ドラゴンは眠らない




異能者達の箱庭 後



フィリオラは、苦しんでいた。
ずっと吼え続けているせいで喉が裂けるように痛く、暴れ回っているせいで尾と言わず体中に傷と痛みがある。
炎を何度も吐き出していたため、舌が焼けていた。じりじりとした痛みが口中に広がり、たまらなかった。
苦しい。辛い。切ない。悲しい。怖い。おぞましい。そういった負の感情が、嵐のように心と魂を乱している。
涙を流したかったが、流れなかった。負の感情を凝結させたような強い怒りが、涙を流すよりも先に声にした。
空気が、また揺さぶられる。怒りが咆哮になる。全て壊してしまえ、全て滅んでしまえ、と怒りが叫んでいる。
体中に入り込んできた何十人もの魂が、何十人もの感情が、関節を軋ませる。魂の許容量を超えた体が、痛い。
激しい雷鳴の轟きにも似た、叫びを上げ続ける。フィリオラは痛みで霞んだ視界の中に、彼の姿を見つけた。
逃げ惑う兵士達を押し退けて、焼けた瓦礫を蹴飛ばして飛び越えて、真っ直ぐにこちらに向かって走ってくる。
来ないで。こっちに来ないで下さい。そう言おうと思ったが言葉にはならず、鎌首をもたげて威嚇してしまう。
ぐる、と喉が低く鳴る。炎を吐き出す準備をするために深く息を吸い込んで、牙の並ぶ口をがばりと開く。

来ないで。レオさん。

こっちに来たら、私に触ったら、私になんか近付いたら、いけない。フィリオラは暴れる本能を、少し押さえた。
がきっと口を閉じて牙を閉ざし、吐き出し掛けた炎を飲み込む。地面を叩いた尾を引き摺って、一歩、下がった。
こちらを見上げているレオナルドは、明らかに怒っていた。いつも以上に表情が険しく、苛立っているようだ。
きっと、こんな姿になってしまったからだ。色んな人の感情に負けて、怒って怒って、変化してしまったからだ。
嫌われちゃったな、と思った。今度こそ、幻滅された。竜に変化してしまったら、さすがの彼も嫌うだろう。
兄も姉も、父も母も、近所の子供達も、誰も彼も去っていく。竜の血が目覚めたら、皆、恐れて逃げてしまうのだ。
慣れているはずなのに、悲しかった。レオナルドと仲良くなれそうだったのに、それが失われてしまうから。
だがそれ以上に、切なくもあった。彼との距離が出来てしまうと考えただけで、苦しくて怖くて、嫌だった。
レオさん。言葉にはならなくても、呼ばずにはいられなかった。聞こえないと解っていても、呼んでいたかった。
変化が解けて人の姿に戻っても、竜であることには変わりない。だからもう、彼とは仲良くなんてなれやしない。
せっかく、距離が縮まりそうだったのに。やっと、傍に行けたのに。初めて、真っ向からケンカをした人なのに。
それが、もう終わってしまう。レオナルドと手を繋ぐことも、レオナルドの傍に座ることも、出来なくなる。
フィリオラは、目尻の熱さに気付いた。霞んでいる視界が更に霞んで、熱い滴が顎を伝って滴り落ちている。
涙が出ていた。両の目から大きな涙の粒を零しながら、竜は吼えた。今度は怒りではなく、悲しみだった。
フィリオラは真下から見上げてくるレオナルドとの距離を開け、ずり下がった。瓦礫の破片で、尾の皮が切れる。
だが、レオナルドは開けた距離を詰めてきた。引き留めようとする兵士を振り払い、鬱陶しげに叫んでいる。

「邪魔をするなっつってんだろうが!」

フィリオラは、彼の発した言葉の荒さにまた悲しくなった。レオナルドは、かなり怒っている。

「止める方法だぁ!? そんなもん、考えてあるわけがねぇだろうが! そんな時間ねぇんだから!」

「攻撃するなら、せめて、援護を」

レオナルドに進言した兵士を睨め付け、レオナルドはフィリオラに向き直る。

「何度言えば解るんだこの馬鹿共が! こいつは女だそしてガキだ、攻撃なんてしたら傷付くだろうが!」

レオナルドはフィリオラの前を塞ぐように立ちはだかり、真っ直ぐに指す。

「おい、聞こえるかフィリオラ! 意識があるんなら、きっちり答えろ!」

フィリオラは、目を丸くした。きょとんとしながら瞬きしていると、レオナルドはにやりとする。

「意識はあるみてぇだな。反応はいつもと同じだ。じゃ、オレの言うことをよく聞け!」

何を言い出すつもりなんだろう、と彼を囲んでいる数人の兵士達は顔を見合わせ、フィリオラも不思議になる。

「フィリオラ! お前は魔導鉱石の中に入っていた魂に取り憑かれたんだ! それは解るな!」

フィリオラは、頷く代わりに瞬きをした。レオナルドは強く叫ぶ。

「それは解っているな。そいつらは死ぬに死ねなかった連中で、破壊されることを望んでいる!」

それは、間違いない。フィリオラがまた瞬きすると、レオナルドは更に叫ぶ。

「だから、お前に取り憑いた魂を全部吹き飛ばせ! お前ならやってやれないことはねぇだろうが!」

だけど、そんなことをしたら、彼らは。フィリオラが戸惑っていると、レオナルドは苛立たしげな声になる。

「死人になんか気ぃ遣うな! 死なせてくれって言ってんだからそうしてやるのが筋なんだよ! それに、今度ばかりはお前は怒るべきだ! いや怒れ! どいつもこいつもお前を道具みてぇに扱って、竜だからってだけで攫われて、挙げ句にギルディオス・ヴァトラスには思いっ切り裏切られたんだぞ!」

レオナルドは、渾身の力でフィリオラに叫んだ。



「フィリオラぁ! それでもお前は、まだ怒らねぇっつうのかぁ!」



怒ったら、いけないと思っているから。フィリオラは涙の滲んだ目を何度も瞬きさせて、またずり下がった。
現に今だって、他人の感情とはいえ強烈に怒ってしまっているから、竜に変化してしまい、暴れてしまっている。
怒ってしまったら、また一人になる。怒ってしまったら、何もかもがダメになってしまう。破壊してしまう。
それが、怖い。フィリオラはまたずり下がろうとしたが、尾の先が崩れていない塀に当たり、下がれなくなった。
レオナルドは、離れた分だけ近付いてくる。兵士達は彼を止めるのを諦めてしまったのか、後退していた。
フィリオラは塀の隅までやってくると、翼を縮めた。溢れ出しそうな怒りと負の感情が、また咆哮となった。
それでも、レオナルドは向かってくる。フィリオラは必死になって首を横に振り、身を縮めて塀に背を当てる。
来ないで、来ちゃダメ、来ちゃダメなんです。フィリオラは歯を食い縛って咆哮を堪え、涙をぼたぼたと流す。
その一つが、レオナルドの肩を掠めた。ばちゃり、と塩辛い水が地面に落ちると、彼の足元から湯気が昇った。
レオナルドは、自分がかなり過熱していることを思い出した。炎として放出していないから、余計に熱している。
気を静めなくては、フィリオラに触れたら火傷させてしまう。彼女が怒らないから、散々怒ってしまった。
彼女が後退しているのも、そのせいかもしれない。あまりにも怒ってしまったから、逆に怯えさせたのだろう。
なんてことだ。フィリオラを助けに来たはずなのに、その彼女から避けられてしまっては元も子もないではないか。
レオナルドは情けなくなって、足を止めた。見上げると、フィリオラは竜の姿であっても普段通りに怯えていた。
両手を握り締めて身を縮め、顔を背けている。姿形がいくら変わっても、仕草だけはちっとも変わっていない。
普段であれば、ここで情けない声を出しているのだろう。レオさんなんて嫌い、とかなんとか言っているはずだ。
丸っこい頬を膨らませて、子供みたいな顔でむくれて、そっぽを向いてしまう。だが、それが可愛らしい。
それとは懸け離れた竜の姿であっても、フィリオラはフィリオラだ。先程、きょとんとした表情は同じだった。
もう、畏怖は起きてこなかった。目の前にいる竜は、間違いなく愛しい少女だと解っているから、恐ろしくない。
むしろ、抱き締めてやりたい。暴れに暴れて荒みきっているであろうフィリオラの心を、少しでも安らがせたい。
そうすれば彼女は、また笑ってくれるだろう。可愛らしい笑顔を向けてきて、レオさん、と呼んでくれるはずだ。
レオナルドは、フィリオラに手を伸ばした。距離があって届くことはなかったが、それでも伸ばしてやりたかった。

「さっさと元に戻らないか」

レオナルドは、慣れない笑顔になる。フィリオラに向けるとなると、照れくさくて仕方ない。

「一緒に帰るぞ」

レオナルドの手に向けて、フィリオラはおずおずと鼻先を伸ばした。彼を噛んでしまわないか、不安だった。
だが、近付かずにはいられなかった。珍しく目にしたレオナルドの笑顔を、もっと近くで見たくもあったからだ。
下顎の先端に触れたレオナルドの手のひらは、熱かった。フィリオラはその熱が心地良くて、更に間を詰める。
すると、再び激情が起こった。ずるいずるいんだよなんでなぜ生きて生きてるんだ許せない許すものか。
取り憑いた魂達が、レオナルドの生を憎んでいる。羨んでいる。ぞわりとした憎悪が、本能を掻き立ててくる。
彼を喰ってしまう。フィリオラは反射的に首を下げて後退ったが、勢い余って、塀に尾を叩き付けて崩した。
がらがらと灰色が砕け、粉塵が舞い上がる。フィリオラは荒ぶる本能でくらくらしながらも、姿勢を直した。
顎には、レオナルドに触れられた熱さが、強く残っている。それなのに、この体は彼を喰おうとしてしまう。
そんなことはしたくないのに、他者の魂が勝手に体を動かす。意思に反して、やりたくないことをしてしまう。
大事な人を、大切な彼を、どうして喰ってしまわなくてはいけないのか。そんなこと、したいはずがない。
レオナルドは笑顔を消していて、やけに残念そうに見えた。フィリオラは次第に、理不尽だという思いが起きた。
なぜ、取り憑かれなければならないのか。なぜ、他人の感情なんかに振り回されて暴れなくてはいけないのか。
暴れたくなんてない。壊したくなんてない。そして、レオナルドを喰ってしまうなんてこと、したいはずがない。
フィリオラは、徐々に腹が立ってきた。異能部隊に攫われたことも、取り憑かれたことも、全て腹立たしい。
ぐるぅ、と喉を鳴らしながら、フィリオラは首を持ち上げた。怒りと共に魔力を高め、体の自由を取り戻す。
激情のままに動かされていた尾を、ぐいっと持ち上げた。ばしん、と地面を叩くと、均された地面にヒビが走る。
負の感情は、未だに全身を駆け巡っている。だが、それは自分のものではない、他人の感情に過ぎないのだ。
そんなもので、こんなことになっている。フィリオラは視線を上げて、大半の建物が破壊された基地を見渡した。
すると、魂の一つが言葉を発してきた。そうだ、そうなんだ、全て悪いのは軍だ、軍が我々をこんなふうに。
フィリオラの我が強くなってきたからか、意思のはっきりとした魂の声が聞こえている。他の声も、してきた。
死んだはずなのに死なせてくれないってのは辛いもんなんだ、だからお願いだ、早く弾き出して欲しいんだ。
そうしてくれないとまだ死ねない。あなたの体にいる限り死ねないの。あなたの体にいると、生が恋しくなる。
目の前の男の体を求めてしまいそうになる。いけないと解ってはいるが、魂はまだ生きたがっているんだ。
けれど、我々はもう生きていない。もう二度と、生きられないんだ。だから、いっそのこと、楽にしてくれ。
ずっとずっと苦しかった。ずっとずっと死にたかった。死ねたはずなのに死ねなかったの、私達は。
お願い、竜の子。お願いだ、お願いします、お願いよ。我らを。



死なせて。



「…解りました」

フィリオラは、目を一度閉じてから見開いた。竜の咆哮ではない人の言葉を発し、立ち上がる。

「ですがその前に、ちょっとばかり言わせて頂きましょう!」

いきなりのことに、レオナルドは驚いて反応に遅れた。フィリオラはレオナルドの隣を過ぎると、基地を見回す。

「大体ですね、なんで私なんですかっ! なんで選りに選って、あんなときに攫うんですか!」

フィリオラは基地全体に響き渡るように、叫んだ。

「そりゃ、私は竜ですしちょっとは戦えるかもしれませんが、それとこれとは別なんですからねっ! 私は戦闘なんて出来ませんし打たれ強くもないんですから、そんなのを引き入れたところで待っているのは破滅ですよ破滅! 私が変なドジ踏んでえらい目になっちゃうのが、簡単に想像出来るんですから!」

フィリオラは目を動かし、基地の門の付近に立つ甲冑を見つけた。いつのまにか、彼は戻ってきていたようだ。

「でもって小父様! ひどいじゃないですか、いきなりこんなところに連れてきてっ! 困っちゃったじゃないですか! それに、この人達の魂入り魔導鉱石の管理はきっちりして下さいよ! 私は、ヴェイパーさんに案内されて、あっさり近付いちゃってこうなっちゃったんですからね! あんな倉庫の隅っこなんかじゃなくて、適当に描いた魔法陣の上なんかじゃなくて、ちゃんとお墓を作って埋めてあげて下さいよ、全くもう! 小父様みたいに死んでも生きられる人なんて、そうそう滅多にいるもんじゃないんですからね!」

荒い息を吐いたフィリオラは、ばさりと翼を大きく広げた。

「異能部隊の皆さんも皆さんですよ! ちょっとは、人の気持ちを考えて下さい! いくら部隊が潰されそうで危ないからって言っても、そこで私を引き摺り出すことはないでしょう! 挙げ句にいきなり二等兵にしようだなんて、無茶苦茶じゃないですか!」

フィリオラの目が、レオナルドを捉える。

「レオさんもレオさんです! 助けに来てくれたんだなぁと思ったらなんか大暴れしてるし、橋を落としたのだって絶対レオさんだろうし、会った途端にとんでもないことを言うし、やりたい放題じゃないですかあなたって人は!」

叫んでいるうちに気が立ってきて、フィリオラは溜まっていたことまで喚いた。

「レオさんていつもそう! 私がどんなに綺麗な格好をしてみても全然気にしてくれないし、ちょっと優しくなってくれたかなとか思ったら気紛れだったみたいですぐに元に戻っちゃうし、ブラッドさんにばっかり笑って私には全然そんな顔見せてくれないし、ガキだガキだって私に言ってくる割にレオさんも結構子供っぽいところあるくせに、何をしたって文句ばっかり言ってくるし、褒めてくれてもちょっとだけだし!」

「お、お前、それは今のことと関係がないだろう!」

慌てながらレオナルドが言い返すと、フィリオラはむくれたような声を出す。

「あー、またお前って言ったー! ですから、私のことはちゃんと名前で呼んで下さいよ!」

「昨日もさっきも呼んだだろうが!」

「そんな、たったあれだけじゃ足りるはずがないじゃないですか!」

フィリオラはレオナルドに向けて鼻先を突き出してぐばっと口を広げ、赤い舌を伸ばす。

「ああもう頭に来た! 嫌われたくないなぁとか思ってずっと言ってなかったけど、レオさんってひどい! 人によって態度が変わるし、最近なんてまともにこっちを見て話してくれないし、近付いても逃げちゃうし、レオさんはそんなに私が嫌いですかっ!」

「だから、なんだ、もうそんなには」

レオナルドは、困り果ててしまった。フィリオラは、彼に鼻先を寄せて瞼を細め、睨む。

「じゃ、なんで文句ばっかりなんですか! 今だって、いきなり怒れとか言われたら困っちゃいますよ! そりゃ私は今すっごく怒ってますけどね、それはレオさんに言われたからじゃなくて、私が怒りたくて怒っているんですからね! いつもいつもどうしてそんなに偉そうなんですか、巡査部長のくせに!」

「いっ、いきなりそんなものを引き合いに出すな! それとこれとは別問題だろうが!」

「いーえ別じゃありません! せっかくですから言うだけ言わせてもらいますよレオさん!」

かなり苛立った声で、フィリオラは喚く。

「なんですか昨日の帰り道は。ちょっと手を繋いだだけで黙っちゃって、おかげで何も話せなかったじゃないですか。私は色々と話したかったんですよ、レオさんと。それなのに、お屋敷に着くまで一っ言も喋らないからブラッドさんも困っちゃって、私もどうしたらいいのかさっぱりだったんですから。私、そんなに変なことをした覚えも、言った覚えもないんですけど!?」

「それは、悪かった」

「なんですかその、は、って。それじゃあ他のことも悪いって思っているんですかレオさん!」

フィリオラに迫られて、レオナルドは半歩後退った。

「…少しは」

「それじゃあなんですか、悪いって思いながら私をなじったり責めたりしてたんですか!」

「いや、そうではないが」

「だったらもうやらないで下さいよ! 正直な話、毎度毎度あんなに文句を言われると傷付くんですから!」

「すまん…」

居たたまれなくなったレオナルドが俯くと、フィリオラは細めていた瞼を広げた。澄ましているのだ。

「悪いと思っているなら、いいんですけどね」

フィリオラは首を持ち上げて、姿勢を正した。ここまで一気に文句を言ったのは、どれくらいぶりのことだろう。
やけに、気分が清々しかった。レオナルドばかりを、怒りに任せて責めてしまったのは少し悪い気がしたが。
目線を、左右に巡らせた。兵士達は恐れているというよりも呆気に取られて、それぞれでぽかんとしている。
フィリオラは、深く深く息を吸った。胸一杯に空気を溜めてから、喉を大きく広げ、空高く咆哮を放った。
だがそれは、怒りでも悲しみでもなかった。体内の魔力と共に、死者の魂達を外へ放つための猛りだった。
咆哮が響き渡ると、若草色の竜の肌からいくつもの光が浮かび上がる。それらは空に昇る前に、爆ぜていく。
それが、何十個と続いた。どの光の玉も、魂の色も違っていて、弾けた際の光の粒子の量も光度も違っていた。
巨大な緑竜を、柔らかな光が包んでいる。廃墟と化した灰色の箱庭に、さらさらと雪のような光が降り注いだ。
光の中、フィリオラは声を聞いていた。いくつもの魂の、それぞれの声で、内側から語り掛けてきていた。
ありがとう、と。フィリオラは咆哮を続けながら、その言葉を何度も聞いた。彼らの最期を、聞き逃すまいとした。
そのうちに、光が弱まった。爆ぜる魂もなくなり、降り注ぐ光の粒も消え、竜の周囲から明るさが失われた。
フィリオラは最後の光の粒が弱まり、消えてしまうのを見つめていた。そして、厚い瞼を下ろし、目を閉じた。
翼が縮まり、尾が引き戻り、手足も縮んでいく。全身に吹き付けていた潮風が弱まり、肌から硬さが失せる。
背中に、髪が滑る感触があった。膝に感じた地面の冷たさで、フィリオラは目を開き、自分の手を出してみた。
色の白い、肌色の小さな手だった。頭に触れてみると、ツノの長さも短くなっていて、手に納まる大きさだ。
元に戻っている。フィリオラが安堵していると、足音が近付いてきたので顔を上げると、彼がやってきた。
レオナルドは、上着を脱いでいた。それをフィリオラの頭から被せると、急いで背を向けてから言った。

「さっさと着ろ!」

「え、あ、はい」

フィリオラは何も着ていないことを思い出し、その上着を羽織った。大きさが合わず、前が開いてしまう。
前を掻き合わせてから立ち上がると、レオナルドを見上げた。レオナルドの横顔は、やりづらそうだった。

「あの、レオさん」

「なんだ」

フィリオラはレオナルドに、頭を下げた。

「助けに来てくれて、ありがとうございました」

「そのつもりだったんだがな、結局、お前がなんとかしちまったしなぁ…」

「あ、またお前ですか」

顔を上げたフィリオラが不愉快げにすると、レオナルドはフィリオラの空いている方の手を掴んだ。

「もういい、さっさと帰るぞ。これ以上いたら、どれだけお前になじられるか解ったもんじゃない」

そう言ってから、レオナルドは照れくさそうに言い直した。

「いや、フィリオラに、だな」

フィリオラは嬉しくなりながら、レオナルドに手を引かれ、歩き出した。裸足なので、早くは歩けなかった。
砕けた壁の破片やガラスなどが散らばっているので、気を付けないと切ってしまう。なるべく、慎重に進んだ。
途中で、見かねた兵士が靴を貸してくれたので、フィリオラはその兵士に感謝してから、大きな靴を履いた。
フィリオラはレオナルドから離れないように、出来るだけ近付いた。すぐ緩みそうになる彼の手を、握る。
歪んだ門を通り抜けるとき、ギルディオスとダニエルの傍に隠れるように立っている影が目に入ってきた。
それは、フィフィリアンヌだった。魔導師協会の礼装を着ているが、飛んできたのか翼が大きく広がっている。
フィフィリアンヌは、フィリオラと目が合った。フィフィリアンヌは、ひどく申し訳なさそうな表情をしていた。
フィリオラはそれに返す前に、通りすぎた。彼女らしからぬ表情が気になっていたが、何も言う暇がなかった。
二人の後ろ姿が遠のき、壊れた跳ね橋の向こう側に消えてから、ギルディオスはフィフィリアンヌを見下ろした。

「作戦大成功だな、会長さんよ」

ギルディオスが吐き捨てると、フィフィリアンヌは塀の内側を見渡した。廃墟は煙に包まれ、炎がまだ盛っている。

「半分だけな。半分は失敗だ」

「どこがだよ。異能部隊基地は見事壊滅、機能なんざ失われた。どこからどう見たって、大成功じゃねぇかよ」

腹立たしげに毒づいたギルディオスに、フィフィリアンヌは目を伏せる。

「こうなる前に、貴様を止められなかったのだから失敗なのだ。だから私は、旧王都で何度も貴様を呼び出したのではないか。その度に貴様は私の話を聞きもせずに帰って、部下共と連絡を取り、あの子を攫う算段を組み立てた。私は、それを阻止出来なかった。結果としてあの子を巻き添えにしてしまった上に、こんな目に遭わせてしまったのだからな」

「ああ、オレもだ。フィオを攫わなきゃならねぇほどの事態になるまで、てめぇの動きに気付けなかったんだからよ」

ギルディオスは、フィフィリアンヌに背を向けた。フィフィリアンヌも、ギルディオスに背を向ける。

「気付かせなかったのだ。それぐらい解れ」

「ああ、そうかい。オレはてめぇほど冴えた頭ぁ持っちゃいねぇからな」

ギルディオスの言葉が聞こえる前に、フィフィリアンヌは地面を蹴っていた。竜の翼が、空気を叩く音が響いた。
ダニエルはフィフィリアンヌの背を見ていたが、上官に戻した。ギルディオスは項垂れ、ヘルムを押さえている。
苦しげなのは、明らかだった。今回のことは、ギルディオス自身の判断の甘さが招いた結果なのだから当然だ。
ダニエルはギルディオスを眺めていたが、壊れた跳ね橋に向けた。跳ね橋の前後は、二つとも鎖が切れている。
かなりの高熱で熱せられたらしく、鉄がとろけて妙な形で固まっている。大方、レオナルドの仕業だろう。
レオナルドとフィリオラの姿は、もう見えなくなっていた。ダニエルは二人の去っていった先を、じっと見ていた。
押し込めたはずの思いが、蘇る。レオナルドはあれほど強い能力を持ちながらも、外の世界で生きている。
羨ましくもあり、妬ましくもあった。自分らしくない、と思いながらも、ダニエルはその思いを消せなかった。
破壊し尽くされた異能部隊基地は、一転して静寂に包まれていた。誰もが皆、壊れた門の先を見つめていた。
灰色の箱庭の中ではない世界を、見ていた。





 


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