ドラゴンは眠らない




邂逅、再び



フィフィリアンヌは、眠らずにいた。


窓の傍に寄り掛かり、手の中のワイングラスを揺らしていた。グラスに半分ほど入った、赤紫の液体が波打った。
普段着である闇色のローブのスリットから出た白い足を投げ出して、腰を落とし、目線はどこにも向いていない。
手前にある幅の広い机には、書き終えた書類とこれから書かなければならない書類が、分けて積まれていた。
そして、片手には報告書があった。魔導師協会の部下達が調べた、軍の動向と異能部隊の行く末が書いてある。
それによれば、異能部隊は部隊としての機能は失ったものの、隊員達は退役しているわけではないようだった。
中には退役を望んだ者達もいたが、軍の上層に突っぱねられている。なので彼らは、まだ完全に自由ではない。
ギルディオスは、退役ではなく追放されていた。様々な軍紀違反を犯し部下を見捨てた、というのが理由だった。
フィフィリアンヌは、報告書を挟んでいた指に力を込め、紙を歪ませた。かなり不愉快げに、眉根を歪める。

「…将軍め」

「異能部隊の兵士達を手放さないところを見ると、軍が手を切りたかったのは、ニワトリ頭だけのようであるな。あの馬鹿さえいなくなれば、グレイスと軍の接点が表面上は消えるからである。しかも、共和国軍は隣国への侵略戦争の真っ最中であるからして、余計に異能部隊を手放さぬことであろう。近隣諸国が近代兵器に頼りがちである昨今こそ、魔法が物を言うからである。いやはや、回りくどいことをするものである。結局、我が輩達も遠回しながら利用されていたというわけであるな」

窓枠に載せられたもう一つのワイングラスから、声が返ってきた。赤紫の粘液は、ごぼりと気泡を浮かばせる。
フィフィリアンヌは、報告書をめくった。二枚目の報告書には、魔法文字によって軍事機密が書き連ねてあった。
そこには、隣国への侵略戦争の実情が書かれていた。政府は、共和国は隣国を攻め崩す勢いだ、と言っている。
だが、それは操作された情報だった。思いの外、隣国は戦略が鋭く、共和国軍の戦力が多くともやり返している。
戦地は国境から大分離れている上に、軍の秘密主義は今に始まったことではないので、国民はそれを知らない。
それどころか、以前にも増して軍人を増やしている。大方、数で押せばなんとかなる、とでも思っているのだろう。
下らなく非効率的な戦略だ、とフィフィリアンヌは内心で毒づいた。そんな単純な策では、戦争には勝利出来ない。
敵の戦略が巧妙なら、それを上回る策を巡らせばいい。それが出来ないなら、戦争など起こさなければいいのに。
共和国は、近頃無謀になっている。軍に魔導師協会の後ろ盾を付けてしまったのがいけなかったか、と後悔した。
魔導師協会は、軍とは根の深い部分で繋がっている。利害が一致しているので、手を組まざるを得なかった。
魔導技術の研究と存続、次世代の魔導師の育成が目的の魔導師協会は、魔導師がいなければ話にならない。
共和国内の魔導師の絶対数を増やすために、軍人へ戦闘技術の一端として魔法を教え、魔導師とした。
もちろん、躊躇いがなかったわけではない。仕方ないとはいえ、魔法を単なる兵器に貶めたくはなかった。
軍は、表面上は魔法技術の存続に貢献しているとしているが、内情は当然ながら魔法の兵器使用に過ぎない。
異能部隊は、軍の中でも突出した実力を持った魔法戦闘に長けた部隊だった。だが、力が強烈すぎたのだ。
もし、彼らが大々的に反乱などを起こしたりしたら、異能部隊の手によって共和国が壊滅されかねない。
彼らの人外じみた魔法の威力と異能力は、使い方を間違えばどうなるか解らない、爆弾のような代物なのだ。
それは異能部隊発足時からの懸念であったが、二十五年前のキースの反乱によって確信へと変わってしまった。
フィフィリアンヌは異能者達が危険ではないことを何度も軍へ説明したが、上位軍人達の態度は変わらなかった。
異能部隊を潰せ、という軍からの依頼の根源はそこだ。魔導師協会の手を借りたのは、反乱を恐れたからだ。
もしもの時に責任転嫁出来るように、軍は逃げ道を作ったのだ。フィフィリアンヌも、それは充分解っていた。
その依頼に背く理由もないし、むしろありがたかった。この依頼で、彼らを救う大義名分が出来た、と。
だが、ギルディオスは軍にも魔導師協会にも逆らい、折れなかった。そして彼は、フィリオラを攫う強攻に出た。
ギルディオスとしてはフィリオラを攫うことで力を示すつもりだったのだろうが、軍にとってはただの反乱だ。
フィリオラが暴れてくれなければ、本当に、どうなっていたことだろう。二人とも、殺されるだけでは済むまい。
今、誰も彼もかなりきわどい位置付けにいる。フィフィリアンヌも例外ではなく、あまり身動きが取れなかった。
当初、異能部隊を潰す依頼にはギルディオスの抹殺も含まれていた。彼が、何かと上に逆らっていたせいだ。
逆らうと言っても生来の性格による些細なものだが、異能者達を率いる彼が逆らうたび、上は恐れを増した。
故に、抹殺するべきだとした。将来、反乱の火種となりそうな存在を、火が点く前に潰すつもりだったのだ。
だが、フィフィリアンヌはそれをしなかった。ギルディオスを、遠い昔からの大切な友人を、殺せるはずもない。
しかしそれは、軍と政府への逆らいだ。今は魔導師協会会長の地位で保っているが、危ういことには違いない。
しばらく、首都から離れるべきだろう。このまま首都にいては、いつ、軍が暗殺にやってくるとも限らない。
だが、軍が異能者達を手放さないのは予想外だった。何か戦略があるのか、それとも全く別の目的があるのか。
どちらにせよ、警戒しておくに越したことはない。フィフィリアンヌは報告書から目を上げ、伯爵に向ける。

「それがどうした。世界というものは、そういう仕組みで成り立っておるのだ」

フィフィリアンヌの呟きに、赤紫のスライム、伯爵は低い声を更に低めた。

「だが、フィフィリアンヌよ。これでますます、我が輩達とニワトリ頭の溝は深くなってしまったのであるな」

「埋めたいのか?」

フィフィリアンヌは報告書を机に投げてから、白い足を組んだ。伯爵は、ごとり、と少し前進する。

「そういう貴君はどうなのであるのかね、フィフィリアンヌよ」

「伯爵。貴様は問うてばかりだな。ダニエルといいなんといい、それほどまでに何を知りたいのだ?」

訝しげに眉を吊り上げたフィフィリアンヌに、はっはっはっはっはっは、と伯爵は高らかに笑った。

「なぁに、単なる暇潰しである。我が輩は貴君らの所業に何も出来ぬのであるのだから、せめて知っておくぐらいはしておきたいと思っただけなのであるぞ」

「そういうことにしておこう」

伯爵を一瞥し、フィフィリアンヌは残りのワインを飲み干した。グラスを唇から離すと、伯爵のグラスと並べた。
細い指先がグラスの土台を押すとグラス同士がぶつかり、ぴん、と硬質な高音が起こり、静かな部屋に響いた。
フィフィリアンヌは窓枠に腕を載せ、外へ目をやった。開け放たれた窓の外には、眠った首都が見えていた。
空高くそびえる高層建築の姿は、遠かった。生い茂った木々に隠されていて、隙間から少し見える程度だ。
木々の隙間を抜けてきた湿った弱い風が、フィフィリアンヌの頬を撫でる。有機的な、青臭い匂いが鼻を突く。
この部屋、もとい、この家は首都から大分離れていた。基地島の方向とは真逆の、深い森の中にある家だった。
遠い昔、古びた城を手に入れる前に住んでいた、石造りの家と良く似た家だった。だが、あれほど古くはない。
二階建てで部屋割りも似ているが、壁も石組みではなくレンガ造りだし、窓の造りも割と近代的になっている。
この家は、首都に来た際の別荘として造ったものだ。本来の住居は別にあるが、そちらにはほとんど行かない。
魔導師協会の会長職に付いてから、共和国政府から与えられた邸宅はあるのだが、広すぎて落ち着かなかった。
その上、街中にあるので、政府の人間や軍の人間が傍にいると思うと気が休まらず、参ってしまいそうになる。
そんな理由もあったので、この手狭なレンガ造りの家を手に入れ、こうして森の中に持ってきたのだった。
だが、一番の理由は別にある。その理由を思い出したフィフィリアンヌは、自虐的に薄い唇の端を引きつらせた。

「帰ってくると思うか?」

「ニワトリ頭が、であるか」

「それ以外に誰がいる」

フィフィリアンヌは、太く逞しい木々の間を見つめていた。背を向け合ったはずでも、やはり、彼のことは好きだ。
こうして、過去と似たような状況を作ると、ギルディオスが再び戻ってきてくれるような錯覚を覚えていた。
二十五年前のあの出来事が、フィフィリアンヌとギルディオスに与えた傷痕は、どちらも同じように深かった。
ギルディオスはキースを救えなかったが、キースを人の世界に入れた切っ掛けを作ったのはフィフィリアンヌだ。
キースのねじ曲がった心が少しでもまともになれば、と思っていたのだが、全くの逆効果となってしまった。
竜族にありがちな選民意識を更に高め、反逆し、そして殺された。今でも、己の判断は誤りだったと思っている。
後悔してもし切れない。ただ一人の弟をまともに愛せるようになる前に、あっけなく死なせてしまったのだから。
そして、彼を死なせる、いや、殺したのも自分だ。直接手を下したわけではないが、あれでは下したのと同じだ。
フィフィリアンヌは、目線を落とした。やはり、地位など得ない方が良い。権力など、得てはいけなかったのだ。
伯爵は、彼女の整った横顔を眺めていた。淡い月明かりで白い肌が青ざめていて、病的な肌色となっていた。

「しかし、ギルディオスも決して悪意があったわけではないのである。良かれと思って、異能部隊を守ろうとしたのであるからな。だがそれが、一番タチが悪いのである。悪いと思って行う悪事より、良いと思って行う悪事の方が余程えげつないのであるぞ」

「だから、私はまだ良い方だと言えよう」

フィフィリアンヌは、横目に伯爵の触手を見た。伯爵は、うにゅりと赤紫を捻る。

「ほほう? すなわち貴君は、悪事だと自覚しながらも悪事を行うのであるな?」

「いや、違うな。悪事だと知っていてもそれが私にとって良いことならば、悪事でもなんでもないということだ」

「極論であるな…」

「グレイスよりも良いと思え。あの男ほど、性根の腐った男は他にいないからな」

「あれと比較すること自体、元より間違いであるような気もするのであるが」

伯爵は釈然としない思いのまま、触手を引っ込めた。フィフィリアンヌは頬杖を付き、顔を逸らす。

「他に適当な対象がおらんのだ。仕方あるまい」

伯爵はフィフィリアンヌの性根の歪み具合を責め立てようとしたが、言葉を押し止めた。ある、気配を感じていた。
足音は殺されていたが、落ち葉を踏み締める乾いた音や、足が雑草に擦れる軽い摩擦音が、僅かに聞こえた。
伯爵が感覚を研ぎ澄まさせると、フィフィリアンヌも唇を結んで気を張る。窓から離れ、玄関へと向かった。
一階の広間を丸々書斎兼居間にしているので、玄関には直通している。彼女の翼の生えた背が、玄関に近付く。
こつ、こつ、と玄関前の階段を昇る足音。微かながら、金属の軋む高い音。武装が装甲に当たる、重たい響き。
それが、止まった。フィフィリアンヌは扉の前に立ち、気を張っていた。目の高さにある取っ手に、手を伸ばす。
だが、フィフィリアンヌが触れるよりも先に、取っ手は回された。蝶番を軋ませながら、ゆっくりと、扉が開く。
外側に引かれていった扉の先には、影がいた。見上げなければならないほどの身長の、大柄な甲冑だった。
その姿を見た瞬間、嬉しさと戸惑いが一気に押し寄せた。だが、表情に出してはいけないと思い、押し殺す。
フィフィリアンヌは、思い切り不機嫌な顔になった。彼女の表情に、甲冑は情けなさそうにがりがりと頬を掻いた。

「よ、よう」

「どこでここを知った」

「勘だよ、勘」

「貴様の感覚などタカが知れているではないか。当てずっぽうにしては正確すぎるぞ」

「いや、だからさ。お前の思考だとこうじゃねぇかなーって思ってこの森に来たら、案の定、この家があったんだよ」

扉に手を置いて閉められないようにしてから、ギルディオスは竜の少女を見下ろした。彼女は、昔と変わらない。
美しく整った顔立ちを否定するかのように、極めて機嫌の悪い顔をする。眉間にシワを寄せ、唇を曲げている。
その表情を見ると、なぜか安心出来た。この家を見つけてから近付くまでの葛藤が、軽く吹き飛んでしまった。
かつて、フィフィリアンヌらと暮らした家と似ているこの家を見つけた時は、飛び上がりたいほど嬉しくなった。
迷子の子供が親を見つけた瞬間のような、泣き出したいほどの嬉しさだったが、足を前に進められなかった。
フィリオラらに対して罪を犯してしまったのと同様に、フィフィリアンヌに対しても、同じく罪を犯していたからだ。
長い間連れ添っていたにも関わらず、判断を見誤って進むべき道を見失い、結果として彼女に背いてしまった。
それが、どれだけフィフィリアンヌを傷付けたことだろう。そして、どれだけ苦しませてしまったことだろう。
想像しただけで、辛くなった。ギルディオスは内に巡る様々な感情を出さないように、敢えて、明るく言った。

「お前も結構単純だからなぁ、フィル」

「貴様に言われるようになってはお終いだな、ギルディオス」

フィフィリアンヌは華奢な腕を組み、甲冑を睨み上げた。ギルディオスは、相変わらずの受け答えにほっとした。

「なんだ、割に平気そうだな。てっきり、会った途端に蹴っ飛ばされるかと思っていたんだが」

「貴様もな。あれほどの大事をどちらに対しても行ったくせに、顔を合わせてもこれといって妙な気が起きんのだ」

フィフィリアンヌは、ギルディオスの変わらない態度に、内心で安堵したが顔には出さなかった。

「散々言い合ってしまったから、気が晴れてしまったのやもしれんな」

「かもな」

ギルディオスは、小さく肩を竦める。その拍子に、がしゃり、と背中のバスタードソードが揺れる。

「オレもよ、お前に殺されるぐれぇの覚悟はしてきたさ。それぐらい、やられても当然だよなって」

明るかった声色が、少し震えた。泣き出したいのを堪えているようにも、無理に笑っているようにも取れた。
やはり、彼も相当に苦しんでいたのだ。フィフィリアンヌはギルディオスの心境が、手に取るように解った。
過去の過ちを埋めるために、今の仲間を守るために、未来を彼らに作るために、戦い抜こうとして道を誤った。
それは、こちらも同じだ。異能部隊を潰しても、異能者達を自由に出来なかったばかりか、彼の地位を潰した。
異能部隊が崩壊したことで、ギルディオスと部下達の間にも溝が出来ただろうし、両者とも苦しんだはずだ。
だが、普段のギルディオスであれば、無駄な戦いは好まないので、わざわざ敵対する者の所には来ないはずだ。
恐らく彼は、報復を求めているのだろう。罪の重さと大きさを、僅かでも償うために、罰を受けに来たのだ。
その気持ちも、痛いほど解った。己を痛め付けなくては気が済まないぐらい、ギルディオスは悔いているのだ。
ギルディオスという男は、そういうものだ。愚かしいほど実直で、少しも器用でなくて、単純で感情的な人間だ。
フィフィリアンヌは、ギルディオスを見据えた。ヘルムの奧は空虚な暗闇だったが、決して無表情ではない。

「だが、私と貴様の敵対の原因は異能部隊であり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。その異能部隊が私の手によって解散同然の状態になった今、私の目的は果たされたと言うことであり、これ以上貴様とやり合う意味も理由も必要も全く見当たらん。それに、貴様なんぞを殺しても面白くもなんともないし、戦ったところで力の差は歴然だ。戦うだけ無駄というものだし、この家を壊してしまいたくはないからな」

フィフィリアンヌは、一本調子でまくし立てた。簡単には関係は戻らないだろうが、戻したくてたまらなかった。
いくら理由付けをしても、敵対関係というものは容易く解消されるものでもないし、完全に消えるものでもない。
無駄かもしれない。そう思ったが、言うだけ言ってみたかった。するとギルディオスは、なぜか笑い出していた。
マスクを押さえて、肩を震わせている。悪ぃ、と申し訳なさそうに呟いた声は可笑しげで、上擦ってすらいた。
ギルディオスは、彼女の言葉に安堵して気が緩んでしまい、笑ってしまった。堪えようと思っても、無理だった。
ああ、同じだったんだ。敵対するようになってから辛いのも、元の関係に戻りたかったのも、まるで同じらしかった。
そうだと知っていたら、もっと早くにここに来るべきだった。そして、一刻も早く彼女の傍に来てやるべきだった。
なんていうことだろう、なんて嬉しいことだろう。ギルディオスは、体があれば涙が出ているな、と思っていた。
それほどまでに、嬉しかった。フィフィリアンヌを力一杯抱き締めてやりたい衝動に駆られたが、我慢した。
ギルディオスは笑いが落ち着いてきたので、竜の少女に向いた。自分でもよく解るほど、声が浮かれていた。

「要するに、いい加減に仲直りしてぇんだろ?」

「…普通にそう言ったら、情けないだろうが」

フィフィリアンヌは、ギルディオスに背を向けた。口元が緩んでしまい、笑いそうになったのを見せないためだ。
本当に、ギルディオスは嬉しそうな声で笑っている。それと同じく、フィフィリアンヌも嬉しくてたまらなかった。
馬鹿みたいだ、とも思った。こんなに呆気なく元の関係に戻れると知っていたら、もっと早くに戻りたかった。
なぜか不意に、遠い昔に、カインと夫婦ゲンカをした時のことを思い出した。あの時も、そんな心境になった。
愛して愛されているからこそ、微妙な食い違いが起きて、本当に下らないことで何日も意地を張ってしまった。
その時は、根負けしたカインが折れたのだが、意地を張っているだけのフィフィリアンヌに謝る彼に悪い気がした。
すっかりほとぼりが冷めた頃にそのことを言うと、カインはいつものように優しく笑って、こう返してきた。
そうだと思いましたよ。でも、あなたが折れるのをいつまでも待つよりも、僕が折れた方が余程早いですから。
彼にそう言われた時に感じた、情けなさと申し訳なさと馬鹿馬鹿しさが、今し方感じているものに近しかった。
フィフィリアンヌは、緩んでしまった口元を元に戻した。机まで戻ると、窓枠に置いてある伯爵を見上げた。
ワイングラスの中のスライムは、ごぼごぼと泡立っている。人間であれば、にやにやしている、というところだ。
どうやら、さっさと仲直りして欲しかったらしい。だから、回りくどい言い方で本心を暴こうとしたのだろう。
考えてみれば、伯爵はこれといって動揺はしていない。ギルディオスが敵対したときも、至って平然としていた。
必ず元に戻る、という確信をしていたのか、それとも、事の次第を眺めて楽しんでいたのか。その、両方だろう。
これもまた、伯爵らしい行動だ。傍観することしか出来ないのであれば、それ以上もそれ以下も行わないのだ。
フィフィリアンヌは伯爵から目を外し、ギルディオスに振り返った。一番気に掛けていたことを、口に出した。

「それで、どうしたのだ。あの子達とは」

「しばらく会わねぇことにしたよ。フィオもレオもラッドも、ダニー達も、お前ほどきっぱりしてねぇから」

ギルディオスは広間に入ってくると、後ろ手に扉を閉めた。背中のバスタードソードを下ろし、壁に立て掛ける。

「ある程度は時間を置かねぇと、あいつらは整理付けられねぇだろうから」

フィフィリアンヌは机に手を掛けて体を押し上げ、机に座った。ギルディオスは、応接用のソファーに座った。
邪魔だな、とギルディオスは呟くと腰のベルトを外してホルスターを外し、無造作にテーブルに放り投げた。
そのまま深く腰を沈め、彼は脱力してしまった。余程気を張り詰めていたらしく、ぐったりとしてしまっている。
フィフィリアンヌは、ギルディオスを眺めた。掛けてやるべき言葉を探っていたが、何も出てこなかった。

「そうだな」

それぞれの信念のままに、キースを救えなかった贖罪として、異能部隊と異能者達の未来を、彼と争っていた。
ギルディオスと戦っている最中は、本気で倒したいとも思ったこともあるし、戦闘を仕掛けようと考えたこともある。
彼も同様だった。フィフィリアンヌに銃口を向けたのは一度や二度ではないし、論戦の末に剣を抜いたこともある。
どちらも真剣だった。どちらも譲らなかった。結果としてフィフィリアンヌが勝ったが、あまり嬉しくはなかった。
異能者達に未来を完全に切り開けたわけではないし、これからやるべきこともあるし、本当の勝利とは言えない。
フィフィリアンヌが押し黙っていると、天井を見上げていたギルディオスが呟いた。至極、冷静な声色だった。

「フィル」

「なんだ」

「お前、知ってんだろ。キースを殺した奴をよ」

ギルディオスの言葉に、フィフィリアンヌは平坦に返した。

「なぜそう思う」

「考えてもみろよ。キースは殺される直前、竜に戻っていた。その竜の、ドタマを一発で撃ち抜いたんだぜ?」

ギルディオスは、指先で頭部を小突いてみせる。

「しかも、だ。魔法の詠唱も聞かなかったし、魔法陣を描いた痕跡もなかった。つまり、お前かグレイスみてぇな馬鹿みてぇに力と才能を持った魔導師ってことになる。だが、オレの知っている限りじゃ、そこまでの魔導師は今も昔も異能部隊にも軍にもいねぇんだ。となれば、魔導師協会側の人間ってことになる。違うか、会長どの?」

「知っているとしたら、どうする?」

「決まってらぁ。なんで殺したのか、聞きに行こうと思ってよ。んで、一発ぐらいぶっ飛ばそうかなーって」

手のひらに拳を打ち当てたギルディオスに、伯爵は窓枠から笑い声を浴びせかけた。

「はっはっはっはっはっは。残念だが、それは無理なことであるぞ、ニワトリ頭よ。なぜなら、キースを殺した者はもう死に絶えているのである」

「あ、やっぱり知ってんじゃねぇか。教えろよ」

ギルディオスが不満げにすると、フィフィリアンヌは背を丸めて頬杖を付いた。

「教えたところで、どうにも出来まい。相手は、もう死んでいるのだからな。それより今は、過去の事よりも今の事をどうにかする方法を考えるべきではないのか?」

はぐらかされた。ギルディオスはフィフィリアンヌの不透明な態度に少々疑念を抱いたが、何も言わなかった。
フィフィリアンヌも、時と共に変わっている。多少なりとも秘密を持って当たり前だが、この状況では不自然だ。
しかも、キースを殺した相手を知っているのであれば、かつて彼の上官であったギルディオスに話すのが普通だ。
それを話さないというのは、不自然を通り越して異様だ。フィフィリアンヌも、一枚噛んでいるのかもしれない。
だが、あまり殺しを好かないフィフィリアンヌが、種違いとはいえ弟であるキースを殺すよう画策するだろうか。
それは考えられないだろう。となれば、彼女はキースを殺した犯人と関わりがあるが、隠しておきたいのだろう。
無理に聞き出せば、せっかく元に戻った関係が壊れてしまうかもしれない。ギルディオスは、問わないことにした。
フィフィリアンヌへの疑念と共に疑問を、胸の奥底に沈め込んでから、フィフィリアンヌと伯爵にヘルムを向けた。

「まぁ、そりゃそうだけどよ」

「今回の事を納めるための手掛かりが、皆無というわけではないのである」

ごぼり、と伯爵は大きめの気泡を吐き出した。ギルディオスは腕を組むと、窓枠の伯爵を見上げる。

「んで、お前らはその手掛かりでどうするつもりなんだ? オレだったら突っ込むけどな、その手掛かりとやらに」

「突っ込んだだけでどうにかなるほど、単純な事ではないのだぞ。そう容易く言うな」

フィフィリアンヌが言い返すと、ギルディオスは竜の少女を見上げる。

「けど、動かなきゃどうにもならねぇじゃん。どうにかなるかもしれねぇじゃねぇか」

「かもしれない、だけではどうにもならぬ。それに、今の我が輩達では昔のように無茶は出来ぬのである」

伯爵が呆れると、ギルディオスは首をかしげた。

「だよなぁ。その辺、どうにでもなりそうな奴って言えば、あれぐらいしかいねぇけど、あれはなぁ…」

「うむ。あれは今回、最初から我が輩達に味方する気はないようであるし、コロッと寝返るとは思えぬのである」

あれ呼ばわりの者が何なのか解っているのか、伯爵はすぐに返した。

「フィル。掛け合うならお前がやれよ、手掛かり掴んでんのお前だろ」

ギルディオスに振られ、フィフィリアンヌはさも嫌そうに顔を背ける。

「貴様が行け、ギルディオス。私は、あれとはあまり関わりたくない気分なのだ」

「そうだともそうだとも。ギルディオスよ、貴君の頼みであればあの男は簡単に言うことを聞いてくれるはずである」

伯爵は、ぶるぶると震えている。

「まぁ、その代償として一夜を共にしなくてはならぬかもしれぬがな」

「それだけは、嫌…」

ギルディオスは項垂れ、首を横に振る。それに追い打ちを掛けるように、伯爵は高らかに笑う。

「はっはっはっはっはっは! いっそのこと、一度ぐらいは抱かれてしまえばいいのである。そうしたら、何もかもが吹っ切れてそちらの道に目覚めるかもしれんぞ、ニワトリ頭よ!」

「グレイスの野郎に抱かれるぐらいなら、オレ、死ぬ。本気で死ぬ」

ギルディオスは絶望しきった声で、呟いた。フィフィリアンヌは、素っ気なく言う。

「一度ぐらい折れてみたらどうだ。そうすれば、あちらも満足して離れてくれるやもしれんぞ」

「アホか。折れたら余計に付きまとわれて好きだ好きだ言われて、追い回されるに決まってらぁ!」

そう叫んでからギルディオスは、うあー、と力ない声を漏らした。だが、とフィフィリアンヌは声を落とした。

「それ以外に、活路は見えん。今度ばかりは、グレイスに手を貸してもらわねばどうにもなりそうにないのだ」

「んで、その手掛かりってのは、一体何なんだよ。いい加減に教えろや」

ギルディオスに尋ねられ、うむ、と伯爵は触手を長く伸ばし、軽く振ってみせる。

「ギルディオスよ。貴君はアルゼンタムを破壊したが、その魂の入った魔導鉱石が破壊された痕跡はなかった。すなわち貴君は、アルゼンタムの魂を奪取したはずである。そして今も、手中に収めているはずなのである」

「ああ、まぁな。なんでか知らねぇけどヴェイパーがアルゼンタムを気に入っちまって、ずっとヴェイパーの奴がアルゼンタムの魔導鉱石を持っているんだ。今も手放してねぇはずだから、たぶん、ヴェイパーの手の中にある」

ギルディオスが答えると、フィフィリアンヌが返した。

「そうか。無事だったか。ならば良いのだが」

「もしかして、アルゼンタムがフィルの言う手掛かりなのか?」

「まぁな。アルゼンタムの存在が、何らかの鍵であることは間違いない。それに、少々引っ掛かるのだ」

フィフィリアンヌは、吊り上がった形の良い目を細めた。

「奴は高魔力者の血と臓物を喰い散らかしていたが、人よりも魔力の多いはずの魔物族や竜族には、手を出してこなかった。無論、それがグレイスの指示であるという可能性は高いが、グレイスが関わっているなら尚のこと妙だ。物事を引っ掻き回すのが好きでたまらないあの男が、私に手を出してこないはずがない。それかもしくは、アルゼンタムを操る者がもう一人いる、とも考えられる。むしろ、その方が自然だな。グレイスの思考に相反する行動を取るグレイスの傀儡など、おかしいからな。歌劇場での襲撃もそうだ。たまたま、モニカ・ゼフォンの主演するあの歌劇を観ていた私の部下が報告してくれたのだが、アルゼンタムは捕食する標的を途中で変えていたのだそうだ。モニカ・ゼフォンからフィリオラへ、そしてレオナルドへ、とな」

「ああ、オレも知っている。モニカから細かーい報告書をもらったからな」

「グレイスの作った傀儡であれば、グレイスに忠実であり主を絶対とするはずだ。グレイスは道具としてのレベッカを愛しているのだから、二体目も同じように完全なる道具として造るはずなのだ。だが、アルゼンタムはそうではない。命令に背く、ということは、奴が自我を持っている証拠だ」

「そいつぁ正しい考察だぜ、フィル。あいつは、血ぃさえ啜らなきゃ割とまともに受け答えをしてきたからな」

「その上、僅かながら理性を取り戻す瞬間がある、とも聞いた。すなわち、狂気と食欲に駆られていなければ明確な人格があるにも関わらず、人格を強制的に歪められているということだ。つまり、奴は人造魂ではなく、本物の魂を使われているのだ。その正体を掴むことが出来れば、手掛かりなどではなく確かな証拠と成り得る。一番簡単なのは、アルゼンタムを造り上げたグレイスから聞き出すことなのだが、そうあっさり事が運ぶとは思えん。だが、正体が誰であるか、大体の想像なら付いている」

竜の少女の眼差しが、鋭利なものとなった。



「ラミアン・ブラドールだ」



「ラッドの親父か」

間を置いてから、ギルディオスは言った。そうだ、とフィフィリアンヌは頷く。

「根拠ならある。アルゼンタムが造られた時期は、ラミアンが死んだ時期とほぼ同時期だ。そして、アルゼンタムは人の血肉を本能で捕食する。獣であれば獣を喰うはずだし、魔物であっても人肉など好む種族はもうほとんど生き残っておらんし、竜だとしても論外だ。だが、吸血鬼であるならば別だ。吸血鬼族が最も好む味であり、魔力と蛋白の摂取に最適なのは人間の生き血なのだ。アルゼンタムは、狂気にも似た捕食の本能で動いているそうだ。その本能の根源が吸血鬼の本能であるとすると、様々な点が符合するのだ。だが、なぜグレイスが、もしくはグレイスと目的を同じくする者が、ラミアンを選んだのかは解らん。確かに、吸血鬼族の魂はただの人間などよりも余程強固で魔力も高いから、魔導兵器の核とするのは適しているが、それだけが理由ではないように思えるのだ」

「そいつにも、根拠はあるのか?」

「ないと言えば嘘になる。だが、まだ言うべき時ではない」

フィフィリアンヌは、躊躇いがちに言葉を濁した。ギルディオスはそれを問い詰めようかと思ったが、止めた。
竜の少女は、苦しげだった。暗がりの中でも解るほど、フィフィリアンヌの表情は、悲痛なものだった。
フィフィリアンヌは、ラミアンに対して思い入れがあるのだろう。そしてそれは、苦しみを伴うことなのだ。
ギルディオスは、今し方聞いたばかりのフィフィリアンヌの考えを思い出し、自分なりに飲み込んでいった。
アルゼンタムの正体がフィフィリアンヌの言う通りであったなら、とんだ見当違いを起こしたことになる。
てっきり、彼は部下の一人なのだと思っていた。異能部隊の倉庫から持ち出された、死した兵士の一人だと。
だが、そうではなかったようだ。しかし、ラミアンだとすれば、なぜそこでラミアンが関わってくるのだろうか。
だとすれば、ラミアンも今回の事に関係があるということになる。どこからどこまでなのかは、見当も付かないが。
これもまた、事が進めば明らかになるだろう。あいつらから離れていて良かった、とギルディオスは安堵した。
この場にブラッドがいたなら、どんな反応したのかは解らない。また会ったとしても、すぐには話せないだろう。
殺されたはずの父親が気の違った機械人形になっているなど、想像しただけでもおぞましく、恐ろしいからだ。
それを、十歳であるブラッドが受け止めきれるはずがない。受け止めるためには、大分時間が掛かってしまう。
フィフィリアンヌは、何かを隠している。先程はぐらかされたことといい、今の歯切れの悪さといい、何かある。
それも、重たいものなのだろう。ギルディオスは苦々しげなフィフィリアンヌを見ていたが、穏やかに呟いた。

「フィル。お前の方も、まだ終わってねぇみてぇだな」

ギルディオスは、テーブルの上からホルスターを取った。ベルトを巻いて魔導拳銃を腰に提げ、玄関に向く。

「ああ。異能部隊の事が片付いてくれたから、ようやく始められそうなのだ」

フィフィリアンヌは顔を上げ、玄関へと向き直っているギルディオスの赤いマントを羽織った背を見上げた。
甲冑の重たい足音が、外へと進んでいく。ギルディオスはバスタードソードを取ると、がしゃり、と背負った。

「フィル」

ギルディオスは、巨大な剣の鞘越しに、竜の少女を見つめた。


「金貨十枚だ」


フィフィリアンヌが目を見開いていると、ギルディオスは顔を伏せる。

「オレぁよ、色んな奴に取り返しの付かないことをした。けど、だからって逃げていたくなんてねぇんだ。それに、何もしねぇでいると、どうにかなっちまいそうなんだよ。フィオからは、戦うのを休めって言われたんだが、ここで戦うのを止めちゃいけねぇ気がするんだ。だから、ここに来たんだ。お前と、戦うつもりでな。だが、フィルは本当に戦うべき相手じゃねぇ。もっと他にあるはずなんだ。だが、今のオレは、色んなことを見失ってばっかりだ。だからよ、フィル。オレを雇え、そして、本当に戦うべき相手と戦わせてくれ」

ギルディオスは、ぎち、と両の拳を握り締める。

「オレは罪を犯したが、償い方なんて知らねぇんだ。だから、これぐらいはさせてくれ」

戦うことを止めてしまったら、立ち止まってしまったら、過去に背負ってきた罪の大きさに押し潰されそうだった。
キースを死なせ、ジョセフィーヌを見つけ出すことも出来ず、そして、異能部隊を守り抜くことが出来なかった。
彼らに未来を与えるために考えを改め、最良であると判断した結果と言えど、裏切りには違いないのだから。
罪は償わなくてはならないが、償い方など解らない。だから解らないなりに、やれるだけのことをする。
昔から、そうだ。他に出来ることなどないから、今更生き方を変えることなど出来ないから、戦い続けてきた。
背後で、軽い着地音がした。後方に向き直ると、フィフィリアンヌは机から下りていて、甲冑に歩み寄ってきた。

「償える」

暗がりから出てきたフィフィリアンヌは、弱い月明かりの下に立った。

「いや、償わなくてはならんのだ。貴様も、私もな」

「償えると、思うか?」

ギルディオスが弱々しく漏らすと、フィフィリアンヌはほんの少しだけ笑った。

「償えるとも。今ならまだ、あの子を、ジョセフィーヌを救えるかもしれんからだ」

フィフィリアンヌは、小さな手をギルディオスに向けて伸ばした。

「そして、キースも」

「生きて…いるのか?」

信じられないような思いで、ギルディオスは、フィフィリアンヌの頼りない手のひらを見つめていた。

「そうであるかもしれない、というだけだ。だが、私はそうだと踏んでいる。頼りない話だがな。それでも乗るか?」

「乗った」

ギルディオスは即答し、フィフィリアンヌの手を取った。ひやりとした、トカゲの手触りに良く似た感触があった。

「んで、報酬は何なんだ?」

「貴様の言った金貨十枚は、この時代では用意するのが難しい。よって、こうしようではないか」

ギルディオスに手を取られたので、フィフィリアンヌは気恥ずかしげに目を逸らした。



「また、皆で城で暮らす、というのはどうだ」



「いよっしゃ。それで決まりだ!」

途端に張り切ったギルディオスは、ぐいっとフィフィリアンヌを引っ張って近寄せると、いきなり抱え上げた。
両脇を持たれて子供のように持ち上げられたフィフィリアンヌは、呆気に取られていたが、ぎょっとして叫んだ。

「なっ、何をするのだ貴様ぁ!」

「あー、悪ぃ。フィオによくやってたから、つい」

彼女を高く持ち上げた状態のまま、ギルディオスは苦笑した。思わず、子供相手の態度になってしまった。
ギルディオスの頭上まで持ち上げられているフィフィリアンヌは、不機嫌そうに口元を歪め、顔を背けた。

「…貴様という奴は」

「はっはっはっはっはっはっは。なかなか良い光景であるぞ、フィフィリアンヌよ」

「黙らんか!」

伯爵に笑われたフィフィリアンヌは、窓枠のワイングラスに言い返した。伯爵は、なおも高笑いを続けている。
その声はやけに楽しげで、嬉しそうだった。伯爵の低く響きのある笑い声は、実に気持ちよさそうな声色だった。
しばらく聞いていると、ギルディオスはこちらまで笑い出しそうになった。また、彼女に近付けて嬉しかった。
笑い声を漏らしながら肩を震わせていると、抱え上げたままのフィフィリアンヌも、顔を伏せて押さえていた。
指の隙間から見える目元は細められていて、手のひらの下に見える口元は緩んでいた。彼女も、笑っていた。
五百年ほど前、カインと添ってからは彼女の表情は格段に増えた。だからこうして、笑ってくれることもある。
だがそれは、余程嬉しい時か余程可笑しい時か、ぐらいでしかなかった。まだまだ、照れくさいらしかった。
だから、こうして彼女が笑っているということは、かなり嬉しいということだ。ギルディオスは、更に嬉しくなる。

「オレも嬉しいぜ、フィル!」

「うわっ」

いきなり手を放され、フィフィリアンヌが驚いて目を丸くした。直後、甲冑の腕の中に体が落下していた。
そのまま力強く抱き締められ、髪を乱暴に乱される。また子供扱いされてしまい、フィフィリアンヌはむくれた。
だが、悪い気はしない。一度顔に浮かんだせいで消えそうにない笑顔のまま、ギルディオスに撫でられていた。
固く抱き合う二人の姿を、伯爵は窓枠から眺めていた。笑い声を徐々に弱めて消してから、ごぼごぼと泡立つ。
キースとジョセフィーヌの両者を救い、贖罪を行わなければ、二人の持っている罪の傷痕が消えることはない。
アルゼンタムと化しているラミアンを解放しても、キースとジョセフィーヌを救っても、簡単には事は終わらない。
いずれも、楽なことではない。しかし、苦しみの一部であった敵対関係が消えたならば、少しは軽減される。
少しではないな、と伯爵は思い直した。ギルディオスに抱き締められている彼女の横顔は、安らいでいた。
ギルディオスを墓場から掘り起こしたあの日から、共にいた。壮絶な黒竜戦争さえも、共にいたから乗り越えた。
仲間にしては連帯が緩く、友人にしては情は弱く、家族にしては年齢差もおかしく、それぞれの種族も違う。
だが、それはそれだ。敵対してさえも途切れることのない、全く別物で奇妙な絆が繋がっているのだから。
伯爵は明るさを感じ、窓の外に視点を向けた。東の空から、白く眩しい朝日が昇り始めているのが見えた。
長い夜が、明けた証だった。




深き罪と傷を見据えた重剣士は、竜の少女の元に戻る。
互いが持つ罪と傷を償うために、再び城での日常を取り戻すために。
手を取り合い、絆を確かめ、そして。

背中を向け合う関係から、家族へと戻ったのである。






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