる。
長い髪も後頭部でまとめられていて、銀の髪留めで留めてある。それは、あのスイセンの花の髪留めだった。
フィリオラは目線を彷徨わせていたが、レオナルドで止めた。照れくさそうに笑いながら、小さな肩を縮める。

「ど、どうでしょう」

レオナルドは見入ってしまいそうになったが、意識を戻した。フィリオラの足元で、ブラッドは得意げに笑う。

「すっげぇ可愛いだろ! フィオ姉ちゃんは胸がないけど、こういうのは似合うんだよな!」

「余計なこと言わないで下さいよ…」

フィリオラは眉を下げ、項垂れた。ブラッドはレオナルドの元まで行くと、手を引いて立ち上がらせる。

「さっさと行こうぜ、レオさん!」 

「あ、ああ」

レオナルドはブラッドに引っ張られ、フィリオラの元までやってきた。フィリオラは、おずおずと彼を見上げる。

「あの」

間近にいると、薄化粧が香ってきた。白い頬はほんのりと頬紅で赤らんでいて、淡い色の口紅が唇に載っている。
歌劇場の時のような華やかさはなかったが、愛らしさがあった。レオナルドは、触れてしまいたい衝動が起きた。
手を伸ばそうと思ったが、押し止めた。ブラッドに取られている片手でブラッドの手を握り返し、引いて進む。

「行くぞ、ブラッド。早く出た方が、街中を回る時間も増えるからな」

「あ、うん」

ブラッドは生返事をして、頷いた。レオナルドに手を引かれて歩いていくブラッドの背を見、フィリオラは俯く。
期待はしていない。けれど、何か一つくらいは言ってくれると思っていた。だがレオナルドは、文句すらなかった。
興味なんて、持っていないんだろうか。それとも、相手にするのも嫌なんだろうか。名前も、呼ばないのだから。
フィリオラは二人に続いて廊下を歩きながら、胸を押さえていた。やはり、レオナルドも、同じなんだろうか。
今まで接してきた人間達や親族のように、竜の血を恐れて遠巻きにして、最後には離れていってしまうのだ。
白い廊下を歩くレオナルドの背が、いやに遠く見えた。フィリオラはそれを見つめていたが、唇を噛み締めた。
鋭さのある歯に押し潰された唇が痛く、塗ったばかりの口紅の味がする。彼の背が、離れてしまうのが怖い。
あれだけ嫌いだったのに、少しでも好きになってしまったら、好意を抱いてしまったら、恐れが生じてきた。
離れてしまわないで。傍にいて。ずっと、こちらを見ていて。真正面から、感情をぶつけてきて欲しい。
レオさん、と口に出そうとしたが、出来なかった。それでレオナルドが立ち止まらなかったら、と思ったのだ。
もしもそうなってしまったら、とても怖い。竜の血で我を失うよりも、戦うよりも、ずっと恐ろしくて嫌だった。
廊下の先が、外からの光で輝いていた。フィリオラの目に鮮やかな陽光と白が染み、眩しさに目を細めた。
白い別邸。白い世界。本当は、ここは自分のいるべき場所じゃない。この屋敷は、兄と姉のためのものだ。
竜である自分がいるべき世界は、己の変化で破壊された屋敷と、人目に付かない森の奧の古びた屋敷だけだ。
食堂に戻るときに、廊下にも聞こえていた姉の声は、昔に戻っていた。親しげな振る舞いこそが、演技なのだ。
嫌いなら嫌いと、はっきり口に出して言ってしまえばいいのに。そうすれば、こちらも姉を嫌いになれるのに。
フィリオラは一度、背後に振り返った。姉の話し声もギルディオスの話し声も聞こえず、静まり返っていた。
無性に、それが悲しかった。ストレインの家族に団らんや安らぎが訪れるのは、自分がいないときだけだ。
触れないようにしていた疎外感が現れて、フィリオラは泣きそうになった。だがそれを堪え、前に向き直る。
廊下の先には、玄関に繋がる広間がある。玄関の手前で、ブラッドがレオナルドと隣り合って待っていた。
逆光で、レオナルドの表情は見えなかった。どんな顔をしているのか解らなくて、また、不安になってしまう。
フィリオラは不安を払拭するため、笑った。

「今、そっちに行きますね」







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