ドラゴンは眠らない




隣人は炎の如く



ギルディオスは、日向ぼっこをしていた。


背中に乗せたバスタードソードが重たく、前傾姿勢になると腰が軋んだ。頬杖を付き、空を見上げていた。
澄み切った青空は色が強く、まだ冬の気配が残っている。春の訪れを祝う芽吹きの祈りまで、もう少しだ。
埃っぽい空気が石畳を這い滑り、足元にやってきた。共同住宅の玄関の階段に座り、かれこれ一時間になる。
頭上を見上げると、三階の窓が開け放たれている。フィリオラの声とブラッドのぼやきが、時折聞こえてきた。
二人は朝起きてすぐから、ブラッドの部屋となったもう一つの部屋と、全ての部屋を掃除しているのだ。
フィリオラが言うには、お掃除は一気にやってしまった方が気持ちが良いし楽なんですよ、とのことだった。
ギルディオスは、甲冑の足に頭を擦り付けてくるノラネコをぐいぐいと撫でた。不意に、遠い過去を思い出した。
フィフィリアンヌの最初の住まい、石造りの家にやってきた時は逆だった。全て、ギルディオスが掃除した。
涸れた井戸も掘り返し、雑草まみれだった家の周囲も整えて、毎日のように薪を割り、買い出しにも連れ出した。
今にして思えば、なぜあそこまで必死に働いたのか不思議になる。それはひとえに、借金の負い目からだろう。
懐かしいなぁ、とギルディオスは内心で目を細めた。今頃、フィフィリアンヌは何をしているのだろうか。
竜の少女が住まう城がある西へと顔を向けると、西側の道から馬車がやってきた。ひづめの音が近付いてくる。
まだらブチのノラネコを抱きかかえて、ギルディオスは立ち上がった。馬車は、共同住宅の前で止まった。
二頭いる馬は足を止め、熱い息を吐き出している。中型の荷馬車で、荷台には木箱などが詰め込まれていた。
荷馬車の荷台から、一人の男が出てきた。運転士にいくら金を渡してから下り、茶色のコートの裾を整えた。
その男は若く、薄茶の髪と目をしている。見覚えのある輪郭と顔立ちの男に、ギルディオスはノラネコを掲げる。

「おうー」

「どうも」

ギルディオスに振り向いた男は、愛想なく答えた。ギルディオスは、ノラネコを足元に下ろした。

「そうか、お前だったのか。サラさんが言ってた、三○二の入居者ってのは」

「仕事の都合ですよ。好きでこんな場所に来たわけじゃないですからね」

吐き捨てるように言い、男は荷車に向かった。いくつかのカバンを出して石畳に放り、木箱も引き摺り下ろす。
見知らぬ人間を興味深げに見上げていたノラネコは、くるりと体を反転させ、足早に路地裏へと走り去った。
遠ざかっていくまだらの尻尾を見送ったギルディオスは、玄関に荷物を放り投げては荷車に引き返す男に言う。

「手伝ってやろうか」

「いいですよ」

素っ気なく返し、不愉快げに顔をしかめた。男はいくつかの木箱を道端に重ね、その上にカバンをどさりと置いた。
手伝うなと言われた手前、あまり手伝う気にはなれず、ギルディオスはまた玄関先の階段に腰を下ろした。
男が荷物と格闘している様子を眺めていると、その横顔に、無意識のうちにある人物を重ね合わせて見ていた。
彼の横顔は、遠い昔に死した兄、イノセンタスにどこか似ていた。




共同住宅の三階の階段で、男は喘いでいた。
三○二号室の扉の前に木箱とカバンを積み重ね、それに寄り掛かっている。何度も、荷物を持って往復したのだ。
うっすらと汗の滲んだ額を拭った男は、襟元をばたつかせた。茶色のコートを脱ぐと、荷物の上に放り投げる。

「熱い…」

「苛々するからだよ」

ギルディオスは、笑い気味の声を出した。男はギルディオスを見上げたが、すぐに目を逸らす。

「別に苛立っちゃいませんよ」

「お部屋の中は掃除してありますし、家具も揃っていますから。ご用があれば、なんでも聞いて下さい」

とんとんと階段を昇ってきたサラは、手にしていた鍵束から一つの鍵を放し、男に差し出した。

「三○二号室の鍵です。予備のものも、後でお渡ししますね」

「あ、どうも」

男が軽く会釈をすると、サラは穏やかに微笑む。

「あなたはギルディオスさんの血縁のようですけど、でしたら、フィリオラさんともお知り合いなのかしら?」

男が口を開けて答えようとした時、どばん、と右手奥の扉が開いた。扉が開き切ると同時に、少女が転げ出た。
ぎゃっ、と悲鳴を上げて、フィリオラは真正面から廊下に転んだ。ツノの生えた頭を押さえ、起き上がる。
強く打ち付けた鼻先を擦りながら、フィリオラは床に座り込んだ。ギルディオスを見上げ、必死そうな声を上げる。

「小父様、ギル小父様ぁ!」

「なんだよ」

ギルディオスはフィリオラの前に出、屈んだ。フィリオラは甲冑の膝に縋り付くと、部屋の中を指す。

「ブラッドさん、私の本とか魔法薬の材料とかが邪魔だから捨てろって言うんですー!」

「腐るほどあったからな」

「で、でも、あれを捨てたら、私は商売が出来なくなっちゃうんですよぉ!」

「じゃあ捨てるなって言えよ」

「だけど、捨てなきゃ居場所が出来ない、ってブラッドさんが譲らないんですよー…」

どうしましょう、とフィリオラは情けなく眉を下げた。ギルディオスが顔を上げると、不機嫌な少年が出てきた。
マントの代わりに埃避けの布を被ったブラッドは、部屋の中を指した。居間には、あぶれた本が散らばっている。

「なんとかしてくれよ、ギルのおっちゃん。あんなに本があっちゃ、寝返りも打てないんだよ!」

「どうしろって…どうしろっつーんだよ」

なぁ、とギルディオスは男とサラに振り返った。ブラッドはむくれていたが、あ、と呟いてサラに目を留めた。
サラはきょとんとしたが、少年に微笑んでみせた。ブラッドはやけに気恥ずかしげに、顔を逸らしてしまった。
泣き出してしまいそうなフィリオラは、ギルディオスに縋り付いた。男に気付くと、そろそろと顔を出す。

「…お隣さん、ですか?」

「大家さん。断じて知り合いじゃありません。面識も今の今までなかったし、交友もありません」

男はフィリオラに背を向けると、三○二号室の扉の鍵穴に鍵を差し込み、がちゃりと回した。

「そもそも、ドラグーンと関係を持つつもりなんて毛頭ありませんから」

扉を開けた男は、二つのカバンを持つと、部屋の中にぞんざいに放り込んだ。木箱もずるずると押し込んでいく。
荷物の大半を部屋に入れた男は、どばん、と扉を閉めた。その乱暴な音に、フィリオラはちょっと肩を竦めた。
三○二号室の扉を見上げていたブラッドは、フィリオラに顔を向けた。不意に思い付いたことを、言ってみた。

「フィオが昔に振った男とか?」

「ち、違いますよぉ」

ぶんぶんと手を左右に振ったフィリオラは、目の前のギルディオスを見上げる。

「小父様も、ちゃんと説明して下さいよ。私とレオさんはなんでもないし、それに、私は…その…」

「レオって、あいつの名前?」

ブラッドが三○二号室の扉を指したので、ギルディオスは頷いた。

「ああ。あいつはレオナルド・ヴァトラスって言ってな、オレの末裔さ。国家警察の刑事だよ」

「刑事ぃ?」

かなり嫌そうに、ブラッドは三○二号室の扉を睨んだ。ギルディオスは、俯いたフィリオラの肩に手を置く。

「ラッドも知ってる通り、オレはフィオの家、ドラグーンと縁が深くてな。だから、オレの血族のヴァトラスもドラグーンと関わりが深いんだ。特にオレは長いこと付き合いがあって、見ての通り、ドラグーンと一緒にいることが多いわけさ。だが、レオの野郎は、それが気に食わないらしいんだよ。ヴァトラスは竜の下僕、とか思っちまってるんだろうなぁ。オレがフィルに顎で使われてるのは事実だが、だからってフィオまで毛嫌いすることはねぇと思うんだがなぁ」

「気難しい人なんですね」

少し困ったように、サラは笑んだ。全くだよ、とギルディオスはフィリオラの肩をぽんぽんと軽く叩いてやった。
フィリオラは泣き出したいのを堪えているのか、唇を噛み締めている。ブラッドは、嫌悪感に満ちた目を逸らす。
じゃきり、と三○二号室の扉から、鍵の掛かる音がした。


物のない、がらんとした部屋の中、レオナルドは荷物から私物を出し続けていた。
木箱に詰め込んできた本や捜査資料を床に散乱させながら、じりじりと沸き起こってくる苛立ちを押し込めた。
苛立つまいとすればするほど腹の底は煮え滾り、胸の奥の魔力中枢は熱を持ち始め、力が迫り上がってくる。
本の山を床に積み上げてから、レオナルドは深く息を吐いた。周囲には発火物が多いのだから、押さえなくては。
目を開けていては、力がその方向に向かってしまう。床に座り込んだレオナルドは目を閉じ、額に手を当てた。
何度も深呼吸を繰り返し、乱れた心を落ち着ける。越してきたばかりの部屋を、焼いてしまいたくはない。
服を探って白墨を取り出すと、空になった木箱にがりがりと魔法陣を描いた。発火防止の陣は、手が覚えている。
念のため、足元にも同じ魔法陣を描いた。かつっ、と白墨を滑らせる手を止め、レオナルドは目を伏せた。

「情けない…」

細かいことで苛立つ自分にも、その苛立ちで発火能力を発しそうになる弱さにも、魔法陣に頼ってしまうことも。
念力発火能力というものは、厄介でしかない力だ。感情に左右されて、手当たり次第に火を放ってしまう。
理性でその力を封じることは、未だに出来ていない。幼い頃から魔法に頼りすぎて、理性を強く出来なかった。
くそ、と口の中で呟いたレオナルドは、腰を上げた。発火の力が内側で漲り、周囲の空気までもが熱してきた。
南側に面した出窓を開けると、工業排気の匂いがする風が滑り込んできた。熱が、少しだけ冷えてくれた。
蒸気と煙に包まれた旧王都の郊外を見つめながら、気持ちを落ち着けた。波立っていた心が、次第に静まる。
どうすれば、ドラグーンに対する嫌悪感と苛立ちを押さえられるのか。そして、理性を強化出来るのか。
散々考えてきたが、少しもまとまらない事柄だった。事件の犯人を挙げることの方が、余程簡単なくらいだ。
レオナルドは、右側の壁に目を向けた。壁一枚隔てた空間の向こうには、そのドラグーンの末裔の少女がいる。
気楽なもんだ、と思った。あれはヴァトラスの遺産とも言えるギルディオスを手中に納め、我が物としている。
本来であれば、ギルディオスはヴァトラス家にヴァトラスの歴史を伝えるべきなのだ。それなのに、あの男は。

「…竜の下僕だ」

五百年もの間、ドラグーン家の者達に付き従い、挙げ句に顎で使われている。特に、フィフィリアンヌという女に。
感覚として理解出来ない。彼が竜に対して畏怖を覚えないことは、彼の息子であるランスの手記で知っている。
だが、だからといって、なぜそうも使われているのか。そしてドラグーン家も、なぜ使うことに疑問を持たないのか。
家屋の整備全般はもとい、子供の世話から戦闘まで。ギルディオスも、なぜそうほいほいと従ってしまうのか。
契約獣のように魔法で縛り付けられているわけでもないし、魂をドラグーン家に握られているわけでもない。
レオナルドはギルディオスの心境を考えてみたが、少しも想像が付かなかった。むしろ、混乱しそうになった。
ギルディオスに対する不可解さが膨らみ、いつのまにか思考がそちらに切り替わり、最初の事柄は引っ込んだ。
そのまま、彼は夕方まで悶々とし続けた。


壁一枚隔てた向こうでは、フィリオラがしょげていた。
居間の片隅にある二人掛けのソファーに腰掛け、膝に手を置いて俯いていた。悲しげに、眉が下がっている。
彼女の足元と言わず、隣にもうずたかく積まれた本の山は、崩れそうだったが辛うじて均衡を保っていた。
ブラッドは、落ち込む彼女を怪訝そうに見ていた。食卓の椅子に逆向きに座り、背もたれに両腕を載せている。
食卓の右手奥にある暖炉の前に、ギルディオスは胡座を掻いていた。魔導拳銃の弾倉を、じゃきりと戻す。
ハンマーを起こし、ぱちんと戻した。六弾倉式の魔導拳銃のグリップには、ハヤブサが浮き彫りになっている。
ブラッドは見慣れない武器に、自然と目が奪われた。少年が魔導拳銃を見つめていると、甲冑は顔を上げる。

「ああ。鉛玉の出ないやつだよ。フィルとやり合う時に、使うかもしれないだろ?」

「なぁ、おっちゃん」

ブラッドは首を捻り、暖炉を背にしているギルディオスを見下ろした。

「さっきの話、なんか変な気がするんだけど」

「さっきって」

「ほら、ギルのおっちゃんとフィオの家の関係の話だよ。ドラグーンてのはフィフィリアンヌって女のファミリーネームだけど、フィオは違うじゃんか。確か、ストレインとかじゃなかったっけ? その辺、間違ってない?」

「間違ってねぇよ。ドラグーンてのは、フィオの家のもう一つのファミリーネームでな」

ちゃきり、とギルディオスは魔導拳銃を構えた。銃身には、流れるような竜の絵が彫られている。

「元を正せば、少し面倒な話なんだ。フィオのご先祖、つまりフィフィリアンヌだが、フィルは結婚した後もドラグーンの姓を名乗っているんだ。ストレインてのは、フィルの旦那の名前だよ。カイン・ストレインって男でな、弱っちいが骨のある男だったよ。で、フィルの子供らはそのストレインを受け継いでいるんだがな、その子供らがフィルの名前であるドラグーンも連ねていこうとか言って、ドラグーンをミドルネームにしたんだよ。まぁ、あからさまに竜族の名前だから戸籍には書いてないし、大っぴらにしてねぇことだから普通は解らなくて当然だよ。知ってるのはフィルとその一族と伯爵とオレと、グレイスの変態野郎と、オレの一族ぐれぇなもんさ」

「ああ、だからか。だからあの刑事、フィオのことをドラグーンって言ったのか」

腑に落ちたのか、ブラッドは頷いた。だがすぐに、変な顔をする。

「けど、その分だと、おっちゃんの家とフィオの家は仲が良いんだろ? だったら、どうしてあの刑事はフィオが嫌いなんだよ?」

「まぁ、縁と歴史が深いから、どっちも仲は良いな。だが、レオはちょいと別なんだ」

ごとり、と魔導拳銃を床に横たえたギルディオスは、頬杖を付いてブラッドを見上げる。

「レオの野郎はな、竜が嫌いなんだ。苦手じゃなくて、本気で嫌いなんだ」

「古臭ぇー」

「そう思うだろ? 昔ならともかく、ここ二百年は、竜族は害がないって風潮なんだがなぁ」

だが、とギルディオスはヘルムを真正面の壁に向けた。その向こうには、三○二号室がある。

「レオが言うには、竜族は、王国と帝国を滅ぼし、その土地を共和国に乗っ取らせた悪しき存在、なんだそうだ」

「愛国者ってツラじゃないと思うけど」

「その上、共和国の繁栄に伴う…なんだっけな、ああ、近代文明の発展で魔法を衰退させた外道、なんだとよ」

「ますます古臭ぇ」

あーやだやだ、とブラッドは首を左右に振る。意固地なんだよ、とギルディオスは頭の後ろで手を組んだ。
その後も、二人のやり取りは続いていた。ヴァトラスとドラグーンの関わりの始まりを、ギルディオスが話している。
フィリオラは重たく沈んだ心は、彼らの言葉を聞き入れなかった。二人の声が、ちっとも耳に入ってこなかった。
レオナルドに毛嫌いされることは、昔からだ。ギルディオスにくっついて、ヴァトラスの家に行った時からだ。
彼の兄や両親は、ツノの生えているフィリオラをすぐに受け入れてくれたが、レオナルドだけが違っていた。
忌々しげに睨まれて、吐き捨てられた。人の世界を滅ぼしたくせに、人の世界になんか入ってくるな、と。
その時の悔しさと絶望感も思い出してしまい、涙が滲んできた。フィリオラはぐいっと涙を拭うと、ため息を吐いた。
レオナルドが隣人で、これからやっていけるのだろうか。数日前に感じた不安と、同じぐらいの不安が押し寄せた。
胸ではなく、胃がちくりと痛んだ。


影を感じ、ギルディオスは意識を戻した。
強張って思い詰めた表情のフィリオラが、暖炉の前で胡座を掻いているギルディオスの目の前に立っていた。
出窓から差し込む西日が、夕方であることを示していた。少女の半身は、強い日差しで赤く染まっている。

「どした」

フィリオラは唇を結んでいたが、きっと目を開いた。

「私、レオさんのことは嫌いです!」

「だろうな」

「でも、ずっと嫌いなままじゃ苦しいし、隣同士でいるなんて無理に決まっています!」

「そりゃあ、そうだな」

「だから、私、頑張ってみます」

「何を?」

「そうですね…。具体的に、何をどうすればレオさんと仲良くなれるんでしょうか」

首をかしげたフィリオラに、食卓で適当な本をめくっていたブラッドが呟いた。

「餌付けでもしてみたら? オレにしたみたいに」

「レオさん、そんなに単純な人じゃないと思いますけど」

呆れ気味に、フィリオラは苦笑する。いや、とギルディオスはやけに明るい口調になる。

「悪かぁねぇかもしれねぇぞー? 案外、コロッと陥落してくれるかもしれねぇぞー?」

「きつーく調合した魔法薬でも、食事に混ぜてみましょうか。そしたら確実にコロッとですね!」

良い考えですー、と両手を合わせたフィリオラに、ブラッドは振り向いた。

「一服盛ってどうすんのさ」

「いけると思うんだがなぁ」

ギルディオスの声は、冗談めかして笑っていた。フィリオラは、そーですよねー、と両手を胸の前で組む。

「一番確実なのは薬ですよね、やっぱり」

「…あほらしい」

ブラッドは開いたままのページに、どさり、と顔を埋めた。フィリオラは、俯せたブラッドに笑む。

「やだなぁ、そんなことするはずないじゃないですか。冗談ですよ」

「まぁ、レオに餌付けは無理だと思え。あいつは食い物で転ぶほどあっさりしてねぇから」

ぎしり、と腕を組んだギルディオスは、天井を仰いだ。

「そうだなぁ。一番確実で楽なのっつーと、やっぱ、慣れだろ。どっちも慣れなきゃ始まるものも始まらねぇ」

「解りました、頑張ってみます!」

フィリオラはぐっと拳を握り、駆け出した。ばたんと扉を開けて出たかと思うと、階段を駆け下りていく。
下階から、サラさーん、と管理人を呼ぶ声がしていた。ギルディオスは立ち上がると、廊下に繋がる扉を閉めた。
本から顔を上げたブラッドは、頬杖を付いた。フィリオラの出ていった扉を見ていたが、ぽつりと小さく呟いた。

「わっけわかんねぇ」

「まぁ、オレには大体の予想が付くがな」

ギルディオスは肩を竦め、両手を上向けてみせた。ブラッドは、付き合いきれねぇ、と漏らして顔を背けた。
廊下からは、フィリオラと思しき足音が響いていた。


どばん、と唐突に扉が開け放たれた。
窓際に立っていたレオナルドは振り向き、ぎょっとしてしまった。息を荒げている少女の影が、立っている。
フィリオラは部屋に踏み込んでくると、扉を閉めた。がしゃりと鍵を掛けてから、レオナルドに向き直る。

「レオさん!」

「不法侵入じゃないのか? というか、勝手に鍵を開けて入ってこないでくれ」

レオナルドは、あからさまに嫌悪感を滲ませる。薄暗い中にいるフィリオラは小さく唸ったが、声を張る。

「あのっ、わたし、レオさんのことが嫌いです」

「オレも嫌いだ」

「だけど、このままじゃ、どっちにとっても暮らしにくいと思うので」

フィリオラは宣言をするように、右手を高く掲げた。

「レオさんを好きになれるように努力します!」

「それは別にどうでもいいが、なんでいきなり人の部屋に踏み込んできたんだ? なぜ鍵を持っている?」

「鍵はサラさんに借りました。小父様が慣れろって言ったので、慣れるには一緒にいるのが確実だと思ったんです」

「正論だが、落ち度があるぞ」

「はい?」

「オレの許可を得ていないだろうが。オレは入って良いなどと一言も言ってないし、たとえ一瞬たりとてお前と一緒になどいたくない!」

苛立ちと腹立たしさに任せ、レオナルドは声を荒げた。フィリオラはその声にびくりとし、目を潤ませた。
すると、何かが焼ける匂いがした。フィリオラが熱気を感じて背後に向くと、扉の鍵穴がでろりと溶けていた。
二人の叫声が重なると、ぼたり、と取っ手が溶け落ちた。床の上で形を崩した金属は、煙を薄く上げている。
レオナルドはずるりと座り込み、深くため息を吐いた。感情を高ぶらせたせいで、力が暴発してしまった。
フィリオラは慌てつつ、レオナルドと溶けた鍵穴を見比べた。ああそうだ、と床を焦がす金属と鍵穴に手を翳す。

「冷ややかなる息吹をここに!」

一瞬、彼女の周囲だけ気温が下がった。フィリオラが後退すると、二つの金属は真っ白く冷え切っていた。
冷気の煙を漂わせている鍵穴の周囲と取っ手であった物体の周囲は、すっかり黒く焼け焦げてしまっていた。
しゃがんだフィリオラは、あーりゃりゃ、と苦笑いした。レオナルドは少し目を上げたが、肩を落とした。

「オレは馬鹿だ…」

「あ、でも、これくらいなら直せますよ。物質そのものに以前の姿の記憶が残っているので、きっと」

「どのくらい掛かる」

「そうですねぇ、私の魔力の具合と溶け具合からして、一晩もあれば」

「地獄だ」

レオナルドの呟きに、フィリオラはまた目を潤ませた。

「わ、私だって、さっさと部屋に戻ってお夕飯の準備をしなきゃならないし、それに、タダ働きは…嫌です」

「オレの方がもっと嫌だ」

強烈な自己嫌悪が、じりじりと胸を焼け焦がしていた。レオナルドは苛立ちで口元を歪め、奥歯を噛み締めた。
フィリオラは床に転がっていた白墨を取ると、焦げた床や扉に魔法陣を描き始めた。だが、途中で手を止める。
窓際で項垂れているレオナルドに振り返ったが、目線を彷徨わせた。なぜか照れてしまい、頬が熱くなる。

「あの、何も、しないで下さいね?」

「胸のない女に欲情出来るか」

平坦なレオナルドの口調に、フィリオラはむきになって言い返す。

「あ、ありますよぉ! 少しだけだけど!」

「それをないと言うんだ」

「嫌いです、嫌いです、レオさんなんて大嫌いです」

何度も、嫌い、を繰り返しながら、フィリオラは魔法陣を書き連ねていった。手際良く、綺麗な文字が並ぶ。
書きながら唱えている呪文も無駄がなく、発音も間違っていない。魔導師としての腕は、確かなようだった。
だが、それとこれとは別だ。フィリオラの素っ頓狂な行動も、甲高い声も、すぐに泣く弱さも好きになれない。
一生この女は嫌いだ。そう思いながら、レオナルドは窓の外へ目をやった。旧王都の南側は、藍に沈んでいる。
夜が忍び寄る街並みを眺めていると、その中に、ちかりと光るものがあった。銀色の輪郭を持った、何かだ。
共同住宅からかなり離れた高層建築の屋上に、それは立っていた。ゆらゆらと、銀色の輪郭は揺らいでいる。
けたけたけた。けらけらけら。声が聞こえた気がして、レオナルドは立ち上がったが、すぐに消えてしまった。
薄暗い居間には、フィリオラの呪文を唱える声と白墨が板に当たる音しかしない。笑い声など、聞こえない。
再度、あれがいた位置を確認した。しかしそこには何もおらず、高層建築の向こうには高い城壁が見えていた。
レオナルドは、しばらくの間、あれのいた屋上を見据えていた。




翌朝。フィリオラは、へばっていた。
充血した目を瞬きさせながら、テーブルに伏せて潰れていた。眠気が限界らしく、時折瞼を閉じては開いていた。
睡魔と戦いながらフィリオラが作った朝食を食べながら、ブラッドは隣に座るギルディオスと顔を見合わせた。
ギルディオスは共和国新聞をめくる手を止めて、フィリオラを見下ろした。こん、とツノの生えた頭を小突く。

「生きてるか?」

「ぎりぎりです」

やっと聞こえるような声で返したフィリオラは、上体を起こしたが、かくっと首を落とす。

「レオさんてば、復元魔法をちっとも手伝わないんですもん…」

「でもさ、フィオの話からすると、あの刑事が全部悪いんだろ? 鍵穴溶かしたんだから。なのに鍵穴をフィオが直すなんて、なんかおかしくね?」

赤く染まったパンを頬張り、ブラッドは明瞭でない言葉を発した。フィリオラは、欠伸を噛み殺す。

「そうなんですけど、そのはずなんですけど…。レオさんが言うには、不法侵入を許してやる代わりなんだそうで」

「作戦失敗か」

ギルディオスは、残念そうにした。そのようです、とフィリオラは呟いたが、またテーブルに倒れ伏した。
ごっ、と額をぶつけたが、それを痛がることすらなかった。そのまま寝息を立て始め、眠り込んでしまった。
ブラッドはやはり真紅のスープを啜り、飲み下した。仰々しい原色と懸け離れた、まろやかな味だった。
ギルディオスはフィリオラの寝顔を見下ろしていたが、がしゃりと足を組んだ。隣室に面した壁に、顔を向ける。

「気長に行くしかねぇな、こればっかりは」

三○二号室からは、何も物音が聞こえてこなかった。大方、レオナルドも一睡もせずに夜を明かしたのだろう。
青臭ぇなぁ、と微笑ましくなってきた。レオナルドは気難しいというよりも、若さ故に度量が狭いだけなのだ。
そして、理想が高いが故に譲ることが出来ない。根は悪くないのだが、その辺りだけがやたらに意固地だ。
レオナルドが思春期の息子のように思え、ギルディオスは内心でにやにやした。これはこれで、可愛気がある。
フィリオラに振り回されていけば、どうなることやら。想像が付かないわけではないが、しておかないことにした。
次の展開は楽しみだったが、楽しみだからこそ、先読みするべきではないのだ。




心と体に炎を滾らす、若き男。それが、彼らの隣人となった。
その男は重剣士の末裔であるが、竜の末裔にとっては厄介な存在であった。
互いが互いを受け入れ、互いが互いを嫌悪しなくなる日は。

今はまだ、遥かに遠いのである。






05 10/17