ドラゴンは眠らない




未来への旅立ち



フローレンスは、思い悩んでいた。


手には、旧王都行きの夜行寝台列車の切符が一枚あった。昨日の夜、フィリオラから渡されたものだった。
長方形の厚みのある紙に印刷された、旧王都の文字を見つめていた。これに乗るべきかどうか、悩んでいた。
ダニエルは既に決意を固めており、自腹を切り、フィリオラらの乗る夜行寝台列車の切符を買っていた。
壁に背を預け、切符を持った手をだらりと下げた。屋根のない倉庫の上に、清々しく晴れ渡った青空がある。
数日前、フィリオラらの泊まる宿屋へダニエルと共に身を寄せたのだが、ついつい基地島に戻ってきてしまう。
最初はヴェイパーの部品や工具を拾い集めるのが目的だったが、そのうち、過去に浸ることが目的になった。
異能部隊で生きていた頃の、辛くとも楽しい日々。任務にだけ生きていれば良かった、軍人としての日々。
それらを、未だに振り切れていなかった。フローレンスは切符を胸ポケットに入れると、胡座を掻いた。

「女々しいなぁ、あたし」

「うけけけけけけけっ。女が女々しいのは当たり前ダァーロォーウ?」

フローレンスの胸ポケットのもう片方から、甲高い声がした。緑色の魔導鉱石が、押し込まれている。

「トォーコローデェヨーウ、テメェはナァーンデここに来るンダァーアアアア?」

「あんたこそ。なんで今日に限って、あたしと一緒に来たがったのよ。ヴェイパーと一緒にいるのが嫌なわけ?」

胸ポケットからアルゼンタムの魔導鉱石を引っ張り出したフローレンスは、腹立たしげに眉を吊り上げた。
うかかかかかかっ、とアルゼンタムは突き抜けた笑い声を放った。石から滲み出ている淡い光を、少し強めた。

「違ァーウゼェエエエエエ。オイラァーヨォ、チィート考えてることがアルンダァーヨォーウ」

「何よそれ」

訝しげなフローレンスに、アルゼンタムは更に笑う。

「うくくくくくくっ。ソーリャア、オイラもテメェも同じことが目的ダァーロォーウウウウウ?」

「…やっぱり?」

フローレンスは、情けなさそうに笑む。アルゼンタムの魔導鉱石を地面に置くと、濃い青の空を仰ぎ見た。

「隊長に会いたいのは、あたしだけじゃないんだね」

「マーァー、目的は同じだろうと理由は違うンダァーロォケェドナァアアアアア」

「だろうね」

フローレンスは、強烈な閃光を放っている太陽に目を細めた。塀の中にいた頃よりも、日差しが眩しく感じる。
遮るものがなくなったからなのか、それとも気分的なものなのか。その両方なのかもしれない、とちらりと思った。
潮風が吹き付けてきているが、気付くと肌にうっすらと汗が滲んでいる。穏やかな春が終わって、短い夏が来る。
フローレンスは、両手から手袋を外して尻のポケットに押し込んだ。背を当てている壁は、日差しと違って冷たい。

「隊長、来るかな」

「来るかもシィーレネェシィー、来ねぇカーモシィレネェーナァー」

「来なかったら、どうする?」

「ソォーノ時はソォーノ時サァアアアア。諦めるッキャアネェーヨナァアアア」

「あたしはさ、捜そうと思えば捜せるんだよね、隊長のこと。力を強めれば、すぐに捜し出せる」

フローレンスは、果てのない水平線をぼやけさせている柔らかな雲に、視線を投げていた。

「隊長の思念は普通の人とはちょっと違ってて、なんかこう、鋭利な感じがするんだよね。それに、あれだけ見た目が派手だし気配も解りやすいから、魔法とか力とか使わなくたって、時間さえあれば見つけられるんだよね。でも、なんか、そうしたくないんだ」

「ナァーンデダァーヨォー?」

「解らない。けど、そうしなきゃ、あたしはダメになると思うんだ」

フローレンスはアルゼンタムの存在を意識から外し、独り言のように言った。

「あたしはずっと、隊長と一緒だった。十歳の頃に、異能部隊に連れてこられてからずっと、隊員達への通信と作戦指揮の補助をするために隊長の近くにいた。機械いじりが好きになって、ヴェイパーみたいな魔導兵器を造れるようになってからも、何がなんでも近くにいた。そうしなきゃ、怖かったから。あたしみたいな化け物を人間として、子供として扱ってくれたのは隊長が最初で最後だから。だから、隊長から離れちゃったら、また一人になると思っちゃって、それが怖くて堪らなかった。隊長もそれを解ってくれていた。だから、ずっと、隊長に甘えて生きていたんだ。でも、それじゃいけないんだよね。隊長が傍にいてくれたからって、隊長に甘えたまま生きていちゃいけないんだ。あたしはもう、子供のままじゃいられないんだ。ずっとずっと隊長の子供のままでいられたら楽だけど、幸せだけど、そうもいかないもんね。いい加減、大人にならなきゃいけないんだ」

アルゼンタムは黙り、フローレンスの話を聞いていた。独白の邪魔をしてはいけないような、気がしていた。

「そりゃ、体は充分でっかくなったけど、中身がまだまだダメなんだよねぇ。ガキ臭いっていうか、大人になろうとしてなかったっていうか、大人になりたくなかったのかも。大人になればむやみやたらに隊長に甘えられなくなっちゃうし、もっと強くならなきゃならないし、色んなものが見えてきちゃうし感じちゃうし。外に出るのが怖かったのも、そんなところなんだろうな。外に出たら、中からじゃない異能部隊とかあたし達が見えてきて、見たくないものとかも見ちゃうかもしれないから。でも、それを見なきゃいけないし、ちゃんと見ないと大人になれないんだよね」

フローレンスはアルゼンタムを見下ろし、照れ笑いした。

「ていうか、あたし、今頃思春期なのかなぁ? こんなこと考えるってことは」

やだなぁもう、とフローレンスは気恥ずかしげに俯く。アルゼンタムは、彼女の足元から彼女を見上げた。
白い日差しを受けて、後頭部の高い位置で括られている長い金髪が煌めき、柔らかそうな豊かな胸がある。
フローレンスの独り言は、まだ続いている。だがアルゼンタムの意識は、もう彼女の声には向いていなかった。
自分の判断と覚悟を、今一度確かめていた。ヴェイパーの手の中で何度も固めた決意を、再び、固め直した。
当初、首都に来た目的であった己の過去は知り得ず終いだった。もしかしたら、ここにはなかったのかもしれない。
過去が得られないのならば、別に得たいものがある。それを得るためにも、再びギルディオスの手中に戻るのだ。
彼は、グレイスと敵対している。となれば、彼がグレイスと共に黒幕をも打ち倒し、自由を得られるかもしれない。
あの銀色の骸骨の肉体を得られなくとも、全く別の体を得られれば、本当の自由を手に入れることが出来る。
視点を、フローレンスからその頭上の空に向けた。無限に続く広大な蒼穹が、自由の象徴のように思えていた。
不意に、フローレンスは立ち上がった。アルゼンタムも釣られるように、彼女が向いている方向に視点を向けた。
目に痛いほどの反射で、銀色がぎらついていた。灰色の破片が散らばる廃墟の中で、銀が一際目立っていた。
ニワトリのトサカに似た赤い頭飾りをなびかせながら、よう、とギルディオスは片手を挙げて挨拶してきた。

「思った通りだな。ここにいたか、フローレンス」

「隊長こそ。やっぱり、ここに来るんですね」

嬉しそうに、フローレンスは目元を緩ませた。ギルディオスは細かな瓦礫を蹴飛ばしながら、近寄ってきた。

「来ちまうんだよなー、なんとなく。あと何日かしたら、他の部隊が瓦礫を全部撤去して更地にしちまうらしいし、その前に来るだけ来ちまおうってところさ」

ギルディオスはフローレンスの傍に寄ろうとして、足を止めた。フローレンスは笑っていたが、体を強張らせている。
地面に足を踏ん張って、肩に力を入れ、手を握り締めていた。ギルディオスは、彼女から離れた位置で止まった。

「どうした」

フローレンスは、ギルディオスを見上げた。普段となんら変わりのない、大柄な甲冑がこちらを見下ろしている。
傍に行って、縋ってしまいたい衝動に駆られる。また戻ってきて、まだあたしのお父さんでいて、と言いたくなる。
そうすれば楽だろうし、彼もそれを許してくれるかもしれない。だが、それではいけない、と決心したのだ。
フローレンスは胸ポケットに入っている切符を、ポケットの上から握った。布越しに、切符の固い感触があった。

「隊長、あたし」

フローレンスはほんの少し躊躇ったが、意を決した。

「フィオちゃんに、切符、もらったんです。隊長が旧王都に帰るためのやつが、余ってたからって」

フローレンスは目線を足元に落としたが、すぐにギルディオスに戻す。

「それで、あたし」

「その切符を、オレに寄越すのか? だが、オレはしばらくフィオ達にはツラぁ合わせねぇって決めたんだ」

「解っています。だから、あたし、隊長に言っておきたくて」

「何をだ?」

フローレンスは胸元に当てていた手を外し、かん、とかかとを打ち合わせて背筋を伸ばし、敬礼した。

「ギルディオス・ヴァトラス少佐! 自分に、単独行動の許可をお願いします!」

敬礼している右手に震えてきそうなほど力を入れ、フローレンスは声を張り上げる。

「自分は、このまま隊長の配下で働きたいと思ってはおりますが、異能部隊が壊滅状態となり、隊長ご自身が異能部隊隊長の任から離れておられる現在、それは不可能なのであります! よって、自分は、隊長に進言することといたしました! ヴァトラス少佐、自分に旧王都へ向かう許可を願います!」

ぴんと伸ばされた敬礼の手の影が、フローレンスの表情の上半分を隠していた。唇は、固く締められている。
久しく使っていなかった軍隊らしい言葉を言い切ったフローレンスは、息を詰めていた。力を、抜けなかった。
力を抜いてしまえば、決意が鈍ってしまいそうだ。少しでも気を抜いてしまうと、また、甘えが蘇ってくる。
ギルディオスを父親でなく上官として見なくては、そして自分も、部下らしい態度で接しなくては、心が揺らぐ。
絶え間なく吹き付けてくる潮風がうるさく、フローレンスの長い髪とギルディオスの頭飾りをなびかせている。
ギルディオスは、右手を挙げて敬礼した。胸を張り、表情を固めているフローレンスを見下ろし、声を張る。

「フローレンス・アイゼン少尉! 貴君の単独行動、及び旧王都への進行を許可する!」

「ありがとうございます、少佐! 自分は、隊長が自分達に下した任務を、己の道を進めという命令を、旧王都にて全うしたいと思っております!」

フローレンスは浅く呼吸し、胸を上下させた。

「自分はこれから、旧王都に赴き、自分の生きるべき道を探す決意であります!」

「武運を祈る、アイゼン少尉! そして、貴君の忠誠心に最大の敬意を払う!」

ギルディオスは、最敬礼する。フローレンスは手を下げずに、かかとをもう一度打ち鳴らした。

「ありがとうございます!」

かん、と硬い音が響いたが、波音で掻き消された。ギルディオスは、フローレンスの強張った表情を見つめていた。
決意を固めた、戦士の顔だった。彼女は実戦ではほとんど最前線に出なかったので、初めて見る表情だった。
戦闘意欲と怯えと恐怖がごた混ぜになっていて、敬礼している手も微動だにしない。余程、強く決意したのだろう。
普通の生活をあまり知らない彼女にとっては、外の世界へ出て当たり前の日常を送ることは、前線投入と一緒だ。
何が起きるか解らないし、何をどうするべきかも解っていないのだから、敵兵の潜んだ暗闇を進むのと同じだ。
だから、戦いに赴く兵士のような顔をしているのだ。怖くて怖くてたまらないが、行かなければならないから。
ここでフローレンスを慰めるのは簡単だが、そうしてはいけない。彼女の決意を、揺らがせるかもしれない。
ギルディオスは敬礼を解き、フローレンスを見下ろした。フローレンスも敬礼していた手を下ろすと、背を向ける。
子供だ子供だと思ってばかりいたが、いつのまにか大きくなっていたようだ。ギルディオスは、とても嬉しくなる。
だがやはり、寂しくもあった。フィリオラが成長したのと同じように、フローレンスが離れていくのも名残惜しい。
いつもべったりと甘えてくる彼女にジョセフィーヌやフィリオラを重ね、娘として扱ってきたから、尚のことだ。
しかしいくら寂しくとも、成長を妨げてはいけない。そんなことをしてしまっては、父親として、人としていけない。
ギルディオスは、背を向けるフローレンスに背を向けた。フローレンスは、甲冑が背を向ける気配に気付いた。
一瞬、振り返ろうかと思ったが、思い止まった。腹に据えた決意は最後まで貫き通さなければ、意味がない。
これで当分の間、ギルディオスには会えなくなってしまう。顔も見ることも出来ないし、優しい声も聞けなくなる。
それでも、別れなくてはならない。フィリオラからもらった外の世界への切符を、捨ててしまってはならない。
外に未来があるならば、それがどんな未来か知るべきなのだ。恐ろしいかもしれないし、楽しいかもしれない。
けれどそれは、見てからでなくては決められないのだ。捜しもしないで決め付けるな、とダニエルも言っていた。
フローレンスは、いつのまにか乾いた喉に唾を飲み下した。突っ張っていた足を緩め、地面を蹴って駆け出した。

「失礼します!」

ギルディオスの隣を駆け抜け、瓦礫の散らばる廃墟の中を突っ切って、フローレンスは落ちた橋へと向かった。
もう、ここに来ることはない。そう思いながら走っていると、惜しむ気持ちと同時に、妙な清々しさがあった。
やっぱり、あたしも外に出たかったのか。内心でそう呟いたフローレンスは、速度を落とさずに走り続けた。
レオナルドの壊した跳ね橋を飛び越えて海岸を走っていったが、一度も、基地島へと振り返ることはなかった。
フローレンスの姿が次第に遠のき、見えなくなってから、ギルディオスは肩を落とした。空を仰ぎ、漏らした。

「寂しいなぁーおい」

我ながら情けない、と思いながら、ギルディオスは瓦礫の中で一際目立っている緑色の魔導鉱石に向いた。

「そう思わねぇか、アルゼンタム?」

「うくくくくくくく」

日差しに比例して色の濃い影の中、アルゼンタムはごとごとと身動きした。

「オイラにンーナコト聞ィカレテェーモナァー。ガキなんざいねぇからワッカンネェヨーウ」

「だよなぁ」

ギルディオスはその答えに、多少落胆していた。やはり、彼がブラッドの父親のラミアンであるとは思えない。
記憶が塞がれているからなのだろうが、それにしたって、いくらなんでも性格が違いすぎると思っていた。
ブラッドから聞いたラミアンの印象は、物静かで理知的で、あまり感情的な行動を取らなさそうな男だった。
それがまさか、本能と感情に任せるままに動き、人を喰らう機械人形になっているなど想像出来るだろうか。
フィフィリアンヌの推理は筋が通っているし、彼女の喋り方のせいで説得力があったが、真実はどうだろう。
ギルディオスはフィフィリアンヌに対して一抹の疑念を覚えたが、払拭した。今、彼女を疑うべきではないのだ。
現在のギルディオスは、フィフィリアンヌの配下にいる。また三人で共に暮らすことを報酬に、彼女に雇われた。
傭兵稼業など数百年ぶりだが、傭兵となったのなら雇い主に従うのが必然だし、仕事に疑問は持たないべきだ。
それが傭兵の掟のようなものであり、ギルディオスの信念でもあった。だから、これ以上の疑念は愚問だ。
ギルディオスは屈み、魔導鉱石を拾った。なぜ、フローレンスがアルゼンタムを持ってきたのか、解らなかった。

「だけどよ、アルゼンタム。お前、なんでこんなところにいるんだよ? フローレンスが持ってきてくれたんだろうが、ヴェイパーと一緒にいたんじゃなかったのか」

「うかかかかかかか。ヴェイパーの野郎と一緒にいるのも、ソンナニ悪クネェーンダケェードヨォーウ」

ギルディオスの手の中で、アルゼンタムの魂が込められた魔導鉱石は淡く発光している。

「それじゃイケネェーンダァヨナァー、オイラ的ニィハァー」

「つまり、お前はあいつらとは一緒にいたくねぇんだな?」

「テイウカー、一緒にいてもドウニモナンネェーシィー、オイラが行きたい先とは方向が違うー、ミタイナァアー?」

アルゼンタムの語尾が変に上がったので、ギルディオスは内心で変な顔をする。

「語尾上げるなよ、うざってぇから」

「ソイツァーオイラも同意スゥルゼェー。語尾上げは超絶ウッゼェカァーラナァー」

うけけけけけけ、と高笑いするアルゼンタムに、ギルディオスは少々うんざりしながら尋ねた。

「んで、お前は何をどうしたくて、オレの手元になんか来たんだ?」

「オゥイエー! オイラァヨォー、自由にナリテェンダァヨォー」

「自由に、って、お前はグレイスを裏切るつもりか?」

ギルディオスは、アルゼンタムの魔導鉱石を目の位置まで持ち上げた。もう一度、オゥイエー、と返ってきた。

「ソウサソウダヨソウナノサァアアアア! オイラはナァー、グレイスの野郎とも黒幕の野郎とも手ぇ切りたくって切りたくって仕方ネェンダァーヨォー。アイツラの手ん中いるウチハァー、どう足掻いたってオイラァ自由ジャアーネェー。旧王都になんざ帰ッチマッタァーラァー、オイラァ、またあの超イカしてて超イカれてる骸骨ミテェナ体に填め込まれチマウダロウシィー、ソウナッチマッタラァー、マァータあの二人のお人形さん生活に逆戻りナンダァヨォー。コォーノマンマだとオイラァー、超マジで超イカれちまいそうナンダァヨォー。ダァカラヨォー、ギルディオスゥー、オイラを自由にシィテクレヨォオオオオオオオ!」

「本気か、お前」

「超マジ激マジ超激マジィイイイイイイ!」

甲高く裏返っていたが、アルゼンタムの口調には強い意志が込められていた。本当に、彼は自由になりたいのだ。
ギルディオスは、これは都合が良い、と思っていた。フィフィリアンヌからの指示には、彼の奪還も含まれていた。
アルゼンタムをラミアンに戻すためには、まず本人がこちら側にいなければならないし、何も出来ないのだ。
残すはグレイスへの交渉だが、果たしてあの男が寝返るだろうか。実質、彼も裏切らせなければ話にならない。
グレイスがこちら側に付くということは、黒幕と呼ばれる存在に対して、彼は背を向けるということなのだから。
今の今まで黒幕と共に暗躍していたグレイスが、コロッと簡単に寝返ることなど、普通は有り得ないことだ。
だが、有り得るかもしれない。今までの経験上、グレイスは本当に気紛れだけで裏切ることが多々あった。
ギルディオスもフィフィリアンヌも、彼に裏切り裏切られの繰り返しなので、グレイスが裏切るのは日常だった。
もしかしたら、いや今回はさすがに違うだろう、とギルディオスが悶々としていると、アルゼンタムが叫んだ。

「ンデェー、オイラのこたぁどうすンダヨォオオオオオ!」

「あー、悪ぃ悪ぃ。ちゃんとオレが連れていくさ、お前が自由になれるような方向に」

ギルディオスが平謝りすると、アルゼンタムは疑わしげに声を低めた。

「嘘だったら承知シィーネェーゾォー」

「自分から頼んできておいたくせに、なんでそんなに態度がでかいんだよ」

「うけけけけけけけっ。冗談ダァ冗談ー。チャアーンと信用シィテルゼェー、ヴァトラス少佐ァアアアア!」

「なら、いいけどよ」

やりづれー、とギルディオスはぼやきながらホルスターから魔導拳銃を抜き、緑色の魔導鉱石を押し込んだ。
ベルトの隙間に魔導拳銃を押し込んでいると、アルゼンタムはやけに嬉しそうな声で、高笑いを続けていた。
ギルディオスはそれを聞き流しつつ、瓦礫に腰掛けた。広大な水平線の上では、光り輝いた波が揺れている。
これでしばらく、海も見られなくなってしまう。当分の間、首都に戻ってくることも、海に近付くこともなくなるだろう。
そう思うと、さすがに寂しくなってきた。ギルディオスは波間を滑るように飛ぶ白い海鳥を、無意識に目で追った。
そういえば十何年か前、ダニエルが海面すれすれを飛ぶ海鳥を、次々に海面に叩き落としていたことがあった。
念動力の遠隔操作範囲を試すとかで、片っ端から海鳥を海面に沈めた。そのうち、海から鳥がいなくなった。
次はどうするのかと思ったら、今度はその鳥を引き上げていた。そして空高く吹っ飛ばし、また飛ばせていた。
訓練と言えば訓練なのだが、他愛もない遊びのようなものだったから、ダニエルはやたらと楽しそうだった。
本人は表情に出してないようだったが、傍目から見ても充分に楽しげなのが解り、部下達と笑い合ったものだ。
そんな時代も、今はもう遠い過去だ。過去は二度と戻らないが、戻らないからこそ、過去は美しく素晴らしい。
ギルディオスは瓦礫から立ち上がると、広大な海に背を向けた。いつまでも、郷愁に浸っていても仕方ない。
無言のまま、鋼の戦士は歩き出した。




その頃。宿屋から近い路地裏で、ブラッドは暇を持て余していた。
冷たくも大きい装甲に、背中を預けて座っていた。その装甲の主は、狭い路地に立っているヴェイパーだった。
先日フローレンスから紹介されてから、すっかり気に入ってしまい、ブラッドは何かにつけて機械人形の傍にいた。
ブラッドは、ヴェイパーにもたれて空を見ていた。背の高い建物の隙間から垣間見えている空は、清々しく青い。
旧王都の空に比べると、随分と色が鮮やかだった。あの街は、いつも蒸気と煙が立ち込めていて埃っぽい。
だが、あの薄汚さが不思議と懐かしかった。離れていたのは二週間足らずだが、無性に帰りたくなっていた。
今となっては、旧王都からも遠く離れた田舎町、ゼレイブの自宅よりもずっと恋しくなっているほどだった。
旧王都に来た当初はそうでもなかったが、いつのまにか、フィリオラの住まう部屋が自宅のように感じていた。
あの部屋にいると、生まれた頃からそこにいたかのような心地良さがあり、もう離れられなくなっていた。
最近では、フィリオラが姉ではなく母のような錯覚すら覚える時もあって、ブラッドは両親に少し悪い気がした。
本当の両親、ラミアンと顔も名も知らぬ母から生まれたのに、その二人ではない人間を家族としているのだから。
ブラッドは、上目に背後のヴェイパーを見上げた。丸々とした胸部には、六角形の台座と青い魔導鉱石がある。

「なー、ヴェイパー」

「なに」

首を動かし、ヴェイパーは少年を見下ろした。ブラッドは、ヴェイパーの太い足を小突く。

「ヴェイパーってさ、おっちゃんの部隊と基地にいたんだろ」

「うん。う゛ぇいぱー、ずっと、いのうぶたいに、いた」

「生まれた頃からだよな」

「うん。う゛ぇいぱー、ふろーれんすに、つくられた。そのころから、ずっと、きちと、たいちょうのしたに、いた」

「じゃあさ、ヴェイパーにとってはおっちゃんが父ちゃんでフローレンスって姉ちゃんが母ちゃんなん?」

ブラッドの問いに、んー、とヴェイパーは思い悩むように首をかしげた。

「わからない。う゛ぇいぱー、たいちょうとも、ふろーれんすとも、ちがう。だから、かぞく、ちがう」

「オレだったら、こう思うな」

ブラッドはヴェイパーに向き直ると、太い腕に寄り掛かって身を乗り出した。

「ギルのおっちゃんが父ちゃんで、フローレンスって姉ちゃんが母ちゃんで、あのダニエルって人が兄ちゃんで」

「かぞく、じゃなくて、いい。みんな、う゛ぇいぱーの、じょうかんだから」

平坦に言い返してきたヴェイパーに、ブラッドは不満げにする。

「それじゃつまんねぇよ」

「かぞく、になる、りゆうも、ひつようも、みあたらない。だから、べつにいい」

「ヴェイパー、お前って寂しいこと言うなぁ」

「さびしい?」

「だってさ、父ちゃんでも母ちゃんでも兄ちゃんでも姉ちゃんでも、家族がいたらすっげぇ楽しいんだぜ?」

得意げに、ブラッドは笑む。ヴェイパーは、反対方向に首をかしげ直した。

「ぐたいてきには?」

「んー…そうだなぁ」

ブラッドはヴェイパーの腕によじ上り、座った。ヴェイパーは少年の重量で下がりかけた腕に、力を入れた。
先程よりも距離が近付き、間近に少年が見える。銀に近い金髪が、薄暗い中にいるせいで色が失せていた。
常人よりも少々尖った耳と口元から覗く小さな牙が物珍しくて、ヴェイパーはブラッドの顔を見つめていた。
ブラッドは答えに迷っているのか、唸っている。眉を下げて顎に手を添え、やけに難しげな顔をしている。
家族というものは悩むものなのだろうか。家族というものはそれほどいいのか。ヴェイパーには、解らなかった。
視線はブラッドを見ていたが、思考は外れた。今朝、ヴェイパーの手を離れたアルゼンタムの行方に移った。
彼は、ギルディオスに会えるかもしれない、と思考していたフローレンスの思念をヴェイパー越しに感じていた。
そして何を思ったのか、ヴェイパーの手から脱し、フローレンスと共に廃墟の基地島へと向かっていったのだ。
理解しがたかった。かもしれない、などという可能性だけで行動することも、瓦礫の山の基地島に行くことも。
ギルディオスと会うことは利点もあるし理由も解らないでもなかったが、行動に意味があるのかが掴めなかった。
その疑問を思念でフローレンスに尋ねてみたが、フローレンスはこちらを見て笑い、同じく思念で返してきた。
人間ってやつはそういうもんなのよ。と、情けなさそうな感情と共に返した後に、基地島に出掛けていった。
それと同じく、ブラッドの言う家族の良さも解らない。きっとそれは、どちらも感情論だからなのだろう。
ヴェイパーは、戦闘兵器としての性能を上げるために極力感情を削り、必要最低限の起伏しか持っていない。
喜怒哀楽の表面を撫でただけのような、薄っぺらいものだ。だから、感情の機微や深い部分は理解出来ない。
感情論を理解出来た方がいいのか、悪いのか。理解出来なければつまらないが、理解したら性能が鈍る。
いざという時に躊躇したりしてしまっては、勝機を逃してしまうし、戦闘兵器としての価値はなくなってしまう。
ブラッドは、まだ悩んでいた。ちょっと待ってくれ、もうちょい待って、あともうちょい、としきりに繰り返している。
ヴェイパーは彼の言葉通り、待った。しばらく経って、ブラッドはようやく答えをまとめたのか、顔を上げた。

「あったかいんだよ!」

「かぞくが?」

「そう。フィオ姉ちゃんとかギルのおっちゃんとかレオさんと一緒にいるとさ、なんかこー、ぬくいんだ!」

そうだよこれだよこれ、とブラッドは何度も頷いた。自分の答えに満足したようで、にやにやと笑っている。
ヴェイパーはブラッドの言ったことを理解しようとしてみたが、無理だった。これも、感覚的なことだからだ。
温かい、それはすなわち温度のことだ。だが、ブラッドの言い方からしてみれば、温度ではないような気がした。
やはり、感情的な感覚なのだ。ヴェイパーは種類の少ない己の感情を総動員させてみたが、解らず終いだった。
ヴェイパーは疑問を持て余したまま、路地の隙間から見える空を見上げた。清涼で、初夏の気配が感じられた。
どこまでも高く、どこまでも鮮やかな空だった。







06 2/3